『廿二史箚記』wiki内検索 / 「五代鹽麴之禁」で検索した結果

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  • 巻二十二 五代史
    ...僚之禍? 300.五代鹽麴之禁? 301.五代濫刑? 302.五代諸侯貢奉多用鞍馬器械? 303.魏博牙兵凡兩次誅戮? 304.一軍中有五帝 305.五代諸帝皆無後☆ 306.周祖四娶皆再醮婦 307.寵待功臣改賜郷里名號? 308.張全義馮道? 309.五代人多以彦爲名☆    前頁 『廿二史箚記』    次頁 巻二十一 五代史 廿二史箚記巻二十二 巻二十三 宋遼金史
  • 巻二十一 五代史
    廿二史箚記巻二十一 283.薛居正五代史 284.薛史全採各朝實録? 285.薛史書法迴護處? 286.薛史失檢處? 287.薛史亦有直筆? 288.薛歐二史體例不同? 289.歐史不專據薛史舊本? 290.歐史書法謹嚴? 291.歐史傳贊不苟作? 292.歐史失檢處? 293.一産三男入史☆ 294.五代諸帝多由軍士擁立?    前頁 『廿二史箚記』    次頁 巻二十 新舊唐書 廿二史箚記巻二十一 巻二十二 五代史
  • 玄宗五代一堂
    243.玄宗五代一堂   肅宗爲太子時生代宗,爲嫡皇孫。生之三日,玄宗臨澡,嫡孫體弱,負姆嫌陋,更取他宮兒進。玄宗觀之不樂,姆叩頭言非是。玄宗曰:「非爾所知,趣取兒來。」於是見嫡孫,玄宗大喜,向日視之,曰:「福過其父。」顧力士日:「一日見三天子,樂哉。」(呉皇后傳)此已屬盛事。又案舊書順宗紀,順宗生於肅宗上元二年,時玄宗尚爲太上皇,是玄宗、肅宗、代宗、德宗、順宗凡五代共一堂,則不惟一日見三天子,且一堂有五代天子也。
  • 薛居正五代史
    283.薛居正五代史   宋太祖開寶六年四月,詔修梁、唐、晉、漢、周書,其五代史者,乃後人總括之名也。七年閏十月,書成,凡一百五十卷,目録二卷。監修者爲司空同中書門下平章事薛居正,同修者爲盧多遜、扈蒙、張澹、李昉、劉兼、李穆、李九齡。(見宋史及晁公武讀書志,玉海所引中興書目。)皆本各朝實録爲稾本。此官修之史也。其後歐陽修私撰五代史記七十五卷,藏於家。修沒後,熙寧五年,詔求其書刊行,(見宋史)於是薛、歐二史並行於世。至金章宗泰和七年,詔止用歐史,於是薛史漸湮。惟前明永樂大典多載其遺文,然已割裂淆亂,非薛史篇第之舊。恭逢我皇上開四庫館,命諸臣就永樂大典中甄録排纂,其缺逸者則採宋人書中之徴引薛史者補之。於是薛史復爲完書,仍得列於正史,遂成二十三史之數。今覆而案之,雖文筆迥不逮歐史,然事實較詳。蓋歐史專重書法,薛史專重敘事,本不可相無。以四五百年久晦之書,一旦復出,俾攷古者得參互核訂,所以嘉惠後...
  • 五代諸帝皆無後
    305.五代の諸皇帝には皆子孫が残らなかった  後梁の太祖朱温の子の彬王の友裕は早く亡くなった。  郢王の友珪は皇帝殺害を企てて逆に処刑された。  養子である博王の友文は、朱友珪に陥れられ殺された。  均王の友貞が皇帝の位を継ぎ,これが末帝てある。後唐の兵が乱入してきた際,建國樓で自殺した。  康王の友孜は,末帝の時に先に謀反を図り処刑された。  賀王の友雍、福王の友璋、建王の友徽は,歐陽修の五代史(新五代史)ではこの三人の死の状況はわからないとしていて,薛居正の五代史(旧五代史)もまたその死の記述は無いが,王禹偁の五代史闕文のなかで,後唐の莊宗が開封に乱入した際,朱氏一族を盡く処刑したとの記載がある。つまり友璋達は皆殺されたのである。資治通鑑では後唐の軍勢がまさに到着しようとする時に,末帝が兄弟がこの混乱に乘じての謀反を企てるのを疑って,皆これを殺したとしている。これによ...
  • 五代人多以彦爲名
    309.五代の人は多く「彦」を名にもちいる   彦はもとは美名であり、むかしの人は多くこれを名としたが、五代のときほど多かったことはない。   唐末に宰相の徐彦若がおり、左拾遺の徐彦枢、供奉官の史彦瓊、宦官の支彦勲、魏博の楽彦禎、東川の顧彦朗および弟の顧彦暉、顧彦瑤がいた。   これ多いのは後梁で、鉄槍の王彦章は、人みな知るところである。しかし同時に兵を率いた大将に謝彦章がいた。このほかに滄州の盧廷彦、同州の寇彦卿、鄜州の李彦容、静勝軍の李彦韜(本名は温昭図)、宣義軍の霍彦威がいた。また滄州の盧彦威、左龍武統軍の李彦威(すなわち朱友恭)、都指揮使の楊彦洪、蔡州刺史の王彦温、大将の李彦柔、左天武使の劉彦圭、左僕射押牙の王彦洪、楊劉の守将の安彦之、幽州騎将の高彦章、蔡州軍校の張彦珂、雷満の子の雷彦恭、雷彦雄、雷彦威がいた。   後唐から後晋のあいだには、中書の焦彦賓、供奉官の劉彦...
  • 五世相韓
    10.五代にわたって韓に宰相たること   『史記』は、張良が五代にわたって韓に宰相をつとめた家柄だったので、韓のために始皇帝に仇を報じようとしたといっている。しかし、五代というのは韓王を指して言っているのであり、韓の王五代にわたって張氏が宰相であったと言っているので、張氏の五代がみな韓で宰相であったわけではない。張良の祖父の張開地は韓の昭侯・宣恵王・襄哀王のもとで宰相であり、張良の父の張平は釐王・悼恵王のもとで宰相であった。これを五代としているのだ。顔師古の註によると、昭侯から悼恵王にいたるまで、合わせて五君である。 10.五世相韓   史記稱張良以五世相韓,故爲韓報仇。然五世指韓王而言,謂韓王五世皆張氏爲相,非張氏五世皆相韓也。良大父開地相韓昭侯及宣惠王、襄哀王,良父相釐王及悼惠王,是爲五世。顏師古註,從昭侯至悼惠王,凡五君也。    前頁 『廿二史箚記』巻一   ...
  • 隋書志
    215.『隋書』の志   『隋書』にはもともと志はなく、現行の志は梁・陳・北斉・北周・隋の事を合わせ記しており、旧名を『五代史志』といって、別に単独で刊行されていた。その後に『隋書』に編入されたのである。しかし突き詰めると、『隋志』というべきではない。開皇・仁寿年間から王劭が『隋書』八十巻を作った。分類は整っていたが、編年紀伝になお欠けるところがあった。唐の武徳五年、令狐德棻が五代史(『梁書』・『陳書』・『北斉書』・『周書』・『隋書』)の編修を上奏し、封徳彝・顔師古に『隋書』を編修するよう詔を下された。年を経て着手されないまま中止された。貞観三年、魏徴がこれを編修し、房玄齢が監修をつとめるよう再び詔を下された。魏徴は顔師古・孔穎達・許敬宗に共同で編纂させるようまた上奏し、序論はみな魏徴の作るところとなった。全部で帝紀が五、列伝が五十となった。貞観十年正月、これを献上した。これが『隋書』で...
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    『廿二史箚記』wikiへようこそ このページは、趙翼『廿二史箚記』の日本語訳と校訂作業をおこなっているページです。 このページは、誰でも自由に編集することができます。 現在試行中です。 『廿二史箚記』翻訳・校訂作業中テキスト 廿二史箚記小引☆ 巻一 史記漢書 巻二 史記漢書 巻三 史記漢書 巻四 後漢書 巻五 後漢書 巻六 三國志 巻七 三國志晉書 巻八 晉書 巻九 宋齊梁陳書 巻十 宋齊梁陳書并南史 巻十一 宋齊梁陳書并南史 巻十二 宋齊梁陳書并南史 巻十三 魏齊周隋書并北史 巻十四 魏齊周隋書并北史 巻十五 魏齊周隋書并北史 巻十六 新舊唐書 巻十七 新舊唐書 巻十八 新舊唐書 巻十九 新舊唐書 巻二十 新舊唐書 巻二十一 五代史 巻二十二 五代史 巻二十三 宋遼金史 巻二十四 宋史 巻二十五 宋史 巻二十六 宋史 巻二十七 遼史金史 巻二十八 金史 巻二十九 元史 巻三十 元...
  • 各史例目異同
    3.各史例目異同   古者,左史記言,右史記事。言爲尚書,事爲春秋。其後沿爲編年、記事二種。記事者,以一篇記一事,而不能統貫一代之全;編年者,又不能即一人而各見其本末。司馬遷參酌古今,發凡起例,創爲全史。本紀以序帝王,世家以記侯國,十表以繋時事,八書以詳制度,列傳以誌人物。然後一代君臣政事,賢否得失,總彙於一編之中。自此例一定,歴代作史者遂不能出其範圍,信史家之極則也。魏禧序十國春秋,謂「遷僅工於文,班固則密於體。」以是爲史漢優劣。不知無所因而特創者難爲功,有所本而求精者易爲力。此固未可同日語耳。至於篇目之類,固不必泥於一定。或前代所有而後代所無;或前代所無而後代所有,自不妨隨時增損改換。今列二十二史篇目異同於左:   本紀。古有禹本紀、尚書世紀等書。遷用其體,以敘述帝王。惟項羽作紀頗失當。故漢書改爲列傳。後漢書又立皇后紀。蓋仿史漢呂后紀之例。不知史遷以政由后出,故高紀後,即立后紀。至...
  • 新唐書
    220.新唐書   宋の仁宗は、劉昫らが編纂した『旧唐書』は卑弱で淺陋だとして、翰林学士である欧陽修に命じて、端明殿の学士である宋祁が各刊の編撰を行い,曾公亮が皇帝に上提するまで,十七年を要して、およそ二百二十五卷に及ぶ新唐書が完成した。本紀、志、表,列伝。故事,各書の筆頭には官に用いられた尊者一人を置き,唐書において功績が多いとされた先進の人々の伝記を宋祁が修正し,各列伝を編撰して進めたのである(そこで修伝と言われる)。宋祁が詔により唐書の修正に従事した十年間余り、宮廷内に寝起きし,原稿を納得ゆくまで推敲吟味して,列伝百五十卷を練り上げた(そこで祁伝と言われる)。論者は、「『新唐書』に記載された記事は『旧唐書』より豊富であるが,文は『旧唐書』より簡潔である」と言っている。このことは言うまでもなく、欧陽修が宋二公時代の古文の大家であるためである。とはいえ 文体は必ずしも一定でなく,文章に...
  • 李勣子孫
    275.李勣の子孫   李勣の子孫について、『旧唐書』の本伝がいうには、李勣の子(正しくは孫)の李(徐)敬業が起兵して武后を討ち、敗死したのち、連座して一族皆殺しとなったが、その子孫に吐蕃へ逃げいった者がいた。貞元年間、蕃将の徐舎人が延州を掠めたとき、僧の延素に「わたしはもともと英公(李勣)の五代の孫である。武后の変にあって、わたしの祖先は義兵を挙げたが成功せず、子孫は流離零落し、このように三世となった。住まいや職任は代わったけれども、大本を思う心はまだ忘れていない」といった。ここに李世勣の子孫で中国にいる者はまたないとする。しかし衛次公伝において、衛次公が兵部侍郎となると、故英公李勣・大理卿徐有功の孫たちはみなともに地位を得ていなかったので、次公は「あなたがたの祖父は王室に勲功がありましたのに、どうして凡庸な位に限られているのでしょうか」といった。すぐに優れた地位に補任した。ここに李勣...
  • 巻二十三 宋遼金史
    廿二史箚記巻二十三 310.宋遼金三史? 311.宋遼金三史重修? 312.宋史事最詳? 313.宋史多國史原本? 314.宋史各傳迴護處? 315.宋史各傳附會處?    前頁 『廿二史箚記』    次頁 巻二十二 五代史 廿二史箚記巻二十三 巻二十四 宋史
  • 一産三男入史
    293.三つ子が史書に書かれたのは   一度に三人、四人の男の子が産まれた話が史書に書かれたのは『旧唐書』にはじまる。高宗紀に、嘉州の辛道譲の妻が一度に四男を産んだとあり、高苑県の呉文威の妻の魏氏が一度に四男を産んだとある。哀帝紀に、穎州汝陰県の彭文の妻が一度に三男を産んだとある。欧陽脩『新五代史』はこれをまねて、本紀に載せている。同光二年(924)に軍将趙暉の妻が一度に三男を産んだというようなのが、これである。   これらがめでたいしるしとして記されたのか、珍しいというだけで記されたのか。後世の人はこれを善いしるしとみなしたようだが、乱世の記録に書かれるのは不自然である。唐の高宗の後には武氏の禍があり、哀帝はまさに国を失わんとするときである。   『宋史』では、哲宗紹聖四年(1097)に宣州の民の妻が一度に四男を産んだとあり、元符二年に河中猗氏県の民の妻が一度に四男を産んだとあ...
  • 忍痛
    466.忍痛   北史,魏長生子彦墜馬折臂,肘上骨起寸餘,乃開肉鋸骨,流血數升,言笑自若。歐五代史,萇從簡中流矢,鏃入骨,工無良藥,欲鑿其骨出之,從簡便令鑿之,工遲疑不忍下,從簡趣之,左右皆若不勝其苦,而從簡自若。元史,張榮爲流矢貫眥,拔之不出,令人以足抵額而拔出之,神色自若。趙實喇與宋兵戰,鏃入右肩不出,主將取死囚刲其肩,視骨節,知淺深可出,即爲鑿其創,拔鏃出之,實喇神色不動。倶見各本傳。
  • 巻二十 新舊唐書
    廿二史箚記巻二十 264.唐代宦官之禍? 265.中官出使及監軍之弊? 266.唐宦官多閩廣人 267.唐節度使之禍? 268.方鎮兵出境即仰度支供餽? 269.方鎮驕兵? 270.盜殺宰相有二事? 271.六等定罪三日除服之論? 272.間架除陌宮市五坊小使之病民? 273.豪宴 274.名父之子多敗德 275.李勣子孫☆ 276.安祿山執送京師之事? 277.睢陽殉節尚有姚誾 278.唐初三禮漢書文選之學? 279.唐古文不始於韓柳? 280.唐前後米價貴賤之數? 281.長安地氣? 282.黄巣李自成?    前頁 『廿二史箚記』    次頁 巻十九 新舊唐書 廿二史箚記巻二十 巻二十一 五代史
  • 巻十九 新舊唐書
    廿二史箚記巻十九 239.貞觀中直諫者不止魏徴? 240.時政記? 241.天子不觀起居注 242.唐諸帝多餌丹藥? 243.玄宗五代一堂 244.唐有兩上元年號☆ 245.德宗好爲詩? 246.褒貶前代忠奸 247.諡兼美惡? 248.唐追贈太子之濫? 249.帝號標后諡? 250.皇后哀冊尊稱 251.祔葬變禮? 252.諡后於廟 253.兩太后並稱☆ 254.皇太后不祔葬 255.建成元吉之子被誅☆ 256.沒入掖廷? 257.唐女禍? 258.武后之忍? 259.武后納諫知人? 260.改惡人姓名 261.朝賀近臣先行禮 262.大臣搜檢 263.度牒    前頁 『廿二史箚記』    次頁 巻十八 新舊唐書 廿二史箚記巻十九 巻二十 新舊唐書
  • 新書增舊書處
    226.新書增舊書處   五代紛亂之時,唐之遺聞往事,既無人記述,殘編故籍,亦無人收藏,雖懸詔購求,而所得無幾,故舊唐書援據較少。至宋仁宗時,則太平已久,文事正興,人間舊時記載多出於世,故新唐書採取轉多。今第觀新書藝文志所載,如呉兢唐書備闕記、王彦威唐典,蔣乂大唐宰輔録,凌煙功臣、秦府十八學士、史臣等傳,凌璠唐録政要,南卓唐朝綱領圖,薛(璠)〔璫〕唐聖運圖,劉肅大唐新語,李肇國史補,林恩補國史等書,無慮數十百種,皆舊唐書所無者,知新書之「文省於前,而事增於舊」,有由然也。試取舊書各傳相比較,新書之增於舊書者有二種,一則有關於當日之事勢,古來之政要,及本人之賢否,所不可不載者;一則瑣言碎事,但資博雅而已。今分(別)〔列〕於左,而新書刪舊書之處亦附見焉。
  • 遼后族皆姓蕭氏
    369.遼后族皆姓蕭氏   遼后族皆姓蕭氏。后妃傳引耶律儼所修實録,謂其先本乙室拔里氏,太祖慕漢高祖,故稱劉氏,以乙室拔里比蕭相國,遂爲蕭氏。又謂太祖述律后兄子名蕭翰,妹復爲太宗皇后,故后族皆以蕭爲姓云。是實録以后族姓蕭爲太祖所賜,而國語解謂其説不合,故陳大任不取。又外戚表序云,契丹外戚,其先曰二審〔密〕氏:曰拔里,曰乙室己。太祖娶述律氏。大同元年,太宗自汴將歸,留外戚小漢爲汴州節度使,賜姓名蕭翰,由是拔里、述律、乙室己三族皆爲蕭姓。是賜姓又自太宗始。按薛居正五代史蕭翰傳,翰父阿巴,有妹爲阿保機安后,翰妹又爲德光后。德光入汴,將命翰爲宣武軍節度使,契丹本無漢名,乃賜姓名蕭翰,自是翰族皆姓蕭。歐史亦謂德光欲留蕭翰於汴,使李崧爲製姓名曰蕭翰,於是始姓蕭云。是后族姓蕭,實太宗所賜也。既爲太宗所賜,何以太祖之高、曾、祖、父四代妣已倶稱蕭?蓋皆後人所追氏也,而諸外戚之姓蕭者可類推矣。蕭氏於遼最貴,...
  • 唐實録國史凡兩次散失
    221.唐實錄國史凡兩次散失 唐時修實錄、國史者皆當代名手。今可考而知者: 高祖實錄二十卷、太宗實錄二十卷(皆敬播撰,房元齡監修), 又貞觀實錄四十卷(令狐德棻撰貞觀十三年以後事,長孫無忌監修,其時同修者,又有敬播、顧允、鄧世隆、慕容善行、孫處約、劉顗、庾安禮,俱為修史學士,見德棻及允、處約等傳),其後許敬宗又奏改正,高宗以其事多失實,又命宰臣刊正。(見郝處俊傳)(初高祖、太宗兩朝實錄,敬播等所修頗詳直,敬宗輒以己意改之。敬宗貪財,嫁女於錢九隴,本皇家隸人也,乃列之於劉文靜等功臣傳,又其子娶尉遲敬德女,則為敬德作佳傳,以太宗賜長孫無忌之威鳳賦,移為賜敬德者。事見敬宗傳。而播傳又謂播與敬宗同撰,蓋當元齡、無忌監修時,播已在事,至是又徇敬宗意而與之同改修耳) 高宗實錄三十卷(許敬宗、令狐德棻等撰), 後修實錄三十卷(德棻等所撰,止乾封,劉知幾、吳兢續成之),...
  • 後漢書三國志書法不同處
    85.後漢書三國志書法不同處   後漢書與三國志,論時代則後漢在前,而作史則三國志先成,且百餘年也。自三國志魏紀創爲迴護之法,歴代本紀遂皆奉以爲式,延及舊唐書、舊五代史猶皆遵之。其間雖有習鑿齒欲黜魏正統,蕭穎士欲改書司馬昭弑君,而迄莫能更正。直至歐陽公作五代史及修新唐書,始改從春秋書法,以寓褒貶。而范尉宗於三國志方行之時,獨不從其例,觀獻帝紀,猶有春秋遺法焉。雖陳壽修書於晉,不能無所諱;蔚宗修書於宋,已隔兩朝,可以據事直書,固其所値之時不同,然史法究應如是也。陳壽魏紀,書天子以公領冀州牧。蔚宗獻帝紀,則曰曹操自領冀州牧。魏紀,漢罷三公官,置丞相,以公爲丞相。獻帝紀則曰曹操自爲丞相。魏紀,天子使郗慮策命公爲魏公,加九錫。獻紀則曰曹操自立爲魏公,加九錫。魏紀,漢皇后伏氏,坐與父完書云帝以董承被誅,怨恨公。后廢黜死,兄弟皆伏法。獻紀則曰曹操殺皇后伏氏,滅其族及其二子。魏紀,天子進公爵爲魏王,獻...
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