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381.金史の誤っているところ


 遼史では「天祚帝は宰相の張琳、李處温と秦晉國王の耶律淳に燕京を守るよう命じ,天祚帝は夾山に遁走したが,天祚帝からの命令が通じなくなったため,奚和勒博、耶律達實(大石)と李處温、左企弓、虞仲文、曹勇義、康公弼等は耶律淳を立てて皇帝とし,建福に改元した。そのうちに,耶律淳が死んだため,一同はまたその妻の德妃蕭氏を皇太后として,主軍國事とし,天祚帝の次男で秦王の定を迎えて皇帝としようとして,皇太后は稱制を行い,改元して德興とした。」と書いている。
 これによって耶律淳の年號が建福,蕭氏の年號が德興というのがわかるのである。
 しかし金史の左企弓傳では「遼の天祚帝は陰山に逃亡して,秦晉國王の耶律淳が燕で自立して,德興と改元した。」としている。つまり耶律淳の妻の年號を耶律淳の年號としているのである。
 また遼史では「左企弓、曹勇義、虞仲文、康公弼達は金に降伏した後,平州を通過した際,張殼が十の罪を數えあげ,皆首を縊めて殺した。」としているが、金史ではただ左企弓傳に張覺の殺すところとなったと記されているだけである。
 虞仲文傳では「翰林侍講學士となり,亡くなって文正と諡された。」とあり、曹勇義傳では「三司使となり,宣政殿大學士を加えられ,亡くなって文莊と諡された。」とある。
 康公弼傳では「乾州節度使となり,亡くなって忠肅と諡された。李處温は殺害された跡は見えず,皆と同じく在官のまま亡くなったものと考えられる。
 まして左企弓傳ではすでに金に降伏した後,金は左企弓を仮の太傅、中書令に,虞仲文を樞密使、侍中、秦國公に,曹勇義には仮の司空の官を授け,康公弼は同中書門下平章事、陳國公になり,これで皆金の官職についているのであるから,既に金の官職を受けているのなら,死んだ時(の肩書き)には金の官職を書いている。つまり,虞仲文達の列傳でいう翰林侍講學士、宣政殿大學士、乾州節度使の類いは,遼に仕えた時の官であり,共に根拠とするところがないのであるから,これは金史の誤りである。


381.金史誤處

遼史:天祚帝命宰相張琳、李處溫與秦晉國王耶律淳守燕,帝遁入夾山,命令不通,奚和勒博(遼史名回离保)、耶律達實(大石)及李處溫、左企弓、虞仲文、曹勇義、康公弼等立淳為帝,改元建福。未幾,淳死,眾又立其妻德妃蕭氏為皇太后,主軍國事,將迎天祚次子秦王定為帝,皇太后稱制,改元德興。

是淳年號建福,蕭氏年號德興也。

而金史左企弓傳乃云:遼天祚帝亡保陰山,秦晉國王耶律淳自立於燕,改元德興。則以其妻之年號為淳之年號矣。

又遼史:左企弓、曹勇義、虞仲文、康公弼等降金後,過平州,張殼(遼史名殼,金史名覺)數以十罪,皆縊殺之。

而金史惟企弓傳記其為張覺所殺。仲文傳則云:為翰林侍講學士,卒諡文正。勇義傳云:為三司使,加宣政殿大學士,卒諡文莊。公弼傳云:權乾州節度使,卒諡忠肅。俱不見被害之跡,一似考終於官者。

況企弓傳已敘明降金後,金授企弓守太傅中書令,仲文樞密使侍中秦國公,勇義以授官守司空,公弼同中書門下平章事陳國公,此諸人所受金官也,既受金官,則臨死時應以金官書之。乃仲文等傳所云翰林侍講學士、宣政殿大學士、權乾州節度使之類,仍是仕於遼之官,尤覺兩無所據,此金史之失也。
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