96.関・張の武勇

  漢以後、勇者を称える場合には必ず関・張を取り上げた。二公の本伝に見えるものは以下の通り。袁紹が顔良を派遣して劉延を白馬において攻撃したので、曹操は張遼・関羽に劉延を救出させた。関羽は顔良の麾蓋を眺め見て、馬に鞭打って敵勢一万のただなかで顔良を刺し、その首を斬って引き返したが、袁紹の将のうちでも敵対できる者はなかった。当陽の戦役において先主は妻子を棄てて逃走し、張飛に二十騎を率いさせて後詰めさせた。張飛は川を足がかりに橋を断ち切り、目を瞋らし矛を横たえて言うに、「身どもはこれぞ張益徳である。来い、ともに死を決しようぞ!」敵兵のうちあえて近付く者はいなかった。二公の武勇のうち、伝記に見えるものはこれだけである。しかしながら当時にあって彼らの威名に震えおののかぬ者はなかった。魏の程昱は言った。「劉備には英名があり、関羽・張飛はいずれも万人之敵である。」(魏志程昱伝)劉曄は漢中奪取の勢いに乗って蜀を切り取るべきだと曹操に勧め、言った。「もし少しでも緩めてやれば、諸葛亮が統治の明るさでもって宰相を務め、関羽・張飛が三軍に冠たる勇ましさでもって将帥を務めておりますから、手を着けられなくなります。」(魏志劉曄伝)これは魏の人々が彼らの武勇に心服していたということである。周瑜は密かに上疏して孫権に言った。「劉備には梟雄の相があるうえ、関羽・張飛といった熊虎の将がおり、久しく屈従して他人のために働いたりはきっといたしますまい。」(呉志周瑜伝)これは呉の人々が彼らの武勇に心服していたということである。それだけではない。晋の劉嘏は賊軍を攻撃するたびに堅城を落として鋭鋒をくじき、冀州地方では彼を関羽・張飛になぞらえていた。(晋書劉嘏伝)苻秦は閻負・梁殊を使者として張玄靚のもとへやり、本国の将帥には王飛・鄧羌がいて、関・張の仲間、万人之敵であると誇示した。禿髪傉檀が宋敞に人材を求めたとき、宋敞は「梁崧・趙昌の武勇は、張飛・関羽と同等です」と言った。李庠は人並み外れた膂力を持っており、趙廞は彼を立派に思って「李玄序は一代の関・張である」と言った。(いずれも晋書載記)宋の薛彤・高進之はそろって武勇強力の持ち主であったので、当時の人々は関羽・張飛になぞらえていた。(宋書檀道済伝)魯爽が反乱を起こしたとき、沈慶之は薛安都にこれを攻撃させた。薛安都は魯爽を眺め見るなり、すぐさま馬を躍らせて大喝し、まっすぐ突きかかり、手をくり出すとともに倒した。当時の人々は、関羽の顔良斬りでさえこれ以上ではなかろう、と言った。(南史薛安都伝)斉の垣歴生の武勇は傑出しており、当時の人々は関羽・張飛になぞらえた。(南史文恵太子伝)魏の楊大眼は驍勇果敢、世間では関・張でもこれ以上ではなかろうと評判された。(魏書楊大眼伝)崔延伯が莫折念生を討伐して勝利を収めると、蕭宝寅は「崔公は古代の関・張である」と言った。(魏書崔延伯伝)陳の呉明徹が北進して高斉を討伐したとき、尉破胡らの十万人が着陣して楯突いた。西域の者がいて無駄なく矢を発した。呉明徹が蕭摩訶に告げた。「あの胡人を倒すことができたならば敵軍は意気沮喪するであろう。貴君には関・張の武名がある。顔良を斬ってくれるかね!」蕭摩訶はただちに陣営を飛び出し、鉄塊を投げ付けてその者を殺した。(陳書蕭摩訶伝)以上はみな各史書に見えるものである。二公の武名がただ同時代の人々に慕われ、畏怖されているばかりでなく、死後数百年たっても、彼らに震えおののいて驚かぬ者はなかったのである。武威名声は轟いて現代でも朽ちることはない。天性の神武は決して空しいものではないのだ。

96.關張之勇

  漢以後稱勇者,必推關﹑張.其見於二公本傳者:袁紹遣顏良攻劉延於白馬,曹操使張遼﹑關羽救延,羽望見良麾蓋,卽策馬刺良於萬人之中,斬其首還,紹將莫能當者.當陽之役,先主棄妻子走,使張飛以二十騎拒後,飛據水斷橋,瞋目橫矛曰:「身是張益德也,可來共決死!」敵皆無敢近者.二公之勇,見於傳記者止此,而當其時無有不震其威名者.魏程昱曰:「劉備有英名,關羽﹑張飛皆萬人之敵.」(魏志昱傳)劉曄勸曹操乘取漢中之勢進取蜀,曰:「若小緩之,諸葛亮明於治國而為相,關羽﹑張飛勇冠三軍而為將,則不可犯矣.」(魏志曄傳)此魏人之服其勇也.周瑜密疏孫權曰:「劉備以梟雄之姿,而有關羽﹑張飛熊虎之將,必非久屈為人用者.」(吳志瑜傳)此吳人之服其勇也.不特此也,晉劉嘏每擊賊,陷堅摧鋒,冀方比之關羽﹑張飛.(晉書嘏傳)苻秦遣閻負﹑[梁]殊使於張玄靚,誇其本國將帥,有王飛﹑鄧羌者,關﹑張之流,萬人之敵.禿髮傉檀求人才於宋敞,敞曰:「梁崧﹑趙昌,武同飛﹑羽.」李庠膂力過人,趙廞器之曰:「李玄序一時之關﹑張也.」(皆晉書載記)宋薛彤﹑高進之並有勇力,時人以比關羽﹑張飛.(宋書檀道濟傳)魯爽反,沈慶之使薛安都攻之,安都望見爽,卽躍馬大呼眞刺之,應手而倒,時人謂關羽之斬顏良不是過也.(南史安都傳)齊垣歷生,拳勇獨出,時人以比關羽﹑張飛.(南史文惠太子傳)魏楊大眼驍果,世以為關﹑張弗之過也.(魏書大眼傳)崔延伯討莫折念生,旣勝,蕭寶寅曰:「崔公,古之關﹑張也.」(魏書延伯傳)陳吳明徹北伐高齊,尉破胡等十萬衆來拒,有西域人,矢無虛發.明徹謂蕭摩訶曰:「若殪此胡,則彼軍奪氣.君有關﹑張之名,可斬顏良矣!」摩訶卽出陣,擲銑殺之.(陳書摩訶傳)以上皆見於各史者.可見二公之名,不惟同時之人望而畏之,身後數百年,亦無人不震而驚之.威聲所垂,至今不朽,天生神勇,固不虛也.


  前頁 『廿二史箚記』巻七   次頁
漢復古九州 96.關張之勇 借荊州之非

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2007年03月08日 14:59