460.元初に金宋両国の状元が用いられた


  王鴞は、もとは金の正大元年(1224)の第一甲第一名の進士で、金に仕えて尚書左右司郎中にまでいたった。金が滅びると殺されるところだったが、元の将軍の張柔がその名を聞いて、かれを救い、家に館をもうけさせた。のちに世祖(フビライ)に推薦されて、翰林学士承旨に抜擢され、制誥典章について、みな裁定するところとなった。宋の留夢炎は、もとは淳祐四年(1244)の第一甲第一名の進士で、咸淳年間に潭州の知事となり、湖南安撫使を兼ねた。徳祐元年(1275)、官は右丞相となって枢密使を兼ね、また江東西湖南北宣撫大使となった。国が滅びると逃げ去り、元に入ってまた翰林学士承旨となった。これで両国の状元がともに元の用いるところとなった。


460.元初用兩國状元


  王鴞本金正大元年第一甲第一名進士,仕至尚書左右司郎中。金亡將被殺,元將張柔聞其名,救之,館於家。後薦於世祖,擢翰林學士承旨,制誥典章,皆所裁定。宋留夢炎本淳祐四年第一甲第一名進士,咸淳中,知潭州,兼湖南安撫使,德祐元年,官右丞相兼樞密使,又爲江東西湖南北宣撫大使。國亡遁去,入元亦爲翰林學士承旨。是兩國状元倶爲元所用也。

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最終更新:2007年01月29日 15:17