538.明末の総督・巡撫で処刑された者の多いこと

  鄭崇倹伝によると、崇禎年間に処刑された総督は合わせて七人で、鄭崇倹と袁崇煥、劉策、楊一鵬、熊文燦、范志完、趙光忭である(崇禎二年、王元雅が清兵の侵入を許したため、罪をおそれて自殺した。この年、まず万暦年間に四路で軍を失った経略の楊鎬が処刑された。五年、天啓年間に広寧で軍を失った巡撫の王化貞が処刑された。九年、総督の梁廷棟が軍事の失敗で処刑されることをおそれ、先に服毒死した。四人はやはり七人の数の内にいない)。顔継祖伝によると、崇禎年間、巡撫で殺された者は十一人で、薊鎮の王應豸、山西の耿如杞、宣府の李養沖、登莱の孫元化、大同の張翼明、順天の陳祖苞、保定の張其平、山東の顔継祖、四川の邵捷春、永平の馬成名、順天の潘永図である。河南の李仙風は逮捕されると自ら縊死したので、数に入れなかった。また崇禎の十七年間に、兵部尚書は合計十四人だが、また善き終わりを迎えた者は少ない。二年、王洽は獄に下って死んだ。九年、張鳳翼は服毒死した。十三年、楊嗣昌は自ら縊死した。十四年、陳新甲は棄市された。そのほかも王在晋のように官籍を削られて帰郷したり、高第のように弾劾されて職を去ったりしている。そもそも致仕できた者は、ただ張鶴鳴、熊明遇、馮元飆ら数人だけである。時節はあわただしく、人材は少なくなり、刑法はまた正しく運用されないというのは、もとより国運がそうさせるのであろう。


538.明末督撫誅戮之多

  鄭崇儉傳,崇禎中凡誅總督七人,崇儉及袁崇煥、劉策、楊一鵬、熊文燦、范志完、趙光忭也。(崇禎二年,王元雅以大清兵入口,懼罪自盡,是年,先誅萬暦中四路喪師之經略楊鎬,五年,誅天啓中廣寧喪師之巡撫王化貞,九年,總督梁廷棟以失事懼誅,先服毒死,四人尚不在七人數内。)顏繼祖傳,崇禎中,巡撫被戮者十一人,薊鎮王應豸、山西耿如杞、宣府李養沖、登萊孫元化、大同張翼明、順天陳祖苞、保定張其平、山東顏繼祖、四川邵捷春、永平馬成名、順天潘永圖,而河南李仙風被逮自縊,不與焉。又崇禎十七年中,兵部尚書凡十四人,亦罕有善全者,二年,王洽下獄死,九年,張鳳翼服毒死,十三年,楊嗣昌自縊死,十四年,陳新甲棄市,其餘如王在晉削籍歸,高第被劾去。其得致仕者,惟張鶴鳴、熊明遇、馮元飆等數人而已。時事周章,人材脆薄,刑章又顛覆,固國運使然矣。


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明季遼左陣亡諸將之多 538.明末督撫誅戮之多 四正六隅

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最終更新:2007年02月28日 16:17