95.漢の九州復古

  『後漢書』に、建安十八年、禹貢の九州を復活した、とある。『魏志』でも、この年、詔勅により十四州を合併して九州とした、と述べている。『献帝春秋』の言うには、幽州・幷州を廃止して冀州に併合し、司隷校尉および涼州を廃止して雍州に併合し、これにより兖州・予州・青州・徐州・荊州・揚州・冀州・益州・雍州の九州となった、とのこと。『荀彧伝』を調査すると、こうある。建安九年、ある人が「九州を復古すれば冀州の所轄が広くなりますぞ」と曹操を説得した。荀彧が「もしそのようになさるならば、冀州は河東・馮翊・扶風・西河・幽州・幷州の地を獲得することになり、収奪が多すぎます。関右の諸将はきっと順番に奪われるだろうと思い、人々を不安にさせることになります。天下を片付けるのが容易でなくなるのが気がかりです」と言ったので、曹操はそこで九州の議論を寝かせておいた、と。このときになって改めて復活させたのであるが、思うに、幽州・幷州および関中のもろもろの郡国は、みな、当時すでに平定されていたため、曹操は自分自身が主体となって、将来の王都たる地をすっかり収めておきたかったからであろう。その前年を見れば、すでに蕩陰・朝歌・林慮・衛国・頓邱・東武陽・発干・廮陶・曲周・南和・任城・襄国・邯鄲・易陽を分割して魏郡に加増しており、この年、さらに冀州の河東・河内・魏郡・趙国・中山・常山・鉅鹿・安平・甘陵・平原の十郡でもって曹操を魏公に封じたのである。九州復活がまさに受禅の地ならしになっていることが見てとれよう。

95.漢復古九州

  後漢書,建安十八年,復禹貢九州.魏志亦稱,是年詔書並十四州為九州.獻帝春秋謂省幽﹑幷州入於冀州,省司隸校尉及涼州入於雍州,於是有兖﹑豫﹑靑﹑徐﹑荊﹑揚﹑冀﹑益﹑雍九州.按荀彧傳,建安九年,或說曹操宜復古九州,則冀州所制者廣.彧曰:「若是則冀州當得河東﹑馮翊﹑扶風﹑西河﹑幽﹑幷之地,所奪者衆,關右諸將必謂以次見奪,將人人自保,恐天下未易圖也.」操乃寢九州議.至是乃重復之,蓋是時幽﹑幷及關中諸郡國皆已削平,操自為張本,欲盡以為將來王畿之地故也.觀於是年之前,已割蕩陰﹑朝歌﹑林慮﹑衞國﹑頓邱﹑東武陽﹑發干﹑廮陶﹑曲周﹑南和﹑任城﹑襄國﹑邯鄲﹑易陽以益魏郡,是年又以冀州之河東﹑河內﹑魏郡﹑趙國﹑中山﹑常山﹑鉅鹿﹑安平﹑甘陵﹑平原十郡封操為魏公,可見復九州正為禪代地也.


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裴松之三國志註 95.漢復古九州 關張之勇

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最終更新:2007年03月08日 14:57