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60.後漢書の編成と訂正
 光武帝が最初に光武と書かれ、即位した後は帝と書かれている。これは漢書の高祖本紀で、最初に高祖と書かれ、沛公と書かれ、漢王と書かれ、即位した後は帝と書かれている、という前例を踏襲したものである。ただ光武帝が蕭王に封ぜられたことがあるのに、後漢書の光武帝紀では蕭王と書く一節を省略しているのが、やや異なるだけである。列伝ではいずれも名前を書くが、光武帝の兄の劉縯だけは、その字の伯升で書いてある。これもまた元々漢書の王莽伝の中で伯升と書かれているからである。これらは編成に深い心遣いがある証拠である。
 その編成の巻帙について考えると、循吏、酷吏、宦者、儒林、文苑、独行、方術、逸民、外戚などの列伝は、類似性によって配列し、その他の列伝は年代の前後に応じて配列して編成されている。しかし後漢書でもまた一部は年代順に従っていないものがある。それらは各自その人の普段のあり方に基づいた類似性によって配列されている。これもまた元々は史記で、老子と韓非が同伝であったり、屈原と賈誼が同伝であったり、魯仲連と鄒陽が同伝であったりするように、ただ類似性によって配列し、年代順にはこだわっていないことによる。
 漢書で、黄覇は丞相であり朱邑は大司農なのに全て循吏伝にされているのは、彼らが郡を治めるのに長じていたからだ。

60.後漢書編次訂正
 光武紀開首即称光武、至即位後称帝。此彷班書高祖紀、初称高祖、継称沛公、称漢王、即位称帝之例也。惟光武曾封蕭王、此紀乃省卻称蕭王一節、稍不同耳。列伝例皆称名、独光武兄縯、則書其字伯升。此亦本班書王莽伝内、已称伯升故也。
 至其編次巻帙、如循吏、酷吏、宦者、儒林、文苑、独行、方術、逸民、外戚等伝、既各以類相従矣、其他列伝自応以時代之先後分別編次。乃范書又有不拘時代而各就其人之生平以類相従者。此亦本之史記、如老子与韓非同伝。屈原与賈誼同伝。魯仲連与鄒陽同伝。但以類相従、不拘時代。
 漢書。黄覇為丞相、朱邑為大司農、而皆入循吏伝、以其長於治郡也。夏侯勝治尚書、京房治易、宜入儒林伝、而另為列伝、与眭弘等同巻、以其皆精於占験也。蒯通、伍被、江充、息夫躬、或国初人、或中葉末造人、而列為一巻、以其皆利口也。
 後漢書亦彷此例。如、卓茂本在雲台図像内(明帝永平中、追感光武功臣、乃図画二十八将於南宮雲台)、乃与魯恭、魏覇、劉寬等同巻、以其皆以治行著也。郭伋、杜詩、孔奮、張堪、廉范皆国初人、王堂、蘇章皆安帝時人、羊続、賈琮、陸康皆桓霊時人、而同為一巻、亦以其治行卓著也。張純国初人、鄭康成漢末人、而亦同巻、以其深於経学也。張宗、法雄国初人、度尚、楊璇漢末人、而亦同巻、以其皆為郡守、能討賊也。王充国初人、王符、仲長統漢末人、而亦同巻、以其皆著書、恬於栄利也。鄧彪、張禹、徐防、胡広等同巻、以其皆和光取容(与世無争、討好他人以求容身)、人品相似也。袁安、張輔、韓陵、周栄、郭躬、陳寵等同巻、以其皆明於法律、決獄平允也。班超、梁慬同巻、以其立功絶域也。楊終、李法、翟酺、応奉同巻、以其文学也。杜根、劉陶、李雲同巻、以其皆仗節能直諫也。樊宏、樊謙、樊準、陰識、陰興、陰就同巻、以其皆外戚而有功績可紀、故不入外戚而仍列一巻也。蘇竟、楊厚、郎顗、襄楷同巻、以其皆明於天文、能以之規切時政也。周変、黄憲、徐稚、姜肱、申屠蟠同巻、以其皆高士也。此編次之用意也。
 至崔寔伝載其政論一篇、桓譚伝載其陳時政一疏、馮衍伝載其説廉丹一書、説鮑宣一書、王符伝載其潛夫論中五篇、仲長統伝載其楽志論及昌言中二篇、張衡伝載其客問一篇、上疏陳事一篇、請禁図讖一篇、蔡邕伝載其釈誨一篇、条陳所宜行者七事。皆以有関於時政也。至如崔駰伝載崔篆慰志賦一篇、駰達旨一篇、班固伝載其両都賦、明堂璧雍詩及典引篇、杜篤伝載其論都賦、傅毅伝載其迪志詩、崔琦伝載其外戚箴、趙壹伝載其窮鳥賦、劉梁伝載其和同論、邊譲伝載其章華賦。皆以其文学優贍、詞采壮麗也。郎顗伝載占験七事、郭太伝載其遺事九条。此又略彷史記扁鵲等伝体。儒林伝五経各先載班書所記之源流、而後以東漢習経者著為伝、尤見各有師法。卓茂伝敘当時与茂俱不仕莽者、孔休、蔡勳、劉宣、龔勝、鮑宣等五人。来歴伝敘同諫廃太子者祋諷、劉禕、薛皓、閭邱宏、陳光、趙代、施延、朱倀、第五頡、曹成、李尤、張敬、龔調、孔顕、徐崇、楽闡、鄭安世等十七人、此等既不能各立一伝、而其事可伝、又不忍没其姓氏、故立一人伝、而同事者用類敘法、尽附見於此一人伝内、亦見其簡而該也。
 又有詳簡得宜而無複出疊見之弊者。呉漢伝敘其破公孫述之功、則述伝不復詳載。耿弇伝敘其破降張歩之功、則歩伝亦不復詳載。宦者孫程以張防誣搆、虞詡上殿力争、事見詡伝則程伝不復載。張倹奏劾中常侍、侯覧籍没其家、事見覧伝、則倹伝不復載。倹避難投孔褒、褒弟融蔵之、後事泄、褒兄弟争相死、事見融伝、則倹伝不復載。(融曰「保納舍蔵者、融也、当坐之。」褒曰「彼来求我、非弟之過、請甘其罪。」吏問其母、母曰「家事任長、妾当其辜。」一門争死。) 張譲矯殺何進、事見進伝、則譲伝不復載。劉虞以十万衆攻公孫瓚、事見虞伝、則瓚伝不復載。袁紹尽誅宦官二千余人、無少長皆死、事見何進伝、則紹伝不復載。此更可見其悉心核訂、以避繁複也。又其論和熹后終身称制之非、而后崩後則朝政日乱、以見后之能理国。論隗囂謂其晩節失計、不肯臣漢、而能得人死力、則亦必有過人者。論李通雖為光武佐命、而其初信讖記之言起兵、致其父及家族皆為王莽所誅、亦不可謂智。此皆立論持平、褒貶允当、足見蔚宗之有学有識、未可徒以才士目之也。。
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