『廿二史箚記』wiki内検索 / 「南史增刪梁書處」で検索した結果

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  • 巻十 宋齊梁陳書并南史
    ...互異處? 146.南史增刪梁書處? 147.南史刪梁書處? 148.南史增梁書有關係處?    前頁 『廿二史箚記』    次頁 巻九 宋齊梁陳書 廿二史箚記巻十 巻十一 宋齊梁陳書并南史
  • 巻十一 宋齊梁陳書并南史
    廿二史箚記巻十一 149.南史增梁書瑣言碎事? 150.梁南二史岐互處? 151.南史於陳書無甚增刪? 152.南史與陳書岐互處? 153.宋齊多荒主? 154.宋世閨門無禮? 155.宋子孫屠戮之慘?    前頁 『廿二史箚記』    次頁 巻十 宋齊梁陳書并南史 廿二史箚記巻十一 巻十二 宋齊梁陳書并南史
  • 南史誤處
    143.南史の誤っているところ   南史の宋の後廢帝紀では,孝武帝の二十八子のうち,明帝がその十六人を殺し,その他は皆後廢帝が殺したと言っている。  今宋書を調べてみると,前廢帝、明帝、後廢帝の三本紀及び孝武諸子傳で,孝武帝の子の新安王の子鸞、南海王の子師は,前廢帝の子業が殺すところとなっている。  明帝が殺したのは,前廢帝である子業、豫章王の子尚、晉安王の子勛、安陸王の子綏、臨海王の子頊、邵陵王の子元、永嘉王の子仁、始安王の子真、淮安王の子孟、南平王の子彦、廬陵王の子輿、松滋侯の子房、東平王の子嗣,また子趨と子期、子悅は,みなまだ封じられる前に明帝の殺すところとなっている。  その他の晉陵王の子雲、淮陽王の子霄,及びまだ封じられていなかった子深、子鳳、子元、子衡、子況、子文、子雍は皆早く亡くなった。これは孝武帝の諸子で,前廢帝の殺したのは二人,明帝の殺したのは十六人,早く亡くな...
  • 巻九 宋齊梁陳書
    廿二史箚記巻九 120.宋書多徐爰舊本 121.宋書書晉宋革易之際? 122.宋書書宋齊革易之際? 123.宋書本紀書法? 124.宋齊書帶敍法? 125.宋書紀魏事多誤? 126.宋書南史倶無沈田子沈林子傳? 127.齊書舊本? 128.齊書缺一卷☆ 129.齊書書法用意處? 130.齊書類敘法最善? 131.梁書悉據國史立傳? 132.梁書編傳失檢處? 133.梁書多載飾終之詔 134.梁書有知足傳無方伎傳? 135.古文自姚察始 136.陳書多避諱 137.蕭子顯姚思廉皆爲父作傳入正史 138.八朝史至宋始行    前頁 『廿二史箚記』    次頁 巻八 晉書 廿二史箚記巻九 巻十 宋齊梁陳書并南史
  • 各史例目異同
    3.各史例目異同   古者,左史記言,右史記事。言爲尚書,事爲春秋。其後沿爲編年、記事二種。記事者,以一篇記一事,而不能統貫一代之全;編年者,又不能即一人而各見其本末。司馬遷參酌古今,發凡起例,創爲全史。本紀以序帝王,世家以記侯國,十表以繋時事,八書以詳制度,列傳以誌人物。然後一代君臣政事,賢否得失,總彙於一編之中。自此例一定,歴代作史者遂不能出其範圍,信史家之極則也。魏禧序十國春秋,謂「遷僅工於文,班固則密於體。」以是爲史漢優劣。不知無所因而特創者難爲功,有所本而求精者易爲力。此固未可同日語耳。至於篇目之類,固不必泥於一定。或前代所有而後代所無;或前代所無而後代所有,自不妨隨時增損改換。今列二十二史篇目異同於左:   本紀。古有禹本紀、尚書世紀等書。遷用其體,以敘述帝王。惟項羽作紀頗失當。故漢書改爲列傳。後漢書又立皇后紀。蓋仿史漢呂后紀之例。不知史遷以政由后出,故高紀後,即立后紀。至...
  • 古文自姚察始
    135.古文自姚察始   梁書雖全據國史,而行文則自出鑪錘,直欲遠追班、馬。蓋六朝爭尚駢愈,即序事之文,亦多四字爲句,罕有用散文單行者,梁書則多以古文行之。如韋叡傳敘合肥等處之功,昌義之傳敘鍾離之戰,康絢傳敘淮堰之作,皆勁氣鋭筆,曲折明暢,一洗六朝蕪冗之習,南史雖稱簡淨,然不能增損一字也。至諸傳論,亦皆以散文行之。魏鄭公梁書總論猶用駢偶,此獨卓然傑出於駢四儷六之上。則姚察父子爲不可及也。世但知六朝之後古文自唐韓昌黎始,而豈知姚察父子已振於陳末唐初也哉。
  • 齊書缺一卷
    128.齊書には一卷が欠けている  梁書の蕭子顯傳では著したのは齊書六十巻といっている。今齊書にはただ五十九巻あるだけだが,きっと子顯は沈約が宋書に自序一巻を最後につけたのを真似ようとして,完成できなかったか,或いは完成できたが入れることができなかったのではないのだろうか?  調べてみると南史の子顯傳にはその自序二百餘字を載せているが,それは齊書に後に作られたものが付属されたもので,李延壽がその概略を本傳にいれたものなのだろうか? 128.齊書缺一卷   梁書蕭子顯傳謂所著齊書六十巻。今齊書只有五十九巻,蓋子顯欲仿沈約作自序一巻附于後,未及成,或成而未列入耶?按南史子顯傳載其自序二百餘字,豈即其附齊書後之作,而延壽撮其畧入于本傳者耶?
  • 南史仿陳壽三國志體例
    139.南史仿陳壽三國志體例   宋書武帝本紀所載晉帝進爵、禪位詔策,無慮十餘篇,南史只存九錫一策、登極告天策,其餘皆刪,此蓋仿陳壽魏志舊式也。漢獻帝建安十八年,賜曹操魏公爵,封十郡、加九錫,既有策文,二十年進操爵爲王,裴注中有獻帝詔二道,及禪位曹丕時,袁宏漢紀有詔一道,裴注中又有手詔三道,而壽志一概不載,僅存九錫策一道、禪位策一道。南史刪節宋書,亦只存九錫、禪位二策,固知仿壽志例也。
  • 梁書多載飾終之詔
    133.梁書多載飾終之詔   梁書諸王及功臣列傳,必載其沒後加恩飾終之詔,蓋本國史體例如是,至修入正史,自應刪除,以省繁複。乃王茂傳,詔曰:「旌德紀功,哲王令軌。念終追遠,前典明誥。」呂僧珍傳,詔曰:「思舊篤終,前王令典。追榮加等,列代通規。」南平王偉傳,詔曰:「旌德紀功,前王令典。慎終追遠,列代通規。」孔休源傳,詔曰:「慎終追遠,列代通規。褒德酬庸,先王令典。」篇篇如此,殊可嘔噦。其後作史者亦自知其蕪宂,至蔡道恭、范雲、馮道根、昌義之、周捨等傳,則去此冒語,但存詔中述其生平功績之處,斯較爲得之矣。
  • 新書增舊書處
    226.新書增舊書處   五代紛亂之時,唐之遺聞往事,既無人記述,殘編故籍,亦無人收藏,雖懸詔購求,而所得無幾,故舊唐書援據較少。至宋仁宗時,則太平已久,文事正興,人間舊時記載多出於世,故新唐書採取轉多。今第觀新書藝文志所載,如呉兢唐書備闕記、王彦威唐典,蔣乂大唐宰輔録,凌煙功臣、秦府十八學士、史臣等傳,凌璠唐録政要,南卓唐朝綱領圖,薛(璠)〔璫〕唐聖運圖,劉肅大唐新語,李肇國史補,林恩補國史等書,無慮數十百種,皆舊唐書所無者,知新書之「文省於前,而事增於舊」,有由然也。試取舊書各傳相比較,新書之增於舊書者有二種,一則有關於當日之事勢,古來之政要,及本人之賢否,所不可不載者;一則瑣言碎事,但資博雅而已。今分(別)〔列〕於左,而新書刪舊書之處亦附見焉。
  • 巻十二 宋齊梁陳書并南史
    廿二史箚記巻十二 156.人君即位冠白紗帽? 157.齊梁之君多才學? 158.齊明帝殺高武子孫? 159.齊制典籤之權太重? 160.南朝以射雉爲獵 161.江左世族無功臣? 162.梁武存齊室子孫? 163.陳武帝多用敵將 164.齊梁臺使之害? 165.六朝多以反語作讖 166.哀策文? 167.南朝陳地最小?    前頁 『廿二史箚記』    次頁 巻十一 宋齊梁陳書并南史 廿二史箚記巻十二 巻十三 魏齊周隋書并北史
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    『廿二史箚記』wikiへようこそ このページは、趙翼『廿二史箚記』の日本語訳と校訂作業をおこなっているページです。 このページは、誰でも自由に編集することができます。 現在試行中です。 『廿二史箚記』翻訳・校訂作業中テキスト 廿二史箚記小引☆ 巻一 史記漢書 巻二 史記漢書 巻三 史記漢書 巻四 後漢書 巻五 後漢書 巻六 三國志 巻七 三國志晉書 巻八 晉書 巻九 宋齊梁陳書 巻十 宋齊梁陳書并南史 巻十一 宋齊梁陳書并南史 巻十二 宋齊梁陳書并南史 巻十三 魏齊周隋書并北史 巻十四 魏齊周隋書并北史 巻十五 魏齊周隋書并北史 巻十六 新舊唐書 巻十七 新舊唐書 巻十八 新舊唐書 巻十九 新舊唐書 巻二十 新舊唐書 巻二十一 五代史 巻二十二 五代史 巻二十三 宋遼金史 巻二十四 宋史 巻二十五 宋史 巻二十六 宋史 巻二十七 遼史金史 巻二十八 金史 巻二十九 元史 巻三十 元...
  • 巻十七 新舊唐書
    廿二史箚記巻十七 226.新書增舊書處 227.新書增舊書有關係處? 228.新書增舊書瑣言碎事? 229.新書立傳獨詳處? 230.新書刪舊書處?    前頁 『廿二史箚記』    次頁 巻十六 新舊唐書 廿二史箚記巻十七 巻十八 新舊唐書
  • 陳書多避諱
    136.陳書多避諱   陳書於武帝之進公爵,封十郡,加九錫,進王爵,封二十郡,建天子旌旗,以及梁帝禪位遜於別宮,陳武奉梁主爲江陰王,行梁正朔,次年江陰王薨,喪葬如禮,一一特書,絶不見有逼奪之跡。此固仿照前史格式,當時國史本是如此,姚察父子固不能特變其體也。第本紀所諱者,恃有列傳散見其事。乃衡陽王昌,本武帝子,陷於周未回,武帝崩,從子文帝即位,而昌始歸,文帝使侯安都往迎,而溺之于江。(見南史)本紀既但書衡陽王昌薨,而昌傳亦但書濟江,中流船壞,以溺薨,即侯安都傳亦但云昌濟漢而薨,(南史昌傳則謂,濟江於中流隕之,使以溺告。)初不見有被害之迹也。始興王伯茂乃廢帝伯宗之弟,與伯宗同居宮中,伯宗爲宣帝所廢,伯茂出就第,宣帝遣盜殞之於途。陳書伯茂傳但謂路遇盜,殞于車中,亦隱約其詞,不見被害之跡也。不特此也,劉師知爲陳武害梁敬帝,入宮誘帝出,帝覺之,遶牀而走,曰:「師知賣我。」師知執帝衣,行事者加刃焉。...
  • 關張之勇
    96.関・張の武勇   漢以後、勇者を称える場合には必ず関・張を取り上げた。二公の本伝に見えるものは以下の通り。袁紹が顔良を派遣して劉延を白馬において攻撃したので、曹操は張遼・関羽に劉延を救出させた。関羽は顔良の麾蓋を眺め見て、馬に鞭打って敵勢一万のただなかで顔良を刺し、その首を斬って引き返したが、袁紹の将のうちでも敵対できる者はなかった。当陽の戦役において先主は妻子を棄てて逃走し、張飛に二十騎を率いさせて後詰めさせた。張飛は川を足がかりに橋を断ち切り、目を瞋らし矛を横たえて言うに、「身どもはこれぞ張益徳である。来い、ともに死を決しようぞ!」敵兵のうちあえて近付く者はいなかった。二公の武勇のうち、伝記に見えるものはこれだけである。しかしながら当時にあって彼らの威名に震えおののかぬ者はなかった。魏の程昱は言った。「劉備には英名があり、関羽・張飛はいずれも万人之敵である。」(魏志程昱伝)劉曄...
  • 巻十三 魏齊周隋書并北史
    廿二史箚記巻十三 168.魏書多曲筆? 169.魏書紀傳互異處 170.爾朱榮傳? 171.西魏書      附謝蘊山答書 172.答謝蘊山藩伯書? 173.北史魏書多以魏收書爲本? 174.北史改編各傳? 175.北史全用隋書 176.南北史兩國交兵不詳載? 177.北史與魏齊周隋書岐互處? 178.北史書法與周隋書不同處? 179.北史紀傳互異處 180.大業十四年☆ 181.太上皇帝?    前頁 『廿二史箚記』    次頁 巻十二 宋齊梁陳書并南史 廿二史箚記巻十三 巻十四 魏齊周隋書并北史
  • 一人二史各傳
    102.一人二史各傳   一人而傳於兩史,如後漢之董卓、公孫瓚、陶謙、袁紹、劉表、袁術、呂布等。當陳壽撰三國志時,以諸人皆與曹操並立,且事多與操相渉,故必立傳於魏志,而敘事始明。劉焉乃劉璋之父,其地則昭烈所因也,欲紀昭烈,必先傳璋,欲傳璋,必先傳焉,故亦立其傳於蜀志之首。及范蔚宗修後漢書,則董卓等皆漢末之臣,荀彧雖爲操畫策,而心猶爲漢,皆不得因三國志有傳,遂從刪削。所以一人而兩史各有傳也。此事惟晉、宋二書,界限最清。縁沈約修宋書,以劉毅、何無忌、諸葛長民、魏詠之、檀憑之等,雖與劉裕同起義,而志在匡晉,初非宋臣,故不入宋書。及唐初修晉書,遂爲毅等立傳,自無複出之病也。陶潛隱居完節,卒于宋代,故宋書以爲隱逸之首,然潛以家世晉臣,不復仕宋,始終爲晉完人,自應入晉書内,故修晉書者,特傳於晉隱逸之末。二史遂並有傳,此宋書之借,而非晉書之奪也。至李延壽作南北史,係一手編簒,則南人歸北,北人歸南者,自...
  • 六朝多以反語作讖
    165.六朝多以反語作讖   自反切之學興,遂有以反語作讖者。三國志,諸葛恪未被害時,民間謠曰:「諸葛恪,蘆葦單依篾鉤落,於何相逢成子閣。」「成子閣」,反語「石子岡」也。後恪爲孫峻所殺,投尸於石子岡。晉書孝武紀,帝爲清暑殿,識者謂「清暑」反語爲「楚聲」,哀楚之徴也。齊書,益州向無諸王作鎮,宋時有邵碩曰:「後有王勝來作此州。」及齊武帝以始興王鑑爲益州刺史,「勝憙」反語爲「始興」也,碩言果驗。又文惠太子啓武帝乞東田作小苑,「東田」反語爲「顛童」,後其子鬱林王即位,果以童昏見廢。梁書,武帝創同泰寺,後又創大通門以對寺之南,取反語以協「同泰」也,遂改年號爲大通,以符寺及門名。昭明太子時,有謠曰:「鹿子開城門,城門開鹿子。」「鹿子開」者,反語謂「來子哭」,時太子之長子歡爲南徐州刺史,太子薨,乃遣人追歡來臨喪,故曰「來子哭」也。
  • 唐人避諱之法
    119.唐の人の諱を避ける方法  唐の人が諸々の史書を編修しようとする時には,(唐の皇帝の父)祖の諱を避けるのに三つの方法を用いた。(一つは)前(の時代の)人で「虎」や「淵」という同じ名を持つ者がいれば,その字を用いる。例えば晉書での公孫淵を公孫文懿と稱したりするようにである。劉淵は劉元海と稱し、褚淵は囘じように褚彦と稱した。石虎を石季龍と稱したりするのもこれである。  これとちがって、(唐の皇帝の父祖の諱の)文字を刪ってしまうというのもある。梁書の蕭淵明、蕭淵藻を,ただ蕭明、蕭藻を稱したりするようにである。陳書の韓擒虎をただ韓擒と稱したりするのもこれである。  またこれともちがって、その(唐の皇帝の父祖の諱の)文字を、似た意味(や物等)の文字に改めるというのもあり,だいたい「虎」の字があれば皆猛獸の字に改めて,李叔虎なら李叔彪と稱し,殷淵源は殷深源と稱している。陶淵明なら陶泉明と...
  • 西魏書
    171.西魏書   魏自胡太后臨朝,孝明帝崩後,爾朱榮起兵,沈太后少帝於河,立長樂王子攸,是爲孝莊帝。帝以榮肆橫手殺之。爾朱兆等稱兵害帝,立長廣王曄;又以曄詔禪位於廣陵王恭,是爲節閔帝。(魏書謂前廢帝。)高歡起兵討爾朱氏,廢節閔而立平陽王修,是爲孝武帝。未幾,帝與歡不協,乃西遷關中,依宇文泰。歡別立清河王亶子善見爲帝,是爲東魏,而孝武爲西魏。按歡廢節閔時,會朝臣議,僉謂孝文不可無後,故立孝武,天下共以爲主,已三年,始西遷,是魏統自應屬孝武。孝武崩,文帝立,文帝崩,廢帝、恭帝繼之,皆魏之正統也。魏收在北齊修魏書,欲以齊繼魏爲正統,故自孝武後,即以東魏孝靜帝繼之,而孝武後諸帝不復作紀,此收之私見也。魏澹作魏書,以西魏爲正統,自是正論。惜其書不傳,故西魏文帝等紀年紀事,轉見於周文帝(即宇文泰)紀内。幸北史增文帝諸紀,名分始正,而魏書究不得爲完書。近日謝蘊山藩伯另撰西魏書,以次于魏書之後,誠得史...
  • 蕭子顯姚思廉皆爲父作傳入正史
    137.蕭子顯姚思廉皆爲父作傳入正史   司馬遷、班固、沈約作史,皆以其父入自序中,未嘗另立父傳,列於正史也。惟蕭子顯作齊書,爲其父豫章王嶷立傳,姚思廉修陳書,爲其父吏部尚書察立傳,凡生平行事,及朝廷之優禮,名流之褒獎,無一不纖屑敍入,故嶷傳至七千餘字,察傳亦至三千餘字,爲人子者得藉國史以表彰其父,此亦人之至幸也。或疑嶷傳祇載其子子廉、子恪、子操、子行、子光,而子顯不載,當是子顯親爲父作傳,故隱己之名。至察傳並載思廉在陳爲法曹參軍,入隋爲司法,似非思廉所自作者。然傳末云,察所撰梁、陳二史未畢功,虞世基奏思廉踵成之,自爾以來,稍有撰續云云,而不言思廉卒於何時,可見察傳實思廉自作。況察之父僧坦,以醫術著於梁代,官太醫丞,所得賞賜,皆給察遊學,事見南史。而陳書察傳但云,察父上開府僧坦,知名梁代,二宮禮遇優厚,毎得賞賜,皆給察兄弟爲游學之資,而不言以醫術得幸,並不言官太醫丞。蓋思廉恥以方伎輕其家...
  • 清談用麈尾
    114.清談用麈尾   六朝人清談,必用麈尾。晉書,王衍善玄言,毎捉白玉柄麈尾,與手同色。(衍傳)孫盛與殷浩談,奮麈尾,盡落飯中。(盛傳)宋書,王僧虔戒子,謂其好捉麈尾,自稱談士。(僧虔傳)齊書,戴容著三宗論,智林道人曰:「貧道捉麈尾三十年,此一塗無人能解,今始遇之。」(容傳)梁書,盧廣發講時,謝舉屢折之,廣愧服,以所執麈尾贈之,以況重席。(舉傳)張孝秀談義,嘗手執栟櫚皮麈尾。(孝秀傳)陳書,後主宴宮僚,所造玉柄麈尾新成,曰:「當今堪捉此者,惟張譏耳。」即以賜譏。又幸鍾山開善寺,使譏豎義,時麈尾未至,命取松枝代之。(譏傳)此皆清談麈尾故事也。亦有不必談而亦用之者。王浚以麈尾遺石勒,勒偽爲不敢執,懸於壁而拜之。(勒載記。)何充詣王導,導以麈尾指其牀曰:「此是君坐也。」(充傳)王濛病篤,燈下視麈尾而嘆,既沒,劉惔以犀麈尾納之棺中。(濛傳)蓋初以談玄用之,相習成俗,遂爲名流雅器,雖不談亦常執持...
  • 宋書多徐爰舊本
    120.宋書多徐爰舊本   沈約於齊永明五年奉敕撰宋書,次年二月即告成,共紀、志、列傳一百卷,古來修史之速未有若此者。今案其自序而細推之,知約書多取徐爰舊本而增刪之者也。宋著作郎何承天己撰宋書,紀、傳止於武帝功臣,其諸志惟天文、律暦,此外悉委山謙之。謙之亡,詔蘇寶生續撰,遂及元嘉諸臣。寶生被誅,又以命徐爰。爰因蘇、何二本,勒爲一史,起自義熙之初,迄於大明之末,其臧質、魯爽、王僧達三傳,皆孝武所造,惟永光以後至亡國十餘年,記載並缺。今宋書内永光以後紀傳,蓋約等所補也。(按王智深傳,約多載未明帝鄙瀆事,武帝謂曰:「我昔經事明帝,卿可思諱惡之義。」於是多所刪除。可見宋明帝以後紀傳皆約所撰。)其於爰書稍有去取者,爰本有晉末諸臣,及桓玄等諸叛賊,並劉毅等與宋武同起義者,皆列於宋書。約以爲桓玄、譙縱、盧循,身爲晉賊,無關後代;呉隱、郗僧施、謝混,義止前朝,不宜入宋;劉毅、何無忌、諸葛長民、魏詠之、檀...
  • 八朝史至宋始行
    138.八朝史至宋始行   南北八朝史,宋書成於齊,齊書成於梁,魏書成於北齊,其餘各史皆唐初修成。然雖成於唐初,而天下實未嘗行也。觀蘇洵等進陳書云,陳書與宋書、魏、齊、梁等書,傳之者少,祕書所藏,亦多脱誤。嘉祐六年,始詔校讐,因臣等言,恐館閣所藏不足以定,請詔京師及天下藏書家,使悉上之。至七年冬,始稍稍集,因得藉以參校。又劉攽等校北齊書云,文襄紀其首與北史同,而末多取魏孝靜帝紀,其與侯景書則載梁書侯景傳内,此外序列尤無倫次。蓋原書已散佚,後人雜取北史及高氏小識等書以補之者。是宋時並已失其原本,雖購之天下,亦終無由訂正也。可見各正史,在有唐一代並未行世。蓋卷帙繁多,唐時尚未有鏤板之法,必須抄録,自非有大力者不能備之。惟南、北史卷帙稍簡,抄寫易成,故天下多有其書,世人所見八朝事跡惟恃此耳。若無鏤板之法,各正史蓋已一部不存矣。
  • 明祖本紀
    557.明祖本紀 『明史』太祖本紀は大半を『明太祖実録』および『御製皇陵碑』『世徳碑』『紀夢文』『西征記』『平西蜀文』『周顛仙人伝』の書述を基本とし、この他には則ち『皇明祖訓』『皇朝本記』『天黄玉牒』『国朝礼賢録』および陸深の『平胡録』『北平録』『平漢録』『平呉録』『平蜀記』、黄標の『平夏記』、張耽の『雲南機務抄黄』、高岱の『鴻猷録』、唐枢の『国深集』、王世貞の『名卿績記』、顧燐の『国宝新編』、徐禎卿の『翦勝野聞』、王文祿の『龍興慈記』などの書物、およそ数十百種であり、おおむね全てがその採綴に資した。それでも記事を精選せず『南史』『北史』のように無駄な異聞を捜して、人の耳目を幻惑し、往々転た真実を見失ってしまうだろう。『明史』はすなわち博く群書を攬りつつ、必ず確核を求めた。思うに記事を博く取材するが、記事を審かに選択するというのが、本当の良史と言える。それぞれの史家の記述を参照しなければ...
  • 南朝多以寒人掌機要
    117.南朝多以寒人掌機要   魏正始、晉永熙以來,皆大臣當國。晉元帝忌王氏之盛,欲政自己出,用刁協、劉隗等爲私人,即召王敦之禍。自後非幼君即孱主,悉聽命於柄臣,八九十年,已成故事。(晉韋華謂姚興曰,晉主雖有南面之尊,無統馭之實,宰輔執政,權在臣下,遂成習俗。)至宋、齊、梁、陳諸君,則無論賢否,皆威福自己,不肯假權於大臣。而其時高門大族,門戸已成,令僕三司,可安流平進,不屑竭智盡心,以邀恩寵,且風流相尚,罕以物務關懷,人主遂不能藉以集事,於是不得不用寒人。人寒則希榮切而宣力勤,便於驅策,不覺倚之爲心膂。南史謂宋孝武不任大臣,而腹心耳目不能無所寄,於是戴法興、巣尚之等皆委任隆密。齊武帝亦曰:「學士輩但讀書耳,不堪經國,經國一劉係宗足矣!」此當時朝局相沿,位尊望重者,其任轉輕,而機要多任用此輩也。然地當清切,手持天憲,口銜詔命,則人雖寒而權自重,權重則勢利盡歸之。如法興威行内外,江夏王義恭雖...
  • 隋書志
    215.『隋書』の志   『隋書』にはもともと志はなく、現行の志は梁・陳・北斉・北周・隋の事を合わせ記しており、旧名を『五代史志』といって、別に単独で刊行されていた。その後に『隋書』に編入されたのである。しかし突き詰めると、『隋志』というべきではない。開皇・仁寿年間から王劭が『隋書』八十巻を作った。分類は整っていたが、編年紀伝になお欠けるところがあった。唐の武徳五年、令狐德棻が五代史(『梁書』・『陳書』・『北斉書』・『周書』・『隋書』)の編修を上奏し、封徳彝・顔師古に『隋書』を編修するよう詔を下された。年を経て着手されないまま中止された。貞観三年、魏徴がこれを編修し、房玄齢が監修をつとめるよう再び詔を下された。魏徴は顔師古・孔穎達・許敬宗に共同で編纂させるようまた上奏し、序論はみな魏徴の作るところとなった。全部で帝紀が五、列伝が五十となった。貞観十年正月、これを献上した。これが『隋書』で...
  • 相墓
    118.相墓   古人但有望氣之法,如秦始皇時,望氣者謂東南有天子氣,乃南巡以厭之。又謂金陵有王氣,乃鑿淮水以泄之。光武未貴時,望氣者蘇伯阿過南陽,望舂陵郭,唶曰:「氣佳哉,鬱鬱葱葱然。」孫皓時,臨平湖開,皓以問陳訓,訓曰:「臣止能望氣,不知湖之開塞。」陳敏反,或曰:「陳家無王氣,不久當滅。」此古來專以望氣占吉凶,未嘗有相墓之術也。相墓術相傳始於郭璞。然後漢書袁安傳,安覓地葬父,有三書生指一處云,葬此當世爲上公,從之,故累世隆盛。晉書羊祜傳,有相墓者言祜祖墓有帝王氣,祜乃鑿之。相者曰,猶當出折臂三公,後祜墮馬折臂,果位三公。則又在璞之前。即璞本傳載其卜筮靈驗之處甚多,謂先有郭公者,精於卜筮,璞從受業,公授以青囊書九卷,遂洞五行、天文、卜筮之術,亦未嘗及相墓也。又璞所著書,載其靈驗事跡者曰洞林,抄京、費諸家最要者曰新林,又卜韻一篇,注爾雅、三蒼、方言、穆天子傳、山海經、楚辭、子虚、上林賦,...
  • 晉書所記怪異
    107.晋書に記された怪異  正史の中で異聞を多く採用しているのは、『晋書』『南史』『北史』である。その中でも『晋書』戴記には特に怪奇現象の記事が多い。  劉聡の時代に「平陽に隕石が落ちた。それは肉のような見た目であり、大きさは南北に三十歩、東西に二十七歩であった。その肉から臭いが数里先まで漂い、傍らまで近づくと哭き声が聞こえた。劉聡の后・劉氏は、たまたま蛇と虎を産んだ。蛇と虎は人を傷つけながら肉の傍らまで逃げた。蛇と虎が肉に近づくと哭き声はやんだ」という事件が起きたとある。  劉曜の時代に「西明門の傍らにある木が風によって吹き倒されると、人形になった。それは人間の形をしていたが、ただ眼と鼻だけがなかった。その後、その人形には枝葉が茂りに成長した」という事件が起きたとある。  劉聡の時代に「劉聡の息子・劉約が死去したが、指が一本だけ暖かいままだったので、葬儀を行わなかった。そうした...
  • 南北朝通好以使命爲重
    186.南北朝通好以使命為重 南北通好,嘗藉使命增國之光,必妙選行人,擇其容止可觀,文學優贍者,以充聘使。如:魏游明根嘗三使於宋,李彪嘗六使於齊。齊武帝以裴昭明有將命之才,特命使魏。皆以能稱使職也。其後益以使命為重。 (北史)李諧傳,謂「南北交聘,務以俊乂相矜,銜命接客,必盡一時之選,無才地者,不得與焉。梁使每入,鄴下為之傾動,貴游子弟,盛飾聚觀,館門成市。魏使至梁亦如之。」一時風尚如此,凡充使及伴使皆不輕授。 邢邵在魏,為一時文人之冠,特以不持威儀,遂不令出使。(邢邵傳) 北齊李緯與崔暹不協,嘗曰「雖失貴人意,聘梁使不能舍我!」後果使梁。(李緯傳) 崔瞻曾經熱病,面多瘢痕,然雍容可觀,詞韻溫雅,遂出使於陳。(崔瞻傳) 此出使之精於選擇也。 其出使而增重鄰國者: 魏游明根使宋,宋孝武稱其長者,迎送禮加常使。(游明根傳) 高推使宋,宋稱其才辨。(高允傳) 李彪使齊將還,齊...
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