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64.光武帝は多くの奴婢を自由にした

  後漢の光武帝(劉秀)のとき、彭寵がそむき、その蒼頭(奴隷)の子密が彭寵を殺して降伏すると、光武帝はかれを不義侯に封じた。そのほかにも奴婢を解放した話は、いくつか史書に見られる。
  建武二年(26)五月、光武帝は詔を下した。「民のうちで、自分の妻を他人に嫁がせたり、子どもが売られて父母のもとに帰りたがっているものがある。その場合、自由にすることを許す。あえて拘束しようとする者は法律にしたがって罪を問うものとする」。
  六年(30)十一月、詔を下した。「王莽のときの下級役人のうちで、犯罪のかどで財産没収のうえ奴婢の身分に落とされたが、旧来の法律に照らしてそのような処分に当たらない者は、みな赦免して庶民とせよ」。
  七年(31)五月、役人に詔を下した。「飢乱に遭遇し、青州(山東)・徐州(江蘇)の賊にかどわかされて奴婢やめかけとなった者がいる。立ち去るかそのまま留まるかは、本人の自由に任せよ。あえて拘束して帰さない者には、人身売買の法を適用せよ」。
  十一年(35)二月、詔を下した。「天地の本性は、人間を貴重なものとした。もし奴婢を殺したことがあっても、そのために罪を減じてはならない」。
  また八月、詔を下した。「もし奴婢の肌を火あぶりにしたものがいれば、法律のとおりに罪に問い、火あぶりにされた者を解放して庶民とせよ」。
  十二年(36)三月、詔を下した。「隴(陝西)・蜀(四川)の民のうちでかどわかされて奴婢となって自ら訴える者、および刑獄担当の官から判決についての上申がまだない罪人は、いっさいを赦免して庶民とせよ」。
  十三年(37)十二月、詔を下した。「益州(四川)の民のうちで、公孫述のとき以来かどわかされて奴婢となった者は、みないっさい解放して庶民とせよ。あるいは身を寄せて他人のめかけとなり、立ち去ろうと望む者は自由にすることを許す。あえて拘束する者は青州・徐州で人をかどわかした場合に準じて法を適用する」。
  十四年(38)十二月、詔を下した。「益州(四川)・涼州(甘肅)の奴婢のうちで、隗囂・公孫述のとき以来にその土地の官に訴えた者は、いっさいを赦免して庶民とし、売られた者は売価を返してはならない」。
  これらはみな『後漢書』光武帝紀に見える。『漢書』王莽伝によると、貧富の差が起こり、奴婢の市が置かれ、牛馬と同様に取り引きされ、奸悪な者たちが利益をえていた。人の妻子をかどわかして売るにいたっては、天の心にそむき人倫にもとる…と書かれている。
  王莽のとき、奴婢の受けた害ははなはだしいものがあった。その後の兵乱のとき、良民がまた多くかどわかされて奴婢となった。光武帝はかつて民間にあってこれらを見ていたので、そのためかれらを保護したのである。


64.光武多免奴婢

  光武時,彭寵反,其蒼頭子密殺寵降,光武已封爲不義侯矣。其他加恩於奴婢者,更史不勝書。建武二年,詔:「民有嫁妻賣子,欲歸父母者,恣聽之,敢拘執者,論如律。」六年,詔:「王莽時吏人沒入爲奴婢,不應舊法者,皆免爲庶人。」七年,詔:「吏人遭饑,爲青、徐賊所略爲奴婢下妻,欲去留者,恣聽之,敢拘制不還者,以賣人法從事。」十一年,詔曰:「天地之性人爲貴,其殺奴婢,不得減罪。」又詔:「敢灸灼奴婢論如律,免所炙灼者爲民。」又除奴婢射傷人棄市律。十二年,詔:「隴、蜀民被掠爲奴婢自訟者,及獄官未報,一切免爲庶民。」十三年,詔:「益州民自八年以來被掠爲奴婢者,皆免爲庶人。或依託人爲下妻欲去者,恣聽之。敢有拘留者,以掠人法從事。」十四年,詔:「益、涼二州,八年以來奴婢自訟在官,一切免爲民,賣者無還直。」此皆見于本紀者。主藉奴婢以供使令,奴婢亦藉主以資生養,固王法所不禁,而光武獨爲之偏護,豈以當時富家巨室虐使臧獲之風過甚,故屢降詔以懲其弊耶。案班書王莽傳,謂貧富不均,置奴婢之市與牛馬同闌,制於臣民專斷其命,姦人因縁爲利,至略賣人妻子,逆天心,誖人倫云云。是莽時奴婢之受害實甚。其後兵亂時,良民又多被掠爲奴婢,光武初在民間親見之,故曲爲矜護也。
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