『廿二史箚記』wiki内検索 / 「後周詔誥用尚書體」で検索した結果

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  • 巻十五 魏齊周隋書并北史
    ...經獲報? 213.後周詔誥用尚書體? 214.魏末周初無年號☆ 215.隋書志☆ 216.一帝數后☆ 217.隋文帝殺宇文氏子孫 218.隋獨孤后妒及臣子    前頁 『廿二史箚記』    次頁 巻十四 魏齊周隋書并北史 廿二史箚記巻十五 巻十六 新舊唐書
  • 魏末周初無年號
    ...』巻十五   次頁 後周詔誥用尚書體? 214.魏末周初無年號 隋書志
  • 帝王行三年之喪
    184.帝王行三年之喪 三代後帝王行三年之喪者,咸稱晉武帝、宋孝宗,然尚有晉康帝、姚興(後秦)、魏孝文帝、後周武帝、北漢劉承鈞,世未之知也,今摘於後: 晉文帝(司馬昭)之喪,臣民皆從權制,三日除服,既葬,武帝亦除,然猶練冠蔬食。及謁崇陽陵,仍以衰絰從行,裴秀奏「既除不宜復服。」乃止。羊祜曰「三年之喪,漢文除之,毀禮傷義。今主上至孝,若因此復先王之法,不亦善乎!」群臣異議,乃止。群臣又請易服復膳,詔曰「可試省孔子答宰我之言,無俟紛紜也。」遂蔬素終三年。後王太后殂,帝居喪一遵古禮,既葬,有司請除服,詔曰「前代典禮,質文不同,何必援近制,使達喪闕然乎?」竟素服以終三年。 武帝楊后崩,既葬即吉,尚書奏「皇太子宜復古典,以諒闇終制。」從之。 宰我問:「三年之喪,期已久矣。君子三年不為禮,禮必壞;三年不為樂,樂必崩。舊穀既沒,新穀既升,鑽燧改火,期可已矣。」子曰:「食夫稻,衣夫錦,於女安乎﹖」...
  • 九錫文
    101.九錫文   毎朝禪代之前,必先有九錫文,總敘其人之功績,進爵封國,賜以殊禮,亦自曹操始,(按,王莽簒位已先受九錫,然其文不過五百餘字,非如潘勖爲曹操撰文格式也。勖所撰乃仿張竦頌莽功德之奏,逐件鋪張,至三、五千字,勖文體裁正相同。)其後晉、宋、齊、梁、北齊、陳、隋皆用之。其文皆鋪張典麗,爲一時大著作。故各朝正史及南北史倶全載之。今作者姓名尚有可考者。操之九錫文,據裴松之三國志註,乃後漢尚書左丞潘勖之詞也。(以後各朝九錫文,皆倣其文爲式。)曹丕受禪時,以父已受九錫,故不復用,其一切詔誥,皆衛覬作。(覬傳)晉司馬昭九錫文,未知何人所作,其讓九錫表,則阮籍之詞也。(見籍傳)劉裕九錫文,亦不詳何人所作,據傅亮傳,謂裕征廣固以後,至於受命,表策文誥,皆亮所作,則九錫文必是亮筆也。蕭道成九錫文,據王儉傳,齊高爲太尉,以至受禪詔冊,皆儉所作,則九錫文是儉筆也。蕭衍九錫文,據任昉傳,梁臺建禪讓,文...
  • 禪代
    99.禪代   古來只有禪讓、征誅二局,其權臣奪國,則名簒弑,常相戒而不敢犯。王莽不得已,託於周公輔成王,以攝政踐阼,然周公未嘗有天下也。至曹魏則既欲移漢之天下,又不肯居簒弑之名,於是假禪讓爲攘奪。自此例一開,而晉、宋、齊、梁、北齊、後周以及陳、隋皆傚之。此外尚有司馬倫、桓玄之徒,亦援以爲例。甚至唐高祖本以征誅起,而亦假代王之禪。朱温更以盜賊起,而亦假哀帝之禪。至曹魏創此一局,而奉爲成式者且十數代,歴七、八百年,真所謂奸人之雄,能建非常之原者也。然其間亦有不同者。及身簒位之不同曹操立功漢朝,已加九錫、封二十郡、爵魏王、建天子旌旗、出警入蹕,然及身猶不敢稱帝。至子丕始行禪代。(操嘗云,若天命在吾,吾其爲周文王乎。此可見其本志,非飾説也。又魏書,魏國既建,諸將皆爲魏臣,獨夏侯惇尚爲漢臣,惇上疏不敢當不臣之禮,操曰:「區區之魏,而敢屈君爲臣乎。」是操爲魏王時,猶與漢臣爲同列也。)司馬氏三世相魏...
  • 金中葉以後宰相不與兵事
    411.金の中葉以後、宰相は軍事に関与しなかった  金の初めの創業の時には,太祖の兄弟や子,甥たちはみんな,朝堂の外に出ては兵を 率い,朝堂の中に入っては國家の事を会議したため,宰相は多く元帥を兼ねた。  その時の樞密院は主に軍事を司ったが,命令は尚書省が担当した。(白華傳による。) 例えば宗翰が國論勃極烈兼都元帥,太保、尚書令,領三省事となったようにである。  汴京には初め行臺を置いたが,宗弼が領行臺尚書省、都元帥となり,詔によって諸州 郡の軍事の事は元帥府が決定し,民衆の金錢、穀物に関する訴えは尚書省が担当し,宗 弼がこれらのことを共におさめた。  後に朝廷に入って太師,領三省事となったが、都元帥は元のままであった。軍事は皆 宰相が決定すべきだとされていたからである。  明昌年間以後には,軍事は樞密院が主に担当していたが,尚書省は初め関与していな かった。...
  • 兩次入相
    351.兩次入相   張齊賢:(淳化三年由吏部侍郎同中書門下平章事,後出知河南府。真宗初又拜兵部尚書同中書門下平章事。)   李昉:(太平興國中拜平章事加中書侍郎,尋罷。淳化二年復拜中書侍郎平章事。)   向敏中:(咸平四年以兵部侍郎同平章事,尋出知永興軍。大中祥符五年又拜同平章事加中書侍郎進右僕射兼門下侍郎。)   陳堯叟:(大中祥符初以戸部尚書檢校太尉同平章事,尋罷,領群牧使。明年又檢校太尉同平章事。)   陳執中:(先拜同中書門下平章事,降給事中。皇祐中又以吏部尚書拜同平章事。)   馮拯:(先拜右僕射兼中書侍郎同平章事,出爲武勝軍節度使。又以吏部尚書檢校太傅同中書門下平章事進右僕射。)   賈昌朝:(慶暦中以工部侍郎拜同中書門下平章事,出判大名府。嘉祐元年又兼侍中,以同中書門下平章事爲樞密使。)   李迪:(真宗時拜吏部侍郎同中書門下平章事,罷知鄆州。仁宗時又拜同中...
  • 三入相
    349.三たび入相すること   『宋史』呂蒙正伝の賛に「国朝(宋朝)で三たび入相した(宰相となった)のは、ただ趙普と呂蒙正だけである」という。しかし呂蒙正の後に、また王欽若・張士遜・呂夷簡・文彦博・陳康伯がいて、みな三たび入相しており、蔡京は四たび入相するにいたっている。『宋史』のいうところは、深く考察されたものではないのだ。いま次に記録しておく。   趙普:(乾徳三年に門下侍郎平章事となり、のちに河陽三城節度使として出された。太平興国初年に再び入相し、司徒兼侍郎に任ぜられた。八年、武勝軍節度使として出された。雍熙三年に再び入相し、太保兼侍中に任ぜられた。)   呂蒙正:(太平興国年間に中書侍郎兼戸部尚書平章事に任ぜられ、淳化初年に罷免されて吏部尚書となった。四年にまた本官のまま入相し、至道年間に判河南府として出された。真宗の咸平四年にまた本官のまま同平章事となった。)   ...
  • 漢帝多自作詔
    62.漢帝多自作詔   兩漢詔命皆由尚書出,故比之於北斗,謂天之喉舌也。後漢書周榮傳,榮子興有文學,尚書陳忠疏薦興曰:「尚書出納帝命。臣等既愚闇,而諸郎多俗吏,毎作詔文,轉相求請,或以不能,而專己自由則詞多鄙固。請以興爲尚書郎。」又宦官曹節欲害竇武,擁靈帝上殿,召尚書官屬至,脅以白刃,使作詔版。此可見詔命皆由尚書郎所撰也。漢詔最可觀,至今猶誦述,蓋皆簡才學士充郎署之選。而如陳忠所云,則亦有拙於爲文,及輾轉倩人者,可知代言之職綦重矣。然亦有天子自作者,哀帝策董賢爲大司馬,有「允執其中」之語,蕭咸謂此乃堯禪舜之文,非三公故事,長老莫不心懼,此必非代言者所敢作也。光武詔司徒鄧禹曰:「司徒堯也,亡賊桀也,宜以時進討。」立陰貴人爲后,詔曰:「貴人郷里良家,歸自微賤,自我不見,于今三年。宜奉宗廟,爲天下母。」又帝疑侯霸薦士有私,賜書曰:「崇山幽都何可偶,黄鉞一下無處所。欲以身試法耶?將殺身成仁耶?」...
  • 金初漢人宰相
    403.金初漢人宰相   韓企先傳,金太祖定燕京,始用漢官宰相,賞左企弓等,置中書省、樞密院於廣寧府,而朝廷宰相自用女直官號。(傳贊謂仿遼代南、北面官僚制度。)太宗初年,無所更改。及張敦固伏誅,移中書省、樞密院於平州。蔡靖以燕山降,又移置於燕。凡漢地選授官職、調發租税,皆承制行之,自時立愛、劉彦宗、韓企先官爲宰相,其職皆如此;故規爲施設,不見於朝廷之上,惟治官政,庀民事,内供京師,外給轉餉而已。後斜也、宗幹當國,勸太宗改女直舊制,從漢官制度。天會四年,始置尚書省以下諸司府寺。十二年,以企先爲尚書右丞,漢人爲真相自此始。(按元遺山作張萬公碑云,金制自尚書令而下,有左右丞相爲宰相,尚書左右丞爲執政官,凡内族外戚及國人有戰功者爲之,其次則黄霫人,又次則參用漢進士,不過以示公道而已,無相權也。)
  • 五代人多以彦爲名
    309.五代の人は多く「彦」を名にもちいる   彦はもとは美名であり、むかしの人は多くこれを名としたが、五代のときほど多かったことはない。   唐末に宰相の徐彦若がおり、左拾遺の徐彦枢、供奉官の史彦瓊、宦官の支彦勲、魏博の楽彦禎、東川の顧彦朗および弟の顧彦暉、顧彦瑤がいた。   これ多いのは後梁で、鉄槍の王彦章は、人みな知るところである。しかし同時に兵を率いた大将に謝彦章がいた。このほかに滄州の盧廷彦、同州の寇彦卿、鄜州の李彦容、静勝軍の李彦韜(本名は温昭図)、宣義軍の霍彦威がいた。また滄州の盧彦威、左龍武統軍の李彦威(すなわち朱友恭)、都指揮使の楊彦洪、蔡州刺史の王彦温、大将の李彦柔、左天武使の劉彦圭、左僕射押牙の王彦洪、楊劉の守将の安彦之、幽州騎将の高彦章、蔡州軍校の張彦珂、雷満の子の雷彦恭、雷彦雄、雷彦威がいた。   後唐から後晋のあいだには、中書の焦彦賓、供奉官の劉彦...
  • 喬允升劉之鳳二傳
    477.喬允升劉之鳳二傳   喬允升傳,崇禎帝在位十七年,刑部易尚書十七人。薛貞以奄黨抵死。蘇茂相半載而罷。王在晉未任,改兵部去。允升坐逸囚遣戍。韓繼思坐議獄除名。胡應台獨得善去。馮英被劾遣戍。鄭三俊坐議獄逮繋。劉之鳳坐議獄論絞,瘐死獄中。甄淑坐納賄下詔獄,改繋刑部,瘐死。李覺斯坐議獄削籍。劉澤深卒於位。鄭三俊再爲尚書,改吏部去。范景文未任,改工部。徐石麒坐議獄,落職閒住。胡應台再召,不赴。繼其後者張忻,賊陷京師,與其子庶吉士士端並降云。而劉之鳳傳末亦有此一段文字,並一字不改。此二傳一在第二百五十四卷,一在第二百五十六卷,相隔只兩卷,不及訂正,蓋卷帙繁多,纂修諸臣不暇彼此參訂故也。
  • 累世經學
    72.累世經學   古人習一業,則累世相傳,數十百年不墜。蓋良冶之子必學爲裘,良弓之子必學爲箕,所謂世業也。工藝且然,況於學士大夫之術業乎。今按周、秦以來,世以儒術著者,自以孔聖之後爲第一。伯魚、子思後,子上生求,求生箕,箕生穿,穿生順,爲魏相。順生鮒,爲陳渉博士。鮒弟子襄,漢惠帝時爲博士,歴長沙大傅。襄生忠,忠生武及安國,武生延年,安國、延年皆以治尚書武帝時爲博士,安國至臨淮太守。延年生霸,亦治尚書,昭帝時爲博士,宣帝時爲大中大夫,授皇太子經,元帝即位,賜爵關内侯,號褒成君。霸生光,尤明經學,歴成、哀、平三帝,官御史大夫、丞相、太傅、太師、博山侯,猶會門下生講問疑難(孔光傳)。霸曾孫奮,少從劉歆受春秋左氏,歆稱之曰:「吾已從君魚(奮字)受道矣。」(奮傳)安國後世傳古文尚書、毛詩有名。子建者不仕王莽。元和中,子建曾孫僖受爵褒成侯。其子長彦好章句學,季彦亦守家學(僖傳)。霸七世孫昱,少習家...
  • 吏役至大官
    518.吏役至大官   梁璟傳,弘治八年,修隆善寺。工竣,授工匠三十人官,尚寶少卿任道遜等,以書碑亦進秩。王詔上疏切諫。工匠授官,已濫觴於此。正德初,劉健等疏中,有畫史工匠濫授官職,多至數百人,豈可不罷。(健傳)劉瑾擅權,通鑑纂要成,誣諸翰林纂修官謄寫不謹,皆被譴,而命文華殿書辦張駿等改謄。駿擢至禮部尚書,他授京卿者又數人,裝潢匠役亦授官秩。(見謹傳)世宗時,匠役徐杲以營造擢官工部尚書,其屬冒太僕少卿、苑馬卿以下職銜者以百數。(李芳傳)又工匠趙奎等五十四人,亦以中官請,悉授職。(胡世寧傳)
  • 一帝數后
    216.ひとりの皇帝に数人の皇后   ひとりの皇帝にひとりの皇后というのが、礼である。荒れ乱れた王朝では放漫で法や紀律がなく、同時に数人の皇后を立てる者がいた。孫皓の夫人の滕氏は寵愛がなく、長秋宮の官僚は定足数を備えているだけであった。しかし宮中の諸姫で皇后の璽綬を佩びる者がはなはだ多かった(『三国志』呉書妃嬪伝)。劉聡が皇帝を僭称すると、その妻の呼延氏を立てて皇后とした。呼延皇后が死去すると、劉殷の娘を納れて皇后とした。劉皇后が死去すると、さらに靳準の娘を納れて皇后とした。ほどなく靳皇后を進めて上皇后としたが、貴妃の劉氏を立てて左皇后とし、貴嬪の劉氏を立てて右皇后とし、さらに樊氏を立てて上皇后とした。四皇后のほかに、皇后の璽綬を佩びる者がさらに七人いた。後に宦官の王沈の養女を左皇后とし、宣懐の養女を中皇后とした(『晋書』劉聡載記)。北周の宣帝が初めて即位すると、妃の楊氏を立てて皇后とし...
  • 明翰林中書舍人不由吏部
    501.明翰林中書舍人不由吏部   明大學士本無屬員,楊士奇等加官既尊,始設中書舍人,取能書者爲之,不由吏部銓選。霍韜疏謂,自三楊等植黨專權,籠翰林爲屬官,中書爲門吏。故翰林遷擢不由吏部,而中書内直既久,有進秩至尚書者。(潘辰等或加太常卿,或加至翰林學士、禮部尚書。)按明史選舉志,中書舍人原有兩途,由進士選者,得遷科道、部曹,其兩殿兩房舍人,則不必由部選,自甲科監生及儒士布衣能書者,皆得爲之。如呂原子[常心]以蔭補國子生,選爲中書舍人。趙榮亦以能書,由布衣授中書舍人,後遷太常卿,仍供事内閣。葉向高爲首輔,用已革監生汪文言爲中書舍人,此則大學士自行選用之成例也。又我朝順治十一年,大學士范文程請以詹事翰林等官陞補倶歸吏部,又可見明制翰詹等官陞降亦由内閣。
  • 王莽引經義以文其奸
    59.王莽引經義以文其奸   王莽僭竊,動引經義以文其奸。居攝時,使群臣奏曰:「周成王幼小,不能修文武之烈,周公攝政,則周道成,不攝則恐失墜天命。故君奭篇曰『我嗣子孫,大不克共上下,遏失前人光,在家不知命不易,天應棐諶,乃亡隊命。』(召公爲保,周公爲師,相成王爲左右。召公不悅,周公作君奭以告之。奭,召公名也。尊而呼之,故曰君也。言我恐後嗣子孫大不能恭承天地,絶失先王光大之道,而不知受命之難。天所應輔,唯在有誠,所以毋失其命也。棐,輔也。諶,誠信也。隊,墜也。)此言周公服天子袞冕,南面朝群臣,發號施令,常稱王命。召公不知其意,故不悅也。書逸嘉禾篇曰:『周公奉鬯((祭祀用酒,ㄔㄤˋ)立于阼階,延登,贊曰(祭祝之辭):「假王蒞政,勤和天下。」』此周公攝政,贊者所稱也。」又「康誥篇:『王若曰:「孟侯,朕其弟,小子封。」』(孟侯者,言爲諸侯之長也。封者,衛康叔名。即諸侯之長者,即朕之弟,康叔也。)...
  • 明末遼餉剿餉練餉
    534.明末遼餉剿餉練餉   嘉靖中,以俺答入寇,戸部侍郎孫應奎已議加派自北方諸府及廣西、貴州外,增銀一百五十萬。(劉紉傳)萬暦末年,遼左用兵,又加賦五百二十萬。(楊嗣昌傳)崇禎三年,又以兵餉不足,兵部尚書梁廷棟請增天下田賦,於是戸部尚書畢自嚴議於毎畝加九釐之外(此即萬暦中所加),再增三釐。(梁廷棟、畢自嚴傳)十年,楊嗣昌又請增二百八十萬,舊額之糧,毎畝加六合,計石折銀八錢。帝乃下詔:「不集兵無以平賊,不增賦無以餉兵,其累吾民一年。」當時謂之剿餉。剿餉期一年而止,十二年餉盡,而賊未平,於是又從嗣昌及督餉侍郎張伯鯨議,剿餉外又增練餉七百三十萬,先後共增千六百七十餘萬。(嗣昌傳)十五年,蔣德璟對帝曰:「既有舊餉五百餘萬,新餉九百餘萬,又增練餉七百三十萬,臣部實難辭咎,今兵馬仍未練,徒爲民累耳。」未幾,遂罷練餉。(德璟傳)蓋帝亦知民窮財盡,困於催科,益起而爲盜賊,故罷之也。   前頁...
  • 元初用兩國状元
    460.元初に金宋両国の状元が用いられた   王鴞は、もとは金の正大元年(1224)の第一甲第一名の進士で、金に仕えて尚書左右司郎中にまでいたった。金が滅びると殺されるところだったが、元の将軍の張柔がその名を聞いて、かれを救い、家に館をもうけさせた。のちに世祖(フビライ)に推薦されて、翰林学士承旨に抜擢され、制誥典章について、みな裁定するところとなった。宋の留夢炎は、もとは淳祐四年(1244)の第一甲第一名の進士で、咸淳年間に潭州の知事となり、湖南安撫使を兼ねた。徳祐元年(1275)、官は右丞相となって枢密使を兼ね、また江東西湖南北宣撫大使となった。国が滅びると逃げ去り、元に入ってまた翰林学士承旨となった。これで両国の状元がともに元の用いるところとなった。 460.元初用兩國状元   王鴞本金正大元年第一甲第一名進士,仕至尚書左右司郎中。金亡將被殺,元將張柔聞其名,救之,館...
  • 流賊僞官號
    541.流賊僞官號   明史流賊傳,李自成既據襄陽,創官爵名號,有上相、左輔、右弼、六政府、侍郎、郎中、從事等官,要地設防禦使,府曰尹,州曰牧,縣曰令,武官則有權將軍、制將軍、威武將軍、果毅將軍等名。及至陝西稱偽號,又設天佑殿大學士、六政府尚書、鴻文館、文諭院、諫議直指使、從政、統會、尚契司、驗馬寺、書寫房等官,復五等封爵。後破京師,又益改官制,六部曰六政府,司官曰從事,六科曰諫議,十三道曰直指使,翰林曰弘文館,太僕曰驗馬寺,巡撫曰節度使,兵備曰防禦使。今按路振飛傳,有闖賊節度使呂弼周、防禦使武愫,皆爲振飛所擒。又曾亨應傳,亨應先爲御史張懋爵所劾,後亨應死難,而懋爵降賊爲直指使。此偽官名號見於各列傳者也。張獻忠僭號武昌,亦設尚書、都督、巡撫等官。既得成都,又設左、右丞相及六部、五軍都督府。(亦見流賊傳)後孫可望據黔中,凡諸軍悉曰行營,設護衛曰駕前官。(可望欲設六部等官,恐人議其僭,乃以范...
  • 明從賊官六等定罪
    542.明從賊官六等定罪   解學龍傳,福王時,定從賊官罪,倣唐六等。其一等應磔者,吏部員外宋企郊、舉人牛金星、平陽知府張嶙然、太僕少卿曹欽程、御史李振聲、喩上猷、山西提學參議黎志陞、陝西左布政使陸之祺、兵科給事高翔漢、潼關道僉事楊王休、翰林院檢討劉世芳十一人也。二等應斬緩決者,刑科給事光時亨、河南提學鞏、庶吉士周鍾、兵部主事方允昌四人也。三等應絞擬贖者,翰林修撰兼給事中陳名夏、戸科給事楊枝起、廖國遴、襄陽知府王承曾、天津兵備副使原毓宗、庶吉士何孕光、少詹事項煜七人也。四等應戍擬贖者,主事王孫蕙、檢討梁兆陽、大理寺正錢位坤、總督侯恂、副使王秉鑑、御史陳羽白、裴希度、張懋爵、郎中劉大鞏、員外郭萬象、給事中申芝芳、金汝礪、舉人呉達、修撰楊廷鑑及黄繼祖十五人也。五等應徒擬贖者,通政司參議宋學顯、諭德方拱乾、主事繆沅、給事中呂兆龍、付振鐸、進士呉剛思、檢討方以智、傅鼎銓、庶吉士張家玉、沈元龍十人...
  • 建業有三城
    116.建業には三つの城があった   六朝のとき、建業の地には三つの城があった。中央のものは台城とされ、皇帝の住居とされ、宮殿や尚書省はみなここにあった。その西は石頭城とされ、当時は京師を守るために兵を宿営させていた。王敦が反乱を起こしたとき、周札が石頭城を守っていたが、開門して王敦を迎え入れた。王敦は石頭に拠って王師を破った。後に蘇峻が反乱を起こすと、成帝をさらって石頭に移した。蘇峻が敗れると、成帝はようやく出ることができた。盧循の水軍がやってくると、朝臣たちは兵を分散して諸港を守ろうとした。劉裕は「兵を分散すると軍勢は弱まります。兵を石頭に集めるのが最善で、そうすれば大軍の力を分散せずにすみます」と言って、自ら石頭に駐屯し、予期どおりに反乱軍を破った。宋の末年に袁粲が石頭城に拠って蕭道成を殺害しようとしたが、かえって蕭道成に殺されてしまった。当時の諺に「可憐なるは石頭城、むしろ袁粲を...
  • 劉千斤
    545.劉千斤   成化年間、荊州・襄陽の賊の劉千斤が反乱を起こした。千斤は名を通といい、河南省西華県の人である。県の門石の狻猊(獅子)は重さが千斤あり、劉通はこれを片手で持ち上げたので、千斤を号としたのである。ときに流民が荊州・襄陽に集まっていたので、劉通は不吉な言葉でかれらを扇動し、反乱を起こそうと謀った。石龍は号を石和尚といい、人々を集めて脅しかすめ取り、劉通とともに起兵し、漢王を偽称し、徳勝の元号を建てた。明の朝廷は尚書の白圭に軍務を提督するよう命じ、朱永・喜信・鮑政らを率いてこれを討たせた。白圭は南漳県で反乱軍を破り、勝利に乗じてその本拠に迫った。劉通は寿陽に逃れ、さらに退却して大市を保った。官軍はさらにこれを破って、その子の劉聡を斬った。反乱軍は退却して後巌に拠り、諸軍は四面からこれを攻撃した。ついに劉通とその衆三千五百人を捕らえ、子女一万千人あまりを得た。石龍は劉長子ととも...
  • 東漢功臣多近儒
    65.東漢功臣多近儒   西漢開國,功臣多出於亡命無賴,至東漢中興,則諸將帥皆有儒者氣象,亦一時風會不同也。光武少時,往長安,受尚書,通大義。及爲帝,毎朝罷,數引公卿郎將講論經理。故樊準謂帝雖東征西戰,猶投戈講藝,息馬論道。是帝本好學問,非同漢高之儒冠置溺也。而諸將之應運而興者,亦皆多近於儒。如鄧禹,年十三能誦詩,受業長安,早與光武同游學,相親附,其後佐定天下,有子十三人,使各守一藝,修整閨門,教養子孫,皆可爲後世法。(禹傳)寇恂性好學,守潁川時,修學校,教生徒,聘能爲左氏春秋者,親受學焉。(恂傳)馮異好讀書,通左氏春秋、孫子兵法。(異傳)賈復少好學,習尚書,事舞陰李生。生奇之,曰:「賈君容貌志氣如此,而勤于學,將相之器也。」後佐定天下,知帝欲偃武修文,不欲武臣典兵,乃與鄧禹去甲兵,敦儒學。帝遂罷左右將軍,使以列侯就第。復闔門養威重。(復傳)耿弇父況,以明經爲郎,學老子于安邱先生。弇亦少...
  • 元諸帝多不習漢文
    439.元諸帝多不習漢文   元起朔方,本有語無字。太祖以來,但借用畏吾字以通文檄。世祖始用西僧八思巴造蒙古字,然於漢文則未習也。元史本紀,至元二十三年,翰林承旨撒里蠻言,國史院纂修太祖、累朝實録,請先以畏吾字繙譯進讀,再付纂定。元貞二年,兀都帶等進所譯太宗、憲宗、世祖實録,是皆以國書進呈也。其散見於他傳者,世祖問徐世隆以堯、舜、禹、湯爲君之道,世隆取書傳以對,帝喜曰:「汝爲朕直解進讀。」書成,令翰林承旨安藏譯寫以進。曹元用奉旨譯唐貞觀政要爲國語。元明善奉武宗詔,節尚書經文,譯其關於政事者,乃舉文陞同譯,毎進一篇,帝必稱善。虞集在經筵,取經史中有益於治道者,用國語、漢文兩進讀,譯潤之際,務爲明白,數日乃成一篇。馬祖常亦譯皇圖大訓以進。(皆見各本傳)是凡進呈文字必皆譯以國書,可知諸帝皆不習漢文也。惟裕宗爲太子時,早從姚樞、竇默受孝經。及長,則侍經幄者,如王恂、白棟、李謙、宋道等,皆長在東宮...
  • 金史失當處
    378.金史失當處 金史體例亦有可議者: 世紀補 本紀之前先列世紀,敘世祖以下世次及締造功業。而本紀後又有世紀補,則敘熙宗父宗峻、世宗父宗輔、章宗父允恭,皆以子登極追尊為帝者也。(宗峻追諡景宣帝,廟號徽宗;宗輔追諡簡肅帝,廟號睿宗;允恭追諡光孝帝,廟號顯宗) 此等追尊之帝,本宜各為一傳,冠於列傳之首,如元史睿宗、裕宗、顯宗、順宗,明史興宗、睿宗之例,最合體裁。 金史以太祖以前十一君皆係追諡之帝,已入世紀,此三人亦係追諡之帝,不便入列傳,故又為世紀補附於本紀之後,亦創例之得者也。 然海陵篡立,亦追尊其父宗幹為睿明皇帝,廟號德宗,後因海陵廢為庶人,遂並其父追尊之帝號亦從削奪,而列於宗本等傳。此固當時國史記載如是,及異代修史時,則海陵一十三年御宇,既不能不編作本紀,其追尊之父,亦何妨附於世紀補,以從畫一。況宗幹開國元勳,其功烈迥在宗峻、宗輔上,即世宗登...
  • 召用不論資格
    76.召用不論資格   漢制,察擧孝廉、茂才等歸尚書,及光祿勳選用者,多循資格,其有德隆望重由朝廷召用者,則布衣便可踐台輔之位。如陳寔官僅太邱長,家居後,朝廷毎三公缺,議者多歸之。太尉楊賜,司徒陳耽,毎以寔未登大位而身先之,常以自愧。(寔傳)鄭康成績學著名,公車徴爲大司農,給安車一乘,所過長吏送迎。(康成傳)荀爽有盛名,董卓秉政,徴之,初拜平原相,途次又拜光祿勳,視事三日,策拜司空,自布衣至三公,凡九十五日。(張璠漢紀)   前頁 『廿二史箚記』巻五    次頁 曹娥叔先雄 76.召用不論資格 擅去官者無禁
  • 明末督撫誅戮之多
    538.明末の総督・巡撫で処刑された者の多いこと   鄭崇倹伝によると、崇禎年間に処刑された総督は合わせて七人で、鄭崇倹と袁崇煥、劉策、楊一鵬、熊文燦、范志完、趙光忭である(崇禎二年、王元雅が清兵の侵入を許したため、罪をおそれて自殺した。この年、まず万暦年間に四路で軍を失った経略の楊鎬が処刑された。五年、天啓年間に広寧で軍を失った巡撫の王化貞が処刑された。九年、総督の梁廷棟が軍事の失敗で処刑されることをおそれ、先に服毒死した。四人はやはり七人の数の内にいない)。顔継祖伝によると、崇禎年間、巡撫で殺された者は十一人で、薊鎮の王應豸、山西の耿如杞、宣府の李養沖、登莱の孫元化、大同の張翼明、順天の陳祖苞、保定の張其平、山東の顔継祖、四川の邵捷春、永平の馬成名、順天の潘永図である。河南の李仙風は逮捕されると自ら縊死したので、数に入れなかった。また崇禎の十七年間に、兵部尚書は合計十四人だが、また善...
  • 九品中正
    112.九品中正   魏文帝初定九品中正之法,郡邑設小中正,州設大中正。由小中正品第人才以上大中正,大中正核實以上司徒,司徒再核,然後付尚書選用。此陳羣所建白也。然魏武時,何夔疏言:「今草創之際,用人未詳其本,是以各引其類。宜先核之郷閭,使長幼順序,無相踰越,則賢不肖先分。」(夔傳)杜恕亦疏言:「宜使州郡考士,必由四科皆有事效,然後察舉,試辟公府。」(恕傳)此又在陳羣之前。蓋漢以來,本以察舉孝廉爲士人入仕之路。迨日久弊生,夤縁勢利,猥濫益甚。故夔等欲先清其源,專歸重於郷評,以核其素行。羣又密其法而差等之。固論定官才之法也。然行之未久,夏侯元已謂中正干銓衡之權。(元傳)而晉衛瓘亦言:「魏因喪亂之後,人士流移,考詳無地,故立此法,粗具一時選用。其始郷邑清議,不拘爵位,褒貶所加,足爲勸勵,猶有郷論餘風。其後遂計資定品,惟以居位爲重。」是可見法立弊生,而九品之升降,尤易淆亂也。今以各史參考,郷邑...
  • 五代諸帝皆無後
    305.五代の諸皇帝には皆子孫が残らなかった  後梁の太祖朱温の子の彬王の友裕は早く亡くなった。  郢王の友珪は皇帝殺害を企てて逆に処刑された。  養子である博王の友文は、朱友珪に陥れられ殺された。  均王の友貞が皇帝の位を継ぎ,これが末帝てある。後唐の兵が乱入してきた際,建國樓で自殺した。  康王の友孜は,末帝の時に先に謀反を図り処刑された。  賀王の友雍、福王の友璋、建王の友徽は,歐陽修の五代史(新五代史)ではこの三人の死の状況はわからないとしていて,薛居正の五代史(旧五代史)もまたその死の記述は無いが,王禹偁の五代史闕文のなかで,後唐の莊宗が開封に乱入した際,朱氏一族を盡く処刑したとの記載がある。つまり友璋達は皆殺されたのである。資治通鑑では後唐の軍勢がまさに到着しようとする時に,末帝が兄弟がこの混乱に乘じての謀反を企てるのを疑って,皆これを殺したとしている。これによ...
  • 四世三公
    73.四世三公   西漢(前漢)では韋・平両氏が二世代にわたって宰相を務めたが、些細なことに過ぎない。(韋賢は宣帝(劉詢)の時代に丞相となり、その子韋玄成は元帝(劉奭)の時代にまた丞相となった。鄒・魯の地方の諺では「黄金を籠に満たすとも、子に経典を教えるには如かず」と言った。また平当は丞相となり、その子平晏は大司徒となった。このとき丞相は大司徒と改称されており、大司徒とは宰相に相当するのである。『平当伝』に言う。漢が建国されて以来、父子で宰相に昇ったのは韋・平両氏だけである。)東漢(後漢)には子孫代々がみな公になった例がある。楊震は太尉に就任し、その子楊秉は劉矩の後任として太尉となり、楊秉の子楊賜は劉郃の後任として司徒、また張温の後任として司空となり、楊賜の子楊彪は董卓の後任として司空、また黄琬の後任として司徒、淳于嘉の後任として司空、朱儁の後任として太尉・録尚書事となった。楊震から楊...
  • 史漢不同處
    13.史漢不同處   一代修史,必備衆家記載,兼考互訂,而後筆之於書。觀各史藝文志,所載各朝文士著述,有關史事者,何啻數十百種。當修史時,自必盡取之。彼此校核,然後審定去取。其所不取者,必其記事本不確實,故棄之。而其書或間有流傳,好奇之士往往轉據以駁正史,此妄人之見也。即如班固作漢書,距司馬遷不過百餘年,其時著述家豈無別有記載?倘遷有錯誤,固自當據以改正。乃今以漢書比對,武帝以前,如高祖紀及諸王侯年表、諸臣列傳,多與史記同。並有全用史記文,一字不改者。然後知正史之未可輕議也。其間有不同者,張泌有漢書刊誤、朱子文有漢書辨正、劉巨容有漢書纂誤,今皆不傳。現存者惟劉攽漢書刊誤、呉仁傑兩漢刊誤補遺,皆不過就本書中穿穴訂正,非於此二書外,別有援據以資辨駁也。劉仁翁有班馬異同,蓋亦就史記、漢書岐互處分別指出,今少有其本。姑以此二書比對,摘其不同者列於後。   韓信撃魏豹。史記在漢三年,漢書在二年。...
  • 蕭子顯姚思廉皆爲父作傳入正史
    137.蕭子顯姚思廉皆爲父作傳入正史   司馬遷、班固、沈約作史,皆以其父入自序中,未嘗另立父傳,列於正史也。惟蕭子顯作齊書,爲其父豫章王嶷立傳,姚思廉修陳書,爲其父吏部尚書察立傳,凡生平行事,及朝廷之優禮,名流之褒獎,無一不纖屑敍入,故嶷傳至七千餘字,察傳亦至三千餘字,爲人子者得藉國史以表彰其父,此亦人之至幸也。或疑嶷傳祇載其子子廉、子恪、子操、子行、子光,而子顯不載,當是子顯親爲父作傳,故隱己之名。至察傳並載思廉在陳爲法曹參軍,入隋爲司法,似非思廉所自作者。然傳末云,察所撰梁、陳二史未畢功,虞世基奏思廉踵成之,自爾以來,稍有撰續云云,而不言思廉卒於何時,可見察傳實思廉自作。況察之父僧坦,以醫術著於梁代,官太醫丞,所得賞賜,皆給察遊學,事見南史。而陳書察傳但云,察父上開府僧坦,知名梁代,二宮禮遇優厚,毎得賞賜,皆給察兄弟爲游學之資,而不言以醫術得幸,並不言官太醫丞。蓋思廉恥以方伎輕其家...
  • 上尊養牛
    48.上尊養牛   漢制,大臣告老,特詔留之者,則賜養老之具以慰之。如平當乞骸骨,詔賜養牛一,上尊酒十石。匡衡乞骸骨,詔賜上尊酒養牛。張禹告病,亦賜養牛上尊酒。大官致餐是也。而其時大臣有罪當誅,亦用此法賜死。翟方進被譴,成帝賜册曰:「今賜君上尊酒十石、養牛一,君其自審處焉。」方進,即日自殺。上仍秘之,贈丞相印綬、乘輿、秘器,更親臨弔。(以上見各本傳)如淳註曰:「漢儀注,有天文大變,天下大禍,皇帝使侍中持節,乘四白馬車,賜上尊酒十斛、牛一頭,策告殃咎。使者去半道,丞相即上病。使者還,未白事,尚書以丞相不起聞。」蓋自文帝感賈生槃水加劍之言,優禮大臣,不加顯戮。後世遂制此法。雖賜死而仍若以病終者,於是遂成故事。其有不肯自殺,願就獄對簿者,轉以爲違制拒命。如王嘉爲丞相,有詔詣廷尉,掾吏泣進藥,嘉不肯服,主薄曰:「丞相不對簿,已爲故事,宜自引決。」嘉曰:「備位三公,負國者當伏刑都市,何爲咀藥死。」...
  • 漢外戚輔政
    52.漢外戚輔政   漢自呂后王諸呂,使産、禄掌兵,幾致奪國,故諸大臣以薄太后家仁善,遂立文帝,固有鑒於外戚之禍矣。乃武帝又以祖母竇太后弟子竇嬰爲丞相,母王太后之同母弟田蚡亦爲丞相。已而衛后弟青爲大司馬大將軍。后姊子霍去病爲大司馬驃騎將軍,於是外戚又日以寵貴。其後去病之弟光,遂以大司馬大將軍受遺詔輔政,自此大司馬兼將軍一官遂永爲外戚輔政之職。宣帝祖母史良娣死巫蠱之禍,帝乃以良娣弟高爲大司馬車騎將軍領尚書事。又許后爲霍氏毒死,乃以后叔父延壽爲大司馬車騎將軍輔政。然武、宣二帝皆英斷,不假以權,故劉向謂正所以安全之也。元帝又以延壽子嘉爲大司馬車騎將軍輔政。嘉女爲成帝后,成帝又以嘉輔政。後又以母王太后弟鳳爲大司馬大將軍輔政。鳳卒,從弟音爲大司馬車騎將軍輔政。音卒,又以其弟根爲大司馬驃騎將軍輔政。根薦兄子莽自代,會成帝崩,哀帝即位,莽避帝外家,退就國。哀帝以祖母傅太后從弟喜爲大司馬輔政,尋罷。又以...
  • 長官喪服
    55.長官喪服   兩漢父母之喪無定制,而魏、晉以後,長官之喪轉有定制。蓋自漢制,三公得自置吏,刺史得置從事,二千石得辟功曹,掾吏不由尚書選授,爲所辟置者,即同家臣,故有君臣之誼。其後相沿,凡屬吏之於長官皆如之。晉書向雄傳,雄爲主簿時,爲太守劉毅所笞,又呉奮爲太守,亦繋雄於獄。後雄爲黄門侍郎,而奮、毅倶爲侍中,同在門下,不交一言。武帝聞之,特詔雄復修君臣之好。可見是時長官屬吏有君臣分誼,雖帝王不禁也。既有君臣之禮,遂有持服之制。晉書,丁潭爲琅邪王裒郎中令,裒薨,潭上書求終喪禮,曰:「今制,王侯之喪,官僚服斬,既葬而除。今國無嗣子,喪廷乏主,臣宜終喪。」詔下博議,令既葬除服,心喪三年。(潭傳)桓温卒,服終,府州文武咸辭去。(桓玄傳)齊書,皇太子妃薨,宮臣未知應服與否,王儉議,宮僚本屬臣隸,存既盡敬,亡自應服。褚淵由司徒改司空,未拜而卒,司空掾屬疑應服與否,王儉議,依婦在途,聞夫家喪,改服而...
  • 明末巡撫多由邊道擢用
    536.明末巡撫多由邊道擢用   宣德中,于謙由御史超拜兵部右侍郎,巡撫河南、山西,此尚沿國初用人不拘資格之例。迨資格既定,則巡撫或用僉都御史,或由布政使陞用。至末季兵事急,凡邊道以才見者,輒擢用爲巡撫。熊汝霖疏云,有司察處者,不得濫舉邊才,監司察處者,不得遽躐巡撫。曹于汴疏亦云,邊道超擢,當於秩滿時,閲實其績,毋濫取建牙開府。熊開元疏亦云,四方督撫率自監司,明日廷推,今日傳單,吏部出諸袖中,諸臣唯唯而已。此二疏各見本傳内。可見是時巡撫多由監司擢用也。今按洪承疇由督糧參政擢延綏巡撫,范志完由關内僉事擢山西巡撫,楊嗣昌由山海兵備擢永平巡撫,梁廷棟由口北道擢遼東巡撫,薛國用由遼海道擢遼東巡撫,邱民仰由寧前兵備擢遼東巡撫,宋一鶴由副使擢湖廣巡撫,馮師孔由副使擢陝西巡撫,朱之馮由副使擢宣府巡撫,龍文光由參政擢四川巡撫,李化熙由兵備擢四川巡撫,邱祖德由副使擢保定巡撫,史可法由副使擢安慶巡撫,甚至余...
  • 各史例目異同
    3.各史例目異同   古者,左史記言,右史記事。言爲尚書,事爲春秋。其後沿爲編年、記事二種。記事者,以一篇記一事,而不能統貫一代之全;編年者,又不能即一人而各見其本末。司馬遷參酌古今,發凡起例,創爲全史。本紀以序帝王,世家以記侯國,十表以繋時事,八書以詳制度,列傳以誌人物。然後一代君臣政事,賢否得失,總彙於一編之中。自此例一定,歴代作史者遂不能出其範圍,信史家之極則也。魏禧序十國春秋,謂「遷僅工於文,班固則密於體。」以是爲史漢優劣。不知無所因而特創者難爲功,有所本而求精者易爲力。此固未可同日語耳。至於篇目之類,固不必泥於一定。或前代所有而後代所無;或前代所無而後代所有,自不妨隨時增損改換。今列二十二史篇目異同於左:   本紀。古有禹本紀、尚書世紀等書。遷用其體,以敘述帝王。惟項羽作紀頗失當。故漢書改爲列傳。後漢書又立皇后紀。蓋仿史漢呂后紀之例。不知史遷以政由后出,故高紀後,即立后紀。至...
  • 長安地氣
    地氣之盛衰,久則必變。唐開元、天寶間地氣,自西北轉東北之大變局也。 秦中自古為帝王州,周、秦、西漢遞都之。苻秦、姚秦、西魏、後周相間割據,隋文帝遷都於龍首山下,距故城僅二十餘里,仍秦地也,自是混一天下,成大一統。唐因之,至開元、天寶而長安之盛極矣!盛極必衰,理固然也。 是時地氣將自西趨東北,故突生安史以兆其瑞。自後河朔三鎮,名雖屬唐,僅同化外羈縻,不復能臂指相使。蓋東北之氣將興,西方之氣已不能包舉而收攝之也。東北之氣始興而未盛,故雖不為西所制,尚不能制西;西之氣漸衰而未竭,故雖不能制東北,尚不為東北所制,而無如氣已日薄一日,帝居遂不能安。於是玄宗避祿山,有成都之行;代宗避吐蕃,有陜州之行;德宗避涇師,有奉天、梁洋之行。地之卼臲不安,和氣之消耗漸散。迨僖宗走成都、走興元、走鳳翔,昭宗走莎城、走華州,又被劫於鳳翔,被遷於洛,而長安自此夷為郡縣矣。 當長安夷為郡縣之時,契丹安巴堅已起于遼,...
  • 四正六隅
    539.四正六隅   韓雍征兩廣叛猺,或請以番騎趨廣東,而大軍趨廣西,分路撲滅,雍曰:「賊已蔓延數千里,而所至與戰,是自敝也。不如直搗大籐峽,傾其巣穴,餘自迎刃而解。」後果以此成功。及崇禎中,流賊充斥,楊嗣昌則建四正六隅之説,以陝西、河南、湖廣、江北爲四正,四巡撫分剿,而專防;延綏、山西、山東、江南、江西、四川,爲六隅,六巡撫分防而協剿,是謂十面之網。而總督、總理二臣隨賊所向,專征討,其後竟不能滅賊。或咎其備多力分,不如雍之扼要。不知猺獞雖四出流劫,而終戀巣穴,故雍專攻其腹心,即可制之。流賊則朝秦暮楚,本無定居,若不四圍堵截而聽其東西奔突,官軍從後追之,此適以自耗其力,而賊終不得滅。嗣昌之策,固未失也。其先崇禎七年,陳奇瑜以賊在蜀中,亦先檄四巡撫會剿,陝西練國事駐商南,遏其西北,鄖陽盧象昇駐房竹,遏其西,河南元默駐盧氏,遏其東北,湖廣唐暉駐南漳,遏其東南,而己與象昇入山剿之。崇禎九年,賊...
  • 僭僞諸君有文學
    111.僭僞諸君有文學   晉載記,諸僭僞之君,雖非中國人,亦多有文學。劉淵少好學,習毛詩、京氏易、馬氏尚書,尤好左氏春秋、孫呉兵法,史漢諸子無不綜覽。嘗鄙隋、陸無武,絳、灌無文,一物不知,以爲君子所恥。其子劉和亦好學,習毛詩、左氏春秋、鄭氏易。和弟宣師事孫炎,沈精積思,不舍晝夜。嘗讀漢書至蕭何、鄧禹傳,未嘗不反覆詠之。劉聰幼而聰悟,博士朱紀大奇之。年十四,究通經史,兼綜百家之言,工草、隸,善屬文。著述懷詩百餘篇,賦、頌五十餘篇。劉曜讀書,志於廣覽,不精思章句,亦善屬文,工草、隸。小時避難,從崔岳質通疑滯。既即位,立太學於長樂宮,立小學於未央宮,簡民閒俊秀千五百人,選朝廷宿儒教之。慕容皝尚經學,善天文。即位後立東庠於舊宮,賜大臣子弟爲官學生,親自臨考。自造太上章,以代急就。又著典誡十五篇,以教冑子。慕容雋亦博觀圖書。後慕容寶亦善屬文,崇儒學。苻堅八歳,向其祖洪請師就學,洪曰「汝氐人,乃求...
  • 三國志書法
    86.三國志書法   自左氏、司馬遷以來,作史者皆自成一家言,非如後世官修之書也。陳壽三國志亦係私史。據晉書本傳,壽歿後,尚書郎范頵等表言壽作三國志,辭多勸戒,雖文艷不若相如,而質直過之。於是詔洛陽令,就其家寫書。可見壽修成後,始入於官也。然其體例,則已開後世國史記載之法。蓋壽修書在晉時,故於魏晉革易之處,不得不多所迴護,而魏之承漢與晉之承魏一也,既欲爲晉迴護,不得不先爲魏迴護。如魏紀書天子以公領冀州牧、爲丞相、爲魏公、爲魏王之類,一似皆出于漢帝之酬庸讓德,而非曹氏之攘之者。此例一定,則齊王芳之進司馬懿爲丞相,高貴郷公之加司馬師黄鉞,加司馬昭袞冕、赤舄、八命、九錫、封晉公、位相國,陳留王之封昭爲晉王、冕十二旒、建天子旌旗,以及禪位於司馬炎等事,自可一例敘述,不煩另改書法。此陳壽創例之本意也。其他體例亦有顯爲分別者。曹魏則立本紀,蜀、呉二主則但立傳,以魏爲正統,二國皆僭竊也。魏志稱操曰太祖...
  • 南朝多以寒人掌機要
    117.南朝多以寒人掌機要   魏正始、晉永熙以來,皆大臣當國。晉元帝忌王氏之盛,欲政自己出,用刁協、劉隗等爲私人,即召王敦之禍。自後非幼君即孱主,悉聽命於柄臣,八九十年,已成故事。(晉韋華謂姚興曰,晉主雖有南面之尊,無統馭之實,宰輔執政,權在臣下,遂成習俗。)至宋、齊、梁、陳諸君,則無論賢否,皆威福自己,不肯假權於大臣。而其時高門大族,門戸已成,令僕三司,可安流平進,不屑竭智盡心,以邀恩寵,且風流相尚,罕以物務關懷,人主遂不能藉以集事,於是不得不用寒人。人寒則希榮切而宣力勤,便於驅策,不覺倚之爲心膂。南史謂宋孝武不任大臣,而腹心耳目不能無所寄,於是戴法興、巣尚之等皆委任隆密。齊武帝亦曰:「學士輩但讀書耳,不堪經國,經國一劉係宗足矣!」此當時朝局相沿,位尊望重者,其任轉輕,而機要多任用此輩也。然地當清切,手持天憲,口銜詔命,則人雖寒而權自重,權重則勢利盡歸之。如法興威行内外,江夏王義恭雖...
  • 晉書
    103.晉書   唐初修晉書,以臧榮緒本爲主,而兼考諸家成之。今據晉、宋等書列傳所載諸家之爲晉書者,無慮數十種。其作於晉時者,武帝時,議立晉書限斷。荀勖謂宜以魏正始起年。王瓚欲引嘉平以下朝臣盡入於晉。賈謐請以泰始爲斷。事下尚書議,張華等謂宜用正始,從之。(賈謐傳)武帝詔,自泰始以來,大事皆撰録,秘書寫副。後有事,即依類綴緝。(武帝紀)此晉書之權輿也。自後,華嶠草魏、晉紀、傳,與張載同在史官。永嘉之亂,晉書存者五十餘卷。(嶠傳)干寶著晉紀,自宣帝迄愍帝,凡二十卷,稱良史。(寶傳)謝沈著晉書三十餘卷。(沈傳)傅暢作晉諸公敘讚二十二卷,又爲公卿故事九卷。(暢傳)荀綽作晉後書十五篇。(綽傳)束皙作晉書帝紀十志。孫盛作晉陽秋,詞直理正。桓温見之,謂其子曰:「枋頭誠爲失利,何至如尊公所説?若此史遂行,自是關君門戸事。」其子懼禍,乃私改之。而盛所著已有二本,以其一寄慕容雋。後孝武博求異聞,又得之,與中...
  • 曹吉祥江彬
    572.曹吉祥江彬   太監曹吉祥從征雲南、福建,朝命以諸降夷之安插畿甸者隨行,既還京,吉祥皆結以恩,爲爪牙,其姪欽官錦衣衛指揮使封昭武伯,欽弟鉉、[金睿]、鐸皆至大官。英宗復辟時,欽曾以此輩奪門冒功,得官至數千人。石亨敗,冒功者皆革,此輩又爲吉祥所庇得免。吉祥招權納賄,肆無忌,上寖疏之,欽亦以恣橫失上意,別以衛事委任逯杲,於是吉祥、欽謀爲亂。天順五年七月初二夜,將以明日五鼓禁門開,率諸番將一擁而入,吉祥於内應之,可以得志。會有馬亮者,告變於恭順侯呉瑾,瑾與懷寧伯孫鏜二鼓從門隙中密本奏入,遂執吉祥於内廷,欽等不知也。及期,百官方至待漏院入朝,而門不啓,欽知事洩,乃與諸弟率番將伯顏、普華等先至杲家殺杲,並殺瑾及都御史寇深於朝房,又刃傷大學士李賢。鏜等聞變,率兵來大戰於長安街,吉祥、欽、鉉、[金睿]、鐸、伯顏等皆伏誅。使非鏜、瑾等刺閨告變,禍幾不測矣!然有不可解者,吉祥方密應於内,鏜、瑾等雖...
  • 騶虞幡
    115.騶虞幡   晋制では最も騶虞幡が重んじられた。危険がやってきたときに、命令を伝えるため、あるいは軍事行動を止めさせるために用いられた。これを見た者はひれ伏して動かないというのが、晋朝の法令であった。『晋書』によると、楚王司馬瑋は兵を率いて汝南王司馬亮および宰相楊駿を殺害しようと、夜を徹して騒ぎ闘った。明け方になって張華が恵帝に奏上し、殿中将軍に騶虞幡を持たせて「楚王瑋は詔を偽った」と人々に言わせると、司馬瑋に従う人々はみな武器を捨てて逃走し、司馬瑋はついに捕らえられた(楚王瑋伝)。淮南王司馬允が趙王司馬倫を殺害するべく挙兵すると、辰の刻から申の刻にいたっても、戦闘が終わらなかった。陳淮が戦闘を終わらせるべく人に騶虞幡を持たせて派遣すると、司馬允の兵は解散して、司馬允は殺された(淮南忠壮王允伝)。司馬倫が簒奪して帝を称すると、王輿が兵を率いて司馬倫の仲間の孫秀を殺害し、司馬倫に退位...
  • 黨禁之起
    80.黨禁之起   漢末黨禁雖起於甘陵南北部及牢脩、朱並之告訐,(桓帝初受學於甘陵周福,及即位,擢福爲尚書,時同郡房植有盛名,郷人爲之謠曰:「天下規矩房伯武,因師獲印周仲進。」二家賓客,互相譏議,遂各樹門徒。由是有甘陵南北部黨,黨論自此起。脩、並事見後。)然其所由來已久,非一朝一夕之故也。范書謂桓靈之間,主荒政繆,國命委於奄寺,士子羞與爲伍。故匹夫抗憤,處士橫議,激揚聲名,互相題拂,品覈公卿,裁量國政。(黨錮傳序)自公卿以下,皆折節下之。(申屠蟠傳)蓋東漢風氣,本以名行相尚,迨朝政日非,則清議益峻。號爲正人者,指斥權奸,力持正論。由是其名益高,海内希風附響,惟恐不及。而爲所貶訾者,怨恨刺骨,日思所以傾之。此黨禍之所以愈烈也。今案漢末黨禁凡兩次。桓帝延熹九年,有善風角者張成推占當有赦令,教其子殺人。河南尹李膺捕之,果遇赦免。膺怒,竟考殺之。成弟子牢修遂誣告膺善太學游士,交結生徒,誹訕朝廷,...
  • 六朝清談之習
    113.六朝清談之習   清談起於魏正始中(齊王芳)。何晏、王弼祖述老莊,謂天地萬物,皆以無爲本,無者也,開物成務,無往而不存者也。(王衍傳)是時阮籍亦素有高名,口談浮虚,不遵禮法。(裴頠傳)籍嘗作大人先生傳,謂世之禮法君子,如蝨之處褌。(阮籍傳)其後王衍、樂廣慕之,倶宅心事外,名重於時。天下言風流者,以王、樂爲稱首。(樂廣傳)後進莫不競爲浮誕,遂成風俗。(王衍傳)學者以老莊爲宗而黜六經;談者以虚蕩爲辨而賤名檢;行身者以放濁爲通而狹節信,仕進者以苟得爲貴而鄙居正,當官者以望空爲高而笑勤恪。(愍帝紀論)其時未嘗無斥其非者。如劉頌屢言治道。傅咸毎糾邪正,世反謂之俗吏。裴頠又著崇有論以正之。(頠傳)江惇亦著通道崇檢論以矯之。(惇傳)卞壼斥王澄、謝鯤,謂悖禮傷教,中朝傾覆,實由於此。(壼傳)范寧亦謂王弼、何晏二人之罪,深於桀紂。(寧傳)應詹謂元康以來,賤經尚道,永嘉之弊由此。(詹傳)熊遠、陳頵各...
  • 後漢書編次訂正
    60.後漢書の編成と訂正  光武帝が最初に光武と書かれ、即位した後は帝と書かれている。これは漢書の高祖本紀で、最初に高祖と書かれ、沛公と書かれ、漢王と書かれ、即位した後は帝と書かれている、という前例を踏襲したものである。ただ光武帝が蕭王に封ぜられたことがあるのに、後漢書の光武帝紀では蕭王と書く一節を省略しているのが、やや異なるだけである。列伝ではいずれも名前を書くが、光武帝の兄の劉縯だけは、その字の伯升で書いてある。これもまた元々漢書の王莽伝の中で伯升と書かれているからである。これらは編成に深い心遣いがある証拠である。  その編成の巻帙について考えると、循吏、酷吏、宦者、儒林、文苑、独行、方術、逸民、外戚などの列伝は、類似性によって配列し、その他の列伝は年代の前後に応じて配列して編成されている。しかし後漢書でもまた一部は年代順に従っていないものがある。それらは各自その人の普段のあり方に...
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