『廿二史箚記』wiki内検索 / 「歐史不專據薛史舊本」で検索した結果

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  • 巻二十一 五代史
    ...例不同? 289.歐史不專據薛史舊本? 290.歐史書法謹嚴? 291.歐史傳贊不苟作? 292.歐史失檢處? 293.一産三男入史☆ 294.五代諸帝多由軍士擁立?    前頁 『廿二史箚記』    次頁 巻二十 新舊唐書 廿二史箚記巻二十一 巻二十二 五代史
  • 巻十六 新舊唐書
    廿二史箚記巻十六 219.舊唐書源委? 220.新唐書☆ 221.唐實録國史凡兩次散失 222.舊唐書前半全用實録國史舊本? 223.新唐書本紀書法? 224.新書本紀書安史之亂? 225.新書改編各傳?    前頁 『廿二史箚記』    次頁 巻十五 魏齊周隋書并北史 廿二史箚記巻十六 巻十七 新舊唐書
  • 薛居正五代史
    283.薛居正五代史   宋太祖開寶六年四月,詔修梁、唐、晉、漢、周書,其五代史者,乃後人總括之名也。七年閏十月,書成,凡一百五十卷,目録二卷。監修者爲司空同中書門下平章事薛居正,同修者爲盧多遜、扈蒙、張澹、李昉、劉兼、李穆、李九齡。(見宋史及晁公武讀書志,玉海所引中興書目。)皆本各朝實録爲稾本。此官修之史也。其後歐陽修私撰五代史記七十五卷,藏於家。修沒後,熙寧五年,詔求其書刊行,(見宋史)於是薛、歐二史並行於世。至金章宗泰和七年,詔止用歐史,於是薛史漸湮。惟前明永樂大典多載其遺文,然已割裂淆亂,非薛史篇第之舊。恭逢我皇上開四庫館,命諸臣就永樂大典中甄録排纂,其缺逸者則採宋人書中之徴引薛史者補之。於是薛史復爲完書,仍得列於正史,遂成二十三史之數。今覆而案之,雖文筆迥不逮歐史,然事實較詳。蓋歐史專重書法,薛史專重敘事,本不可相無。以四五百年久晦之書,一旦復出,俾攷古者得參互核訂,所以嘉惠後...
  • 晉書
    103.晉書   唐初修晉書,以臧榮緒本爲主,而兼考諸家成之。今據晉、宋等書列傳所載諸家之爲晉書者,無慮數十種。其作於晉時者,武帝時,議立晉書限斷。荀勖謂宜以魏正始起年。王瓚欲引嘉平以下朝臣盡入於晉。賈謐請以泰始爲斷。事下尚書議,張華等謂宜用正始,從之。(賈謐傳)武帝詔,自泰始以來,大事皆撰録,秘書寫副。後有事,即依類綴緝。(武帝紀)此晉書之權輿也。自後,華嶠草魏、晉紀、傳,與張載同在史官。永嘉之亂,晉書存者五十餘卷。(嶠傳)干寶著晉紀,自宣帝迄愍帝,凡二十卷,稱良史。(寶傳)謝沈著晉書三十餘卷。(沈傳)傅暢作晉諸公敘讚二十二卷,又爲公卿故事九卷。(暢傳)荀綽作晉後書十五篇。(綽傳)束皙作晉書帝紀十志。孫盛作晉陽秋,詞直理正。桓温見之,謂其子曰:「枋頭誠爲失利,何至如尊公所説?若此史遂行,自是關君門戸事。」其子懼禍,乃私改之。而盛所著已有二本,以其一寄慕容雋。後孝武博求異聞,又得之,與中...
  • 宋書多徐爰舊本
    120.宋書多徐爰舊本   沈約於齊永明五年奉敕撰宋書,次年二月即告成,共紀、志、列傳一百卷,古來修史之速未有若此者。今案其自序而細推之,知約書多取徐爰舊本而增刪之者也。宋著作郎何承天己撰宋書,紀、傳止於武帝功臣,其諸志惟天文、律暦,此外悉委山謙之。謙之亡,詔蘇寶生續撰,遂及元嘉諸臣。寶生被誅,又以命徐爰。爰因蘇、何二本,勒爲一史,起自義熙之初,迄於大明之末,其臧質、魯爽、王僧達三傳,皆孝武所造,惟永光以後至亡國十餘年,記載並缺。今宋書内永光以後紀傳,蓋約等所補也。(按王智深傳,約多載未明帝鄙瀆事,武帝謂曰:「我昔經事明帝,卿可思諱惡之義。」於是多所刪除。可見宋明帝以後紀傳皆約所撰。)其於爰書稍有去取者,爰本有晉末諸臣,及桓玄等諸叛賊,並劉毅等與宋武同起義者,皆列於宋書。約以爲桓玄、譙縱、盧循,身爲晉賊,無關後代;呉隱、郗僧施、謝混,義止前朝,不宜入宋;劉毅、何無忌、諸葛長民、魏詠之、檀...
  • 五代諸帝皆無後
    305.五代の諸皇帝には皆子孫が残らなかった  後梁の太祖朱温の子の彬王の友裕は早く亡くなった。  郢王の友珪は皇帝殺害を企てて逆に処刑された。  養子である博王の友文は、朱友珪に陥れられ殺された。  均王の友貞が皇帝の位を継ぎ,これが末帝てある。後唐の兵が乱入してきた際,建國樓で自殺した。  康王の友孜は,末帝の時に先に謀反を図り処刑された。  賀王の友雍、福王の友璋、建王の友徽は,歐陽修の五代史(新五代史)ではこの三人の死の状況はわからないとしていて,薛居正の五代史(旧五代史)もまたその死の記述は無いが,王禹偁の五代史闕文のなかで,後唐の莊宗が開封に乱入した際,朱氏一族を盡く処刑したとの記載がある。つまり友璋達は皆殺されたのである。資治通鑑では後唐の軍勢がまさに到着しようとする時に,末帝が兄弟がこの混乱に乘じての謀反を企てるのを疑って,皆これを殺したとしている。これによ...
  • 巻二十九 元史
    廿二史箚記巻二十九 416.元史? 417.金元二史不符處? 418.宋元二史不符處? 419.金史當參觀元史? 420.元史自相岐互處? 421.元史列傳詳記月日? 422.元史迴護處? 423.元史附傳有得失? 424.元史補見夏金宋殉節諸臣? 425.元人譯詔旨雅俗不同? 426.元史人名不畫一? 427.蒙古官名? 428.金義宗 429.元建國號始用文義? 430.元諸帝多由大臣擁立? 431.元宮中稱皇后者不一? 432.元帝子稱太子者不一 433.元帝后皆不諱名 434.元封子弟駙馬於各部? 435.元代叛王? 436.各朝國書?    前頁 『廿二史箚記』    次頁 巻二十八 金史 廿二史箚記巻二十九 巻三十 元史
  • 巻九 宋齊梁陳書
    廿二史箚記巻九 120.宋書多徐爰舊本 121.宋書書晉宋革易之際? 122.宋書書宋齊革易之際? 123.宋書本紀書法? 124.宋齊書帶敍法? 125.宋書紀魏事多誤? 126.宋書南史倶無沈田子沈林子傳? 127.齊書舊本? 128.齊書缺一卷☆ 129.齊書書法用意處? 130.齊書類敘法最善? 131.梁書悉據國史立傳? 132.梁書編傳失檢處? 133.梁書多載飾終之詔 134.梁書有知足傳無方伎傳? 135.古文自姚察始 136.陳書多避諱 137.蕭子顯姚思廉皆爲父作傳入正史 138.八朝史至宋始行    前頁 『廿二史箚記』    次頁 巻八 晉書 廿二史箚記巻九 巻十 宋齊梁陳書并南史
  • 巻二十七 遼史金史
    廿二史箚記巻二十七 364.遼史? 365.遼史二? 366.遼史立表最善 367.遼史疏漏處? 368.遼帝皆有簡便徽號 369.遼后族皆姓蕭氏 370.遼正后所生太子多不吉 371.遼官世選之例? 372.遼族多好文學? 373.遼燕京? 374.金廣燕京 375.元築燕京 376.明南北京營建? 377.金史? 378.金史失當處 379.遼金二史各有疏漏處? 380.金史避諱處? 381.金史誤處☆ 382.金史紀傳不相符處? 383.金史氏名不畫一☆ 384.宋史金人名多與金史不符? 385.宋金二史不符處? 386.宗弼渡江宋金二史互異 387.宋金二史傳聞之誤? 388.宋金用兵須參觀二史?    前頁 『廿二史箚記』    次頁 巻二十六 宋史 廿二史箚記巻二十七 巻二十八 金史
  • 三國志多迴護
    87.三國志多迴護   春秋書天王狩於河陽,不言晉侯所召,而以爲天子巡狩,既以開掩護之法,然此特爲尊者諱也。至於弑君、弑父之事,則大書以正之。如許止、趙盾之類,皆一字不肯假借,所以垂誡,義至嚴也。自陳壽作魏本紀,多所迴護,凡兩朝革易之際,進爵、封國、賜劍履、加九錫以及禪位,有詔、有策,竟成一定書法。以後宋、齊、梁、陳諸書,悉奉爲成式。直以爲作史之法,固應如是。然壽迴護過甚之處,究有未安者。漢獻帝遜位,魏封爲山陽公,及薨,追謚爲漢孝獻皇帝。魏紀即稱之爲獻帝,不曰山陽公也。魏常道郷公遜位,晉封爲陳留王,及薨,亦追謚爲元皇帝,則魏紀亦應稱爲元帝,乃僅以陳留王紀事,而絶無元帝之稱。則已異於山陽書法矣。司馬師之廢齊王芳也,據魏略云師遣郭芝入宮,太后方與帝對奕。芝奏曰:「大將軍欲廢陛下。」帝乃起去,太后不悅,芝曰:「大將軍意已定,太后但當順旨。」太后曰:「我欲見大將軍。」芝曰:「大將軍何可見耶。」太...
  • 遼后族皆姓蕭氏
    369.遼后族皆姓蕭氏   遼后族皆姓蕭氏。后妃傳引耶律儼所修實録,謂其先本乙室拔里氏,太祖慕漢高祖,故稱劉氏,以乙室拔里比蕭相國,遂爲蕭氏。又謂太祖述律后兄子名蕭翰,妹復爲太宗皇后,故后族皆以蕭爲姓云。是實録以后族姓蕭爲太祖所賜,而國語解謂其説不合,故陳大任不取。又外戚表序云,契丹外戚,其先曰二審〔密〕氏:曰拔里,曰乙室己。太祖娶述律氏。大同元年,太宗自汴將歸,留外戚小漢爲汴州節度使,賜姓名蕭翰,由是拔里、述律、乙室己三族皆爲蕭姓。是賜姓又自太宗始。按薛居正五代史蕭翰傳,翰父阿巴,有妹爲阿保機安后,翰妹又爲德光后。德光入汴,將命翰爲宣武軍節度使,契丹本無漢名,乃賜姓名蕭翰,自是翰族皆姓蕭。歐史亦謂德光欲留蕭翰於汴,使李崧爲製姓名曰蕭翰,於是始姓蕭云。是后族姓蕭,實太宗所賜也。既爲太宗所賜,何以太祖之高、曾、祖、父四代妣已倶稱蕭?蓋皆後人所追氏也,而諸外戚之姓蕭者可類推矣。蕭氏於遼最貴,...
  • 史記律書即兵書
    7.史記律書即兵書   史記所缺十篇,張晏謂「禮書、樂書、兵書」。顏師古據史記目録「但有律書而無兵書」以駁張晏之誤。不知律書即兵書也。遷自序云:「非兵不強,非德不昌。司馬法所從來尚矣。太公、孫、呉、王子(徐廣曰王子成甫)能紹而明之,故作律書」云云。是遷所作律書即兵書也。今褚少孫所補序亦云:「六律爲萬事根本,其於兵械尤重,遂極論秦時黷武,漢定天下,偃兵息戰等事。」是亦尚見兵律相關之意。而其傳則又專序律呂上生下生之法,與兵事毫不相渉,此篇最無頭緒。蓋少孫補作時,見遷序目有司馬法、太公、孫、呉字樣,故其序以兵律相關爲言。至其正文,則以律書爲名,遂專取律呂以實之,而與兵事不相渉也。張晏謂兵書者,專指史遷序目而言。顏師古駁之者,專據少孫所補律呂而言。度史遷原文,必有兵與律相應之故,惜不可考矣。     前頁 『廿二史箚記』巻一  次頁 史記有後人竄入處 7.史記律書即兵書 史記變體
  • 天子不觀起居注
    241.天子不觀起居注   左史記言,右史記事,歴代皆重其職。唐太宗嘗欲觀起居注,朱子奢曰:「恐開後官之禍,史官全身畏死,悠悠千載,尚有聞乎!」(子奢傳)後至文宗,益重其事。毎入閣日,左、右史執筆立於螭頭之下,宰相奏事得以備録。宰臣既退,上召左、右史,更質證所奏是非,故開成政事最詳。(張次宗傳)帝嘗與宰相議事,適見鄭朗執筆螭頭下,謂曰:「向所論事,亦記之乎?朕將觀之。」朗引朱子奢事對曰:「史不隱善諱惡,人主或飾非護失,見之則史官無以自免,即不敢直筆。昔褚遂良亦稱史記天子言動,雖非法必書,庶幾自飭也。」帝曰:「朗可謂善守職者,朕恐平日之言不合治體,庶一見得以改之耳。」朗乃上之。(朗傳)後帝又欲觀魏謩起居注,謩曰:「陛下但為善事,勿畏臣不書。」帝曰:「我嘗取觀之。」謩曰:「此史官失職也。陛下若一見之,自此執筆者須有迴避,後世何以示信乎?」乃止。論者咎朗而是謩。(謩傳)
  • 北史全用隋書
    175.北史全用隋書   北史於魏、齊、周正史,間有改訂之處,惟於隋則全用隋書,略爲刪節,並無改正,且多有迴護之處。如隋文帝之簒,隋書本紀既循照歴代國史舊式敍九錫文、禪位詔,並帝三讓乃受,絶不見攘奪之迹矣。北史亦一一照本鈔謄,略無一語差異,祇刪去九錫文以省繁冗而已。文帝殺宇文諸王,周書謂諸王皆以謀執政被害,而北史則第書誅陳王純,誅代王達,誅滕王逌,一似有罪而伏法者。帝即位後,封靜帝爲介國公,年方九歳,開皇元年殂,周書謂隋志也,而北史但書介國公薨,上舉哀於朝堂,諡曰周靜帝,一似善終而加以恩禮者。其於文帝之崩,書帝疾甚,與百寮辭訣,握手欷歔,崩於大寶殿,又載遺詔一篇,有「惡子孫已爲百姓除去,今嗣位者乃好子孫」等語,一似憑几末命,壽考令終,並非遭害者。煬帝紀亦但書高祖崩,上即位於仁壽宮,而煬帝使張衡侍疾致斃,及矯詔即位之事,絶不見形迹。即張衡傳亦不著其弑逆,但載其賜死時,自言我爲人作何事,而望...
  • 五代人多以彦爲名
    309.五代の人は多く「彦」を名にもちいる   彦はもとは美名であり、むかしの人は多くこれを名としたが、五代のときほど多かったことはない。   唐末に宰相の徐彦若がおり、左拾遺の徐彦枢、供奉官の史彦瓊、宦官の支彦勲、魏博の楽彦禎、東川の顧彦朗および弟の顧彦暉、顧彦瑤がいた。   これ多いのは後梁で、鉄槍の王彦章は、人みな知るところである。しかし同時に兵を率いた大将に謝彦章がいた。このほかに滄州の盧廷彦、同州の寇彦卿、鄜州の李彦容、静勝軍の李彦韜(本名は温昭図)、宣義軍の霍彦威がいた。また滄州の盧彦威、左龍武統軍の李彦威(すなわち朱友恭)、都指揮使の楊彦洪、蔡州刺史の王彦温、大将の李彦柔、左天武使の劉彦圭、左僕射押牙の王彦洪、楊劉の守将の安彦之、幽州騎将の高彦章、蔡州軍校の張彦珂、雷満の子の雷彦恭、雷彦雄、雷彦威がいた。   後唐から後晋のあいだには、中書の焦彦賓、供奉官の劉彦...
  • 唐人避諱之法
    119.唐の人の諱を避ける方法  唐の人が諸々の史書を編修しようとする時には,(唐の皇帝の父)祖の諱を避けるのに三つの方法を用いた。(一つは)前(の時代の)人で「虎」や「淵」という同じ名を持つ者がいれば,その字を用いる。例えば晉書での公孫淵を公孫文懿と稱したりするようにである。劉淵は劉元海と稱し、褚淵は囘じように褚彦と稱した。石虎を石季龍と稱したりするのもこれである。  これとちがって、(唐の皇帝の父祖の諱の)文字を刪ってしまうというのもある。梁書の蕭淵明、蕭淵藻を,ただ蕭明、蕭藻を稱したりするようにである。陳書の韓擒虎をただ韓擒と稱したりするのもこれである。  またこれともちがって、その(唐の皇帝の父祖の諱の)文字を、似た意味(や物等)の文字に改めるというのもあり,だいたい「虎」の字があれば皆猛獸の字に改めて,李叔虎なら李叔彪と稱し,殷淵源は殷深源と稱している。陶淵明なら陶泉明と...
  • 唐實録國史凡兩次散失
    221.唐實錄國史凡兩次散失 唐時修實錄、國史者皆當代名手。今可考而知者: 高祖實錄二十卷、太宗實錄二十卷(皆敬播撰,房元齡監修), 又貞觀實錄四十卷(令狐德棻撰貞觀十三年以後事,長孫無忌監修,其時同修者,又有敬播、顧允、鄧世隆、慕容善行、孫處約、劉顗、庾安禮,俱為修史學士,見德棻及允、處約等傳),其後許敬宗又奏改正,高宗以其事多失實,又命宰臣刊正。(見郝處俊傳)(初高祖、太宗兩朝實錄,敬播等所修頗詳直,敬宗輒以己意改之。敬宗貪財,嫁女於錢九隴,本皇家隸人也,乃列之於劉文靜等功臣傳,又其子娶尉遲敬德女,則為敬德作佳傳,以太宗賜長孫無忌之威鳳賦,移為賜敬德者。事見敬宗傳。而播傳又謂播與敬宗同撰,蓋當元齡、無忌監修時,播已在事,至是又徇敬宗意而與之同改修耳) 高宗實錄三十卷(許敬宗、令狐德棻等撰), 後修實錄三十卷(德棻等所撰,止乾封,劉知幾、吳兢續成之),...
  • 金用兵先後強弱不同
    402.金用兵先後強弱不同 金之初起,天下莫強焉,蓋王氣所鍾,人皆鷙悍。完顏父子兄弟,代以戰鬥為事,每出兵,必躬當矢石,為士卒先,故能以少擊眾,十餘年間,滅遼取宋,橫行無敵。 觀酈瓊之論宗弼曰「江南諸帥出兵,必身居數百里外,謂之持重。召軍旅,易裨校,則遣一介之士持空文諭之,謂之調發。今元帥親臨督戰,矢石交集,而指麾三軍,意氣自若,將士視之,孰敢愛其死乎?」(瓊傳) 宋吳璘亦謂「金人用兵,更進迭退,忍耐堅久,令酷而下必死,所以能制勝。」(宋史璘傳) 饒風嶺之戰,金人重鎧仰攻,一人先登,則二人擁後,先者既死,後者代攻。(吳玠、劉子羽傳) 觀此,可以知當日兵力之雄捍矣! 正隆用兵,去國初未遠,故大定之初,尚能攻擊江淮,取成於宋。 迨南北通好四、五十年,朝廷將相既不知兵,而猛安、謀克之移入中原者,初則習於晏安,繼則困於饑乏。 至泰和之末,...
  • 光武多免奴婢
    64.光武帝は多くの奴婢を自由にした   後漢の光武帝(劉秀)のとき、彭寵がそむき、その蒼頭(奴隷)の子密が彭寵を殺して降伏すると、光武帝はかれを不義侯に封じた。そのほかにも奴婢を解放した話は、いくつか史書に見られる。   建武二年(26)五月、光武帝は詔を下した。「民のうちで、自分の妻を他人に嫁がせたり、子どもが売られて父母のもとに帰りたがっているものがある。その場合、自由にすることを許す。あえて拘束しようとする者は法律にしたがって罪を問うものとする」。   六年(30)十一月、詔を下した。「王莽のときの下級役人のうちで、犯罪のかどで財産没収のうえ奴婢の身分に落とされたが、旧来の法律に照らしてそのような処分に当たらない者は、みな赦免して庶民とせよ」。   七年(31)五月、役人に詔を下した。「飢乱に遭遇し、青州(山東)・徐州(江蘇)の賊にかどわかされて奴婢やめかけとなった者...
  • 六朝清談之習
    113.六朝清談之習   清談起於魏正始中(齊王芳)。何晏、王弼祖述老莊,謂天地萬物,皆以無爲本,無者也,開物成務,無往而不存者也。(王衍傳)是時阮籍亦素有高名,口談浮虚,不遵禮法。(裴頠傳)籍嘗作大人先生傳,謂世之禮法君子,如蝨之處褌。(阮籍傳)其後王衍、樂廣慕之,倶宅心事外,名重於時。天下言風流者,以王、樂爲稱首。(樂廣傳)後進莫不競爲浮誕,遂成風俗。(王衍傳)學者以老莊爲宗而黜六經;談者以虚蕩爲辨而賤名檢;行身者以放濁爲通而狹節信,仕進者以苟得爲貴而鄙居正,當官者以望空爲高而笑勤恪。(愍帝紀論)其時未嘗無斥其非者。如劉頌屢言治道。傅咸毎糾邪正,世反謂之俗吏。裴頠又著崇有論以正之。(頠傳)江惇亦著通道崇檢論以矯之。(惇傳)卞壼斥王澄、謝鯤,謂悖禮傷教,中朝傾覆,實由於此。(壼傳)范寧亦謂王弼、何晏二人之罪,深於桀紂。(寧傳)應詹謂元康以來,賤經尚道,永嘉之弊由此。(詹傳)熊遠、陳頵各...
  • 各史例目異同
    3.各史例目異同   古者,左史記言,右史記事。言爲尚書,事爲春秋。其後沿爲編年、記事二種。記事者,以一篇記一事,而不能統貫一代之全;編年者,又不能即一人而各見其本末。司馬遷參酌古今,發凡起例,創爲全史。本紀以序帝王,世家以記侯國,十表以繋時事,八書以詳制度,列傳以誌人物。然後一代君臣政事,賢否得失,總彙於一編之中。自此例一定,歴代作史者遂不能出其範圍,信史家之極則也。魏禧序十國春秋,謂「遷僅工於文,班固則密於體。」以是爲史漢優劣。不知無所因而特創者難爲功,有所本而求精者易爲力。此固未可同日語耳。至於篇目之類,固不必泥於一定。或前代所有而後代所無;或前代所無而後代所有,自不妨隨時增損改換。今列二十二史篇目異同於左:   本紀。古有禹本紀、尚書世紀等書。遷用其體,以敘述帝王。惟項羽作紀頗失當。故漢書改爲列傳。後漢書又立皇后紀。蓋仿史漢呂后紀之例。不知史遷以政由后出,故高紀後,即立后紀。至...
  • 禪代
    99.禪代   古來只有禪讓、征誅二局,其權臣奪國,則名簒弑,常相戒而不敢犯。王莽不得已,託於周公輔成王,以攝政踐阼,然周公未嘗有天下也。至曹魏則既欲移漢之天下,又不肯居簒弑之名,於是假禪讓爲攘奪。自此例一開,而晉、宋、齊、梁、北齊、後周以及陳、隋皆傚之。此外尚有司馬倫、桓玄之徒,亦援以爲例。甚至唐高祖本以征誅起,而亦假代王之禪。朱温更以盜賊起,而亦假哀帝之禪。至曹魏創此一局,而奉爲成式者且十數代,歴七、八百年,真所謂奸人之雄,能建非常之原者也。然其間亦有不同者。及身簒位之不同曹操立功漢朝,已加九錫、封二十郡、爵魏王、建天子旌旗、出警入蹕,然及身猶不敢稱帝。至子丕始行禪代。(操嘗云,若天命在吾,吾其爲周文王乎。此可見其本志,非飾説也。又魏書,魏國既建,諸將皆爲魏臣,獨夏侯惇尚爲漢臣,惇上疏不敢當不臣之禮,操曰:「區區之魏,而敢屈君爲臣乎。」是操爲魏王時,猶與漢臣爲同列也。)司馬氏三世相魏...
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