6.『史記』には後人によってひそかに挿入された部分がある

  『史記』田儋列伝の賛において、「蒯通は弁士で、著書に八十一篇あった」と唐突に言い出している。「項羽が蒯通を封じようとしたが受けなかった」というにいたっては、このことと田儋に何の関係があって賛に及んだものであろうか。司馬相如列伝の賛には、「相如には空虚なことばやでまかせの説が多いが、その要点の帰すところは節倹にある。揚雄は『華美の賦で、百を勧めて一を批判するもの。鄭・衛の音楽を流して、曲が終わると雅楽を奏するなど、不足にほどがあるではないか』とした。わたしはその語の論ずべき点を取りあげて、篇に著した」うんぬんと言っている。調べてみると、揚雄は哀帝・平帝・王莽のときの人で、司馬遷がどうしてその語を引くことができるだろうか。これは褚少孫の補ったところではなく、後人が紛れ込ませたところであろう。『漢書』の相如伝の賛がまさしく同じもので、もとは班固が揚雄の言を引いて作った賛であり、後人が『史記』列伝の賛に移し替えて作ったものだろうか。外戚世家で衛子夫が寵愛を得るくだりで、今上といわずに武帝といっているのは、これはあるいは褚少孫の改めただけだろう。


6.史記有後人竄入處

  史記田儋傳贊,忽言蒯通辯士,著書八十一篇。項羽欲封之而不受,此事與儋何渉而贊及之。司馬相如傳贊,謂「相如雖多虚詞濫説,然其要歸,引之節儉。揚雄以爲靡麗之賦,勸百諷一,猶馳騁鄭衛之音,曲終而奏雅,不已虧乎。余采其語可論者,著於篇」云云。按雄乃哀、平、王莽時人,史遷何由預引其語。此並非少孫所補,而後人竄入者也。漢書相如傳贊正同,豈本是班固引雄言作贊,而後人反移作史記傳贊耶。外戚世家敘衛子夫得幸之處,不曰今上而曰武帝,此或是少孫所改耳。



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褚少孫補史記不止十篇 6.史記有後人竄入處 史記律書即兵書

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最終更新:2014年12月09日 12:13