41.兩帝捕盜法不同

  漢武時,酷吏盛行,民輕犯法,盜賊滋起。大者至數千人,攻城邑,掠庫兵。帝使光禄大夫范昆、〔故〕九卿張德等,衣繡衣,持節發兵,斬首或至萬數,並誅通行飲食者。數年稍得其渠率,而散亡者又聚黨阻山川。無可奈何,乃作沈命法,盜起不發覺,覺而勿捕滿品者,二千石以下至小吏皆死。其後小吏懼誅,雖有盜不敢發,恐累府,府亦使不言,故盜賊益多。(臧宣傳)光武帝建武十六年,羣盜並起,所在殺長吏,討之則解散,去又屯結。乃下令聽羣盜自相糾摘,五人〔共〕斬一人者除其罪,牧、守、令、長界内有盜賊及棄城者,皆不以爲罪,但取獲賊多少爲殿最,惟蔽匿者罪之。於是更相追捕,並解散。(光武紀)同一捕盜也,一則法愈嚴而盜愈多,一則法稍疏而盜易散,此亦前事之師也。


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武帝時刑罰之濫 41.兩帝捕盜法不同 呂武不當並稱

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最終更新:2008年11月13日 22:21