108.東晋は幼主が多い

  晋が南渡してのち、ただ元帝(司馬睿)が年四十二で即位し、簡文帝(司馬昱)が年五十一で即位したが、そのほかは即位したときに幼弱だったものが多い。
  明帝(司馬紹)は二十四歳、成帝(司馬衍)は五歳、康帝(司馬岳)は二十一歳、穆帝(司馬耼)は二歳、哀帝(司馬丕)は二十三歳(正しくは二十一歳)、廃帝(司馬奕)は二十一歳(正しくは二十四歳)、孝武帝(司馬曜)は十二歳、安帝(司馬徳宗)は二十二歳(正しくは十五歳)で即位した。恭帝(司馬徳文)が年三十二で即位するにいたって、国はついに劉宋に帰してしまった。
  国運が隆盛に向かっているときには、君主の在位期間が長く、子を生むのも早く、つぎに帝位を継ぐものが多く壮年ということになり、いわゆる国に成長した君主があるということで、社稷が幸福なのである。王朝の衰えるときには、君主の在位期間が短く、跡継ぎの子も多くは幼いということで、もとより人力でどうにかできるところではないということである。
  しかし東晋が(幼主が多いのに)なお八、九十年のあいだ国を受け継ぐことができたのは、つまるところ補弼する大臣の力によるのである。
  明帝、成帝のときには、王導・庾亮・郗鑒らがいた。康帝・穆帝のときには、褚裒・庾冰・蔡謨・王彪之らがいた。孝武帝のときには、謝安・謝玄・桓沖らがいた。
  君主が弱小でも、臣下がなお公正で忠実なら、国の命脈を伸ばすことができる。ひとたび桓温が出て宗社を幾たびか移し、会稽王司馬道子が見識もないのに国政を担当し、司馬元顕が愚かしく政治を乱すにおよんで、みんないっしょに溺れてしまったのだ。国家の貴いところは、賢人を任用する策にあるのである。


108.東晉多幼主

  晉南渡後,惟元帝年四十二即位,簡文帝年五十一即位,其餘則踐阼時多幼弱。明帝二十四歳,成帝五歳,康帝二十一歳,穆帝二歳,哀帝二十三歳,廢帝二十一歳,孝武帝十二歳,安帝二十二歳,至恭帝即位,年三十二,而國已歸劉宋矣!蓋運會方隆,則享國久長,生子亦早,故繼體多壯年,所謂國有長君,社稷之福也。及其衰也,人主既短祚,嗣子自多幼沖,固非人力所能為矣!然東晉猶能享國八、九十年,則猶賴大臣輔相之力。明帝、成帝時,有王導、庾亮、郗鑒等。康帝、穆帝時,有褚裒、庾冰、蔡謨、王彪之等。孝武時有謝安、謝元、桓沖等。主雖孱弱,臣尚公忠,是以國脈得以屢延。一桓温出而宗社幾移,迨會稽王道子昏庸當國,元顯以狂愚亂政,而淪胥及溺矣!國家所貴有樹人之計也。


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最終更新:2007年03月01日 07:05