『廿二史箚記』wiki内検索 / 「宋書書晉宋革易之際」で検索した結果

検索 :
  • 巻九 宋齊梁陳書
    廿二史箚記巻九 120.宋書多徐爰舊本 121.宋書書晉宋革易之際? 122.宋書書宋齊革易之際? 123.宋書本紀書法? 124.宋齊書帶敍法? 125.宋書紀魏事多誤? 126.宋書南史倶無沈田子沈林子傳? 127.齊書舊本? 128.齊書缺一卷☆ 129.齊書書法用意處? 130.齊書類敘法最善? 131.梁書悉據國史立傳? 132.梁書編傳失檢處? 133.梁書多載飾終之詔 134.梁書有知足傳無方伎傳? 135.古文自姚察始 136.陳書多避諱 137.蕭子顯姚思廉皆爲父作傳入正史 138.八朝史至宋始行    前頁 『廿二史箚記』    次頁 巻八 晉書 廿二史箚記巻九 巻十 宋齊梁陳書并南史
  • 宋書多徐爰舊本
    120.宋書多徐爰舊本   沈約於齊永明五年奉敕撰宋書,次年二月即告成,共紀、志、列傳一百卷,古來修史之速未有若此者。今案其自序而細推之,知約書多取徐爰舊本而增刪之者也。宋著作郎何承天己撰宋書,紀、傳止於武帝功臣,其諸志惟天文、律暦,此外悉委山謙之。謙之亡,詔蘇寶生續撰,遂及元嘉諸臣。寶生被誅,又以命徐爰。爰因蘇、何二本,勒爲一史,起自義熙之初,迄於大明之末,其臧質、魯爽、王僧達三傳,皆孝武所造,惟永光以後至亡國十餘年,記載並缺。今宋書内永光以後紀傳,蓋約等所補也。(按王智深傳,約多載未明帝鄙瀆事,武帝謂曰:「我昔經事明帝,卿可思諱惡之義。」於是多所刪除。可見宋明帝以後紀傳皆約所撰。)其於爰書稍有去取者,爰本有晉末諸臣,及桓玄等諸叛賊,並劉毅等與宋武同起義者,皆列於宋書。約以爲桓玄、譙縱、盧循,身爲晉賊,無關後代;呉隱、郗僧施、謝混,義止前朝,不宜入宋;劉毅、何無忌、諸葛長民、魏詠之、檀...
  • 三國志多迴護
    87.三國志多迴護   春秋書天王狩於河陽,不言晉侯所召,而以爲天子巡狩,既以開掩護之法,然此特爲尊者諱也。至於弑君、弑父之事,則大書以正之。如許止、趙盾之類,皆一字不肯假借,所以垂誡,義至嚴也。自陳壽作魏本紀,多所迴護,凡兩朝革易之際,進爵、封國、賜劍履、加九錫以及禪位,有詔、有策,竟成一定書法。以後宋、齊、梁、陳諸書,悉奉爲成式。直以爲作史之法,固應如是。然壽迴護過甚之處,究有未安者。漢獻帝遜位,魏封爲山陽公,及薨,追謚爲漢孝獻皇帝。魏紀即稱之爲獻帝,不曰山陽公也。魏常道郷公遜位,晉封爲陳留王,及薨,亦追謚爲元皇帝,則魏紀亦應稱爲元帝,乃僅以陳留王紀事,而絶無元帝之稱。則已異於山陽書法矣。司馬師之廢齊王芳也,據魏略云師遣郭芝入宮,太后方與帝對奕。芝奏曰:「大將軍欲廢陛下。」帝乃起去,太后不悅,芝曰:「大將軍意已定,太后但當順旨。」太后曰:「我欲見大將軍。」芝曰:「大將軍何可見耶。」太...
  • 三國志書法
    86.三國志書法   自左氏、司馬遷以來,作史者皆自成一家言,非如後世官修之書也。陳壽三國志亦係私史。據晉書本傳,壽歿後,尚書郎范頵等表言壽作三國志,辭多勸戒,雖文艷不若相如,而質直過之。於是詔洛陽令,就其家寫書。可見壽修成後,始入於官也。然其體例,則已開後世國史記載之法。蓋壽修書在晉時,故於魏晉革易之處,不得不多所迴護,而魏之承漢與晉之承魏一也,既欲爲晉迴護,不得不先爲魏迴護。如魏紀書天子以公領冀州牧、爲丞相、爲魏公、爲魏王之類,一似皆出于漢帝之酬庸讓德,而非曹氏之攘之者。此例一定,則齊王芳之進司馬懿爲丞相,高貴郷公之加司馬師黄鉞,加司馬昭袞冕、赤舄、八命、九錫、封晉公、位相國,陳留王之封昭爲晉王、冕十二旒、建天子旌旗,以及禪位於司馬炎等事,自可一例敘述,不煩另改書法。此陳壽創例之本意也。其他體例亦有顯爲分別者。曹魏則立本紀,蜀、呉二主則但立傳,以魏爲正統,二國皆僭竊也。魏志稱操曰太祖...
  • 漢書書恆山王
    19.漢書書恆山王   漢書呂后紀,孝惠帝張后無子,取後宮美人子,殺其母,名之,立爲太子。惠帝崩,太子立,太后稱制。立孝惠後宮子強爲淮陽王,不疑爲恆山王,弘爲襄城侯,朝爲軹侯,武爲壺關侯。四年,帝自知非皇后子,而所生母被殺,出怨言,太后乃廢之,以幽死,更立恆山王弘爲帝。太后崩,大臣以弘及三弟皆非孝惠子,共誅之。(恩澤表、五行志並云,皆呂氏子。周勃傳亦云,呂后以計詐名他人子,殺其母,令孝惠子之。)由前所書,則弘等孝惠後宮子也;由後所書,則皆非孝惠子也,此已屬岐互。且先所書恆山王,則不疑也,弘則襄城侯也,後忽云立恆山王弘爲帝,更不明晰。據史記則襄城侯本名山,因常山王(即恆山王)不疑薨,以山改封常山王,更名義,後立爲帝,又名弘,始覺了了。此雖小節,亦見史記之密。
  • 南史仿陳壽三國志體例
    139.南史仿陳壽三國志體例   宋書武帝本紀所載晉帝進爵、禪位詔策,無慮十餘篇,南史只存九錫一策、登極告天策,其餘皆刪,此蓋仿陳壽魏志舊式也。漢獻帝建安十八年,賜曹操魏公爵,封十郡、加九錫,既有策文,二十年進操爵爲王,裴注中有獻帝詔二道,及禪位曹丕時,袁宏漢紀有詔一道,裴注中又有手詔三道,而壽志一概不載,僅存九錫策一道、禪位策一道。南史刪節宋書,亦只存九錫、禪位二策,固知仿壽志例也。
  • 一人二史各傳
    102.一人二史各傳   一人而傳於兩史,如後漢之董卓、公孫瓚、陶謙、袁紹、劉表、袁術、呂布等。當陳壽撰三國志時,以諸人皆與曹操並立,且事多與操相渉,故必立傳於魏志,而敘事始明。劉焉乃劉璋之父,其地則昭烈所因也,欲紀昭烈,必先傳璋,欲傳璋,必先傳焉,故亦立其傳於蜀志之首。及范蔚宗修後漢書,則董卓等皆漢末之臣,荀彧雖爲操畫策,而心猶爲漢,皆不得因三國志有傳,遂從刪削。所以一人而兩史各有傳也。此事惟晉、宋二書,界限最清。縁沈約修宋書,以劉毅、何無忌、諸葛長民、魏詠之、檀憑之等,雖與劉裕同起義,而志在匡晉,初非宋臣,故不入宋書。及唐初修晉書,遂爲毅等立傳,自無複出之病也。陶潛隱居完節,卒于宋代,故宋書以爲隱逸之首,然潛以家世晉臣,不復仕宋,始終爲晉完人,自應入晉書内,故修晉書者,特傳於晉隱逸之末。二史遂並有傳,此宋書之借,而非晉書之奪也。至李延壽作南北史,係一手編簒,則南人歸北,北人歸南者,自...
  • 南史誤處
    143.南史の誤っているところ   南史の宋の後廢帝紀では,孝武帝の二十八子のうち,明帝がその十六人を殺し,その他は皆後廢帝が殺したと言っている。  今宋書を調べてみると,前廢帝、明帝、後廢帝の三本紀及び孝武諸子傳で,孝武帝の子の新安王の子鸞、南海王の子師は,前廢帝の子業が殺すところとなっている。  明帝が殺したのは,前廢帝である子業、豫章王の子尚、晉安王の子勛、安陸王の子綏、臨海王の子頊、邵陵王の子元、永嘉王の子仁、始安王の子真、淮安王の子孟、南平王の子彦、廬陵王の子輿、松滋侯の子房、東平王の子嗣,また子趨と子期、子悅は,みなまだ封じられる前に明帝の殺すところとなっている。  その他の晉陵王の子雲、淮陽王の子霄,及びまだ封じられていなかった子深、子鳳、子元、子衡、子況、子文、子雍は皆早く亡くなった。これは孝武帝の諸子で,前廢帝の殺したのは二人,明帝の殺したのは十六人,早く亡くな...
  • 八朝史至宋始行
    138.八朝史至宋始行   南北八朝史,宋書成於齊,齊書成於梁,魏書成於北齊,其餘各史皆唐初修成。然雖成於唐初,而天下實未嘗行也。觀蘇洵等進陳書云,陳書與宋書、魏、齊、梁等書,傳之者少,祕書所藏,亦多脱誤。嘉祐六年,始詔校讐,因臣等言,恐館閣所藏不足以定,請詔京師及天下藏書家,使悉上之。至七年冬,始稍稍集,因得藉以參校。又劉攽等校北齊書云,文襄紀其首與北史同,而末多取魏孝靜帝紀,其與侯景書則載梁書侯景傳内,此外序列尤無倫次。蓋原書已散佚,後人雜取北史及高氏小識等書以補之者。是宋時並已失其原本,雖購之天下,亦終無由訂正也。可見各正史,在有唐一代並未行世。蓋卷帙繁多,唐時尚未有鏤板之法,必須抄録,自非有大力者不能備之。惟南、北史卷帙稍簡,抄寫易成,故天下多有其書,世人所見八朝事跡惟恃此耳。若無鏤板之法,各正史蓋已一部不存矣。
  • 巻十 宋齊梁陳書并南史
    廿二史箚記巻十 139.南史仿陳壽三國志體例 140.南北史子孫附傳之例? 141.南史刪宋書最多? 142.南史過求簡淨之失? 143.南史誤處☆ 144.南史增齊書處? 145.南史與齊書互異處? 146.南史增刪梁書處? 147.南史刪梁書處? 148.南史增梁書有關係處?    前頁 『廿二史箚記』    次頁 巻九 宋齊梁陳書 廿二史箚記巻十 巻十一 宋齊梁陳書并南史
  • 南朝以射雉爲獵
    160.南朝以射雉爲獵   南朝都金陵,無蒐狩之地,故嘗以射雉爲獵。宋明帝射雉,至日中無所得,甚慚,曰:「吾旦來如皋,遂空行可笑。」(左傳昭公二十八年:昔賈大夫惡,取妻而美,三年不言不笑,御以如皋,射雉獲之,其妻始笑而言。)褚炫對曰「今節候雖適,而雲霧尚凝,故斯翬之禽,驕心未警。」帝意解,乃於雉場置酒。(宋書褚炫傳)帝至巖山射雉,有一雉不肯入場,日暮將返,留晉平王休祜待之,令勿得雉勿返,休祜便馳去,上令壽寂之等追之,蹴令墜馬死。(休祜傳)齊武帝永明六年,邯鄲超諫射雉,上爲之止。久之,超竟誅。後又將射雉,竟陵王子良又諫止。(子良傳)東昏置雉場二百九十六處,翳中帷幛,皆紅綠錦爲之,有鷹犬隊主、翳隊主等官。(齊紀)
  • 晉書二
    104.晉書二   論晉書者,謂當時修史諸人,皆文詠之士,好採詭謬誶事以廣異聞。又史論競爲豔體,此其所短也。然當時史官如令狐德棻等,皆老於文學,其紀傳敘事,皆爽潔老勁,迥非魏、宋二書可比。而諸僭偽載紀,尤簡而不漏,詳而不蕪。視十六國春秋,不可同日語也。其列傳編訂,亦有斟酌。如陶潛已在宋書隱逸之首,而潛本晉完節之臣,應入晉史,故仍列其傳於晉隱逸之内。愍懷太子妃王衍之女,抱冤以死,而太子妃不便附入后妃傳内,則入之於列女傳。此皆位置得當者。各傳所載表、疏、賦、頌之類,亦皆有關係。如劉實傳載崇讓論,見當時營競之風也。裴頠傳載崇有論,見當時談虚之習也。劉毅傳載論九品之制有八損,李重傳亦載論九品之害,見當時選舉之弊也。陸機傳載辨亡論,見孫皓之所以失國也。豪士傳,見齊王冏之專恣也。五等論,見當時封建之未善也。傅元傳載興學校、務農功等疏,固切于時政也。段灼傳載申理鄧艾一疏,閻纘傳載申理愍懷太子一疏,以二...
  • 清談用麈尾
    114.清談用麈尾   六朝人清談,必用麈尾。晉書,王衍善玄言,毎捉白玉柄麈尾,與手同色。(衍傳)孫盛與殷浩談,奮麈尾,盡落飯中。(盛傳)宋書,王僧虔戒子,謂其好捉麈尾,自稱談士。(僧虔傳)齊書,戴容著三宗論,智林道人曰:「貧道捉麈尾三十年,此一塗無人能解,今始遇之。」(容傳)梁書,盧廣發講時,謝舉屢折之,廣愧服,以所執麈尾贈之,以況重席。(舉傳)張孝秀談義,嘗手執栟櫚皮麈尾。(孝秀傳)陳書,後主宴宮僚,所造玉柄麈尾新成,曰:「當今堪捉此者,惟張譏耳。」即以賜譏。又幸鍾山開善寺,使譏豎義,時麈尾未至,命取松枝代之。(譏傳)此皆清談麈尾故事也。亦有不必談而亦用之者。王浚以麈尾遺石勒,勒偽爲不敢執,懸於壁而拜之。(勒載記。)何充詣王導,導以麈尾指其牀曰:「此是君坐也。」(充傳)王濛病篤,燈下視麈尾而嘆,既沒,劉惔以犀麈尾納之棺中。(濛傳)蓋初以談玄用之,相習成俗,遂爲名流雅器,雖不談亦常執持...
  • 齊書缺一卷
    128.齊書には一卷が欠けている  梁書の蕭子顯傳では著したのは齊書六十巻といっている。今齊書にはただ五十九巻あるだけだが,きっと子顯は沈約が宋書に自序一巻を最後につけたのを真似ようとして,完成できなかったか,或いは完成できたが入れることができなかったのではないのだろうか?  調べてみると南史の子顯傳にはその自序二百餘字を載せているが,それは齊書に後に作られたものが付属されたもので,李延壽がその概略を本傳にいれたものなのだろうか? 128.齊書缺一卷   梁書蕭子顯傳謂所著齊書六十巻。今齊書只有五十九巻,蓋子顯欲仿沈約作自序一巻附于後,未及成,或成而未列入耶?按南史子顯傳載其自序二百餘字,豈即其附齊書後之作,而延壽撮其畧入于本傳者耶?
  • 元初用兵多有天助
    437.元初用兵多有天助   元太宗時,使皇子蒙哥(即憲宗)征欽察,其酋八赤蠻逃於海島,蒙哥亟進師,適大風刮海水去,甚淺可渡,蒙哥喜曰:「此天開道也。」進擒八赤蠻,囚之,八赤蠻曰:「水迴期且至,宜早還。」蒙哥即班師,而水已至,後軍有浮渡者。(見憲宗紀)太宗又使弟拖雷入宋武休關,渡漢江而北,至禹山,金完顏合達等拒戰,北兵襲之,金恆山公武仙一軍殊死鬥,北騎退走,追奔之際,忽大霧四塞,合達命收軍,頃之,霧散乃前,則前有一大澗,闊數里,非此霧則北兵人馬滿中矣。(金史完顏合達傳)憲宗即位之八年二月,伐宋,師次於河,適河冰合,以土覆之,遂渡。(憲宗紀)世祖時,遣伯顏(巴延)伐宋,軍至錢塘江觀潮,遂駐沙岸,杭人方以爲潮至當盡溺,乃潮不至者三日。(伯顏傳)可見興王之運,山川效靈也。
  • 後漢書三國志書法不同處
    85.後漢書三國志書法不同處   後漢書與三國志,論時代則後漢在前,而作史則三國志先成,且百餘年也。自三國志魏紀創爲迴護之法,歴代本紀遂皆奉以爲式,延及舊唐書、舊五代史猶皆遵之。其間雖有習鑿齒欲黜魏正統,蕭穎士欲改書司馬昭弑君,而迄莫能更正。直至歐陽公作五代史及修新唐書,始改從春秋書法,以寓褒貶。而范尉宗於三國志方行之時,獨不從其例,觀獻帝紀,猶有春秋遺法焉。雖陳壽修書於晉,不能無所諱;蔚宗修書於宋,已隔兩朝,可以據事直書,固其所値之時不同,然史法究應如是也。陳壽魏紀,書天子以公領冀州牧。蔚宗獻帝紀,則曰曹操自領冀州牧。魏紀,漢罷三公官,置丞相,以公爲丞相。獻帝紀則曰曹操自爲丞相。魏紀,天子使郗慮策命公爲魏公,加九錫。獻紀則曰曹操自立爲魏公,加九錫。魏紀,漢皇后伏氏,坐與父完書云帝以董承被誅,怨恨公。后廢黜死,兄弟皆伏法。獻紀則曰曹操殺皇后伏氏,滅其族及其二子。魏紀,天子進公爵爲魏王,獻...
  • 關張之勇
    96.関・張の武勇   漢以後、勇者を称える場合には必ず関・張を取り上げた。二公の本伝に見えるものは以下の通り。袁紹が顔良を派遣して劉延を白馬において攻撃したので、曹操は張遼・関羽に劉延を救出させた。関羽は顔良の麾蓋を眺め見て、馬に鞭打って敵勢一万のただなかで顔良を刺し、その首を斬って引き返したが、袁紹の将のうちでも敵対できる者はなかった。当陽の戦役において先主は妻子を棄てて逃走し、張飛に二十騎を率いさせて後詰めさせた。張飛は川を足がかりに橋を断ち切り、目を瞋らし矛を横たえて言うに、「身どもはこれぞ張益徳である。来い、ともに死を決しようぞ!」敵兵のうちあえて近付く者はいなかった。二公の武勇のうち、伝記に見えるものはこれだけである。しかしながら当時にあって彼らの威名に震えおののかぬ者はなかった。魏の程昱は言った。「劉備には英名があり、関羽・張飛はいずれも万人之敵である。」(魏志程昱伝)劉曄...
  • 名父之子多敗德
    274.名父之子多敗德   房、杜爲唐一代名臣,而玄齡子遺愛、如晦子荷,皆以謀反誅。上官儀贊高宗廢武后,事不成被誅,而其孫女婉兒沒入宮,附武后爲所寵,又助韋后爲逆。狄仁傑子景暉官魏州,以貪暴爲民所惡,并毀仁傑生祠。宋璟直聲震天下,而其子渾等流蕩無行,爲物議所薄。李泌爲賢相,而其子繁乃黨於裴延齡,陽城劾延齡,屬繁書疏稿,繁即默識以告延齡,使得先奏。此皆名父之子而敗德墜其家聲,不可解也。惟李義府附武后,而其子湛乃與張柬之等誅張易之兄弟,可謂能幹蠱者。李世勣將死,謂其弟弼曰:「我見房玄齡、杜如晦、高季輔辛苦作得門戸,亦望垂裕後昆,並遭癡兒,破家蕩盡。我子如有操行不倫者,急即打殺,然後奏聞。」其望子保家之心可謂切矣。然世勣附武后,以固位保門戸,而其子敬業起兵討武后,被族。雖不能保家,亦可謂能雪先人之恥者。
  • 唐人避諱之法
    119.唐の人の諱を避ける方法  唐の人が諸々の史書を編修しようとする時には,(唐の皇帝の父)祖の諱を避けるのに三つの方法を用いた。(一つは)前(の時代の)人で「虎」や「淵」という同じ名を持つ者がいれば,その字を用いる。例えば晉書での公孫淵を公孫文懿と稱したりするようにである。劉淵は劉元海と稱し、褚淵は囘じように褚彦と稱した。石虎を石季龍と稱したりするのもこれである。  これとちがって、(唐の皇帝の父祖の諱の)文字を刪ってしまうというのもある。梁書の蕭淵明、蕭淵藻を,ただ蕭明、蕭藻を稱したりするようにである。陳書の韓擒虎をただ韓擒と稱したりするのもこれである。  またこれともちがって、その(唐の皇帝の父祖の諱の)文字を、似た意味(や物等)の文字に改めるというのもあり,だいたい「虎」の字があれば皆猛獸の字に改めて,李叔虎なら李叔彪と稱し,殷淵源は殷深源と稱している。陶淵明なら陶泉明と...
  • 元諸帝多不習漢文
    439.元諸帝多不習漢文   元起朔方,本有語無字。太祖以來,但借用畏吾字以通文檄。世祖始用西僧八思巴造蒙古字,然於漢文則未習也。元史本紀,至元二十三年,翰林承旨撒里蠻言,國史院纂修太祖、累朝實録,請先以畏吾字繙譯進讀,再付纂定。元貞二年,兀都帶等進所譯太宗、憲宗、世祖實録,是皆以國書進呈也。其散見於他傳者,世祖問徐世隆以堯、舜、禹、湯爲君之道,世隆取書傳以對,帝喜曰:「汝爲朕直解進讀。」書成,令翰林承旨安藏譯寫以進。曹元用奉旨譯唐貞觀政要爲國語。元明善奉武宗詔,節尚書經文,譯其關於政事者,乃舉文陞同譯,毎進一篇,帝必稱善。虞集在經筵,取經史中有益於治道者,用國語、漢文兩進讀,譯潤之際,務爲明白,數日乃成一篇。馬祖常亦譯皇圖大訓以進。(皆見各本傳)是凡進呈文字必皆譯以國書,可知諸帝皆不習漢文也。惟裕宗爲太子時,早從姚樞、竇默受孝經。及長,則侍經幄者,如王恂、白棟、李謙、宋道等,皆長在東宮...
  • 光武信讖書
    63.光武信讖書   讖緯起於西漢之末。張衡著論曰:「漢以來,並無讖書。劉向父子領校秘書,尚無讖録,則知起於哀、平之際也。」(漢書路温舒傳「温舒從祖父受暦數天文,以爲漢厄三七之期。乃上封事以預戒。」温舒係昭帝時人,則又在哀、平之前。)案樊英傳,有「河洛七緯。」章懷註曰「易緯稽覽圖、乾鑿度、坤靈圖、通卦驗、是類謀,辨終篇也;書緯琁機鈐、考靈耀、刑德放、帝命驗,運期授也;詩緯推度災、氾歴樞,含神霧也;禮緯含文嘉、稽命徴、斗威儀也;樂緯動聲儀、稽耀嘉,斗圖徴也;孝經緯援神契,鉤命決也;春秋緯演孔圖、元命包、文耀鉤、運斗樞、感精符、合誠圖、考異郵、保乾圖、漢含孳、佑助期、握誠圖、潛潭包,説題辭也。」此等本屬不經,然是時實有徴驗不爽者。楊春卿善圖讖,臨死,戒其子統曰:「吾綈囊中有祖傳秘記,爲漢家用。」(楊厚傳)哀帝建平中,有方士夏賀良上言赤精子之讖:漢家暦運中衰,當再授命,故改號曰「太初元將元年」...
  • 巻二 史記漢書
    廿二史箚記巻二 15.漢書移置史記文 16.漢書多載有用之文 17.漢書增傳 18.漢書增事蹟? 19.漢書書恆山王 20.漢書武帝記贊不言武功? 21.漢帝多自立廟☆ 22.漢初布衣將相之局? 23.漢初諸侯王自置官屬? 24.武帝年號係元狩以後追建? 25.漢儒言災異? 26.漢重日食 27.漢詔多懼詞? 28.漢時以經義斷事? 29.賢良方正茂材直言多舉現任官? 30.漢時諸王國各自紀年 31.三老孝悌力田皆郷官名 32.漢三公官? 33.災異策免三公? 34.上書無忌諱 35.上書召見? 36.漢武用將? 37.武帝三大將皆由女寵 38.與蘇武同出使者    前頁 『廿二史箚記』    次頁 巻一 史記漢書 廿二史箚記巻二 巻三 史記漢書
  • 汪文言之獄
    533.汪文言之獄   歙人汪文言有智術,負俠氣,入京輸貲爲監生,用計破齊、楚、浙三黨。察東宮伴讀王安賢,傾心結納,與談當世流品。光、熹之際,外廷依劉一,而安居中,以次行諸善政,文言交關力爲多。魏忠賢既殺安,府丞邵輔忠遂劾文言,革其監生,既出都,復逮下吏,得末減。益游公卿間,輿馬常填溢戸外,大學士葉向高用爲内閣中書,韓爌、趙南星、楊漣、左光斗、魏大中皆與往來。會給事中阮大鋮與左光斗、魏大中有隙,遂與給事中章允儒定計,囑同官傅櫆劾文言,並劾大中通文言爲奸利,魏忠賢大喜,立下文言詔獄,御史黄尊素語鎮撫劉僑曰「文言不足惜,不可使縉紳禍由此起。」僑是之,獄詞無所連,文言廷杖褫職,牽及者獲免。已而魏忠賢勢益張,盡逐諸正人趙南星等,梁夢環遂再劾文言,下詔獄,鎮撫許顯純自削牘以上,趙南星、楊漣、左光斗、魏大中、李若星、毛士龍,袁化中、繆昌期、鄒維璉、夏之令、王之寀、顧大章、周朝瑞、李三才、惠世揚等,無...
  • 魏末周初無年號
    214.西魏の末年と北周の初年には年号が無かった   漢の武帝から年号を置くことが創始され、事件を記すのに便利になった。実にいつの世でも変わらない優れた方法である。しかし後世には年号を用いない者があった。『周書』崔宣猷伝に「明帝が即位すると、周礼により天王を称して、年号を用いなかった。崔宣猷が年代を区切るのに年号を用いることを請願すると、明帝はこれに従った」とある。これは北周の明帝の即位当初は年号がなかったということである。しかしこれが始まりではない。調べてみると、西魏の廃帝と恭帝のときにはいずれも年号がなかった。その当時は宇文泰が国政に当たっており、もっぱら周礼を用いていたため、年号を設けず、ただ元年・二年と称していたのである。北周の孝閔帝が禅譲によって王朝交代してもそれは続き、そのまま明帝の三年にいたって、崔宣猷の上奏により、再び年号を用いるようになったのである。 214....
  • 各史例目異同
    3.各史例目異同   古者,左史記言,右史記事。言爲尚書,事爲春秋。其後沿爲編年、記事二種。記事者,以一篇記一事,而不能統貫一代之全;編年者,又不能即一人而各見其本末。司馬遷參酌古今,發凡起例,創爲全史。本紀以序帝王,世家以記侯國,十表以繋時事,八書以詳制度,列傳以誌人物。然後一代君臣政事,賢否得失,總彙於一編之中。自此例一定,歴代作史者遂不能出其範圍,信史家之極則也。魏禧序十國春秋,謂「遷僅工於文,班固則密於體。」以是爲史漢優劣。不知無所因而特創者難爲功,有所本而求精者易爲力。此固未可同日語耳。至於篇目之類,固不必泥於一定。或前代所有而後代所無;或前代所無而後代所有,自不妨隨時增損改換。今列二十二史篇目異同於左:   本紀。古有禹本紀、尚書世紀等書。遷用其體,以敘述帝王。惟項羽作紀頗失當。故漢書改爲列傳。後漢書又立皇后紀。蓋仿史漢呂后紀之例。不知史遷以政由后出,故高紀後,即立后紀。至...
  • 呂武不當並稱
    42.呂武不當並稱   母后臨朝,肆其妒害,世莫不以呂、武並稱,然非平情之論也。武后改朔易朝,徧王諸武,殺唐子孫幾盡,甚至自殺其子孫數人,以縱淫慾,其惡爲古今未有。呂后則當高帝臨危時,問蕭相國後孰可代者,是固以安國家爲急也。孝惠既立,政由母氏,其所用曹參、王陵、陳平、周勃等,無一非高帝注意安劉之人,是惟恐孝惠之不能守業,非如武后以嫌忌而殺太子弘、太子賢也。后所生惟孝惠及魯元公主,其他皆諸姫子,使孝惠而在,則方與孝惠圖治計長久。觀於高祖欲廢太子時,后迫留侯畫策,至跪謝周昌之廷諍,則其母子間可知也。迨孝惠既崩,而所取後宮子立爲帝者,又以怨懟而廢,於是己之子孫無在者,則與其使諸姫子據權勢以凌呂氏,不如先張呂氏以久其權。故孝惠時未嘗王諸呂,王諸呂,乃在孝惠崩後,此則后之私心短見。蓋嫉妒者,婦人之常情也。然其所最妒亦衹戚夫人母子,以其先寵幸時幾至於奪嫡,故高帝崩後即殺之。此外諸姫子,如文帝封於代,...
  • 北史全用隋書
    175.北史全用隋書   北史於魏、齊、周正史,間有改訂之處,惟於隋則全用隋書,略爲刪節,並無改正,且多有迴護之處。如隋文帝之簒,隋書本紀既循照歴代國史舊式敍九錫文、禪位詔,並帝三讓乃受,絶不見攘奪之迹矣。北史亦一一照本鈔謄,略無一語差異,祇刪去九錫文以省繁冗而已。文帝殺宇文諸王,周書謂諸王皆以謀執政被害,而北史則第書誅陳王純,誅代王達,誅滕王逌,一似有罪而伏法者。帝即位後,封靜帝爲介國公,年方九歳,開皇元年殂,周書謂隋志也,而北史但書介國公薨,上舉哀於朝堂,諡曰周靜帝,一似善終而加以恩禮者。其於文帝之崩,書帝疾甚,與百寮辭訣,握手欷歔,崩於大寶殿,又載遺詔一篇,有「惡子孫已爲百姓除去,今嗣位者乃好子孫」等語,一似憑几末命,壽考令終,並非遭害者。煬帝紀亦但書高祖崩,上即位於仁壽宮,而煬帝使張衡侍疾致斃,及矯詔即位之事,絶不見形迹。即張衡傳亦不著其弑逆,但載其賜死時,自言我爲人作何事,而望...
  • 唐實録國史凡兩次散失
    221.唐實錄國史凡兩次散失 唐時修實錄、國史者皆當代名手。今可考而知者: 高祖實錄二十卷、太宗實錄二十卷(皆敬播撰,房元齡監修), 又貞觀實錄四十卷(令狐德棻撰貞觀十三年以後事,長孫無忌監修,其時同修者,又有敬播、顧允、鄧世隆、慕容善行、孫處約、劉顗、庾安禮,俱為修史學士,見德棻及允、處約等傳),其後許敬宗又奏改正,高宗以其事多失實,又命宰臣刊正。(見郝處俊傳)(初高祖、太宗兩朝實錄,敬播等所修頗詳直,敬宗輒以己意改之。敬宗貪財,嫁女於錢九隴,本皇家隸人也,乃列之於劉文靜等功臣傳,又其子娶尉遲敬德女,則為敬德作佳傳,以太宗賜長孫無忌之威鳳賦,移為賜敬德者。事見敬宗傳。而播傳又謂播與敬宗同撰,蓋當元齡、無忌監修時,播已在事,至是又徇敬宗意而與之同改修耳) 高宗實錄三十卷(許敬宗、令狐德棻等撰), 後修實錄三十卷(德棻等所撰,止乾封,劉知幾、吳兢續成之),...
  • 東漢尚名節
    74.東漢尚名節   自戰國豫讓、聶政、荊軻、侯嬴之徒,以意氣相尚,一意孤行,能爲人所不敢爲,世競慕之。其後貫高、田叔、朱家、郭解輩,徇人刻己,然諾不欺,以立名節。馴至東漢,其風益盛。蓋當時薦舉徴辟,必採名譽,故凡可以得名者,必全力赴之,好爲苟難,遂成風俗。漢書游俠傳序,自信陵、平原、孟嘗、春申之徒,競爲游俠,取重於諸侯,顯名天下。漢興,禁網疏闊,布衣游俠,權行州域,力折公卿,眾庶榮其名,覬而慕之,雖陷於刑辟不悔也。其大概有數端,是時郡吏之於太守,本有君臣名分。爲掾吏者,往往周旋於死生患難之間。如李固被戮,弟子郭亮負斧鑕上書,請收固尸。杜喬被戮,故掾楊匡守護其尸不去。由是皆顯名。(固、喬二傳)第五種爲衛相,善門下掾孫斌,種以劾宦官單超兄子匡,坐徙朔方,朔方太守董援乃超外孫也,斌知種往必被害,乃追及種於途,格殺送吏,與種倶逃,以脱其禍。(種傳)。太原守劉以考殺小黄門趙津下獄死,王允爲郡吏...
  • 間架除陌宮市五坊小使之病民
    德宗初用楊炎為相,定兩稅之法,天下受其利。 初唐制租庸調法,自開元以來,不為版籍,丁口轉死,田畝換易,貧富升降,悉非向時,而戶部歲以空文上之。又戍邊者蠲其租庸,六歲免歸,玄宗事夷狄,戍者多死,邊將諱不以聞,故貫籍不除。王為戶口使,以其籍存而丁不在,是隱課不出,乃案舊籍積三十年,責其租庸,民遂大困。至德後,天下兵起,科斂凡數百名,廢者不削,重者不去,百姓旬輸月送,無有休息,吏因為奸。富人丁多者,以宦學釋老得免,貧人無所托則丁存,故課免於上而賦增於下,天下盡蕩為浮人鄉,居地著者,百不四五。 楊炎乃請為兩稅法,凡百之費,先度其數而賦于民,秋夏兩入之。其租庸雜徭悉省,而丁額不廢。其田畝之稅,以大歷十四年為準,而均收之。天下果便之。炎傳是帝頗能用人理財,稍紓民患矣。 乃後因用兵河南北,月費百餘萬緡。聽盧杞、趙贊等計,守商賈本錢過千萬者,貸其餘以濟軍,軍罷取償於官。乃令京兆暴責大搜,疑占列不盡,...
  • 新唐書
    220.新唐書   宋の仁宗は、劉昫らが編纂した『旧唐書』は卑弱で淺陋だとして、翰林学士である欧陽修に命じて、端明殿の学士である宋祁が各刊の編撰を行い,曾公亮が皇帝に上提するまで,十七年を要して、およそ二百二十五卷に及ぶ新唐書が完成した。本紀、志、表,列伝。故事,各書の筆頭には官に用いられた尊者一人を置き,唐書において功績が多いとされた先進の人々の伝記を宋祁が修正し,各列伝を編撰して進めたのである(そこで修伝と言われる)。宋祁が詔により唐書の修正に従事した十年間余り、宮廷内に寝起きし,原稿を納得ゆくまで推敲吟味して,列伝百五十卷を練り上げた(そこで祁伝と言われる)。論者は、「『新唐書』に記載された記事は『旧唐書』より豊富であるが,文は『旧唐書』より簡潔である」と言っている。このことは言うまでもなく、欧陽修が宋二公時代の古文の大家であるためである。とはいえ 文体は必ずしも一定でなく,文章に...
  • 帝王行三年之喪
    184.帝王行三年之喪 三代後帝王行三年之喪者,咸稱晉武帝、宋孝宗,然尚有晉康帝、姚興(後秦)、魏孝文帝、後周武帝、北漢劉承鈞,世未之知也,今摘於後: 晉文帝(司馬昭)之喪,臣民皆從權制,三日除服,既葬,武帝亦除,然猶練冠蔬食。及謁崇陽陵,仍以衰絰從行,裴秀奏「既除不宜復服。」乃止。羊祜曰「三年之喪,漢文除之,毀禮傷義。今主上至孝,若因此復先王之法,不亦善乎!」群臣異議,乃止。群臣又請易服復膳,詔曰「可試省孔子答宰我之言,無俟紛紜也。」遂蔬素終三年。後王太后殂,帝居喪一遵古禮,既葬,有司請除服,詔曰「前代典禮,質文不同,何必援近制,使達喪闕然乎?」竟素服以終三年。 武帝楊后崩,既葬即吉,尚書奏「皇太子宜復古典,以諒闇終制。」從之。 宰我問:「三年之喪,期已久矣。君子三年不為禮,禮必壞;三年不為樂,樂必崩。舊穀既沒,新穀既升,鑽燧改火,期可已矣。」子曰:「食夫稻,衣夫錦,於女安乎﹖」...
  • 九品中正
    112.九品中正   魏文帝初定九品中正之法,郡邑設小中正,州設大中正。由小中正品第人才以上大中正,大中正核實以上司徒,司徒再核,然後付尚書選用。此陳羣所建白也。然魏武時,何夔疏言:「今草創之際,用人未詳其本,是以各引其類。宜先核之郷閭,使長幼順序,無相踰越,則賢不肖先分。」(夔傳)杜恕亦疏言:「宜使州郡考士,必由四科皆有事效,然後察舉,試辟公府。」(恕傳)此又在陳羣之前。蓋漢以來,本以察舉孝廉爲士人入仕之路。迨日久弊生,夤縁勢利,猥濫益甚。故夔等欲先清其源,專歸重於郷評,以核其素行。羣又密其法而差等之。固論定官才之法也。然行之未久,夏侯元已謂中正干銓衡之權。(元傳)而晉衛瓘亦言:「魏因喪亂之後,人士流移,考詳無地,故立此法,粗具一時選用。其始郷邑清議,不拘爵位,褒貶所加,足爲勸勵,猶有郷論餘風。其後遂計資定品,惟以居位爲重。」是可見法立弊生,而九品之升降,尤易淆亂也。今以各史參考,郷邑...
  • 建業有三城
    116.建業には三つの城があった   六朝のとき、建業の地には三つの城があった。中央のものは台城とされ、皇帝の住居とされ、宮殿や尚書省はみなここにあった。その西は石頭城とされ、当時は京師を守るために兵を宿営させていた。王敦が反乱を起こしたとき、周札が石頭城を守っていたが、開門して王敦を迎え入れた。王敦は石頭に拠って王師を破った。後に蘇峻が反乱を起こすと、成帝をさらって石頭に移した。蘇峻が敗れると、成帝はようやく出ることができた。盧循の水軍がやってくると、朝臣たちは兵を分散して諸港を守ろうとした。劉裕は「兵を分散すると軍勢は弱まります。兵を石頭に集めるのが最善で、そうすれば大軍の力を分散せずにすみます」と言って、自ら石頭に駐屯し、予期どおりに反乱軍を破った。宋の末年に袁粲が石頭城に拠って蕭道成を殺害しようとしたが、かえって蕭道成に殺されてしまった。当時の諺に「可憐なるは石頭城、むしろ袁粲を...
  • 南北朝通好以使命爲重
    186.南北朝通好以使命為重 南北通好,嘗藉使命增國之光,必妙選行人,擇其容止可觀,文學優贍者,以充聘使。如:魏游明根嘗三使於宋,李彪嘗六使於齊。齊武帝以裴昭明有將命之才,特命使魏。皆以能稱使職也。其後益以使命為重。 (北史)李諧傳,謂「南北交聘,務以俊乂相矜,銜命接客,必盡一時之選,無才地者,不得與焉。梁使每入,鄴下為之傾動,貴游子弟,盛飾聚觀,館門成市。魏使至梁亦如之。」一時風尚如此,凡充使及伴使皆不輕授。 邢邵在魏,為一時文人之冠,特以不持威儀,遂不令出使。(邢邵傳) 北齊李緯與崔暹不協,嘗曰「雖失貴人意,聘梁使不能舍我!」後果使梁。(李緯傳) 崔瞻曾經熱病,面多瘢痕,然雍容可觀,詞韻溫雅,遂出使於陳。(崔瞻傳) 此出使之精於選擇也。 其出使而增重鄰國者: 魏游明根使宋,宋孝武稱其長者,迎送禮加常使。(游明根傳) 高推使宋,宋稱其才辨。(高允傳) 李彪使齊將還,齊...
  • 三國之主用人各不同
    98.三國之主用人各不同   人才莫盛於三國,亦惟三國之主各能用人,故得衆力相扶,以成鼎足之勢。而其用人亦各有不同者,大概曹操以權術相馭,劉備以性情相契,孫氏兄弟以意氣相投。後世尚可推見其心跡也。曹操以權術相馭荀彧、程昱爲操畫策,人所不知,操一一表明之,絶不攘爲已有,此固已足令人心死。劉備爲呂布所襲,奔於操,程昱以備有雄才,勸操圖之。操曰:「今收攬英雄時,殺一人而失天下之心,不可也。」然此猶非與操有怨者。臧霸先從陶謙,後助呂布,布爲操所擒,霸藏匿,操募得之,即以霸爲琅邪相,青、徐二州悉委之。先是操在兗州,以徐翕、毛暉爲將。兗州亂,翕、暈皆叛,後操定兗州,翕、暉投霸,至是操使霸出二人,霸曰:「霸所以能自立者,以不爲此也。」操歎其賢,並以翕、暉爲郡守。(霸傳)操以畢諶爲兗州別駕(刺史佐官,隨行另乘車駕,故稱別駕)。張邈之叛,劫諶母、妻去,操遣諶往,諶頓首無二,既出,又亡歸從呂布。布破,操生得...
  • 唐代宦官之禍
    東漢及前明宦官之禍烈矣,然猶竊主權,以肆虐天下。至唐則宦官之權反在人主之上,立君、弒君、廢君,有同兒戲,實古來未有之變也。推原禍始,總由於使之掌禁兵、管樞密,所謂倒持太阿而授之以柄,及其勢已成,雖有英君察相,亦無如之何矣! 身在禁闈,社鼠城狐,本易竊弄威福,此即不典兵、不承旨,而燕間深密之地,單詞片語,偶能移動主意,軒輊事端,天下已靡然趨之。 如高力士貴幸時,儌倖者願一見如天人,肅宗在東宮亦以兄事之,諸王公主呼為翁,戚里諸家尊曰,將相大臣皆由之以進。嘗建佛寺、道觀各一所,鐘成,宴公卿,一扣者,納禮錢十萬,有至二十扣者。李輔國貴幸時,人不敢斥其官,直呼為五郎。李揆當國,以子姓事之,嘗矯詔遷上皇於西內,至憂鬱以崩。他如魚朝恩忌郭子儀功高,譖罷其兵柄。程元振譖來瑱,賜死,李光弼遂不敢入朝。又譖裴冕罷相,貶施州,以致方鎮解體,吐蕃入寇,代宗倉皇出奔,徵諸道兵,無一至者。此猶是未掌兵權,未管樞要...
  • 借荊州之非
    97.荊州貸与という間違い   荊州貸借の説は、呉の人々の事後の議論から出てきたものであって、当時における事実ではないのである。『江表伝』に言う。曹操を撃破したのち、周瑜が南郡太守となり、南岸の地を分割して劉備に与えた。そして劉表の官吏兵士のうち北軍から逃げ帰った者たちは、みな劉備に身を投じてきた。劉備は与えられた土地では供給するには不足していたため、孫権から荊州の数郡を借用した、と。『魯粛伝』にまた言う。劉備が京に参詣して孫権にまみえ、荊州を都督したいと求めたとき、魯粛は彼に貸してやって共同して曹操に対抗せよと孫権に勧めた。曹操は孫権が土地でもって劉備を支援したと聞くや、ちょうど手紙を書いていたところであったが、筆を地べたに落としてしまった。のちに魯粛は関羽に会って荊州を求めたとき、関羽に告げた。「我が国が卿の家に土地をお貸ししたのは、卿の家の軍勢が敗れて遠方から来られ、元手を失ったも...
  • @wiki全体から「宋書書晉宋革易之際」で調べる

更新順にページ一覧表示 | 作成順にページ一覧表示 | ページ名順にページ一覧表示 | wiki内検索