91.荀彧伝

  荀彧伝を『後漢書』では孔融らと同じ巻にまとめているのは、彼が漢臣だったと見なしているからである。陳寿の『魏志』が夏侯惇・曹仁らの後、荀攸・賈詡と同じ巻にまとめているのは、彼を魏臣と見なしているからである。調べてみると、こうある。董昭らは曹操の功績が高大であるので魏公に封じて九錫を加えるべきと提議したが、荀彧は曹操がもともと義兵を起こしたのは漢室を正し、忠義貞節を守るためであり、君子は他人を愛するにも徳を用いるのだからそれはよろしくないと述べ、そのことで曹操の気持ちに逆らうことになった。ちょうど孫権を征伐することになり、(曹操は)上表して荀彧を借り受けて軍の慰撫役としたが、荀彧は病気のため寿春に留まった。曹操は人をやって食膳を送り届けたが、これを開いてみると空っぽである。ついに薬を飲んで卒去した。翌年、曹操はとうとう魏公になった、とのこと。このことから荀彧が心底から漢のために尽くそうとしていたことが理解できる。論者のなかには、以下のように主張する者もある。最終的に曹操の気持ちを損ねて死んだとはいえ、その当初、袁紹のもとを去って曹操に就いたときには、ちょうど呂布が兗州に攻めかかっていたのであるが、荀彧は曹操のために鄄城および范・東阿を堅守して曹操を待ち、むかし漢の高祖(劉邦)は最初に関中を平定し、光武帝(劉秀)は最初に河内を占領して基礎としたが、この三つの城こそが曹操にとって関中・河内であると述べた。後年にはまた天子(劉協)を奉迎するよう曹操に勧め、晋の文公は襄王を入れて霸業を固め、漢の高祖は義帝の喪を発して諸侯を手にしたことを述べた。これこそは早くから帝王の創業を曹操に勧めたということであって、どうして漢に忠誠を尽くしたと言えようか、と。(しかしながら)献帝(劉協)が董卓による大乱に遭ったのち、四海は鼎のごとく沸きかえり、各地が武装して四分五裂しており、荀彧は臣下たちのうち曹操を除いては群雄を平らげて漢室を救える者はないと考えており、曹操に帰服して彼のために尽力せざるを得なかったのは、曹操のために働くことこそ漢のためになったからである、ということに気付いてないのだ。最初、天子を奉迎するよう曹操に勧めたとき、曹操にこう告げている。「将軍は外地にあって難事を片付けておいでですが、心中では王室をお忘れになることはございません。これは将軍が天下を正すことを宿願になさっているということであり、まことこれを機会に主上を奉戴して民衆の希望に沿うのは、大いなる順道であります。公正さの極致を守って英雄どもを屈服させるのは、大いなる戦略であります。正義の実行を助けて俊才を招くのは、大いなる恩徳であります」、と。このことから荀彧が曹操を利用することにより漢を救済しようとした本懐が理解できるのである。しかもこのとき曹操はまだ神器を簒奪せんとの心を持っていなかったのである。(曹操の)功績が日ごとに高まり、権勢が極まったのち、董昭らは上公の九錫を加えようとしたが、それは人臣の関与する事柄ではなかった。荀彧もまた曹操が内心に僭上の企てを抱えていることをはっきりと見抜き、決して賛同することなく、ひたすら大義名分をもって諫言し、結局、曹操に疎んじられて薬を飲んで殉死した。その劉氏のために尽くした心は、天下の人々を清めるに十分であろう。陳寿がすでに魏臣のなかに入れているのに、范蔚宗(范曄)は特別に取り出して『後漢書』に並べ、荀彧伝の論に、彼がひたすら正義に従い、身を殺して仁をなした道義を取り上げたと明言している。これこそ実に得心のいく論である。陳寿もまた荀彧伝の末尾で「荀彧が死んだ翌年、曹操はとうとう魏公になった」と言っている。ここでもまた荀彧が曹操のために死なず、あえて彼のために働いたことのなかったことが見て取れる。これは公正なる道はしっかりと人々の心にあり、誣告を受け付けないということなのである。
  また思うに、臧洪はもとより漢末の義士であって、彼が張超と交わりを結び、のちに袁紹と矛を交えたことについては、いずれも曹操と無関係である。本来ならば『魏紀』(魏志)の中に立伝する必要がないのに陳寿がこれを張邈(の伝)の次に並べたのは、おそらくその気骨節義が埋没してしまうのを惜しんだからであろう。蔚宗も格別に『後漢書』の中へ立伝し、『寿志』(魏志)にすでに臧洪伝があるのに構わず、そのまま取り上げた。ここでも編集ぶりの正しさが見て取れるのである。

91.荀彧傳

  荀彧傳,後漢書與孔融等同卷,則固以為漢臣也,陳壽魏志則列於夏侯惇﹑曹仁等之後,與荀攸﹑賈詡同卷,則以為魏臣矣.按董昭等以曹操功高,議欲封魏公,加九錫,彧以為操本起義兵,匡漢室,秉忠貞之節,君子愛人以德,不宜如是,以是拂操意.會征孫權,乃表請彧勞軍,彧病留壽春,操遣人饋食,發之,空器也,遂飲藥而卒.明年,操乃為魏公.是彧之心於為漢可知也.論者或謂末路雖以失操意而死,而當其初去袁紹就操時,値呂布攻兗州,彧為操堅守鄄城及范﹑東阿以待操,謂昔漢高先定關中,光武先取河內以為基,此三城卽操之關中﹑河內也.後又勸操迎天子,謂晉文納襄王而定霸,漢高發義帝喪而得諸侯.是早以帝王創業之事勸操,何得謂之盡忠於漢?不知獻帝遭董卓大亂之後,四海鼎沸,强藩悍鎭,四分五裂,彧計諸臣中,非操不能削羣雄以匡漢室,則不得不歸心於操而為之盡力,為操卽所以為漢也.其初勸操迎天子,謂操曰:「將軍雖禦難於外,乃心無不在王室,是將軍匡天下之素志也.誠因此時奉主上以從民望,大順也;秉至公以服雄傑,大略也;扶弘義以致英俊,大德也.」是可知彧欲藉操以匡漢之本懷矣.且是時操亦未遽有覬覦神器之心也.及功績日高,權勢已極,董昭等欲加以上公九錫,則非復人臣之事.彧亦明知操之心已懷僭妄,而終不肯附和,姑以名義折之,卒之見忌於操而飲藥以殉,其為劉之心亦可共白於天下矣.陳壽已入於魏臣內,范蔚宗獨提出列於後漢書,傳論明言取其歸正而已,亦殺身以成仁之義,此實平心之論也.壽於傳末亦云:「彧死之明年,操遂為魏公.」則亦見彧不死操尚未敢為此也,則又公道自在人心而不容誣衊者矣.
  又按臧洪自是漢末義士,其與張超結交,後與袁紹交兵之處,皆無關於曹操也,則魏紀內本可不必立傳而壽列之於張邈之次,蓋以其氣節不忍沒之耳.蔚宗特傳於後漢書內,不以壽志已有洪傳而遂遣之,亦見其編訂之正.


  前頁 『廿二史箚記』巻六      次頁
三國志誤處 91.荀彧傳 荀彧郭嘉二傳附會處

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2007年03月08日 14:51