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75.曹娥と叔先雄


  『范書』列女伝にいう。会稽の曹娥なる女子は、その父が巫覡であったが、五月五日、(父は)神を迎えるため長江の大波に逆らって溺死した。曹娥は十四歳。長江で泣きながら十七日のあいだ亡骸を探し続けたが、見つからず、とうとう長江に身投げして死んだ。県令の度尚が曹娥を道端に葬り、魏朗に碑文を書かせたが、まだ完成しないうちに、邯鄲淳にも作るよう命じた。魏朗は邯鄲淳の文を見ると、自分の作品を破り捨てた。こうして邯鄲淳の文章が石碑に刻まれることになった。それが蔡邕の「黄絹幼婦、外孫韲臼」と題したものである。また蜀にも叔先雄なる女子があり、父の泥和が県の功曹として檄文を奉じて郡へ赴いたとき、溺死して亡骸が行方知れずになった。叔先雄は溺れた場所を探りあて、川に身を投げて死んだ。その弟が、六日後に父と一緒に出ていこうと叔先雄から告げられる夢を見た。当日になると、夢見た通り、二人の亡骸は同時に長江に浮かび上がった。郡県はこれを表彰し、その姿形を絵に描いて肖像画を作った。二人の行動は全く同じであり、また『列女伝』には同時に載せられている。しかも曹娥が父の亡骸を見つけられなかったのに対し、叔先雄は父の亡骸とともに現れたのだから、より一層の霊異であると言えよう。ところが曹娥は現在まで人口に膾炙する一方、叔先雄はその姓名を知る者とてない。一碑文の力でないとすれば、伝わるかどうかというのは天命ではなかろうか。

75.曹娥叔先雄


  范書列女傳,會稽女子曹娥,其父爲巫覡,五月五日泝江濤迎神溺死,娥年十四,泣江干求十七日不獲屍,遂投江死。縣令度尚葬娥於道旁,使魏朗爲碑文,未出,又使邯鄲淳爲之。朗見淳文,遂毀己作,而淳文刻於碑,蔡邕所題「黄絹幼婦,外孫韲臼」者也。又有蜀中女子叔先雄,父泥和爲縣功曹,奉檄之郡,溺死失屍。雄尋至溺處,投水死。其弟夢雄告以六日後當與父同出,至期,果二屍同浮於江。郡縣表之,并圖其形像焉。二女事正同,又同在列女傳,且曹娥未獲父屍,叔先雄則偕父屍同出,更爲靈異。乃曹娥至今膾炙人口,而叔先雄莫有知其姓名者,豈非一碑文之力耶,則傳不傳豈不有命耶。


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東漢尚名節 75.曹娥叔先雄 召用不論資格
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