『廿二史箚記』wiki内検索 / 「明祖文義」で検索した結果

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  • 巻三十二 明史
    ...仿漢高? 479.明祖文義? 480.明初文字之禍? 481.明初文人多不仕? 482.胡藍之獄? 483.涂節汪廣洋之死? 484.明祖晩年去嚴刑? 485.明祖多養異姓爲子? 486.明初徙民之令? 487.明分封宗藩之制? 488.明官俸最薄? 489.明宮殿凡數次被災? 490.明正后所生太子? 491.明宮人殉葬之制? 492.明代選秀女之制?    前頁 『廿二史箚記』    次頁 巻三十一 明史 廿二史箚記巻三十二 巻三十三 明史
  • 明祖本紀
    557.明祖本紀 『明史』太祖本紀は大半を『明太祖実録』および『御製皇陵碑』『世徳碑』『紀夢文』『西征記』『平西蜀文』『周顛仙人伝』の書述を基本とし、この他には則ち『皇明祖訓』『皇朝本記』『天黄玉牒』『国朝礼賢録』および陸深の『平胡録』『北平録』『平漢録』『平呉録』『平蜀記』、黄標の『平夏記』、張耽の『雲南機務抄黄』、高岱の『鴻猷録』、唐枢の『国深集』、王世貞の『名卿績記』、顧燐の『国宝新編』、徐禎卿の『翦勝野聞』、王文祿の『龍興慈記』などの書物、およそ数十百種であり、おおむね全てがその採綴に資した。それでも記事を精選せず『南史』『北史』のように無駄な異聞を捜して、人の耳目を幻惑し、往々転た真実を見失ってしまうだろう。『明史』はすなわち博く群書を攬りつつ、必ず確核を求めた。思うに記事を博く取材するが、記事を審かに選択するというのが、本当の良史と言える。それぞれの史家の記述を参照しなければ...
  • 明祖重儒
    561.明祖重儒   明祖初不知書,而好親近儒生,商略千古。徐達往取鎮江,令訪秦從龍,致願見之意,即令姪文正、甥李文忠以幣聘至應天,朝夕過從,以筆書漆簡,問答甚密。從龍又薦陳遇,遇不受官,而尊寵之,逾於勳戚。後置江南行中書省,省中自李善長、陶安外,又有安思顏、李夢庚、郭景祥、侯元善、楊元杲、阮宏道、孔克仁、王愷、欒鳳、夏煜、毛騏、王濂、汪河等,皆燕見無時,敷陳治道。又聘劉基、宋濂、章溢、葉琛至,曰:「我爲天下屈四先生。」下婺州後,又召呉沈、許元、葉瓚玉、胡翰、汪仲山、李公常、金信、徐孳、童冀、戴良、呉履、張起敬等,會食省中,日令三人進講經史。其後定國家禮制,大祀用陶安,祫禘用詹同,時享用朱升,釋奠耕籍用錢用壬,五祀用崔亮,朝會用劉基,祝祭用魏觀,軍禮用陶凱,一代典禮皆所裁定。尋以胡惟庸謀反,廢丞相,又設四輔官,以王本、杜佑、龔、杜、趙民望、呉源等爲之,隆以坐論之禮,諫院疑讞,四輔官得封駁...
  • 明祖用法最嚴
    560.明祖用法最嚴   明祖親見元末貪黷懈弛,生民受害,故其馭下常以嚴厲爲主,雖不無矯枉過正,然以挽頽俗而立紀綱,固不可無此振作也。當其用兵之始,命禁釀酒,胡大海方攻越,其子首犯之,王愷請勿誅以安大海心。帝曰:「寧使大海叛我,不可使我法不行。」遂手刃之。趙仲中守安慶,陳友諒來攻,仲中棄城走,常遇春請原之,帝不許,曰:「法不行,無以懲後。」遂誅之。馮勝攻高郵,城中詐降,使康泰等先入,敵閉門盡殺之。帝召勝還,決大杖十,令歩行至高郵。勝愧憤,竟攻克之。可見其威令之嚴,不可搖動。獨鄧愈守洪州,祝宗、康泰反,愈不及備,逃出撫州門,帝竟不殺,仍令往守。豈以事出不意而恕之耶?抑以其功大而不忍執法耶?     前頁 『廿二史箚記』巻三十六   次頁 明祖以不嗜殺得天下 560.明祖用法最嚴 明祖重儒
  • 明祖之取江州
    566.明祖之取江州   明史趙德勝傳,至正癸卯,太祖西征陳友諒,破安慶水寨,乘風泝小孤山,距九江五里,友諒始知,倉皇遁去,是友諒不及戰,即往武昌也。劉基傳亦云,明祖攻安慶,自旦及暮不下,基請徑趨江州,遂悉軍西上。友諒出不意,帥妻子奔武昌。亦見國初禮賢録。然御製西征記,抵皖城,寇舟不戰,水陸固守,我師遂宵晝弗停,次日午後,直抵潯陽,與彼交戰,再衝再折,若此者三,彼負而我勝,友諒逃遁,遣將伏降。是明兵到時,友諒亦曾拒戰,既敗而逃。當以西征記爲準。(按明史廖永忠傳,是時永忠從攻江州,州城臨江,守備甚固。永忠度城高下,造橋於船尾,名曰天橋,以船乘風倒行,橋附於城,遂克之。是不惟交戰,抑且攻城,使友諒不待戰即倉皇遁去,又何用造橋於船尾方攻破城耶。)   前頁 『廿二史箚記』巻三十六     次頁 劉福通被殺 566.明祖之取江州 徐達縱元君之悞
  • 明祖以不嗜殺得天下
    559.明祖以不嗜殺得天下   明祖以布衣成帝業,其得力處,總在不嗜殺人一語。初遇李善長,即以漢高豁達大度,不嗜殺人爲勸。及取和州,諸將頗不戢,范常規以得一城而使人肝腦塗地,何以成大事,即責諸將搜軍中所掠婦女,遣送其家。既渡江,將取太平,令李善長預書禁約榜文,入城即懸諸通衢,兵皆肅然,毋敢犯。故陶安謂明公神武不殺,天下不足平也。及將取鎮江,先坐諸將以重罪,令善長再三求釋,乃下令廬舍不焚,民無酷掠,方許免罪。於是克城之日,民不知有兵。池州之役,徐達、常遇春敗陳友諒兵,生獲三千人,遇春欲盡誅之,徐達不可,乃以聞,而遇春已坑其兵過半,帝急命釋之,由是命達盡護諸將。遇春圍熊天瑞於贛州,固守不下,帝慮其多殺,先戒曰:「得地無民亦何益。」乃築長圍,半年始克之。於是諸將皆承順風旨,咸以殺掠爲戒。徐達圍張士誠於平江,亦幾一年,城將破,先約遇春曰:「兵入,我營其左,公營其右,禁殺掠。」故城破而民亦晏然。潘...
  • 皇陵碑
    558.皇陵碑   敘明祖側微時,當以御製皇陵碑爲據。蓋明祖自述其少日流離艱苦之況,甚至裸葬父母,髡髮沙門,乞食江淮,皆所不諱,則其事之確核可知也。天潢玉牒,明祖母陳太后在麥場,有一道士修髯簪冠紅服象簡來坐,撥一白丸曰大丹,付太后呑之,已而有娠。據此則道士授丹乃實事也。皇朝本紀則云,太后夜夢黄冠來麥場中,取白藥一丸,使呑之,覺,語仁祖(即明祖之父),而口尚有香。是夢中事也。高岱鴻猷録亦云是夢。明史本紀從之。玉牒又謂,明祖兄南陽王及子山陽王先死,貧無葬地,同里劉繼祖以地與之,時仁祖先夢於彼處築室,今葬長子後,果夫妻亦同葬此地,即鳳陽陵云。是長子先葬數年後,父母隨葬也。然皇陵碑云,皇考終於六十有四,皇妣五十有九而亡,孟兄先死,合家守喪,田主德不我顧,呼叱昂昂,忽伊兄之慷慨,惠此黄壤。則是父母兄相繼死於旬日之内,故劉繼祖憫其鞠凶,而捨地與之,且繼祖弟方不許。若已葬兄有地,又何煩繼祖之贈耶?又徐...
  • 巻三十六 明史
    廿二史箚記巻三十六 533.汪文言之獄 534.明末遼餉剿餉練餉 535.明末督撫之多 536.明末巡撫多由邊道擢用 537.明季遼左陣亡諸將之多☆ 538.明末督撫誅戮之多☆ 539.四正六隅 540.明末僭號者多疏屬 541.流賊僞官號 542.明從賊官六等定罪 543.明代先後流賊☆ 544.唐賽兒☆ 545.劉千斤☆ 546.李鬍子☆ 547.葉宗留等☆ 548.鄧茂七 549.李添保☆ 550.黄蕭養☆ 551.劉六劉七齊彦名趙風子 552.江西盜 553.四川盜 554.曾一本 555.徐鴻儒☆ 556.劉香☆ 557.明祖本紀☆ 558.皇陵碑 559.明祖以不嗜殺得天下 560.明祖用法最嚴 561.明祖重儒 562.郭子興之被執 563.劉繼祖汪文 564.張士德之擒☆ 565.劉福通被殺 566.明祖...
  • 劉福通被殺
    565.劉福通被殺   陸深平胡録,至正十九年,劉福通以宋主韓林兒走安豐。二十三年,張士誠遣呂珍破其城,殺劉福通。而平呉録則云,帝率常遇春等救安豐,珍敗走,福通奉韓林兒退居滁州。按二録皆陸深所著,而一則云福通被殺,一則云福通奉其主居滁,何舛錯如此?高岱鴻猷録則云,珍攻安豐急,劉福通遣使求救於建康,上親率諸將救之。至則珍已破安豐,殺福通,上遂以林兒還金陵云。按是時群雄多奉林兒龍鳳年號,明祖亦用之,令下則云「皇帝聖旨、呉王令旨」,已居然天下共主矣。福通其宰相也,權位并在明祖之右。呂珍已爲明兵所敗,并獲元將忻都,走左君弼,使福通不死,必仍奉林兒據大位,以號召天下,其肯退居於滁,寄人籬下耶?是珍之殺福通,自是實事。福通既死,明祖奉林兒居滁,則已在掌握中,不逾年林兒死,遂改年爲呉元年。廖永忠傳并謂,永忠迎林兒還應天,至瓜歩,覆其舟死,則鴻猷録所云奉林兒還金陵者亦誤也。   前頁 『廿二史...
  • 新月詩
    568.新月詩   黄溥閒中今古録,明祖嘗試諸子新月詩,懿文太子云:「雖然未到團圞夜,也有清光照九州。」成祖云:「誰將玉指甲,搯破青天痕,影落江湖裏,蛟龍不敢呑。」鄭曉今言則以影落江湖爲建文君所作。蓋世所傳從亡録,建文竄跡西南,終免於禍難。似其詩懺也。     前頁 『廿二史箚記』巻三十六      次頁 徐達縱元君之悞 568.新月詩 通州糧運京二傳所載不同
  • 巻十八 新舊唐書
    廿二史箚記巻十八 231.新書改舊書文義處? 232.新書盡刪駢體舊文? 233.新書好用韓柳文? 234.新書詳載章疏? 235.新舊書互異處? 236.新舊書各有紀傳互異處? 237.新舊書誤處? 238.新舊書刻本各有脱誤處    前頁 『廿二史箚記』    次頁 巻十七 新舊唐書 廿二史箚記巻十八 巻十九 新舊唐書
  • 徐達縱元君之悞
    567.徐達縱元君之悞   陸深玉堂漫筆,徐達之蹙元順帝於開平也,開一角,使逸去,常遇春怒無大功,達曰:「是常君天下,將裂地封之乎?抑遂甘心也?既皆不可,則縱之固便。」徐禎卿翦勝野聞亦謂,達追順帝,忽傳令班師,遇春大怒,馳歸告達反,達料遇春歸必有譖言,乃亦引軍歸,別白此事,謂若執以歸,將焉用之云云。按洪武元年,達、遇春至通州,以八月庚午克元都,順帝已於七月丙寅開建德門北走,固未有故縱之事。二年春,達方在陝西戡定鞏昌、臨洮、慶陽等處,遇春以通州有元丞相也,速來窺伺,乃與李文忠還師北平,既敗元兵,遂追入開平,順帝已北走沙漠,遇春歸,亦卒於柳河途次。是開平之役,達未在行,遇春亦無歸朝面奏之事。且達小心恭謹,當平江攻張士誠時,遣使請事,帝嘉其忠,而以「將在外,君不御」勉之。胡德從征擴廓,違令致敗當斬,達以功臣胡大海之子,械送京,帝曰:「將軍效衛青不斬蘇建耳,繼自今,毋姑息。」是達之不敢自專可知。...
  • 郭子興之被執
    562.郭子興之被執   至正十二年二月,郭子興、孫德崖等陷濠州。未幾,有徐州盜魁彭大、趙均用爲元兵所敗,亦奔於濠。彭僭稱魯淮王,趙僭稱永義王,部衆恣橫,子興等反爲所制。高岱鴻猷録云,彭趙一日執郭下獄,帝力爲營救,彭、趙聞而釋之。天潢玉牒亦云,彭趙執郭於獄,明日彭帥釋之。是執子興者,彭、趙共之也。然皇朝本紀則云,子興奉彭而輕趙,德崖等恃趙威執子興,囚於德崖家。帝以子興次夫人往訴彭,彭曰:「孰敢若是!」呼左右點兵,帝亦披堅執鋭圍孫宅,共掀椽掲瓦,見子興鉗足繋項,令人負歸,脱去鉗鎖,是趙執子興,而彭脱之也。其後帝總兵和陽,德崖求寄居,子興至,其兵與德崖兵鬭,子興執德崖,德崖兵亦執帝,猶以此宿憾也。明史郭子興傳不從鴻猷録,而專用皇朝本紀,較爲確核。   前頁 『廿二史箚記』巻三十六   次頁 明祖重儒 562.郭子興之被執 劉繼祖汪文
  • 劉香
    556.劉香   崇禎初年、福建ではオランダによる外患があって、海賊の劉香がこれに乗じて福建・広東の沿海の町をつづけて寇掠した。総督の熊文燦はかれを招撫することを議論して決め、参政の洪雲蒸、副使の康成祖、参将の夏之本、張一傑らを派遣して教えさとさせたが、ともに捕らえられてしまった。そこで降伏した盗賊の鄭芝龍に劉香を田尾洋で攻撃させた。劉香は勢いが逼塞し、洪雲蒸に戦いを止めさせようとした。洪雲蒸は「急いで賊を撃て。わたしのことを構うな」と大声で叫んだので、ついに殺害されてしまった。劉香は勢いがいきづまり、自ら船を焚いて溺死した。承祖らは脱出して帰順した。 556.劉香   崇禎初,福建有紅夷之患,海盜劉香乘之,連犯閩、廣沿海邑,總督熊文燦議招撫,遣參政洪雲蒸、副使康成祖、參將夏之本、張一傑等宣諭,倶被執,乃令降盜鄭芝龍撃香於田尾洋。香勢蹙,令雲蒸止兵,雲蒸大呼,急撃賊,勿顧我,遂...
  • 明人説部
    576.明人説部   徐禎卿翦勝野聞,明祖擒張士誠後,斥江浙行省參政周伯琦曰:「元君寄汝以腹心,乃資賊爲亂耶!」先迎之,三日大醉,以酬其勞而戮之。按元史,平江破後,伯琦歸故郷,以良死,初未嘗被戮也。野聞又云,士誠司徒李伯昇先以國情輸我師,帝亦以爲姦臣而誅之。然湖州之破,滿城皆降於明,獨伯昇不肯,曰:「張太尉待我厚,何忍爲此。」不得已,亦降。及平江將陷,伯昇又使人説士誠以保身全家爲上策。則其惓惓於故主,尚非恝然。是以既降後,命仍故官。洪武七年,尚命伯昇掌屯田山東、北平等處。後又兼懿文太子同知詹事院事。又命將兵討平湖廣慈利蠻。呉良傳,伯昇又隨鄧愈討廣西叛蠻。則伯昇初未被誅也。而野聞以爲被戮,果何所據耶?又王錡寓圃雜記,元有全某者,乃宋淵聖皇帝之母舅,在元學佛於土番,號合尊大師,有子亦從其教,後元主坐以説法聚衆,皆殺之。按淵聖乃欽宗追尊之號,至元朝已百六十餘年,何得尚存?合尊大師,乃德祐帝也,...
  • 巻二十九 元史
    廿二史箚記巻二十九 416.元史? 417.金元二史不符處? 418.宋元二史不符處? 419.金史當參觀元史? 420.元史自相岐互處? 421.元史列傳詳記月日? 422.元史迴護處? 423.元史附傳有得失? 424.元史補見夏金宋殉節諸臣? 425.元人譯詔旨雅俗不同? 426.元史人名不畫一? 427.蒙古官名? 428.金義宗 429.元建國號始用文義? 430.元諸帝多由大臣擁立? 431.元宮中稱皇后者不一? 432.元帝子稱太子者不一 433.元帝后皆不諱名 434.元封子弟駙馬於各部? 435.元代叛王? 436.各朝國書?    前頁 『廿二史箚記』    次頁 巻二十八 金史 廿二史箚記巻二十九 巻三十 元史
  • 金一人二名
    393.金一人二名   金未滅遼以前,其名皆本其國語,及入中原,通漢文義,遂又用漢字製名。如太祖本名阿骨打,而又名旻也。太宗本名呉乞買,而又名晟也。熙宗本名合剌,而又名亶也。海陵本名迪古乃,而又名亮也。世宗本名烏禄,而又名雍也。章宗本名麻達葛,而又名璟也。宣宗本名吾睹,而又名珣也。哀宗本名寧甲速,而又名守緒也。此帝王之二名也。他如烏也之名勖也。斜也之名杲也,撒改之名思敬也,粘沒喝(又名粘罕)之名宗翰也,斡离布之名宗望也,訛魯觀之名宗峻也,訛里朵之名宗輔也,斡本之名宗幹也,兀朮之名宗弼也,謀良虎之名宗雄也,阿魯補之名宗敏也,塔不也之名宗亨也,此皇族之一人二名也。又如僕散忠義之本名烏者也,紇石烈志寧之本名撒曷輦也,紇石烈良弼之本名婁室也,唐括安禮之本名幹魯古也,移剌慥之本名移敵列也,蒲察世傑之本名阿散也,紇石烈執中之本名胡沙虎也,阿勒根彦忠之本名窊合山也,此又庶姓之一人二名也。蓋國語之名便於...
  • 史記自相岐互處
    12.史記自相岐互處   史記田儋傳:項梁趣齊進兵,共擊章邯。儋欲楚殺田假,然後出兵。據項羽紀:項梁曰「假與國之王,窮來歸我,殺之不義。」而田榮傳則以此語爲楚懷王之言。   齊悼惠王世家,悼惠子哀王將發兵誅諸呂,乃先誘燕王劉澤入齊。使祝午至燕,發其國兵並將之。澤不得歸,乃願往長安,議立哀王爲帝。哀王遂資其行。而澤傳不言被誘入齊事,但云:太后崩,澤即曰:「帝少,諸呂用事,劉氏孤弱。」遂與齊合兵,而澤先至長安。(漢書亦同)    朱建傳謂,黥布欲反,建諫之不聽,布誅,建得不誅。事在黥布傳中云云。今布傳無此語。   佞幸傳序,高祖有籍孺,孝惠有閎孺。而朱建傳又云孝惠有閎籍孺。是并二人爲一人。漢書亦云閎籍孺。   酈食其傳既敘食其見高祖之事,而朱建傳又重敘酈生見高祖之事,與彼傳小異。   周仁傳,仁以不潔清得幸。景帝崩,仁尚爲郎中令,終無所言,景帝以此再自幸其家。案既云「景帝崩」,乃又...
  • 唐人避諱之法
    119.唐の人の諱を避ける方法  唐の人が諸々の史書を編修しようとする時には,(唐の皇帝の父)祖の諱を避けるのに三つの方法を用いた。(一つは)前(の時代の)人で「虎」や「淵」という同じ名を持つ者がいれば,その字を用いる。例えば晉書での公孫淵を公孫文懿と稱したりするようにである。劉淵は劉元海と稱し、褚淵は囘じように褚彦と稱した。石虎を石季龍と稱したりするのもこれである。  これとちがって、(唐の皇帝の父祖の諱の)文字を刪ってしまうというのもある。梁書の蕭淵明、蕭淵藻を,ただ蕭明、蕭藻を稱したりするようにである。陳書の韓擒虎をただ韓擒と稱したりするのもこれである。  またこれともちがって、その(唐の皇帝の父祖の諱の)文字を、似た意味(や物等)の文字に改めるというのもあり,だいたい「虎」の字があれば皆猛獸の字に改めて,李叔虎なら李叔彪と稱し,殷淵源は殷深源と稱している。陶淵明なら陶泉明と...
  • 史漢互有得失
    14.史漢互有得失   垓下之戰,史記高祖紀,敘韓信、孔將軍、費將軍等戰頗詳,漢書高紀,但撮敘數語。然殺項羽是漢王一大事。漢書略之,殊失輕重。   高祖紀末,史記但記其諸子。漢書獨總敘高祖之明達好謀,雖日不暇給,而規模宏遠。史記少此議論。又史記高紀,既敘高祖八男,而呂后紀内又敘之,殊複。漢書兩紀倶不敘,另立高五王傳。   孝文紀,史記於後六年,忽總敘帝之節儉寬厚,下方敘後七年六月帝崩,殊屬非法。總敘自應在帝崩後也。漢書取此語作贊。   呉王濞傳,史記晁錯議削諸王地。楚王戊以在薄太后服中有姦,削東海郡。因削呉之豫章、會稽二郡。及前二年,削趙王河閒郡、膠西王六縣。漢廷臣方議削呉,呉王恐削地無已,因此發謀。案是時廷臣所議削者,即豫章、會稽也。故下文云及削豫章、會稽,書至,呉王遂反。今先云削呉之豫章、會稽,下又云方議削呉,是又於二郡外,再議削矣。則下文所謂及削豫章、會稽,書至者,又何説耶?...
  • 三國志誤處
    90.三国志の誤記   魏の『武紀』に、建安二年、汝南の黄巾賊何儀・劉辟・黄邵・何曼らは軍勢おのおの数万人であり、曹操は進軍して彼らを討ち破り、劉辟・黄邵らを斬首した、とある。これは劉辟がすでに処刑されていたということである。ところが、建安五年、曹操が官渡において袁紹と対峙したとき、汝南の投降した賊である劉辟らが叛逆して袁紹に呼応し、許の城下を攻略し、袁紹は劉備をやって劉辟を支援させた、という。これは劉辟がもともと死んでおらず、ただ曹操に降伏しただけで、このときまた叛逆して袁紹に呼応したということである。一つの帝紀だけでもうこれだけの矛盾があるのだ。さらに『于禁伝』では、于禁は黄巾賊の征伐に従軍し、劉辟・黄邵らが曹操の陣営に夜襲をかけてきたので、于禁は彼らを撃破し、劉辟・黄邵らを斬った、とある。その記述は官渡戦への従軍以前に置かれており、つまり建安二年の事件ということになる。さすれば実際...
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