537.明末の遼東陣没諸将の多いこと

  『明史』羅一貫伝によると、遼東遠征の軍が起こると、総兵官で陣没した者は十四人いた。撫順では張承廕が、四路出師では杜松・劉綖・王宣・趙夢麟が、開原では馬林が、瀋陽では賀世延・尤世功が、渾河では童仲揆・陳策が、遼陽では楊宗業・梁仲善が、西平では劉渠・祁秉忠が陣没した。しかし副総兵以下で戦没した羅一貫のような者は、さらに数えきれないという。しかるにこれはまだ万暦・天啓年間のことである。崇禎年間、遵化では趙率教が、波羅湾では官維賢が、永定門では満桂・孫祖寿(いずれも崇禎二年)が、旅順では黄龍(六年のこと)が、皮島では沈世魁(七年のこと)・金日観(十年のこと)が、寧遠では金国鳳(十二年のこと)が、松山では楊国柱(十四年のこと)・曹変蛟(十五年のこと)が、寧遠では李輔明が、螺山では張登科・和応薦(十六年のこと)が戦没した。そのほかの副將以下はまた数えることができない。さらにこれは特別なことではない。盧象昇・洪承疇のように流賊の殲滅に最も功のあった者たちが、ひとたび大清の兵に遇うと、死なずに捕らえられたのである。おそらく興隆する王朝の運気に対する者は砕け折れて枯れ朽ちるように、かの亡国の軍は自ら必ず当たって砕けるのである。『明史』のいう天命には帰するところがあるというのは、しようとしないのに自然にそうなるものである。  

537.明季遼左陣亡諸將之多

  明史羅一貫傳,自遼左軍興,總兵官陣亡者十四人。撫順則張承廕,四路出師則杜松、劉綖、王宣、趙夢麟,開原則馬林,瀋陽則賀世延、尤世功,渾河則童仲揆、陳策,遼陽則楊宗業、梁仲善,西平則劉渠、祁秉忠,而副總兵以下戰歿如一貫者,更不可數計云。然此尚是萬暦、天啓間事也。崇禎中,遵化則趙率教,波羅灣則官維賢,永定門則滿桂、孫祖壽(皆崇禎二年),旅順則黄龍(六年事),皮島則沈世魁(七年事)、金日觀(十年事),寧遠則金國鳳(十二年事),松山則楊國柱(十四年事)、曹變蛟(十五年事),寧遠則李輔明,螺山則張登科、和應薦(十六年事),其他副將以下亦不可數計。且不特此也,如盧象昇、洪承疇剿流賊最有功,而一遇大清兵,非死即被執。蓋興朝之運,所向如摧枯拉朽,彼亡國之帥,自必當之立碎。明史所謂天命有歸,莫之爲而爲者矣。


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明末巡撫多由邊道擢用 537.明季遼左陣亡諸將之多 明末督撫誅戮之多

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最終更新:2021年08月22日 17:00