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143.南史の誤っているところ


  南史の宋の後廢帝紀では,孝武帝の二十八子のうち,明帝がその十六人を殺し,その他は皆後廢帝が殺したと言っている。
 今宋書を調べてみると,前廢帝、明帝、後廢帝の三本紀及び孝武諸子傳で,孝武帝の子の新安王の子鸞、南海王の子師は,前廢帝の子業が殺すところとなっている。
 明帝が殺したのは,前廢帝である子業、豫章王の子尚、晉安王の子勛、安陸王の子綏、臨海王の子頊、邵陵王の子元、永嘉王の子仁、始安王の子真、淮安王の子孟、南平王の子彦、廬陵王の子輿、松滋侯の子房、東平王の子嗣,また子趨と子期、子悅は,みなまだ封じられる前に明帝の殺すところとなっている。
 その他の晉陵王の子雲、淮陽王の子霄,及びまだ封じられていなかった子深、子鳳、子元、子衡、子況、子文、子雍は皆早く亡くなった。これは孝武帝の諸子で,前廢帝の殺したのは二人,明帝の殺したのは十六人,早く亡くなったのが九人となる。
 南史の孝武子傳内で,また齊敬王の子羽が二歳で亡くなっているというのがある。これでは孝武帝の諸子で,前廢帝及明帝が殺した十八人の外の,残りの十人は皆若くして亡くなり,後廢帝殺した者はいないということになる。後廢帝紀内に,桂陽王の休範、建平王の景素が兵を挙げて殺されたという記述があるが,これは孝武帝の子ではないのだ。しかし南史では明帝が十六人を殺し,残りはみな後廢帝の殺すところとなっているといっているのは,実に大きな誤った言葉なのである。つまり南史の各本紀や列傳で調べた結果,後廢帝が孝武帝の子を殺していないというのは,李延壽の誤りなのである。また檀韶傳では檀韶が亡くなり,子の臻が後を継ぎ員外郎の位にまでなったといっている。宋書の檀韶傳を調べてみると,韶が亡くなり,子の緒が後を継いだと言っている。臻はつまり檀祇の子であり,檀祇傳の中にある。今臻が韶の子となっているのは,また誤りである。


143.南史誤處

  南史宋後廢帝紀謂,孝武二十八子,明帝殺其十六,餘皆帝殺之。今案宋書,前廢帝、明帝、後廢帝三本紀及孝武諸子傳,孝武子新安王子鸞、南海王子師,則前廢帝子業所殺也。明帝所殺者,前廢帝子業、豫章王子尚、晉安王子勛、安陸王子綏、臨海王子頊、邵陵王子元、永嘉王子仁、始安王子真、淮安王子孟、南平王子彦、廬陵王子輿、松滋侯子房、東平王子嗣,又子趨、子期、子悅,皆未封而爲明帝所殺。其餘晉陵王子雲、淮陽王子霄,及未封之子深、子鳳、子元、子衡、子況、子文、子雍皆早夭。是孝武諸子,爲前廢帝殺者二,明帝所殺者十六,殤者九。南史孝武子傳内,又有齊敬王子羽亦二歳而亡。是孝武諸子,除前廢帝及明帝所殺共十八人外,餘十人皆夭死,並無爲後廢帝所殺者。後廢帝紀内,但有桂陽王休範、建平王景素舉兵被殺之事,而非孝武子也。然則南史所云明帝殺十六,餘皆後廢帝所殺者,實繆悠之詞。即以南史各紀傳核對,亦無後廢帝殺孝武子之事,此李延壽之誤也。又檀韶傳謂韶卒,子臻嗣位員外郎。案宋書韶傳,韶卒,子緒嗣。臻則檀祇之子也,在祇傳内。今以臻爲韶子,亦誤。
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