『廿二史箚記』wiki内検索 / 「太上皇帝」で検索した結果

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  • 巻十三 魏齊周隋書并北史
    ...十四年☆ 181.太上皇帝?    前頁 『廿二史箚記』    次頁 巻十二 宋齊梁陳書并南史 廿二史箚記巻十三 巻十四 魏齊周隋書并北史
  • 皇太孫
    ...』巻十四   次頁 太上皇帝? 182.皇太孫 皇太弟
  • 玄宗五代一堂
    243.玄宗五代一堂   肅宗爲太子時生代宗,爲嫡皇孫。生之三日,玄宗臨澡,嫡孫體弱,負姆嫌陋,更取他宮兒進。玄宗觀之不樂,姆叩頭言非是。玄宗曰:「非爾所知,趣取兒來。」於是見嫡孫,玄宗大喜,向日視之,曰:「福過其父。」顧力士日:「一日見三天子,樂哉。」(呉皇后傳)此已屬盛事。又案舊書順宗紀,順宗生於肅宗上元二年,時玄宗尚爲太上皇,是玄宗、肅宗、代宗、德宗、順宗凡五代共一堂,則不惟一日見三天子,且一堂有五代天子也。
  • 唐實録國史凡兩次散失
    221.唐實錄國史凡兩次散失 唐時修實錄、國史者皆當代名手。今可考而知者: 高祖實錄二十卷、太宗實錄二十卷(皆敬播撰,房元齡監修), 又貞觀實錄四十卷(令狐德棻撰貞觀十三年以後事,長孫無忌監修,其時同修者,又有敬播、顧允、鄧世隆、慕容善行、孫處約、劉顗、庾安禮,俱為修史學士,見德棻及允、處約等傳),其後許敬宗又奏改正,高宗以其事多失實,又命宰臣刊正。(見郝處俊傳)(初高祖、太宗兩朝實錄,敬播等所修頗詳直,敬宗輒以己意改之。敬宗貪財,嫁女於錢九隴,本皇家隸人也,乃列之於劉文靜等功臣傳,又其子娶尉遲敬德女,則為敬德作佳傳,以太宗賜長孫無忌之威鳳賦,移為賜敬德者。事見敬宗傳。而播傳又謂播與敬宗同撰,蓋當元齡、無忌監修時,播已在事,至是又徇敬宗意而與之同改修耳) 高宗實錄三十卷(許敬宗、令狐德棻等撰), 後修實錄三十卷(德棻等所撰,止乾封,劉知幾、吳兢續成之),...
  • 八王之亂
    106.八王之亂   惠帝時八王之亂,晉書彙敘在一卷;通鑑紀事本末,亦另爲一條。然頭緒繁多,覽者不易了。今撮敘於此。武帝崩,欲以汝南王亮(司馬懿之子,武帝叔父),與皇后父楊駿同輔政。駿匿其詔,矯令亮出鎮許昌。惠帝既立,賈后擅權,殺楊駿,廢楊太后,徴亮入,與衛瓘同輔政。亮與楚王瑋(武帝第五子,惠帝之弟)不協。瑋諂於賈后,誣亮、瓘有廢立之謀。后乃使帝詔瑋殺亮、瓘,又坐瑋以矯殺亮、瓘之罪,即日殺瑋。后益肆淫恣,廢太子遹(惠帝長子,非賈后生),弑楊太后。時趙王倫在京師(懿第九子,惠帝之叔祖),素諂賈后。其嬖人孫秀説以太子之廢,人言公實與謀,宜廢后以雪此聲。倫從之。秀又恐太子聰明,終有疑於倫,不如待后殺太子而廢后,爲太子報讎,可以立功。乃使后黨諷后,后果殺太子。倫遂矯詔,與齊王冏(齊王攸之子,惠帝從弟)率兵入宮,廢后,幽於金墉城,尋害之。倫自爲相國、侍中,都督中外諸軍事。孫秀等恃勢肆橫。冏内懷不平...
  • 帝王行三年之喪
    184.帝王行三年之喪 三代後帝王行三年之喪者,咸稱晉武帝、宋孝宗,然尚有晉康帝、姚興(後秦)、魏孝文帝、後周武帝、北漢劉承鈞,世未之知也,今摘於後: 晉文帝(司馬昭)之喪,臣民皆從權制,三日除服,既葬,武帝亦除,然猶練冠蔬食。及謁崇陽陵,仍以衰絰從行,裴秀奏「既除不宜復服。」乃止。羊祜曰「三年之喪,漢文除之,毀禮傷義。今主上至孝,若因此復先王之法,不亦善乎!」群臣異議,乃止。群臣又請易服復膳,詔曰「可試省孔子答宰我之言,無俟紛紜也。」遂蔬素終三年。後王太后殂,帝居喪一遵古禮,既葬,有司請除服,詔曰「前代典禮,質文不同,何必援近制,使達喪闕然乎?」竟素服以終三年。 武帝楊后崩,既葬即吉,尚書奏「皇太子宜復古典,以諒闇終制。」從之。 宰我問:「三年之喪,期已久矣。君子三年不為禮,禮必壞;三年不為樂,樂必崩。舊穀既沒,新穀既升,鑽燧改火,期可已矣。」子曰:「食夫稻,衣夫錦,於女安乎﹖」...
  • 一帝數后
    216.ひとりの皇帝に数人の皇后   ひとりの皇帝にひとりの皇后というのが、礼である。荒れ乱れた王朝では放漫で法や紀律がなく、同時に数人の皇后を立てる者がいた。孫皓の夫人の滕氏は寵愛がなく、長秋宮の官僚は定足数を備えているだけであった。しかし宮中の諸姫で皇后の璽綬を佩びる者がはなはだ多かった(『三国志』呉書妃嬪伝)。劉聡が皇帝を僭称すると、その妻の呼延氏を立てて皇后とした。呼延皇后が死去すると、劉殷の娘を納れて皇后とした。劉皇后が死去すると、さらに靳準の娘を納れて皇后とした。ほどなく靳皇后を進めて上皇后としたが、貴妃の劉氏を立てて左皇后とし、貴嬪の劉氏を立てて右皇后とし、さらに樊氏を立てて上皇后とした。四皇后のほかに、皇后の璽綬を佩びる者がさらに七人いた。後に宦官の王沈の養女を左皇后とし、宣懐の養女を中皇后とした(『晋書』劉聡載記)。北周の宣帝が初めて即位すると、妃の楊氏を立てて皇后とし...
  • 禪代
    99.禪代   古來只有禪讓、征誅二局,其權臣奪國,則名簒弑,常相戒而不敢犯。王莽不得已,託於周公輔成王,以攝政踐阼,然周公未嘗有天下也。至曹魏則既欲移漢之天下,又不肯居簒弑之名,於是假禪讓爲攘奪。自此例一開,而晉、宋、齊、梁、北齊、後周以及陳、隋皆傚之。此外尚有司馬倫、桓玄之徒,亦援以爲例。甚至唐高祖本以征誅起,而亦假代王之禪。朱温更以盜賊起,而亦假哀帝之禪。至曹魏創此一局,而奉爲成式者且十數代,歴七、八百年,真所謂奸人之雄,能建非常之原者也。然其間亦有不同者。及身簒位之不同曹操立功漢朝,已加九錫、封二十郡、爵魏王、建天子旌旗、出警入蹕,然及身猶不敢稱帝。至子丕始行禪代。(操嘗云,若天命在吾,吾其爲周文王乎。此可見其本志,非飾説也。又魏書,魏國既建,諸將皆爲魏臣,獨夏侯惇尚爲漢臣,惇上疏不敢當不臣之禮,操曰:「區區之魏,而敢屈君爲臣乎。」是操爲魏王時,猶與漢臣爲同列也。)司馬氏三世相魏...
  • 景泰帝欲仍立沂王
    509.景泰帝欲仍立沂王   景泰帝初惑黄竑之言,廢英宗太子見深爲沂王,立己子見濟爲太子。後太子薨,未嘗不欲仍立沂王也。六年七月,有給事中徐正請閒,言沂王當遷於所封地,以絶人望,別選王子育之宮中。上皇所居南城,宜增高墻垣,伐去高樹,宮門之鎖亦宜灌鐵,以備非常。帝大駭,叱出之,欲正其罪,慮駭衆,遂謫之鐵嶺衛。是帝固未肯聽小人之言也。迨英宗復辟,徐有貞輩誣王文、于謙謀立外藩,帝心事遂不白云。事見廖莊傳,世罕有論及者,故特表出之。
  • 僭僞諸君有文學
    111.僭僞諸君有文學   晉載記,諸僭僞之君,雖非中國人,亦多有文學。劉淵少好學,習毛詩、京氏易、馬氏尚書,尤好左氏春秋、孫呉兵法,史漢諸子無不綜覽。嘗鄙隋、陸無武,絳、灌無文,一物不知,以爲君子所恥。其子劉和亦好學,習毛詩、左氏春秋、鄭氏易。和弟宣師事孫炎,沈精積思,不舍晝夜。嘗讀漢書至蕭何、鄧禹傳,未嘗不反覆詠之。劉聰幼而聰悟,博士朱紀大奇之。年十四,究通經史,兼綜百家之言,工草、隸,善屬文。著述懷詩百餘篇,賦、頌五十餘篇。劉曜讀書,志於廣覽,不精思章句,亦善屬文,工草、隸。小時避難,從崔岳質通疑滯。既即位,立太學於長樂宮,立小學於未央宮,簡民閒俊秀千五百人,選朝廷宿儒教之。慕容皝尚經學,善天文。即位後立東庠於舊宮,賜大臣子弟爲官學生,親自臨考。自造太上章,以代急就。又著典誡十五篇,以教冑子。慕容雋亦博觀圖書。後慕容寶亦善屬文,崇儒學。苻堅八歳,向其祖洪請師就學,洪曰「汝氐人,乃求...
  • 遼帝皆有簡便徽號
    368.遼帝皆有簡便徽號   遼帝皆有一二字簡便徽號,當時爲臣下所稱,後世亦即以此別之爲某帝,初不稱廟諡也。如太祖曰天皇帝,太宗曰嗣聖皇帝,世宗曰天授皇帝,穆宗曰天順皇帝,景宗曰天贊皇帝,聖宗曰天輔皇帝,道宗曰天祐皇帝,末帝曰天祚皇帝,皆於初即位時,羣臣上尊號,即有此二字。甚至皇后亦另有徽稱,如太祖后曰地皇后,聖宗后曰齊天皇后,道宗后曰懿德皇后是也。其後耶律淳僭位,亦號天錫皇帝。耶律大石亦號天祐皇帝。大石歿,其后塔不烟稱制,亦號感天皇后,其女普速完稱制,亦號承天太后。此亦一代之制也。按元制,毎帝亦有國語徽稱,如太祖曰成吉思皇帝,世祖曰薛禪皇帝,成宗曰完澤篤皇帝,武宗曰曲律皇帝,仁宗曰普顏篤皇帝,英宗曰格堅皇帝,文宗曰札牙篤皇帝是也。但元制係以國語爲尊奉之稱,遼制則不用契丹語而以漢字尊稱,故不同耳。
  • 五代諸帝皆無後
    305.五代の諸皇帝には皆子孫が残らなかった  後梁の太祖朱温の子の彬王の友裕は早く亡くなった。  郢王の友珪は皇帝殺害を企てて逆に処刑された。  養子である博王の友文は、朱友珪に陥れられ殺された。  均王の友貞が皇帝の位を継ぎ,これが末帝てある。後唐の兵が乱入してきた際,建國樓で自殺した。  康王の友孜は,末帝の時に先に謀反を図り処刑された。  賀王の友雍、福王の友璋、建王の友徽は,歐陽修の五代史(新五代史)ではこの三人の死の状況はわからないとしていて,薛居正の五代史(旧五代史)もまたその死の記述は無いが,王禹偁の五代史闕文のなかで,後唐の莊宗が開封に乱入した際,朱氏一族を盡く処刑したとの記載がある。つまり友璋達は皆殺されたのである。資治通鑑では後唐の軍勢がまさに到着しようとする時に,末帝が兄弟がこの混乱に乘じての謀反を企てるのを疑って,皆これを殺したとしている。これによ...
  • 唐人避諱之法
    119.唐の人の諱を避ける方法  唐の人が諸々の史書を編修しようとする時には,(唐の皇帝の父)祖の諱を避けるのに三つの方法を用いた。(一つは)前(の時代の)人で「虎」や「淵」という同じ名を持つ者がいれば,その字を用いる。例えば晉書での公孫淵を公孫文懿と稱したりするようにである。劉淵は劉元海と稱し、褚淵は囘じように褚彦と稱した。石虎を石季龍と稱したりするのもこれである。  これとちがって、(唐の皇帝の父祖の諱の)文字を刪ってしまうというのもある。梁書の蕭淵明、蕭淵藻を,ただ蕭明、蕭藻を稱したりするようにである。陳書の韓擒虎をただ韓擒と稱したりするのもこれである。  またこれともちがって、その(唐の皇帝の父祖の諱の)文字を、似た意味(や物等)の文字に改めるというのもあり,だいたい「虎」の字があれば皆猛獸の字に改めて,李叔虎なら李叔彪と稱し,殷淵源は殷深源と稱している。陶淵明なら陶泉明と...
  • 大業十四年
    180.大業十四年について  隋の煬帝が江都で殺害された事件は大業十四年のことである。しかし隋書及び北史に, (大業)十三年に唐の高祖が起兵して長安に入り,代王の(楊)侑を奉じて皇帝とし,改 元して義寧としたとあるので,煬帝の大業の年號は既に改元されたということで削除され また、隋書を編纂した者は皆唐の臣下であったこともあり,唐の制度に従い,義寧の年号 を使って記述し,煬帝の弑害を史書の義寧二年の記述の中に記載した。  その實状は当時には二人の皇帝が共存していたというべきものであり,(煬帝は)最後 まで其の年號(大業)を稱していたのであるから,大業十四年(という記載方法)をなく すべきではないのである。 180.大業十四年   隋煬帝江都之難在大業十四年,而隋書及北史只書十三年者,縁十三年唐高祖起兵入長安,奉代王侑爲帝,改元義寧,而煬帝大業之號已從削除,修...
  • 北齊百官無妾
    210.北斉の百官には妾がいなかった   『北斉書』元孝友伝にいう。「将相の多くは皇帝の娘を妻に迎え、王侯の多くは皇后の一族を娶っているため、妾や媵がおらず、それが普通であるように習慣化されている。朝廷を挙げてほぼ妾がおらず、天下はほとんどみな一妻である。父母が娘を嫁がせるときには必ず妬むように、姑や義姉を迎えるには必ず互いに避けるようにと、娘に教えている。夫を制するのを婦人の徳とし、よく妬むのを女の仕事として、自ら人に欺されまいといい、他人が自分を笑うのを恐れている」と上疏して言った。当時の風俗はこのようなものと見ることができる。   考えるに前漢のときの王吉が「漢家の故事では、列侯が皇帝の娘を妻に迎え、諸侯が国人に諸侯の娘を迎えさせているため、男を女に仕えさせ、夫を妻に劣位させている。陰陽の位が逆転しているため、女乱が多いのである」と上疏して言った。これは漢の時にすでにこの陋習があ...
  • 一母生數帝
    454.一母生數帝   前代有一母生數帝者,陔餘叢考所載尚未備,今更詳録於此。晉庾后生成帝、康帝。章太妃生哀帝、廢帝,陳后生安帝、恭帝。北齊婁后生文襄、文宣、孝昭、武成,一追諡之帝,三及身爲帝。唐武后生中宗、睿宗。宋杜太后生太祖、太宗。遼史,太祖后述律氏生長子倍,封東丹國,爲人皇王,後追諡義宗。次子德光,即皇帝位,是爲太宗。幼子李胡,後亦追諡章肅皇帝。是一母生三帝,一及身爲帝,二追尊之帝也。金史,景祖后唐括氏生劾里鉢,是爲世祖;頗剌淑,是爲肅宗;盈歌,是爲穆宗,此猶是追尊之帝。而世祖后拏懶氏生烏雅束,是爲康宗;阿骨打,是爲太祖;呉乞買,是爲太宗。烏雅束猶是追尊之帝,太祖、太宗則創業之君,及身有天下,是一母生三帝,一追尊之帝,二創業之帝也。又檢元史,此事尤多。太祖第四子拖雷之妃唆魯帖尼(後追諡莊聖皇后)生二子,長蒙哥,是爲憲宗;次忽必烈,是爲世祖。又世祖太子真金(後追諡裕宗)之第二子達剌麻...
  • 金史失當處
    378.金史失當處 金史體例亦有可議者: 世紀補 本紀之前先列世紀,敘世祖以下世次及締造功業。而本紀後又有世紀補,則敘熙宗父宗峻、世宗父宗輔、章宗父允恭,皆以子登極追尊為帝者也。(宗峻追諡景宣帝,廟號徽宗;宗輔追諡簡肅帝,廟號睿宗;允恭追諡光孝帝,廟號顯宗) 此等追尊之帝,本宜各為一傳,冠於列傳之首,如元史睿宗、裕宗、顯宗、順宗,明史興宗、睿宗之例,最合體裁。 金史以太祖以前十一君皆係追諡之帝,已入世紀,此三人亦係追諡之帝,不便入列傳,故又為世紀補附於本紀之後,亦創例之得者也。 然海陵篡立,亦追尊其父宗幹為睿明皇帝,廟號德宗,後因海陵廢為庶人,遂並其父追尊之帝號亦從削奪,而列於宗本等傳。此固當時國史記載如是,及異代修史時,則海陵一十三年御宇,既不能不編作本紀,其追尊之父,亦何妨附於世紀補,以從畫一。況宗幹開國元勳,其功烈迥在宗峻、宗輔上,即世宗登...
  • 後魏追諡之濫
    187.北魏の追諡の濫用 天下にあってその先代を追尊するのは、礼の定めである。しかし二、三代にすぎない追尊の範囲が、北魏のみは制限がなくなっている。道武帝が建国して帝を称すると、その始祖の力微を追尊して神元皇帝とした。神元より以下については、沙漠汗は文帝といい、悉鹿は章帝といい、綽は平帝といい、弗は思帝といい、禄官は昭帝といい、猗迤は桓帝といい、猗盧は穆帝といい、鬱律は太祖平文帝といい、賀は恵帝といい、紇那は煬帝といい、翳槐は烈帝といい、什翼犍は昭成帝といって、十三帝におよんだ。また神元より上については、極遠の祖まで追尊して、毛は成帝といい、貸は節帝といい、観は荘帝といい、樓は明帝といい、越は安帝といい、推寅は宣帝といい、利は景帝といい、俟は元帝といい、肆は和帝といい、機は定帝といい、蓋は僖帝といい、儈は威帝といい、鄰は献帝といい、詰汾は聖武帝といって、またともに十四帝であった。 (翻...
  • 元帝后皆不諱名
    433.元帝后皆不諱名   元代帝后生前皆無徽稱,臣下得直呼其名,蓋國俗淳樸,無中國繁文也。蒙哥殂於蜀,郝經上世祖書,謂蒙哥罕無故進兵於蜀,今已崩逝,大正宜迎蒙哥罕靈輿,收皇帝璽。蒙哥即憲宗也,其時尚未有謚號,故臣下皆以名呼。曹元用傳,累朝皇后既崩者,宋有謚號,猶各以名呼之,元用言后爲天下母,豈可名呼。又逯魯曾傳,時以武宗皇后真哥無子,欲以明宗母、文宗母配享,魯曾曰:「真哥皇后在武宗朝已膺玉册,安得不爲立主配食。」是臣下稱皇后亦呼其名也。又世祖太子真金,順帝忽都皇后生子亦名真金,尤覺太無忌諱。(按北俗本無諱名之例,遼興宗時,蕭韓家奴疏言,太祖之考夷离堇,至今猶以名呼,於是始追尊玄、德二祖。蓋北俗淳朴,本不諱名也。)
  • 唐代宦官之禍
    東漢及前明宦官之禍烈矣,然猶竊主權,以肆虐天下。至唐則宦官之權反在人主之上,立君、弒君、廢君,有同兒戲,實古來未有之變也。推原禍始,總由於使之掌禁兵、管樞密,所謂倒持太阿而授之以柄,及其勢已成,雖有英君察相,亦無如之何矣! 身在禁闈,社鼠城狐,本易竊弄威福,此即不典兵、不承旨,而燕間深密之地,單詞片語,偶能移動主意,軒輊事端,天下已靡然趨之。 如高力士貴幸時,儌倖者願一見如天人,肅宗在東宮亦以兄事之,諸王公主呼為翁,戚里諸家尊曰,將相大臣皆由之以進。嘗建佛寺、道觀各一所,鐘成,宴公卿,一扣者,納禮錢十萬,有至二十扣者。李輔國貴幸時,人不敢斥其官,直呼為五郎。李揆當國,以子姓事之,嘗矯詔遷上皇於西內,至憂鬱以崩。他如魚朝恩忌郭子儀功高,譖罷其兵柄。程元振譖來瑱,賜死,李光弼遂不敢入朝。又譖裴冕罷相,貶施州,以致方鎮解體,吐蕃入寇,代宗倉皇出奔,徵諸道兵,無一至者。此猶是未掌兵權,未管樞要...
  • 漢帝多自立廟
    21.漢の皇帝の多くは自ら廟を立てた   前漢の諸帝の多くは、生前に自ら廟を立てた。『漢書』本紀によると、文帝四年(前176)、顧成廟を作った。註によると、帝は自ら廟をつくったが、つくりは狭小で、あたかも顧み望んでいるうちにできあがったもののようであった。賈誼が、「顧成の廟を天下の太宗とさせよう」と策にいったのは、つまりここを指しているものである。景帝の廟は徳陽といい、武帝の廟は龍淵といい、昭帝の廟は徘徊といい、宣帝の廟は楽游といい、元帝の廟は長寿といい、成帝の廟は陽池というが、ともに『漢書』の註に見える。 21.漢帝多自立廟   西漢諸帝多生前自立廟。漢書本紀,文帝四年,作顧成廟。註:帝自爲廟,制度狹小,若可顧望而成者。賈誼策有云,使顧成之廟爲天下太宗,即指此也。景帝廟曰德陽,武帝廟曰龍淵,昭帝廟曰徘徊,宣帝廟曰樂游,元帝廟曰長壽,成帝廟曰陽池,倶見漢書註。
  • 五世相韓
    10.五代にわたって韓に宰相たること   『史記』は、張良が五代にわたって韓に宰相をつとめた家柄だったので、韓のために始皇帝に仇を報じようとしたといっている。しかし、五代というのは韓王を指して言っているのであり、韓の王五代にわたって張氏が宰相であったと言っているので、張氏の五代がみな韓で宰相であったわけではない。張良の祖父の張開地は韓の昭侯・宣恵王・襄哀王のもとで宰相であり、張良の父の張平は釐王・悼恵王のもとで宰相であった。これを五代としているのだ。顔師古の註によると、昭侯から悼恵王にいたるまで、合わせて五君である。 10.五世相韓   史記稱張良以五世相韓,故爲韓報仇。然五世指韓王而言,謂韓王五世皆張氏爲相,非張氏五世皆相韓也。良大父開地相韓昭侯及宣惠王、襄哀王,良父相釐王及悼惠王,是爲五世。顏師古註,從昭侯至悼惠王,凡五君也。    前頁 『廿二史箚記』巻一   ...
  • 劉福通被殺
    565.劉福通被殺   陸深平胡録,至正十九年,劉福通以宋主韓林兒走安豐。二十三年,張士誠遣呂珍破其城,殺劉福通。而平呉録則云,帝率常遇春等救安豐,珍敗走,福通奉韓林兒退居滁州。按二録皆陸深所著,而一則云福通被殺,一則云福通奉其主居滁,何舛錯如此?高岱鴻猷録則云,珍攻安豐急,劉福通遣使求救於建康,上親率諸將救之。至則珍已破安豐,殺福通,上遂以林兒還金陵云。按是時群雄多奉林兒龍鳳年號,明祖亦用之,令下則云「皇帝聖旨、呉王令旨」,已居然天下共主矣。福通其宰相也,權位并在明祖之右。呂珍已爲明兵所敗,并獲元將忻都,走左君弼,使福通不死,必仍奉林兒據大位,以號召天下,其肯退居於滁,寄人籬下耶?是珍之殺福通,自是實事。福通既死,明祖奉林兒居滁,則已在掌握中,不逾年林兒死,遂改年爲呉元年。廖永忠傳并謂,永忠迎林兒還應天,至瓜歩,覆其舟死,則鴻猷録所云奉林兒還金陵者亦誤也。   前頁 『廿二史...
  • 金史誤處
    381.金史の誤っているところ  遼史では「天祚帝は宰相の張琳、李處温と秦晉國王の耶律淳に燕京を守るよう命じ,天祚帝は夾山に遁走したが,天祚帝からの命令が通じなくなったため,奚和勒博、耶律達實(大石)と李處温、左企弓、虞仲文、曹勇義、康公弼等は耶律淳を立てて皇帝とし,建福に改元した。そのうちに,耶律淳が死んだため,一同はまたその妻の德妃蕭氏を皇太后として,主軍國事とし,天祚帝の次男で秦王の定を迎えて皇帝としようとして,皇太后は稱制を行い,改元して德興とした。」と書いている。  これによって耶律淳の年號が建福,蕭氏の年號が德興というのがわかるのである。  しかし金史の左企弓傳では「遼の天祚帝は陰山に逃亡して,秦晉國王の耶律淳が燕で自立して,德興と改元した。」としている。つまり耶律淳の妻の年號を耶律淳の年號としているのである。  また遼史では「左企弓、曹勇義、虞仲文、康公弼達は金に降...
  • 上尊養牛
    48.上尊養牛   漢制,大臣告老,特詔留之者,則賜養老之具以慰之。如平當乞骸骨,詔賜養牛一,上尊酒十石。匡衡乞骸骨,詔賜上尊酒養牛。張禹告病,亦賜養牛上尊酒。大官致餐是也。而其時大臣有罪當誅,亦用此法賜死。翟方進被譴,成帝賜册曰:「今賜君上尊酒十石、養牛一,君其自審處焉。」方進,即日自殺。上仍秘之,贈丞相印綬、乘輿、秘器,更親臨弔。(以上見各本傳)如淳註曰:「漢儀注,有天文大變,天下大禍,皇帝使侍中持節,乘四白馬車,賜上尊酒十斛、牛一頭,策告殃咎。使者去半道,丞相即上病。使者還,未白事,尚書以丞相不起聞。」蓋自文帝感賈生槃水加劍之言,優禮大臣,不加顯戮。後世遂制此法。雖賜死而仍若以病終者,於是遂成故事。其有不肯自殺,願就獄對簿者,轉以爲違制拒命。如王嘉爲丞相,有詔詣廷尉,掾吏泣進藥,嘉不肯服,主薄曰:「丞相不對簿,已爲故事,宜自引決。」嘉曰:「備位三公,負國者當伏刑都市,何爲咀藥死。」...
  • 婚娶不論行輩
    44.結婚するときに世代順を問題にしない   漢の恵帝(劉盈)の皇后の張氏は、恵帝の姉の魯元公主のむすめであって、つまるところ恵帝の姪にあたる。呂太后は肉親を重んじようとしたので、恵帝に連れ添わせて皇后として立てるのに、帝の姪を妻としたのである。哀帝(劉欣)の皇后の傅氏は、哀帝の祖母の傅太皇太后の従弟のむすめにあたる。太皇太后はかつて元帝の昭儀であって、定陶共王(劉康)を生み、定陶共王は哀帝を生んだ(宮中に入って成帝の跡を継ぎ、このため皇帝となった)。このように哀帝は傅太皇太后の孫である。しかし傅太皇太后は肉親を重んじようとして、姪を哀帝にめあわせたので、外戚の叔母世代を妻としたのである。漢のときの法制は、このように大ざっぱであった。 44.婚娶不論行輩   漢惠帝后張氏,乃帝姊魯元公主之女,則帝之女甥也。呂后欲爲重親,遂以配帝,立爲皇后,是以甥爲妻也。哀帝后傅氏,乃帝祖母傅太...
  • 明人説部
    576.明人説部   徐禎卿翦勝野聞,明祖擒張士誠後,斥江浙行省參政周伯琦曰:「元君寄汝以腹心,乃資賊爲亂耶!」先迎之,三日大醉,以酬其勞而戮之。按元史,平江破後,伯琦歸故郷,以良死,初未嘗被戮也。野聞又云,士誠司徒李伯昇先以國情輸我師,帝亦以爲姦臣而誅之。然湖州之破,滿城皆降於明,獨伯昇不肯,曰:「張太尉待我厚,何忍爲此。」不得已,亦降。及平江將陷,伯昇又使人説士誠以保身全家爲上策。則其惓惓於故主,尚非恝然。是以既降後,命仍故官。洪武七年,尚命伯昇掌屯田山東、北平等處。後又兼懿文太子同知詹事院事。又命將兵討平湖廣慈利蠻。呉良傳,伯昇又隨鄧愈討廣西叛蠻。則伯昇初未被誅也。而野聞以爲被戮,果何所據耶?又王錡寓圃雜記,元有全某者,乃宋淵聖皇帝之母舅,在元學佛於土番,號合尊大師,有子亦從其教,後元主坐以説法聚衆,皆殺之。按淵聖乃欽宗追尊之號,至元朝已百六十餘年,何得尚存?合尊大師,乃德祐帝也,...
  • 建成元吉之子被誅
    255.李建成・李元吉の子が処刑されたこと   謀反した者の一族を処刑するのは、秦・漢・六朝以来、みなこの法を用いた(崔仁師伝に見える)。太宗(李世民)が秦王のとき、李建成・李元吉を殺したのは、兄弟の間でたがいに殺し合ったにすぎず、そのとき太宗がまだなお皇帝とならなかったといっても、反論とすることはできない。このとき李建成の子の安陸王李承道・河東王李承徳・武安王李承訓・汝南王李承明・鉅鹿王李承義と、李元吉の子の梁郡王李承業・漁陽王李承鸞・普安王李承獎・江夏王李承裕・義陽王李承度は、ともに連座して処刑されて、その属籍から除かれた。そのときに高祖(李淵)はまだ帝位にあったが、その孫たちが刑法に反して処刑されるのを座視して、ひとりも救うことができなかったのは、高祖もまたきわめて危険な状況にあったからである。 255.建成元吉之子被誅   謀反者族誅,秦、漢、六朝以來,皆用此法。(見崔...
  • 元帝子稱太子者不一
    432.元帝子稱太子者不一   古來儲君始稱太子,元制則帝子多以太子稱,不必繼體也。元史宗室世系表,太祖六子,長卓沁太子(舊名朮赤),次察罕台(舊名察罕),次太宗皇帝,次圖類(舊名拖雷,即睿宗也),次烏拉齊(舊名兀魯赤),無嗣,次六科爾戩太子(舊名闊烈堅)。太宗七子,長定宗,次庫騰太子(舊名闊端),次庫春太子(舊名闊出),其餘倶稱大王。定宗三子,惟諾果(舊名腦忽)稱太子,餘稱大王。世祖立珍戩(舊名真金)爲皇太子,餘倶稱王。泰定帝四子,皇太子阿爾濟雅巴(舊名阿里吉八)之外,又有錫錫太子(舊名小薛),允丹藏布太子(舊名允丹藏卜)。文宗三子,皇太子喇特納達喇之外(舊名阿剌忒荅剌),餘爲雅克特古斯太子(舊名燕帖古思),太平訥太子。更以諸傳考之,艾穆傳,從四太子南伐,謂圖類也。按扎兒傳,帝率皇弟四太子征潞州,亦謂圖類也。高諾爾傳(舊名高鬧兒)從庫春(舊名闊出)太子出征,其子元長又從太子托歡(舊名脱...
  • 皇太弟
    183.皇太弟 皇太孫之稱已非古法,晉以後更有所謂皇太弟者。晉惠帝皇太孫臧及尚倶死,因河間王顒奏,乃詔立成都王穎為皇太弟。(惠帝弟)後穎兵敗,又廢之,而立豫章王熾為皇太弟。(亦惠帝弟)既即位,是為懷帝。劉淵死,其太子和為劉聰所害,聰讓位於弟北海王乂,乂固請聰即位,乃立乂為皇太弟,後乂為聰子粲所害。慕容暐為苻堅所擒,官於長安,後暐弟沖起兵,高蓋等立沖為皇太弟,檄書與堅,自稱皇太弟致書,請奉送家兄皇帝出城。苻丕敗死,其子懿奔於苻登,時登已稱帝,乃立懿為皇太弟。此古來所創見也。唐文宗崩,中尉仇士良等立穎王瀍為皇太弟,即位,是為武宗。僖宗崩,軍容使楊復恭立壽王為皇太弟,即位,是為昭宗。此皆倉猝擁立,非預建為儲副者。(又南唐元宗李璟立弟齊王景遂為皇太弟,然未嘗傳位。)然兄終弟及,名號尚非不經。(唐武宗崩,宦官馬元贄立光王為皇太叔,即位,是為宣宗,此又古所未有。安樂公主請中宗以己為皇太女,則更不經...
  • 晉帝多兄終弟及
    109.晋の皇帝の多くは兄が亡くなると弟が嗣いだ   晋の司馬師と司馬昭は相次いで魏の政治を専断した。これは開国のときにすでに兄弟で継承していたのである。後に恵帝の太子や太孫がともに薨去したため、弟の豫章王司馬熾が皇太弟に立てられ、即位して懐帝となった。成帝が崩御すると、同母弟の司馬岳が立ち、これが康帝となった(いずれも庾后からの出生である)。哀帝が崩御すると、同母弟の司馬奕が立ち、これが廃帝海西公となった(いずれも章太妃からの出生である)。安帝が崩御すると、同母弟の司馬徳文が立ち、これが恭帝となった(いずれも陳太后からの出生である)。後には北斉の文宣帝・孝昭帝・武成帝もまた兄弟で帝位を継承した。しかし孝昭帝は済南王を廃位して自ら立ったのであり、武成帝は楽陵王を廃位して自ら立った(正しくは楽陵王高百年が殺害されたのは武成帝の即位後)のであり、晋のように次の弟に託して立てたわけではないので...
  • 晉書所記怪異
    107.晋書に記された怪異  正史の中で異聞を多く採用しているのは、『晋書』『南史』『北史』である。その中でも『晋書』戴記には特に怪奇現象の記事が多い。  劉聡の時代に「平陽に隕石が落ちた。それは肉のような見た目であり、大きさは南北に三十歩、東西に二十七歩であった。その肉から臭いが数里先まで漂い、傍らまで近づくと哭き声が聞こえた。劉聡の后・劉氏は、たまたま蛇と虎を産んだ。蛇と虎は人を傷つけながら肉の傍らまで逃げた。蛇と虎が肉に近づくと哭き声はやんだ」という事件が起きたとある。  劉曜の時代に「西明門の傍らにある木が風によって吹き倒されると、人形になった。それは人間の形をしていたが、ただ眼と鼻だけがなかった。その後、その人形には枝葉が茂りに成長した」という事件が起きたとある。  劉聡の時代に「劉聡の息子・劉約が死去したが、指が一本だけ暖かいままだったので、葬儀を行わなかった。そうした...
  • 光武信讖書
    63.光武信讖書   讖緯起於西漢之末。張衡著論曰:「漢以來,並無讖書。劉向父子領校秘書,尚無讖録,則知起於哀、平之際也。」(漢書路温舒傳「温舒從祖父受暦數天文,以爲漢厄三七之期。乃上封事以預戒。」温舒係昭帝時人,則又在哀、平之前。)案樊英傳,有「河洛七緯。」章懷註曰「易緯稽覽圖、乾鑿度、坤靈圖、通卦驗、是類謀,辨終篇也;書緯琁機鈐、考靈耀、刑德放、帝命驗,運期授也;詩緯推度災、氾歴樞,含神霧也;禮緯含文嘉、稽命徴、斗威儀也;樂緯動聲儀、稽耀嘉,斗圖徴也;孝經緯援神契,鉤命決也;春秋緯演孔圖、元命包、文耀鉤、運斗樞、感精符、合誠圖、考異郵、保乾圖、漢含孳、佑助期、握誠圖、潛潭包,説題辭也。」此等本屬不經,然是時實有徴驗不爽者。楊春卿善圖讖,臨死,戒其子統曰:「吾綈囊中有祖傳秘記,爲漢家用。」(楊厚傳)哀帝建平中,有方士夏賀良上言赤精子之讖:漢家暦運中衰,當再授命,故改號曰「太初元將元年」...
  • 過秦論三處引用
    11.過秦論の三カ所の引用   賈誼の過秦論は、秦が法律を尊び、仁義を施さず、一夫が反乱を起こすにいたって、天下は崩壊したと指摘している。司馬遷『史記』が秦本紀(正しくは秦始皇本紀)の後ろにこれを引用しているのは、最も妥当なことだ。褚少孫もまた陳渉世家の後ろにこれを引いて、その中に「陳渉はあばら家の子」の数語があるのも、このため過秦論を引いたものだ。しかし正当な引用の手法ではない。班固『漢書』はさらに陳渉項羽伝(陳勝項籍伝)の後ろにここと司馬遷『史記』が項羽を論じた文章を引いて、二人の伝賛を作っている。数々の典籍がその文章の大元を忘れている咎を免れない。さらには『漢書』の武帝以前の本紀や列伝は多く『史記』の文を用いているが、自分の作った文章のような体裁で、司馬遷『史記』の引用うんぬんに言及したことはない。過秦論や『戦国策』、陸賈『新語』の文を引いているところも、また自分の作った文章のよう...
  • 三國志多迴護
    87.三國志多迴護   春秋書天王狩於河陽,不言晉侯所召,而以爲天子巡狩,既以開掩護之法,然此特爲尊者諱也。至於弑君、弑父之事,則大書以正之。如許止、趙盾之類,皆一字不肯假借,所以垂誡,義至嚴也。自陳壽作魏本紀,多所迴護,凡兩朝革易之際,進爵、封國、賜劍履、加九錫以及禪位,有詔、有策,竟成一定書法。以後宋、齊、梁、陳諸書,悉奉爲成式。直以爲作史之法,固應如是。然壽迴護過甚之處,究有未安者。漢獻帝遜位,魏封爲山陽公,及薨,追謚爲漢孝獻皇帝。魏紀即稱之爲獻帝,不曰山陽公也。魏常道郷公遜位,晉封爲陳留王,及薨,亦追謚爲元皇帝,則魏紀亦應稱爲元帝,乃僅以陳留王紀事,而絶無元帝之稱。則已異於山陽書法矣。司馬師之廢齊王芳也,據魏略云師遣郭芝入宮,太后方與帝對奕。芝奏曰:「大將軍欲廢陛下。」帝乃起去,太后不悅,芝曰:「大將軍意已定,太后但當順旨。」太后曰:「我欲見大將軍。」芝曰:「大將軍何可見耶。」太...
  • 流賊僞官號
    541.流賊僞官號   明史流賊傳,李自成既據襄陽,創官爵名號,有上相、左輔、右弼、六政府、侍郎、郎中、從事等官,要地設防禦使,府曰尹,州曰牧,縣曰令,武官則有權將軍、制將軍、威武將軍、果毅將軍等名。及至陝西稱偽號,又設天佑殿大學士、六政府尚書、鴻文館、文諭院、諫議直指使、從政、統會、尚契司、驗馬寺、書寫房等官,復五等封爵。後破京師,又益改官制,六部曰六政府,司官曰從事,六科曰諫議,十三道曰直指使,翰林曰弘文館,太僕曰驗馬寺,巡撫曰節度使,兵備曰防禦使。今按路振飛傳,有闖賊節度使呂弼周、防禦使武愫,皆爲振飛所擒。又曾亨應傳,亨應先爲御史張懋爵所劾,後亨應死難,而懋爵降賊爲直指使。此偽官名號見於各列傳者也。張獻忠僭號武昌,亦設尚書、都督、巡撫等官。既得成都,又設左、右丞相及六部、五軍都督府。(亦見流賊傳)後孫可望據黔中,凡諸軍悉曰行營,設護衛曰駕前官。(可望欲設六部等官,恐人議其僭,乃以范...
  • 金中葉以後宰相不與兵事
    411.金の中葉以後、宰相は軍事に関与しなかった  金の初めの創業の時には,太祖の兄弟や子,甥たちはみんな,朝堂の外に出ては兵を 率い,朝堂の中に入っては國家の事を会議したため,宰相は多く元帥を兼ねた。  その時の樞密院は主に軍事を司ったが,命令は尚書省が担当した。(白華傳による。) 例えば宗翰が國論勃極烈兼都元帥,太保、尚書令,領三省事となったようにである。  汴京には初め行臺を置いたが,宗弼が領行臺尚書省、都元帥となり,詔によって諸州 郡の軍事の事は元帥府が決定し,民衆の金錢、穀物に関する訴えは尚書省が担当し,宗 弼がこれらのことを共におさめた。  後に朝廷に入って太師,領三省事となったが、都元帥は元のままであった。軍事は皆 宰相が決定すべきだとされていたからである。  明昌年間以後には,軍事は樞密院が主に担当していたが,尚書省は初め関与していな かった。...
  • 唐初三禮漢書文選之學
    六朝人最重三禮之學,唐初猶然。 張士衡從劉軌思授毛詩、周禮,又從熊安生、劉焯受禮記,皆精究大義。當時受其業者,推賈公彥。士衡傳公彥撰周禮義疏五十卷、儀禮義疏四十卷。公彥子大隱亦傳其業。又有李元植從公彥授禮學,撰三禮音義行於世。公彥傳王恭精三禮,別為義證,甚精博。蓋文懿、文達皆當世大儒,每講必遍舉先儒義,而暢恭所說。孔穎達傳王元感嘗撰禮記繩愆,徐堅、劉知幾等深嘆賞之。元感傳王方慶尤精三禮,學者有所咨質,必究其微,門人次為雜禮答問。方慶傳他如褚無量、韋逌ㄧㄡˊ、高仲舒、唐休璟、蘇安恒皆精三禮,見各本傳。 今諸儒論著見於新舊書者,如王方慶、張齊賢論每月皆告朔之說。舊方慶傳、新齊賢傳王元感三年之喪以二十七月,張柬之以二十五月,一本鄭康成說,一本王肅說也。舊柬之傳,新元感傳史元燦議禘祫三年、五年之別。韋絳傳說文解字:祫,大合祭先祖親疏遠近也。周禮曰:三歲一祫。禮記˙王制:天子諸侯宗廟之祭,春曰礿...
  • 新唐書
    220.新唐書   宋の仁宗は、劉昫らが編纂した『旧唐書』は卑弱で淺陋だとして、翰林学士である欧陽修に命じて、端明殿の学士である宋祁が各刊の編撰を行い,曾公亮が皇帝に上提するまで,十七年を要して、およそ二百二十五卷に及ぶ新唐書が完成した。本紀、志、表,列伝。故事,各書の筆頭には官に用いられた尊者一人を置き,唐書において功績が多いとされた先進の人々の伝記を宋祁が修正し,各列伝を編撰して進めたのである(そこで修伝と言われる)。宋祁が詔により唐書の修正に従事した十年間余り、宮廷内に寝起きし,原稿を納得ゆくまで推敲吟味して,列伝百五十卷を練り上げた(そこで祁伝と言われる)。論者は、「『新唐書』に記載された記事は『旧唐書』より豊富であるが,文は『旧唐書』より簡潔である」と言っている。このことは言うまでもなく、欧陽修が宋二公時代の古文の大家であるためである。とはいえ 文体は必ずしも一定でなく,文章に...
  • 建業有三城
    116.建業には三つの城があった   六朝のとき、建業の地には三つの城があった。中央のものは台城とされ、皇帝の住居とされ、宮殿や尚書省はみなここにあった。その西は石頭城とされ、当時は京師を守るために兵を宿営させていた。王敦が反乱を起こしたとき、周札が石頭城を守っていたが、開門して王敦を迎え入れた。王敦は石頭に拠って王師を破った。後に蘇峻が反乱を起こすと、成帝をさらって石頭に移した。蘇峻が敗れると、成帝はようやく出ることができた。盧循の水軍がやってくると、朝臣たちは兵を分散して諸港を守ろうとした。劉裕は「兵を分散すると軍勢は弱まります。兵を石頭に集めるのが最善で、そうすれば大軍の力を分散せずにすみます」と言って、自ら石頭に駐屯し、予期どおりに反乱軍を破った。宋の末年に袁粲が石頭城に拠って蕭道成を殺害しようとしたが、かえって蕭道成に殺されてしまった。当時の諺に「可憐なるは石頭城、むしろ袁粲を...
  • 宋封王之制
    330.宋の封王の制   宋初の臣下で王に封ぜられた者は少ない。石守信が亡くなると、威武郡王に封ぜられた。王審琦が亡くなると、琅琊郡王に封ぜられた。高懐徳が亡くなると、渤海郡王に封ぜられた。王景は生前に太原郡王に封ぜられ、亡くなると岐王に封ぜられた。これらはみな前代の功臣であり、位はもともと高く重く、いったん心を傾けて王朝を興すと、藩鎮を説得したので、このため封土でもって栄えさせたのである。宋の天子を助けた功臣では、ただ趙普が亡くなると真定郡王に封ぜられ、曹彬が亡くなると済陽郡王に封ぜられただけである。(趙普はのちに韓王に加封された。)徽宗のときにいたって、王安石が舒王に、蔡確が汝南郡王に追封されたのが、封爵の濫用の始まりである。ときに宰相何執中が亡くなると、清源郡王に封ぜられた。鄭居中が亡くなると、華原郡王に封ぜられた。はなはだしいところでは、宦官の童貫がまた生前に広陽郡王に封ぜられ、...
  • 三國志誤處
    90.三国志の誤記   魏の『武紀』に、建安二年、汝南の黄巾賊何儀・劉辟・黄邵・何曼らは軍勢おのおの数万人であり、曹操は進軍して彼らを討ち破り、劉辟・黄邵らを斬首した、とある。これは劉辟がすでに処刑されていたということである。ところが、建安五年、曹操が官渡において袁紹と対峙したとき、汝南の投降した賊である劉辟らが叛逆して袁紹に呼応し、許の城下を攻略し、袁紹は劉備をやって劉辟を支援させた、という。これは劉辟がもともと死んでおらず、ただ曹操に降伏しただけで、このときまた叛逆して袁紹に呼応したということである。一つの帝紀だけでもうこれだけの矛盾があるのだ。さらに『于禁伝』では、于禁は黄巾賊の征伐に従軍し、劉辟・黄邵らが曹操の陣営に夜襲をかけてきたので、于禁は彼らを撃破し、劉辟・黄邵らを斬った、とある。その記述は官渡戦への従軍以前に置かれており、つまり建安二年の事件ということになる。さすれば実際...
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