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330.宋の封王の制

  宋初の臣下で王に封ぜられた者は少ない。石守信が亡くなると、威武郡王に封ぜられた。王審琦が亡くなると、琅琊郡王に封ぜられた。高懐徳が亡くなると、渤海郡王に封ぜられた。王景は生前に太原郡王に封ぜられ、亡くなると岐王に封ぜられた。これらはみな前代の功臣であり、位はもともと高く重く、いったん心を傾けて王朝を興すと、藩鎮を説得したので、このため封土でもって栄えさせたのである。宋の天子を助けた功臣では、ただ趙普が亡くなると真定郡王に封ぜられ、曹彬が亡くなると済陽郡王に封ぜられただけである。(趙普はのちに韓王に加封された。)徽宗のときにいたって、王安石が舒王に、蔡確が汝南郡王に追封されたのが、封爵の濫用の始まりである。ときに宰相何執中が亡くなると、清源郡王に封ぜられた。鄭居中が亡くなると、華原郡王に封ぜられた。はなはだしいところでは、宦官の童貫がまた生前に広陽郡王に封ぜられ、爵位とそれによって賜る車や衣服が汚されたことは、これほどひどいものはない。南渡後、武臣で王に封ぜられた者では、韓世忠が生前に咸安郡王に封ぜられ、のちに靳王に追封された。張俊は生前に清河郡王に封ぜられ、のちに循王に追封された。楊存中は生前に同安郡王に封ぜられ、のちに和王に追封された。呉璘は生前に新安郡王に封ぜられ、のちに信王に追封された。南渡後の武臣で死後に追封された者は、呉玠が涪王に、岳飛が鄂王に(寧宗のときに封ぜられ)、劉光世が安成郡王に(孝宗のときに封ぜられ)、また鄜王に加封された。文臣で王に封ぜられた者は、秦檜が生前に建康郡王に封ぜられ、のちに申王に追封された。史浩が会稽郡王に追封され、また越王を加えられた。韓侂冑は生前に平原郡王に封ぜられた。史彌遠は生前に会稽郡王に封ぜられ、死ぬとまた越王に追封された。鄭清之はまた魏郡王に追封された。もろもろの武臣は戦功が多く、封ぜられた理由も分かるが、文臣が権勢寵愛のために王位を得るのは、またたいそういやらしいことである。このほかに后族で王に封ぜられた者がいて、それが母后の族を尊崇すること子孫にいたった始まりである。太祖が杜太后の弟の杜審進が追封されて京兆郡王とし、真宗が母の李太后の父の李英を常山郡王に追封し、仁宗が真宗の潘皇后の父の潘美を鄭王に、郭皇后の弟の郭守文を譙王に追封したようなのがこれである。章献明肅劉皇后の父の劉通が魏王に追封されたのは、皇后が垂簾政治をおこなったためである。李宸妃の弟の李用和が隴西郡王に封ぜられたのは、また仁宗の生母だったためである。ただ仁宗の張貴妃(温成皇后と追冊された)の父の張堯封が清河郡王に封ぜられたのは、これは人主のために自ら后族を封じた始まりである。仁宗の慈聖光献曹皇后は、曹斌の孫娘であり、神宗のときにその曾祖父の曹芸を魏王に、祖父の曹彬を韓王に、父の曹玘を呉王に追封し、皇后の弟の曹佾はまた済陽郡王に封ぜられ、あわせて四代にわたったのである。英宗の宣仁聖烈高皇后があり、神宗はその父の高継勲を康王に、兄の高遵甫を楚王に追封し、高宗はまた皇后の弟の高士遜・高士林を追封し、甥の高公紀、高公繪をみな王とした。神宗の欽聖向皇后の弟の向宗回は永陽郡王に、向宗良は永嘉郡王に、みな徽宗のときに封ぜられた。哲宗の孟皇后の父の孟彦弼は咸寧郡王に、弟の孟忠厚は信安郡王に、高宗のときに封ぜられた。徽宗の王皇后・鄭皇后の后族は封ぜられることがなかった。韋賢妃は高宗の生母となり、高宗はその弟の韋淵を平楽郡王に封じた。欽宗の朱皇后の父の朱伯材は恩平郡王に、欽宗により封ぜられた。高宗の呉皇后の父の呉近は呉王に、弟の呉益は太寧郡王に、呉蓋は新興郡王に、孝宗の郭皇后の父の郭瑊は栄王に、弟の郭師瑀は永寧郡王に、みな子が皇帝となった後に封ぜられたものである。光宗の李皇后は三代にわたってみな王に封ぜられ、光宗のときに封ぜられたものである。寧宗の楊皇后の弟の楊次山は永陽郡王に、その二子の楊谷、楊石もまたみな王に封ぜられ、寧宗のときに封ぜられたものである。理宗の謝皇后は三代にわたってみな王に封ぜられ、度宗のときに封ぜられたものである。


330.宋封王之制

  宋初臣下少封王者。石守信卒,封威武郡王。王審琦卒,封琅琊郡王。高懷德卒,封渤海郡王。王景生封太原郡王,卒封岐王。此皆前代功臣,位本崇重,一旦傾心興朝,宣力藩鎮,故榮之以茅土也。其佐命功臣,惟趙普卒封真定郡王,曹彬卒封濟陽郡王而已。(普後加封韓王。)至徽宗時,追封王安石舒王,蔡確汝南郡王,封爵始濫。時宰相何執中卒,封清源郡王。鄭居中卒,封華原郡王。甚至奄人童貫,亦生封廣陽郡王,名器猥褻,莫此爲甚。南渡後,武臣封王者,韓世忠生封咸安郡王,後追封靳王。張俊生封清河郡王,後追封循王。楊存中生封同安郡王,後追封和王。呉璘生封新安郡王,後追封信王。其死後追封者,呉玠涪王、岳飛鄂王(寧宗時封)、劉光世安成郡王(孝宗時封),又加封鄜王。文臣封王者,秦檜生封建康郡王,後追封申王。史浩追封會稽郡王,又加越王。韓侂冑生封平原郡王。史彌遠生封會稽郡王,死又追封越王。鄭清之亦追封魏郡王。諸武臣多戰功,疏封尚有説,文臣以權寵得之,亦太猥褻矣。此外則后族有封王者,其始皆子孫尊崇母后之族。如太祖追封杜太后弟審進爲京兆郡王。真宗追封母李太后父英常山郡王。仁宗追封真宗潘后父美鄭王,郭后弟守文譙王是也。章獻明肅劉后父通,追封魏王,則以后垂簾故。李宸妃弟用和封隴西郡王,亦以仁宗生母故。惟仁宗張貴妃(追册温成皇后)父堯封封清河郡王,此爲人主自封后族之始。仁宗慈聖光獻曹后,乃曹斌女孫,神宗時追封其曾祖芸魏王,祖彬韓王,父 呉王,后弟佾亦封濟陽郡王,則並及四代矣。英宗宣仁聖烈高后,神宗追封其父繼勳康王,兄遵甫楚王,高宗又追封后弟士遜、士林、姪公紀、公繪皆爲王。神宗欽聖向后弟宗回永陽郡王、宗良永嘉郡王,皆徽宗時封。哲宗孟后父彦弼咸寧郡王、弟忠厚信安郡王,則高宗時封。徽宗王后、鄭后無封。韋賢妃爲高宗生母,高宗封其弟淵平樂郡王。欽宗朱后父伯材恩平郡王,則欽宗所封也。高宗呉后父近呉王、弟益太寧郡王、蓋新興郡王,孝宗郭后父瑊榮王、弟師瑀永寧郡王,皆子爲帝後所封。光宗李后三代皆封王,則光宗時封寧宗楊后弟次山永陽郡王,其二子谷、石亦皆封王,亦寧宗時封。理宗謝后三代皆王,則度宗時封。
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