73.四世三公


  西漢(前漢)では韋・平両氏が二世代にわたって宰相を務めたが、些細なことに過ぎない。(韋賢は宣帝(劉詢)の時代に丞相となり、その子韋玄成は元帝(劉奭)の時代にまた丞相となった。鄒・魯の地方の諺では「黄金を籠に満たすとも、子に経典を教えるには如かず」と言った。また平当は丞相となり、その子平晏は大司徒となった。このとき丞相は大司徒と改称されており、大司徒とは宰相に相当するのである。『平当伝』に言う。漢が建国されて以来、父子で宰相に昇ったのは韋・平両氏だけである。)東漢(後漢)には子孫代々がみな公になった例がある。楊震は太尉に就任し、その子楊秉は劉矩の後任として太尉となり、楊秉の子楊賜は劉郃の後任として司徒、また張温の後任として司空となり、楊賜の子楊彪は董卓の後任として司空、また黄琬の後任として司徒、淳于嘉の後任として司空、朱儁の後任として太尉・録尚書事となった。楊震から楊彪まで四世代がみな三公になったのである。袁安は司空に就任し、また司徒にも就任し、その子袁敞および袁京はみな司空となり、袁京の子袁湯もまた司空となり、太尉を歴任して安国亭侯に封ぜられ、袁湯の子袁逢もまた司空に就任し、袁逢の弟袁隗は袁逢よりも早く三公となり、官位は太傅まで昇った。それを臧洪は「袁氏は四世代で五人の公を出した」と言っているのであって、楊氏と比べても公はさらに一人多い。古来、この両家ほど一族の繁栄した例はない。范蔚宗(范曄)は西京(西漢)の韋・平両氏でも彼らに比べれば大したことはないと述べているが、まったく些細なことだと言えよう。両家代々は名声徳望でもって国家譜代の臣下となったが、ただ家柄や資産だけで出世したのではなく、なかなか真似できないものである。
  于定国が丞相となり、その子于永が御史大夫となっている。(二世代にわたる三公である。西漢では丞相・大司馬・御史大夫を三公と称していた。)

73.四世三公

  西漢韋、平再世宰相,已屬僅事,(韋賢,宣帝時爲丞相,其子玄成,元帝時亦爲丞相,鄒、魯諺曰:「黄金滿籝,不如教子一經。」又平當爲丞相,其子晏爲大司徒,時已改丞相爲大司徒,大司徒即相也。平當傳謂漢興,惟韋、平父子至宰相。)東漢則有歴世皆爲公者。楊震官太尉,其子秉代劉矩爲太尉,秉子賜代劉郃爲司徒,又代張温爲司空,賜子彪代董卓爲司空,又代黄琬爲司徒,代淳于嘉爲司空,代朱儁爲太尉、録尚書事。自震至彪,凡四世皆爲三公。袁安官司空,又官司徒,其子敞及京皆爲司空,京子湯亦爲司空,歴太尉,封安國亭侯,湯子逢亦官司空,逢弟隗先逢爲三公,官至太傅。故臧洪謂袁氏四世五公,比楊氏更多一公。古來世族之盛,未有如二家者。范蔚宗謂西京韋、平,方之蔑如,眞可謂僅事矣。而二家代以名德,爲國世臣,非徒以名位門第相高,則尤難得也。
  于定國爲丞相,其子永爲御史大夫。(係兩代三公。西漢丞相、大司馬、御史大夫稱三公也。)


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累世經學 73.四世三公 東漢尚名節

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最終更新:2007年03月05日 06:04