『廿二史箚記』wiki内検索 / 「監板宋史脱誤處」で検索した結果

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  • 巻二十四 宋史
    ...人兩傳? 321.監板宋史脱誤處? 322.趙良嗣不應入奸臣傳? 323.王倫 324.宋初降王子弟布滿中外? 325.宋諸帝御集皆建閣藏貯? 326.録名臣後? 327.宋皇后所生太子皆不吉? 328.宋初考古之學? 329.宋初嚴懲贓吏?    前頁 『廿二史箚記』    次頁 巻二十三 宋遼金史 廿二史箚記巻二十四 巻二十五 宋史
  • 新舊書刻本各有脱誤處
    238.新舊書刻本各有脱誤處 舊書張巡傳:安祿山陷河洛,許遠守睢陽,賊將尹子奇攻圍經年,巡以雍邱小邑,儲備不足,大寇臨之必難保,乃引卒詐降。至德二年正月也(肅宗)。玄宗聞而壯之,授主客郎中兼御史中丞。案巡方詐降,何以玄宗聞而壯之。蓋巡以雍邱難守,故詐降以出,而併兵於睢陽,與遠同守,故帝聞而嘉之耳。新書巡在雍邱,餉路絕,乃拔眾保寧陵,至睢陽與太守許遠、城父令姚誾等合兵,遣雷萬春、南霽云等戰寧陵北,殺賊萬人,有詔拜巡主客郎中、河南節度副使。正此事也。而舊書云云,此必有行墨脫落之處。 新書李光顏傳末忽敘宋威、曾元裕討王仙芝一事,大將張自勉表請討賊,詔乘傳赴軍。威忌自勉,請以隸麾下,欲以事殺之。宰相知其謀,不聽,乃以自勉代元裕。案仙芝之亂,距李光顏已將百年,與光顏何涉?而係其事於光頻傳後,此亦必錯誤也。
  • 巻十八 新舊唐書
    廿二史箚記巻十八 231.新書改舊書文義處? 232.新書盡刪駢體舊文? 233.新書好用韓柳文? 234.新書詳載章疏? 235.新舊書互異處? 236.新舊書各有紀傳互異處? 237.新舊書誤處? 238.新舊書刻本各有脱誤處    前頁 『廿二史箚記』    次頁 巻十七 新舊唐書 廿二史箚記巻十八 巻十九 新舊唐書
  • 巻二十七 遼史金史
    廿二史箚記巻二十七 364.遼史? 365.遼史二? 366.遼史立表最善 367.遼史疏漏處? 368.遼帝皆有簡便徽號 369.遼后族皆姓蕭氏 370.遼正后所生太子多不吉 371.遼官世選之例? 372.遼族多好文學? 373.遼燕京? 374.金廣燕京 375.元築燕京 376.明南北京營建? 377.金史? 378.金史失當處 379.遼金二史各有疏漏處? 380.金史避諱處? 381.金史誤處☆ 382.金史紀傳不相符處? 383.金史氏名不畫一☆ 384.宋史金人名多與金史不符? 385.宋金二史不符處? 386.宗弼渡江宋金二史互異 387.宋金二史傳聞之誤? 388.宋金用兵須參觀二史?    前頁 『廿二史箚記』    次頁 巻二十六 宋史 廿二史箚記巻二十七 巻二十八 金史
  • 巻二十五 宋史
    廿二史箚記巻二十五 330.宋封王之制☆ 331.宋待周後之厚? 332.宋郊祀之費? 333.宋制祿之厚? 334.宋祠祿之制? 335.宋恩蔭之濫? 336.宋恩賞之厚? 337.宋冗官冗費? 338.南宋取民無藝? 339.宋軍律之弛? 340.宋科場處分之輕? 341.定罪歸刑部? 342.宋遼金夏交際儀?    前頁 『廿二史箚記』    次頁 巻二十四 宋史 廿二史箚記巻二十五 巻二十六 宋史
  • 巻二十六 宋史
    廿二史箚記巻二十六 343.歳幣 344.和議? 345.西夏番鹽 346.宋宰相屢改官名? 347.宋節度使☆ 348.繼世爲相 349.三入相☆ 350.四次入相☆ 351.兩次入相 352.王安石之得君? 353.青苗錢不始於王安石? 354.車蓋亭詩? 355.同文館之獄? 356.秦檜文字之禍? 357.秦檜史彌遠之攬權? 358.宋南渡諸將皆北人☆ 359.端平入洛之師? 360.宋史缺傳? 361.張世傑李庭芝姜才? 362.夏貴? 363.宋四六多用本朝事?    前頁 『廿二史箚記』    次頁 巻二十五 宋史 廿二史箚記巻二十六 巻二十七 遼史金史
  • 南史誤處
    143.南史の誤っているところ   南史の宋の後廢帝紀では,孝武帝の二十八子のうち,明帝がその十六人を殺し,その他は皆後廢帝が殺したと言っている。  今宋書を調べてみると,前廢帝、明帝、後廢帝の三本紀及び孝武諸子傳で,孝武帝の子の新安王の子鸞、南海王の子師は,前廢帝の子業が殺すところとなっている。  明帝が殺したのは,前廢帝である子業、豫章王の子尚、晉安王の子勛、安陸王の子綏、臨海王の子頊、邵陵王の子元、永嘉王の子仁、始安王の子真、淮安王の子孟、南平王の子彦、廬陵王の子輿、松滋侯の子房、東平王の子嗣,また子趨と子期、子悅は,みなまだ封じられる前に明帝の殺すところとなっている。  その他の晉陵王の子雲、淮陽王の子霄,及びまだ封じられていなかった子深、子鳳、子元、子衡、子況、子文、子雍は皆早く亡くなった。これは孝武帝の諸子で,前廢帝の殺したのは二人,明帝の殺したのは十六人,早く亡くな...
  • 三國志誤處
    90.三国志の誤記   魏の『武紀』に、建安二年、汝南の黄巾賊何儀・劉辟・黄邵・何曼らは軍勢おのおの数万人であり、曹操は進軍して彼らを討ち破り、劉辟・黄邵らを斬首した、とある。これは劉辟がすでに処刑されていたということである。ところが、建安五年、曹操が官渡において袁紹と対峙したとき、汝南の投降した賊である劉辟らが叛逆して袁紹に呼応し、許の城下を攻略し、袁紹は劉備をやって劉辟を支援させた、という。これは劉辟がもともと死んでおらず、ただ曹操に降伏しただけで、このときまた叛逆して袁紹に呼応したということである。一つの帝紀だけでもうこれだけの矛盾があるのだ。さらに『于禁伝』では、于禁は黄巾賊の征伐に従軍し、劉辟・黄邵らが曹操の陣営に夜襲をかけてきたので、于禁は彼らを撃破し、劉辟・黄邵らを斬った、とある。その記述は官渡戦への従軍以前に置かれており、つまり建安二年の事件ということになる。さすれば実際...
  • 金史誤處
    381.金史の誤っているところ  遼史では「天祚帝は宰相の張琳、李處温と秦晉國王の耶律淳に燕京を守るよう命じ,天祚帝は夾山に遁走したが,天祚帝からの命令が通じなくなったため,奚和勒博、耶律達實(大石)と李處温、左企弓、虞仲文、曹勇義、康公弼等は耶律淳を立てて皇帝とし,建福に改元した。そのうちに,耶律淳が死んだため,一同はまたその妻の德妃蕭氏を皇太后として,主軍國事とし,天祚帝の次男で秦王の定を迎えて皇帝としようとして,皇太后は稱制を行い,改元して德興とした。」と書いている。  これによって耶律淳の年號が建福,蕭氏の年號が德興というのがわかるのである。  しかし金史の左企弓傳では「遼の天祚帝は陰山に逃亡して,秦晉國王の耶律淳が燕で自立して,德興と改元した。」としている。つまり耶律淳の妻の年號を耶律淳の年號としているのである。  また遼史では「左企弓、曹勇義、虞仲文、康公弼達は金に降...
  • 巻二十三 宋遼金史
    廿二史箚記巻二十三 310.宋遼金三史? 311.宋遼金三史重修? 312.宋史事最詳? 313.宋史多國史原本? 314.宋史各傳迴護處? 315.宋史各傳附會處?    前頁 『廿二史箚記』    次頁 巻二十二 五代史 廿二史箚記巻二十三 巻二十四 宋史
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    『廿二史箚記』wikiへようこそ このページは、趙翼『廿二史箚記』の日本語訳と校訂作業をおこなっているページです。 このページは、誰でも自由に編集することができます。 現在試行中です。 『廿二史箚記』翻訳・校訂作業中テキスト 廿二史箚記小引☆ 巻一 史記漢書 巻二 史記漢書 巻三 史記漢書 巻四 後漢書 巻五 後漢書 巻六 三國志 巻七 三國志晉書 巻八 晉書 巻九 宋齊梁陳書 巻十 宋齊梁陳書并南史 巻十一 宋齊梁陳書并南史 巻十二 宋齊梁陳書并南史 巻十三 魏齊周隋書并北史 巻十四 魏齊周隋書并北史 巻十五 魏齊周隋書并北史 巻十六 新舊唐書 巻十七 新舊唐書 巻十八 新舊唐書 巻十九 新舊唐書 巻二十 新舊唐書 巻二十一 五代史 巻二十二 五代史 巻二十三 宋遼金史 巻二十四 宋史 巻二十五 宋史 巻二十六 宋史 巻二十七 遼史金史 巻二十八 金史 巻二十九 元史 巻三十 元...
  • 新唐書
    220.新唐書   宋の仁宗は、劉昫らが編纂した『旧唐書』は卑弱で淺陋だとして、翰林学士である欧陽修に命じて、端明殿の学士である宋祁が各刊の編撰を行い,曾公亮が皇帝に上提するまで,十七年を要して、およそ二百二十五卷に及ぶ新唐書が完成した。本紀、志、表,列伝。故事,各書の筆頭には官に用いられた尊者一人を置き,唐書において功績が多いとされた先進の人々の伝記を宋祁が修正し,各列伝を編撰して進めたのである(そこで修伝と言われる)。宋祁が詔により唐書の修正に従事した十年間余り、宮廷内に寝起きし,原稿を納得ゆくまで推敲吟味して,列伝百五十卷を練り上げた(そこで祁伝と言われる)。論者は、「『新唐書』に記載された記事は『旧唐書』より豊富であるが,文は『旧唐書』より簡潔である」と言っている。このことは言うまでもなく、欧陽修が宋二公時代の古文の大家であるためである。とはいえ 文体は必ずしも一定でなく,文章に...
  • 巻六 三國志
    廿二史箚記巻六 85.後漢書三國志書法不同處 86.三國志書法 87.三國志多迴護 88.三國志書事得實處 89.三國志立傳繁簡不同處 90.三國志誤處☆ 91.荀彧傳☆ 92.荀彧郭嘉二傳附會處☆ 93.陳壽論諸葛亮☆ 94.裴松之三國志註☆    前頁 『廿二史箚記』    次頁 巻五 後漢書 廿二史箚記巻六 巻七 三國志晉書
  • 三入相
    349.三たび入相すること   『宋史』呂蒙正伝の賛に「国朝(宋朝)で三たび入相した(宰相となった)のは、ただ趙普と呂蒙正だけである」という。しかし呂蒙正の後に、また王欽若・張士遜・呂夷簡・文彦博・陳康伯がいて、みな三たび入相しており、蔡京は四たび入相するにいたっている。『宋史』のいうところは、深く考察されたものではないのだ。いま次に記録しておく。   趙普:(乾徳三年に門下侍郎平章事となり、のちに河陽三城節度使として出された。太平興国初年に再び入相し、司徒兼侍郎に任ぜられた。八年、武勝軍節度使として出された。雍熙三年に再び入相し、太保兼侍中に任ぜられた。)   呂蒙正:(太平興国年間に中書侍郎兼戸部尚書平章事に任ぜられ、淳化初年に罷免されて吏部尚書となった。四年にまた本官のまま入相し、至道年間に判河南府として出された。真宗の咸平四年にまた本官のまま同平章事となった。)   ...
  • 巻十 宋齊梁陳書并南史
    廿二史箚記巻十 139.南史仿陳壽三國志體例 140.南北史子孫附傳之例? 141.南史刪宋書最多? 142.南史過求簡淨之失? 143.南史誤處☆ 144.南史增齊書處? 145.南史與齊書互異處? 146.南史增刪梁書處? 147.南史刪梁書處? 148.南史增梁書有關係處?    前頁 『廿二史箚記』    次頁 巻九 宋齊梁陳書 廿二史箚記巻十 巻十一 宋齊梁陳書并南史
  • 各史例目異同
    3.各史例目異同   古者,左史記言,右史記事。言爲尚書,事爲春秋。其後沿爲編年、記事二種。記事者,以一篇記一事,而不能統貫一代之全;編年者,又不能即一人而各見其本末。司馬遷參酌古今,發凡起例,創爲全史。本紀以序帝王,世家以記侯國,十表以繋時事,八書以詳制度,列傳以誌人物。然後一代君臣政事,賢否得失,總彙於一編之中。自此例一定,歴代作史者遂不能出其範圍,信史家之極則也。魏禧序十國春秋,謂「遷僅工於文,班固則密於體。」以是爲史漢優劣。不知無所因而特創者難爲功,有所本而求精者易爲力。此固未可同日語耳。至於篇目之類,固不必泥於一定。或前代所有而後代所無;或前代所無而後代所有,自不妨隨時增損改換。今列二十二史篇目異同於左:   本紀。古有禹本紀、尚書世紀等書。遷用其體,以敘述帝王。惟項羽作紀頗失當。故漢書改爲列傳。後漢書又立皇后紀。蓋仿史漢呂后紀之例。不知史遷以政由后出,故高紀後,即立后紀。至...
  • 薛居正五代史
    283.薛居正五代史   宋太祖開寶六年四月,詔修梁、唐、晉、漢、周書,其五代史者,乃後人總括之名也。七年閏十月,書成,凡一百五十卷,目録二卷。監修者爲司空同中書門下平章事薛居正,同修者爲盧多遜、扈蒙、張澹、李昉、劉兼、李穆、李九齡。(見宋史及晁公武讀書志,玉海所引中興書目。)皆本各朝實録爲稾本。此官修之史也。其後歐陽修私撰五代史記七十五卷,藏於家。修沒後,熙寧五年,詔求其書刊行,(見宋史)於是薛、歐二史並行於世。至金章宗泰和七年,詔止用歐史,於是薛史漸湮。惟前明永樂大典多載其遺文,然已割裂淆亂,非薛史篇第之舊。恭逢我皇上開四庫館,命諸臣就永樂大典中甄録排纂,其缺逸者則採宋人書中之徴引薛史者補之。於是薛史復爲完書,仍得列於正史,遂成二十三史之數。今覆而案之,雖文筆迥不逮歐史,然事實較詳。蓋歐史專重書法,薛史專重敘事,本不可相無。以四五百年久晦之書,一旦復出,俾攷古者得參互核訂,所以嘉惠後...
  • 宗弼渡江宋金二史互異
    386.宗弼渡江宋金二史互異 宗弼(兀朮)渡江追宋高宗, 據本傳:宗弼自和州渡江,既降江寧,即由江寧取廣德,路至杭州。初未嘗由鎮江過兵也。 而宋史韓世忠傳:是時世忠由鎮江退保江陰。不知何故?及閱赤盞暉(今作持嘉暉)傳:暉從渡淮為先鋒,遇重敵於蘇州、秀州,皆敗之,遂至杭州。則知是時金兵下江南,本非一路。(蓋宗弼自和州渡,暉等自瓜州渡) 世宗傳亦謂:兀朮分道渡江,諸屯皆散。故世忠退保江陰也。 至黃天蕩之戰,宋、金二史亦頗互異。 宋史世忠傳謂:兀朮自杭北歸,至鎮江,世忠已屯焦山,兀朮不得渡。撻辣在濰州,遣孛堇太一來援,孛堇軍江北,兀朮軍江南,世忠與二酋相持於黃天蕩四十八日。有獻謀於兀朮者曰「鑿土渠接江口,則在世忠上流。」乃一夕鑿渠三十里。次日無風,我軍帆弱不得動,金人以小舟縱火,得絕江而去。是金軍鑿渠出江,即在黃天蕩渡江北去也。 金史宗弼傳則謂...
  • 八朝史至宋始行
    138.八朝史至宋始行   南北八朝史,宋書成於齊,齊書成於梁,魏書成於北齊,其餘各史皆唐初修成。然雖成於唐初,而天下實未嘗行也。觀蘇洵等進陳書云,陳書與宋書、魏、齊、梁等書,傳之者少,祕書所藏,亦多脱誤。嘉祐六年,始詔校讐,因臣等言,恐館閣所藏不足以定,請詔京師及天下藏書家,使悉上之。至七年冬,始稍稍集,因得藉以參校。又劉攽等校北齊書云,文襄紀其首與北史同,而末多取魏孝靜帝紀,其與侯景書則載梁書侯景傳内,此外序列尤無倫次。蓋原書已散佚,後人雜取北史及高氏小識等書以補之者。是宋時並已失其原本,雖購之天下,亦終無由訂正也。可見各正史,在有唐一代並未行世。蓋卷帙繁多,唐時尚未有鏤板之法,必須抄録,自非有大力者不能備之。惟南、北史卷帙稍簡,抄寫易成,故天下多有其書,世人所見八朝事跡惟恃此耳。若無鏤板之法,各正史蓋已一部不存矣。
  • 金史氏名不畫一
    383.金史では氏名の表記が統一されていない  金史の紇石烈牙吾塔傳の最後にいうのは,「塔」はまた「太」とも作り,また「牙忽帶」ともいうとあるのは,それは、女真語にはもともと正しい文字が無かったためである。なので宋に伝わった際には,往往にして様々に記載されている。金史という一つの王朝の歴史書(が編纂される)最には、編纂者はそれぞれの列傳で校訂し,一つ(の表記方法)に統一するべきものなのである。  しかしあるところでは撒離喝となっているのが,熙宗紀では撒離合となっていて,睿宗紀には撒離喝となっている。(宋史では撒離曷としている。)  また合達や蒲阿は,本傳では合達、蒲阿となっているが,訛可傳ではまた合打、蒲阿としている。  阿忽帶は,馮璧傳では阿虎帶,訛可傳ではまた阿祿帶とし,その後には阿魯帶としている。  撒合輦は,一傳の中では撒合輦とし,また撒曷輦ともしている。紇石烈執中、すな...
  • 金義宗
    428.金義宗 金主守緒在蔡州,城破自縊。群臣哭臨畢,即諡曰哀宗。是日金亡,並未別加諡號。而元史雪不台傳,大兵攻汴,金義宗走衛州,又走歸德,走蔡州。又槊直腯魯華傳,金義宗在汴,勢力窮蹙,出奔。撤吉思卜華追躡之,遂據衛州。金義宗自黄陵岡謀復衛,不克,義宗奔歸德。又闊闊不花傳,攻壽州,以書喩城中,城中人感其意,以綵輿舁金公主送款。公主者,義宗之姑也云云。是金哀宗又有義宗之諡矣。攷宋史亦無此説,豈金亡後元初追贈耶?
  • 金用兵先後強弱不同
    402.金用兵先後強弱不同 金之初起,天下莫強焉,蓋王氣所鍾,人皆鷙悍。完顏父子兄弟,代以戰鬥為事,每出兵,必躬當矢石,為士卒先,故能以少擊眾,十餘年間,滅遼取宋,橫行無敵。 觀酈瓊之論宗弼曰「江南諸帥出兵,必身居數百里外,謂之持重。召軍旅,易裨校,則遣一介之士持空文諭之,謂之調發。今元帥親臨督戰,矢石交集,而指麾三軍,意氣自若,將士視之,孰敢愛其死乎?」(瓊傳) 宋吳璘亦謂「金人用兵,更進迭退,忍耐堅久,令酷而下必死,所以能制勝。」(宋史璘傳) 饒風嶺之戰,金人重鎧仰攻,一人先登,則二人擁後,先者既死,後者代攻。(吳玠、劉子羽傳) 觀此,可以知當日兵力之雄捍矣! 正隆用兵,去國初未遠,故大定之初,尚能攻擊江淮,取成於宋。 迨南北通好四、五十年,朝廷將相既不知兵,而猛安、謀克之移入中原者,初則習於晏安,繼則困於饑乏。 至泰和之末,...
  • 憫忠寺故事
    412.憫忠寺故事   京師宣武門外法源寺,最宏敞,本唐憫忠寺也。朱竹垞謂此寺典故,有遼時聞宋真宗訃,建道場於此,及金大定間策試女真進士於此,二事。按道場建醮,事具遼史。金策試女真進士,係大定十三年,始以策論試女真進士於憫忠寺。寺有雙塔,進士入院之夜半,聞東塔有音樂聲西入宮,試官侍御史完顏蒲捏等曰:「文路初開,而有此兆,得賢之徴也。」中選者徒單鎰等二十七人,後多爲顯官。此載在金史選舉志。今又得數事。遼史,興宗〔重煕〕十一年,遇景宗宣獻后忌辰,帝與皇太后素服飯僧於憫忠寺。宋王曾記契丹事云,燕京有憫忠寺,本唐太宗爲征遼陣亡將士所造,宋使至,遼遣館伴導以游觀。又北狩録,宋徽宗至燕山,館於大延壽寺,欽宗館於憫忠寺。又金史,胡沙虎反,召完顏綱至,囚於憫忠寺,明日殺之。宋史,謝枋得至燕,寓憫忠寺,見壁間曹娥碑,泣曰:「小女子猶爾,吾豈不汝若哉!」遂不食而死。此皆憫忠寺故事也。
  • 三國志立傳繁簡不同處
    89.三國志立傳繁簡不同處   陳壽立三國諸臣傳,較舊史有增有刪。如魏略賈逵傳,尚有李孚、楊沛二人同卷,壽志無此二人。魏武故事載,屯田之策,起於棗祇,成於任峻,壽志則有峻而無祇。又呉黄武四年,丞相孫邵卒,以顧雍爲丞相。是邵爲相在雍之前,乃雍有傳而邵無傳。志林謂邵與張惠恕不睦,作史者韋曜,乃惠恕黨也,故不爲立傳,而壽志亦遂遺之。然則壽志立傳,悉本舊史,舊史所無者,概不書也。然如孚、沛、祇等,舊史所有者,何又刪之,或以其無事蹟可紀耶?至後主禪將出降,其子北地王諶怒曰:「若理窮力屈,便當父子君臣背城一戰,同死社稷!」禪不聽,諶哭於昭烈之廟,先殺妻、子而後自殺,事見漢晉春秋。此豈得無傳,乃壽志僅於後主傳内附見其死節,而王子傳内不立專傳,未免太略也!亦有以附傳見其詳者。如倉慈傳後,歴敘呉瓘、任燠、顏斐、令狐邵、孔乂等,以其皆良吏而類敘之。蜀楊戲有季漢輔臣贊,並載於戲傳後,其中有壽所未立傳者,則於各...
  • 郝經昔班帖木兒
    459.郝經昔班帖木兒   奇聞駭見之事,流傳已久,在古未必真,而後人仿之,竟有實有其事者。蘇武雁書,事本烏有,特常惠教漢使者,謂天子射上林,得武繋帛書於雁足,使匈奴不得匿武耳。而元時郝經使宋,被拘於真州,日久,買一雁,題帛書繋其足,放去。汴中民射雁金明池,得之,以進世祖。其詩云:「霜落風高恣所如,歸期回首是春初。上林天子援弓繳,窮海纍臣有帛書。」後題「至元五年九月一日放〔雁〕,獲者弗殺,國信大使郝經書於真州忠勇軍營新館。」後經竟得歸國,卒於途。是蘇武雁書之事虚,而郝經雁書之事實也。程嬰、公孫杵臼存趙氏孤之事,本史記采無稽之談以新聽聞,未必實有其事也。而元順帝時,有昔班帖木兒者,在趙王位下,其妻嘗保育趙王。後部落滅里(滅)叛,欲殺趙王。昔班帖木兒與妻謀,以己子觀音奴服王服,居宮内,夜半夫妻二人衛趙王遁去。賊至,遂殺觀音奴,而趙王得免。事聞,授昔班帖木兒同知河東宣慰司,其妻剌八哈敦雲中郡夫...
  • 一産三男入史
    293.三つ子が史書に書かれたのは   一度に三人、四人の男の子が産まれた話が史書に書かれたのは『旧唐書』にはじまる。高宗紀に、嘉州の辛道譲の妻が一度に四男を産んだとあり、高苑県の呉文威の妻の魏氏が一度に四男を産んだとある。哀帝紀に、穎州汝陰県の彭文の妻が一度に三男を産んだとある。欧陽脩『新五代史』はこれをまねて、本紀に載せている。同光二年(924)に軍将趙暉の妻が一度に三男を産んだというようなのが、これである。   これらがめでたいしるしとして記されたのか、珍しいというだけで記されたのか。後世の人はこれを善いしるしとみなしたようだが、乱世の記録に書かれるのは不自然である。唐の高宗の後には武氏の禍があり、哀帝はまさに国を失わんとするときである。   『宋史』では、哲宗紹聖四年(1097)に宣州の民の妻が一度に四男を産んだとあり、元符二年に河中猗氏県の民の妻が一度に四男を産んだとあ...
  • 王倫
    323.王倫   王倫使金,間關百死,遂成和議。世徒以胡銓疏斥其狎邪小人,市井無賴。張燾疏斥其虚誕,許忻疏斥其賣國,遂衆口一詞,以爲非善類。甚至史傳亦有家貧無行,數犯法幸免之語。不知此特出於一時儒生不主和議者之詆諆,而論世者則當諒其心,記其功而憫其節也。倫本王旦弟勗之後,初非市儈里魁。其奉使在建炎元年,是時金人方擄二帝北去,凶燄正熾,誰敢身入虎口?倫獨慷慨請行,其膽勇已絶出流輩。及至金被留,久之,尼瑪哈(舊史名粘罕)使烏陵思謀至,倫即以和議動之,欲使其還兩宮、歸故地,尼瑪哈雖不答,然和議實肇端於此。即洪皓之以畏天保天語悟室,猶在後也。已而尼瑪哈有許和意,紹興二年,先遣倫歸。次年即遣李永壽、王翊來。値劉豫内犯,議遂中格。七年,徽宗、鄭后訃至,復遣倫充使奉迎,並乞河南、陝西地。是冬,豫既廢,倫入見金主,金遂以烏陵思謀、石慶偕倫來議。八年,再使金,金即遣張通古等來,許歸梓宮、母后及河南、陝西地...
  • 五代人多以彦爲名
    309.五代の人は多く「彦」を名にもちいる   彦はもとは美名であり、むかしの人は多くこれを名としたが、五代のときほど多かったことはない。   唐末に宰相の徐彦若がおり、左拾遺の徐彦枢、供奉官の史彦瓊、宦官の支彦勲、魏博の楽彦禎、東川の顧彦朗および弟の顧彦暉、顧彦瑤がいた。   これ多いのは後梁で、鉄槍の王彦章は、人みな知るところである。しかし同時に兵を率いた大将に謝彦章がいた。このほかに滄州の盧廷彦、同州の寇彦卿、鄜州の李彦容、静勝軍の李彦韜(本名は温昭図)、宣義軍の霍彦威がいた。また滄州の盧彦威、左龍武統軍の李彦威(すなわち朱友恭)、都指揮使の楊彦洪、蔡州刺史の王彦温、大将の李彦柔、左天武使の劉彦圭、左僕射押牙の王彦洪、楊劉の守将の安彦之、幽州騎将の高彦章、蔡州軍校の張彦珂、雷満の子の雷彦恭、雷彦雄、雷彦威がいた。   後唐から後晋のあいだには、中書の焦彦賓、供奉官の劉彦...
  • 帝王行三年之喪
    184.帝王行三年之喪 三代後帝王行三年之喪者,咸稱晉武帝、宋孝宗,然尚有晉康帝、姚興(後秦)、魏孝文帝、後周武帝、北漢劉承鈞,世未之知也,今摘於後: 晉文帝(司馬昭)之喪,臣民皆從權制,三日除服,既葬,武帝亦除,然猶練冠蔬食。及謁崇陽陵,仍以衰絰從行,裴秀奏「既除不宜復服。」乃止。羊祜曰「三年之喪,漢文除之,毀禮傷義。今主上至孝,若因此復先王之法,不亦善乎!」群臣異議,乃止。群臣又請易服復膳,詔曰「可試省孔子答宰我之言,無俟紛紜也。」遂蔬素終三年。後王太后殂,帝居喪一遵古禮,既葬,有司請除服,詔曰「前代典禮,質文不同,何必援近制,使達喪闕然乎?」竟素服以終三年。 武帝楊后崩,既葬即吉,尚書奏「皇太子宜復古典,以諒闇終制。」從之。 宰我問:「三年之喪,期已久矣。君子三年不為禮,禮必壞;三年不為樂,樂必崩。舊穀既沒,新穀既升,鑽燧改火,期可已矣。」子曰:「食夫稻,衣夫錦,於女安乎﹖」...
  • 荀彧傳
    91.荀彧伝   荀彧伝を『後漢書』では孔融らと同じ巻にまとめているのは、彼が漢臣だったと見なしているからである。陳寿の『魏志』が夏侯惇・曹仁らの後、荀攸・賈詡と同じ巻にまとめているのは、彼を魏臣と見なしているからである。調べてみると、こうある。董昭らは曹操の功績が高大であるので魏公に封じて九錫を加えるべきと提議したが、荀彧は曹操がもともと義兵を起こしたのは漢室を正し、忠義貞節を守るためであり、君子は他人を愛するにも徳を用いるのだからそれはよろしくないと述べ、そのことで曹操の気持ちに逆らうことになった。ちょうど孫権を征伐することになり、(曹操は)上表して荀彧を借り受けて軍の慰撫役としたが、荀彧は病気のため寿春に留まった。曹操は人をやって食膳を送り届けたが、これを開いてみると空っぽである。ついに薬を飲んで卒去した。翌年、曹操はとうとう魏公になった、とのこと。このことから荀彧が心底から漢のた...
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