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349.三たび入相すること

  『宋史』呂蒙正伝の賛に「国朝(宋朝)で三たび入相した(宰相となった)のは、ただ趙普と呂蒙正だけである」という。しかし呂蒙正の後に、また王欽若・張士遜・呂夷簡・文彦博・陳康伯がいて、みな三たび入相しており、蔡京は四たび入相するにいたっている。『宋史』のいうところは、深く考察されたものではないのだ。いま次に記録しておく。
  趙普:(乾徳三年に門下侍郎平章事となり、のちに河陽三城節度使として出された。太平興国初年に再び入相し、司徒兼侍郎に任ぜられた。八年、武勝軍節度使として出された。雍熙三年に再び入相し、太保兼侍中に任ぜられた。)
  呂蒙正:(太平興国年間に中書侍郎兼戸部尚書平章事に任ぜられ、淳化初年に罷免されて吏部尚書となった。四年にまた本官のまま入相し、至道年間に判河南府として出された。真宗の咸平四年にまた本官のまま同平章事となった。)
  王欽若:(大中祥符年間に検校太傅同中書門下平章事となり、馬知節と争論したため罷免された。また左僕射兼中書侍郎同平章事に任ぜられたが、まもなく判杭州として出された。仁宗の初年にまた司空・門下侍郎・同平章事に任ぜられた。)
  張士遜:(仁宗の初年に礼部尚書から同中書門下平章事となったが、のちに知江寧として出された。明道初年に再び入相し、中書侍郎に進んだが、まもなく山南東道節度使として出された。宝元初年にまた門下侍郎として入相し、郢国公に封ぜられた。)
  呂夷簡:(尚書から中書同平章事に任ぜられ、のちに判陳州として出された。いくばくもせずに相にかえりざき、申国公に封ぜられたが、再び判許州として出された。いくばくもせず、また右僕射として入相し、位を司空に進めた。)
  文彦博:(貝州を平定して帰還すると、同中書門下平章事に任ぜられたが、唐介に弾劾されて罷免され、知許州として出された。至和二年にまた吏部尚書として入相し、長くつとめたが、判河南として出され、太師として致仕した。元祐初年に平章軍国重事として召され、六日に一度の間隔で朝廷に出た。)
  陳康伯:(紹興三十一年に尚書右僕射に任ぜられたが、判信州として出された。隆興初年にまた尚書左僕射・同中書平章事に任ぜられたが、知建康府として出された。淳熙九年に右丞相に任ぜられた。ときの孝宗が僕射は名が正しくないとして、丞相と改めたものである。)


349.三入相

  宋史呂蒙正傳贊謂「國朝三次入相者,惟趙普及蒙正。」然蒙正後,又有王欽若、張士遜、呂夷簡、文彦博、陳康伯亦皆三次入相,蔡京並至四次入相。宋史所云,尚未深考也。今録於左:
  趙普:乾德三年爲門下侍郎平章事,後出爲河陽三城節度使。太平興國初再入相,拜司徒兼侍郎。八年,出爲武勝軍節度使。雍熙三年再入相,拜太保兼侍中。
  呂蒙正:太平興國中拜中書侍郎兼戸部尚書平章事,淳化初罷爲吏部尚書。四年又以本官入相,至道中出判河南府。真宗咸平四年又以本官同平章事。
  王欽若:大中祥符中檢校太傅同中書門下平章事,以與馬知節爭論罷。尋又拜左僕射兼中書侍郎同平章事,尋出判杭州。仁宗初復拜司空門下侍郎同平章事。
  張士遜:仁宗初由禮部尚書同中書門下平章事,後出知江寧。明道初再入相,進中書侍郎,尋出爲山南東道節度使。寶元初又入爲門下侍郎,封郢國公。
  呂夷簡:由尚書拜中書同平章事,後出判陳州。未幾復相,封申國公,再出判許州。未幾,又以右僕射入相,進位司空。
  文彦博:平貝州歸,拜同中書門下平章事,爲唐介劾罷,出知許州。至和二年又以吏部尚書入相,久之,出判河南,以太師致仕。元祐初召平章軍國重事,六日一朝。
  陳康伯:紹興三十一年拜尚書右僕射,出判信州。隆興初又拜尚書左僕射同中書平章事,出知建康府。淳熙九年拜右丞相,時孝宗以僕射名不正,改爲丞相。
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