『廿二史箚記』wiki内検索 / 「宋金齊交割地界守土官隨地爲屬」で検索した結果

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  • 巻二十八 金史
    ...人之名☆ 400.宋金齊交割地界守土官隨地爲屬? 401.衍慶宮圖畫功臣 402.金用兵先後強弱不同 403.金初漢人宰相 404.金俗重馬? 405.金以壞和議而亡? 406.九公十郡王? 407.金末賜姓之例 408.通惠河不始於郭守敬 409.海陵荒淫? 410.海陵兼齊文宣隋煬帝之惡 411.金中葉以後宰相不與兵事☆ 412.憫忠寺故事 413.日行千里☆ 414.避孔聖諱☆ 415.金末種人被害之慘簽軍之弊?    前頁 『廿二史箚記』    次頁 巻二十七 遼史金史 廿二史箚記巻二十八 巻二十九 元史
  • 宗弼渡江宋金二史互異
    386.宗弼渡江宋金二史互異 宗弼(兀朮)渡江追宋高宗, 據本傳:宗弼自和州渡江,既降江寧,即由江寧取廣德,路至杭州。初未嘗由鎮江過兵也。 而宋史韓世忠傳:是時世忠由鎮江退保江陰。不知何故?及閱赤盞暉(今作持嘉暉)傳:暉從渡淮為先鋒,遇重敵於蘇州、秀州,皆敗之,遂至杭州。則知是時金兵下江南,本非一路。(蓋宗弼自和州渡,暉等自瓜州渡) 世宗傳亦謂:兀朮分道渡江,諸屯皆散。故世忠退保江陰也。 至黃天蕩之戰,宋、金二史亦頗互異。 宋史世忠傳謂:兀朮自杭北歸,至鎮江,世忠已屯焦山,兀朮不得渡。撻辣在濰州,遣孛堇太一來援,孛堇軍江北,兀朮軍江南,世忠與二酋相持於黃天蕩四十八日。有獻謀於兀朮者曰「鑿土渠接江口,則在世忠上流。」乃一夕鑿渠三十里。次日無風,我軍帆弱不得動,金人以小舟縱火,得絕江而去。是金軍鑿渠出江,即在黃天蕩渡江北去也。 金史宗弼傳則謂...
  • 巻二十七 遼史金史
    廿二史箚記巻二十七 364.遼史? 365.遼史二? 366.遼史立表最善 367.遼史疏漏處? 368.遼帝皆有簡便徽號 369.遼后族皆姓蕭氏 370.遼正后所生太子多不吉 371.遼官世選之例? 372.遼族多好文學? 373.遼燕京? 374.金廣燕京 375.元築燕京 376.明南北京營建? 377.金史? 378.金史失當處 379.遼金二史各有疏漏處? 380.金史避諱處? 381.金史誤處☆ 382.金史紀傳不相符處? 383.金史氏名不畫一☆ 384.宋史金人名多與金史不符? 385.宋金二史不符處? 386.宗弼渡江宋金二史互異 387.宋金二史傳聞之誤? 388.宋金用兵須參觀二史?    前頁 『廿二史箚記』    次頁 巻二十六 宋史 廿二史箚記巻二十七 巻二十八 金史
  • 元魏時人多以神將爲名
    201.元魏のときの人は神将の名を名乗る者が多い   北朝のときの人は、神将の名を名乗る者が多い。北魏の北地王の世子の名は鍾葵といった。元叉の本名は夜叉といった。その弟の元羅の本名は羅刹といった。孝文帝のときの宦官に高菩薩という人がいた。爾朱栄の子にひとり叉羅というのがおり、ひとり文殊というのがいた。梁の蕭淵藻は幼名を迦葉といった。隋のとき、漢王楊諒がそむいたとき、その将に喬鍾葵というのがいた。隋末の群雄に宋金剛というのがいた。唐の武后のとき、嶺南討撃使がふたりの去勢した子どもを献上した。ひとりは金剛で、ひとりは力士、つまりは高力士である。 201.元魏時人多以神將爲名   北朝時人多有以神將爲名者。魏北地王世子名鍾葵。元叉本名夜叉,其弟羅本名羅剎。孝文時又有奄人高菩薩。爾朱榮子一名叉羅,一名文殊。梁蕭淵藻小名迦葉。隋時漢王諒反,其將有喬鍾葵。隋末有賊帥宋金剛。唐武后時嶺南討擊...
  • 明翰林中書舍人不由吏部
    501.明翰林中書舍人不由吏部   明大學士本無屬員,楊士奇等加官既尊,始設中書舍人,取能書者爲之,不由吏部銓選。霍韜疏謂,自三楊等植黨專權,籠翰林爲屬官,中書爲門吏。故翰林遷擢不由吏部,而中書内直既久,有進秩至尚書者。(潘辰等或加太常卿,或加至翰林學士、禮部尚書。)按明史選舉志,中書舍人原有兩途,由進士選者,得遷科道、部曹,其兩殿兩房舍人,則不必由部選,自甲科監生及儒士布衣能書者,皆得爲之。如呂原子[常心]以蔭補國子生,選爲中書舍人。趙榮亦以能書,由布衣授中書舍人,後遷太常卿,仍供事内閣。葉向高爲首輔,用已革監生汪文言爲中書舍人,此則大學士自行選用之成例也。又我朝順治十一年,大學士范文程請以詹事翰林等官陞補倶歸吏部,又可見明制翰詹等官陞降亦由内閣。
  • 江西盜
    552.江西盜   正德中,流賊不獨劉六、七等也,江西亦有劇盜。撫州則王鈺五、徐仰三、傅傑一、掲端三等,南昌則姚源賊汪澄二、王浩八、殷勇十、洪瑞七等,瑞州則華林賊羅光權、陳福一等,贛州則大帽山賊何積欽等。朝命陳金總制軍務討之,金調廣西土官岑鎏、岑猛,土兵與官兵合撃賊於熟塘,於東岸擒仰三,馘鈺五等。移師姚源,分命參政董朴等扼餘干等縣,防其逸出,親統大軍搗巣,勇十、瑞七等皆就誅,乘勝斬光權,華林賊盡平。又撃大帽山賊,擒積欽。半年間剿賊略盡,金置酒高會,餘賊覘諸隘無守兵,乃賂土目,乘間逸出,時賊已絶爨三日,自分必死,至貴溪,始得一飽,遂掠徽、衢間。金招降,王浩八偽降以緩師,而攻剽如故。(陳金傳)東郷賊亦乞降於副使胡世寧,號新兵,亦剽掠,懼罪又叛。朝命以兪諫來代,金、浩八據貴溪之裴源山,衆又集,連營十餘里,諫令世寧等分兵斷其去路,賊憑山發矢石,官兵幾不支,諫與副總兵李鋐殊死戰,賊乃走,追數十里,...
  • 歳幣
    343.歳幣   宋真宗與遼聖宗澶淵之盟,定歳幣之數,銀十萬兩,絹二十萬匹。仁宗時,遼興宗以求地爲兵端,再與定盟,加歳幣銀絹各十萬兩、匹。夏主元昊既納款,賜歳幣銀絹茶綵共二十五萬五千。南渡後,高宗與金熙宗和議成,歳幣銀絹二十五萬兩、匹。孝宗再與金世宗議和,改爲銀絹二十萬兩、匹。開禧用兵既敗,寧宗再與金章宗議和,增爲銀絹三十萬兩、匹。至金哀宗時,宋停其歳幣。後數年金亡,元太宗曾遣王來徴歳幣銀絹二十萬兩、匹,宋不與。   按宋之於金,歳幣外,毎金使至又有餽贈,大使金二百兩,銀二千兩,副使半之,幣帛稱是。此例廟堂之上亦知之。故路伯達使宋回,上所得金銀以助邊費。(見金史路伯達傳)梁肅使宋回,以所得禮物多,至推排物力時,自增六十貫。(金史梁肅傳)金使至夏國者,夏國餽贈,視詔書幾道爲多寡。完顏綱爲賜夏主生辰使,章宗特命齎三詔以厚之。(金史完顏綱傳)金史路伯達傳贊曰,受歳幣,禮也。使者至燕享,亦禮也...
  • 金記注官最得職
    394.金記注官最得職 金本紀所載世宗嘉謨懿訓最詳,較貞觀政要更多數倍,推其故,蓋當時記注官之得其職也。 大定中,伊剌傑(移剌傑,時修起居注)言「每屏人奏事,雖史官亦不得與聞,無由紀錄。」世宗以問石琚,琚曰「古者天子置史官於左右,言動必書,所以儆人君有所畏也。」上曰「朕觀貞觀政要,太宗與臣下議論,始議如何,後竟如何,此正史臣在側,記而書之耳。」於是朝奏屏人議事者,記注官獨不避,自此始。(本紀) 黃久約為諫官侍朝,故事:宰相奏事,則近臣退避。久約將趨出,世宗止之。自是諫臣不避以為常。(久約傳)則不惟記注官不避,即諫臣亦不避矣。 載筆者在旁,則天子惟恐失言,而所言皆出於正,記注官聽諸切近,據實書之,宜其所記之詳且密也。 章宗時, 完顏守貞修起居注,與同官張暐奏言「唐中書門下入閣,諫官隨之,欲其與聞政事,有所開說。又起居郎、起居舍人每帝視朝,則左右對立...
  • 金元倶有漢人南人之名
    399.金や元には共に漢人、南人の名称がある  金、元が中原を奪取した後には,共に漢人、南人の区別があった。金は先に奪取した遼の地の人を漢人とし,ついで奪取した宋の河南、山東の人を南人とした。  元は先に奪取した金の地の人を漢人とし,ついで奪取した南宋の人を南人とした。  金史の完顏勖傳で,女真族には文字が無く,遼を破って契丹の漢人を得るに及び,始めて契丹の漢字が通用するようになった。これによって遼の地の人を漢人としたことがわかるのである。  賀揚庭傳では,世宗が楊庭に言っている:「南人は危険を冒してでも強く諫言するが,漢人はもとよりずる賢く、諫言が必要な事態に直面しても多くのものがそれを避けようとする。非常事態で南人が詩賦を習わなかったため,科挙に及第する者が少なかったが,近年は河南、山東の人で科挙に及第する者が多くなり,もう少しで漢人よりも多くなりそうである。」  このよう...
  • 光武信讖書
    63.光武信讖書   讖緯起於西漢之末。張衡著論曰:「漢以來,並無讖書。劉向父子領校秘書,尚無讖録,則知起於哀、平之際也。」(漢書路温舒傳「温舒從祖父受暦數天文,以爲漢厄三七之期。乃上封事以預戒。」温舒係昭帝時人,則又在哀、平之前。)案樊英傳,有「河洛七緯。」章懷註曰「易緯稽覽圖、乾鑿度、坤靈圖、通卦驗、是類謀,辨終篇也;書緯琁機鈐、考靈耀、刑德放、帝命驗,運期授也;詩緯推度災、氾歴樞,含神霧也;禮緯含文嘉、稽命徴、斗威儀也;樂緯動聲儀、稽耀嘉,斗圖徴也;孝經緯援神契,鉤命決也;春秋緯演孔圖、元命包、文耀鉤、運斗樞、感精符、合誠圖、考異郵、保乾圖、漢含孳、佑助期、握誠圖、潛潭包,説題辭也。」此等本屬不經,然是時實有徴驗不爽者。楊春卿善圖讖,臨死,戒其子統曰:「吾綈囊中有祖傳秘記,爲漢家用。」(楊厚傳)哀帝建平中,有方士夏賀良上言赤精子之讖:漢家暦運中衰,當再授命,故改號曰「太初元將元年」...
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