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347.宋の節度使

  節度使はもとは唐の藩鎮の官名であった。宋初にもまだこの官が存在したが、職掌とするところがなかったので、もっぱら勲功ある賢者や故老および宰相で政事からしりぞいた者を遇する官としていた。あるいは宰相・枢密使が地方の大府をおさめるために出向したとき、また節度使の称号を帯びて、これを使相といった。元豊年間の新官制が始まると、改められて開府儀同三司となったが、その後にもしばしば節度使の官は復活した。文彦博が太師・護国軍山南西道節度使として致仕したようなのがこれである。徽宗のときにいたっては、宰相で朝廷にある者もまた節度使の官を兼ね、左僕射の蔡京が安遠軍節度使を兼ねたようなのがこれである。宋朝の南渡以後、功臣で大軍を率いる者が節度使となり、それにまた両鎮三鎮を兼ねる者があり、韓世忠が鎮南・武安・寧国節度使を兼ね、張俊が静江・寧武・静海節度使を兼ねたようなのがこれである。


347.宋節度使

  節度使本唐藩鎮官名,宋初猶存此官,然無所職掌,專以待勳賢故老及宰相罷政者。或宰相、樞密使出判大府,亦繋此銜,謂之使相。元豐新官制始改爲開府儀同三司,其後仍復此官,如文彦博以太師充護國軍山南西道節度使致仕是也。至徽宗時,則宰相在朝者亦兼此官,如左僕射蔡京兼安遠軍節度使是也。南渡以後,則功臣爲大帥者爲之,并有兼兩鎮三鎮者,如韓世忠兼鎮南、武安、寧國節度使,張俊兼靜江、寧武、靜海節度使是也。
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