116.建業には三つの城があった

  六朝のとき、建業の地には三つの城があった。中央のものは台城とされ、皇帝の住居とされ、宮殿や尚書省はみなここにあった。その西は石頭城とされ、当時は京師を守るために兵を宿営させていた。王敦が反乱を起こしたとき、周札が石頭城を守っていたが、開門して王敦を迎え入れた。王敦は石頭に拠って王師を破った。後に蘇峻が反乱を起こすと、成帝をさらって石頭に移した。蘇峻が敗れると、成帝はようやく出ることができた。盧循の水軍がやってくると、朝臣たちは兵を分散して諸港を守ろうとした。劉裕は「兵を分散すると軍勢は弱まります。兵を石頭に集めるのが最善で、そうすれば大軍の力を分散せずにすみます」と言って、自ら石頭に駐屯し、予期どおりに反乱軍を破った。宋の末年に袁粲が石頭城に拠って蕭道成を殺害しようとしたが、かえって蕭道成に殺されてしまった。当時の諺に「可憐なるは石頭城、むしろ袁粲を死なせても、褚淵を生かしはしない」といった。梁の末年に王僧弁が石頭に駐屯していたが、陳霸先は侯安都を派遣してこれを襲撃させた。石頭の城壁は大して高くなかったので、軍士が捧で侯安都を姫垣の中に投げ入れると、兵士たちが続いて城内に入り、ついに王僧弁を捕らえた。後に徐嗣徽が北斉の兵を率いて石頭に入り、台城に来攻して迫った。侯安都は台城から武装した兵士を東掖門と西掖門に突出させて、徐嗣徽の軍を破った。賊軍は石頭に帰還すると、あえて台城に迫ろうとはしなくなった。台城の東には東府城があった。おおよそ宰相・録尚書事・兼揚州刺史の者がここに居住した。武装した兵士がかつては数千人いた。晋のとき会稽王司馬道子がここに住んだ。劉裕が政権を握ると、またここに居住した。劉裕が出征すると、「留府」と呼ばれた。そのときは劉穆之に東府の事務を監督させた。劉裕が劉毅を討って帰途につくと、公卿たちはみな新亭で伺候しようとしたが、劉裕はすでにひそかに東府に帰還していた。宋の末年に後廃帝が殺害されると、蕭道成は東府に駐屯地を移した。『宋書』順帝紀に「蕭道成は東府に出鎮して輔政にあたり、後に爵位を斉王に進めた。卞彬がふざけて『殿下はいま青渓を鴻溝とし、渓東を斉とし、渓西を宋としました』といい、詩に詠んで『誰か謂う宋遠しと、つまだてて予これを望む』といった」とある。陳の安成王陳頊が輔政にあたると、尚書省に入って居住した。劉師知らはこのことを嫌って、詔令といつわり帰そうとしたという東府がここ東府城である。いまとなって見るべきは、二城がいずれも要地であったことである。宋の後廃帝が狂暴であったため、阮佃夫は帝の出遊の機会を待って、台城を閉ざし、人を分遣して東府・石頭の二城を守らせて帝を阻ませようとした。たまたま帝が出遊していなかったため、取りやめた。斉の豫章王の蕭嶷は東府を守り、竟陵王蕭子良は石頭に駐屯していたが、いずれも京師の中に私邸を造っており、遊宴して任地に帰るのを忘れていた。范雲に「重要な土地を留守にするのはよろしくありません」と言われたので、蕭嶷は東府に帰り、蕭子良は石頭に帰った。この二城が京師を守る最も重要な拠点だったからである。当時にはまた冶城というのがあった。徐嗣徽らが北斉の兵を率いて石頭に拠ると、商業地域が南路にあり、台城からはやや遠かったため、陳霸先はここを拠点化されるのを恐れて、徐度を派遣して冶城寺に駐屯させ、塁を築いて徐嗣徽らを阻ませた。これはまた台城の南にあった。

116.建業有三城

  六朝時,建業之地有三城。中爲臺城,則帝居也,宮殿臺省皆在焉。其西則石頭城,嘗宿兵以衛京師。王敦内犯,周札守石頭城,開門納敦,敦遂據之以敗王師。後蘇峻之反,劫遷成帝於石頭。峻敗,帝始出。盧循舟師將至,朝臣欲分守諸津,劉裕謂「兵分則勢弱,不如聚兵石頭,則眾力不分。」乃自鎮石頭,果敗賊。宋末,袁粲據石頭,欲誅蕭道成,爲道成所殺,當時諺曰「可憐石頭城,寧爲袁粲死,不作褚淵生。」梁末,王僧辨鎮石頭,陳霸先使侯安都往襲之。石頭不甚高,軍士捧安都投入女姮内,衆隨入,遂執僧辨。後徐嗣徽引北齊兵入石頭,來逼臺城。安都自臺城以甲士突出東、西掖門,敗之。賊還石頭,遂不敢逼臺城是也。臺城之東,則有東府,凡宰相録尚書事兼揚州刺史者居之。實甲嘗數千人。晉時會稽王道子居之。劉裕秉政亦居此。裕出征,則曰「留府。」嘗使劉穆之監府事。裕討劉毅回,公卿咸侯於新亭,而裕已潛還東府矣。宋末,後廢帝之弑,蕭道成移鎮東府。順帝紀「蕭道成出鎮東府輔政,後進爵齊王。卞彬戲謂曰『殿下今以青溪爲鴻溝,溪東爲齊,溪西爲宋。』因詠詩曰『誰謂宋遠,跂予望之。』」陳安成、王頊輔政,入居尚書省。劉師知等忌之,矯詔令其還東府是也。可見是時,二城皆爲要地。宋後廢帝狂暴,阮佃夫欲俟其出游,閉臺城,分人守東府、石頭以拒之。會帝不出,乃止。齊豫章王嶷守東府,竟陵王子良鎮石頭,而皆造私第於京師中,遊讌忘返,因范雲謂「重地不宜虚曠。」嶷乃還東府,子良乃還石頭。縁此二城,拱衛京師,最居要害故也。其時尚有冶城,當徐嗣徽等引北齊兵據石頭,而市廛在南路,去臺城稍遠,恐爲城所乘,乃使徐度鎮冶城寺,築壘以斷之。此又在臺城之南。


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最終更新:2020年07月08日 20:29