275.李勣の子孫

  李勣の子孫について、『旧唐書』の本伝がいうには、李勣の子(正しくは孫)の李(徐)敬業が起兵して武后を討ち、敗死したのち、連座して一族皆殺しとなったが、その子孫に吐蕃へ逃げいった者がいた。貞元年間、蕃将の徐舎人が延州を掠めたとき、僧の延素に「わたしはもともと英公(李勣)の五代の孫である。武后の変にあって、わたしの祖先は義兵を挙げたが成功せず、子孫は流離零落し、このように三世となった。住まいや職任は代わったけれども、大本を思う心はまだ忘れていない」といった。ここに李世勣の子孫で中国にいる者はまたないとする。しかし衛次公伝において、衛次公が兵部侍郎となると、故英公李勣・大理卿徐有功の孫たちはみなともに地位を得ていなかったので、次公は「あなたがたの祖父は王室に勲功がありましたのに、どうして凡庸な位に限られているのでしょうか」といった。すぐに優れた地位に補任した。ここに李勣の後裔で唐に仕えた者がいるのである。


275.李勣子孫

  李勣子孫,舊書本傳謂,勣子敬業起兵討武后,既敗死,坐夷族,而其子孫有逃入吐蕃者。貞元中,有蕃將徐舍人掠延州,謂僧延素曰:「我本英公五代孫也,遭武后之變,吾祖舉義不成,子孫流落,如此三世矣。雖代居職任,而思本之心未嘗忘。」是世勣子孫無復有在中國者。然衛次公傳,次公爲兵部侍郎,故英公李勣、大理卿徐有功之孫皆有累不得調,次公曰:「子之祖勳在王室,寧限常格乎。」即優補之。是勣之後人仍有仕於唐者。

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最終更新:2007年12月14日 17:42