358.宋の南渡のときの諸将はみな北方の人である

  宋の南渡のときの諸将は、功績を江南で立てたけれども、かれらはみな北方の人である。張俊は、鳳翔府成紀の人である。韓世忠・張宗顔はともに延安の人である。岳飛は、湯陰の人である。劉光世は、保安軍の人である。劉錡は、徳順軍の人である。呉玠・呉璘・郭浩は、みな徳順軍隴干の人である。楊存中は、代州崞県の人である。王徳は、通遠軍熟羊砦の人である。王彦は、上党の人である。楊政は、原州臨涇の人である。牛皋は、汝州魯山の人である。曲端は、鎮戎の人である。成閔は、邢州の人である。解元は、保安軍徳清砦の人である。王淵は、熙河の人である。趙密は、太原清河の人である。李宝は、河北の人である。魏勝は、宿遷の人である。王友直は、博州高平の人である。李顕忠は、綏徳軍清澗の人である。諸名将を合わせても、山陜地方の出自でない者はひとりもなく、これは南宋の安泰が、北宋の余力で守られていたということである。そのほかにも城を守って節義を示したあまり著名でない人物たちも、また多くは北方の人である。建寧を守って死んだ楊震は、代州崞県の人である。隆徳府を守って死んだ張確は、邠州宜禄の人である。震武を守って死んだ朱昭は、府谷の人である。代州を守って死んだ史抗は、済源の人である。永興を守って死んだ郭忠孝は、河南の人である。そののち徳祐年間に国が滅んだとき、善戦した将として挙げられるのが張世傑であるが、張世傑はまた范陽の人であり、張柔に従って杞県を守っていたが罪に落ちて宋に逃れた者である。


358.宋南渡諸將皆北人

  宋南渡諸將,立功雖在江南,而其人皆北人也。張俊鳳翔府成紀人。韓世忠、張宗顏皆延安人。岳飛,湯陰人。劉光世,保安軍人。劉錡,德順軍人。呉玠、呉璘、郭浩,皆德順軍隴干人。楊存中,代州崞縣人。王德,通遠軍熟羊砦人。王彦,上黨人。楊政,原州臨涇人。牛皋,汝州魯山人。曲端,鎮戎人。成閔,邢州人。解元,保安軍德清砦人。王淵,熙河人。趙密,太原清河人。李寶,河北人。魏勝,宿遷人。王友直,博州高平人。李顯忠,綏德軍清澗人。統計諸名將,無一非出自山陝者,是南宋之偏安,猶是北宋之餘力也。其他不甚著名而守城抗節者,亦多係北人。如守建寧死者楊震,代州崞人。守隆德府死者張確,邠州宜祿人。守震武死者朱昭,府谷人。守代州死者史抗,濟源人。守永興死者郭忠孝,河南人。其後德祐國亡時,能戰之將尤推張世傑,世傑亦范陽人,從張柔戍杞有罪奔宋者。

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最終更新:2007年02月06日 20:28