456.弟を皇太子とし、叔母を太皇太后とする

  元の武宗(カイシャン)は弟の仁宗(アユルバルワダ)を立てて皇太子とし、明宗(コシラ)は弟の文宗(トク・テムル)を立てて皇太子とした。思うに皇太子とは王朝の跡継ぎの名号であって、一族の序列では論じられないのである。しかし弟を子と称するとは、名の正しくないこと、これほどひどいことはない。
  順帝(トゴン・テムル)は叔母(文宗の后のブッダシリ)に立てられた恩があったので、尊び奉ろうと考えて、まず尊んで皇太后とし、次いでまた尊んで太皇太后とした。叔母を祖母の称で奉ずるとは、もっとも可笑しいことである。当時にも許有壬が強く諫めたが、聞き入れられなかった。また明宗が殺された事件が追究されると、鉾先は太后におよんで、東安州にうつされて死んだ。はじめに彼女を非礼によって尊び、のちに彼女を冤罪に連座させる。衰朝の荒主のやることが無茶苦茶なのは、もとより責めるまでもないことだろうか。


456.弟爲皇太子叔母爲太皇太后

  武宗立弟仁宗爲皇太子,明宗立弟文宗爲皇太子,蓋以皇太子爲繼體儲君之名號,不論輩行也。然以弟稱子,名之不正,莫此爲甚。順帝以從母(文宗后卜荅失里)援立之恩,極欲尊奉,先尊爲皇太后,繼又尊爲太皇太后,以叔母而奉以祖母之稱,尤可笑也。當時許有壬力諫,不聽。又追究明宗被害之故,遷怒於后,安置東安州以死。始則尊之以非禮,後則坐之以非罪,衰朝荒主,顛倒妄行,固無足責矣。

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最終更新:2007年02月10日 22:45