383.金史では氏名の表記が統一されていない

 金史の紇石烈牙吾塔傳の最後にいうのは,「塔」はまた「太」とも作り,また「牙忽帶」ともいうとあるのは,それは、女真語にはもともと正しい文字が無かったためである。なので宋に伝わった際には,往往にして様々に記載されている。金史という一つの王朝の歴史書(が編纂される)最には、編纂者はそれぞれの列傳で校訂し,一つ(の表記方法)に統一するべきものなのである。
 しかしあるところでは撒離喝となっているのが,熙宗紀では撒離合となっていて,睿宗紀には撒離喝となっている。(宋史では撒離曷としている。)
 また合達や蒲阿は,本傳では合達、蒲阿となっているが,訛可傳ではまた合打、蒲阿としている。
 阿忽帶は,馮璧傳では阿虎帶,訛可傳ではまた阿祿帶とし,その後には阿魯帶としている。
 撒合輦は,一傳の中では撒合輦とし,また撒曷輦ともしている。紇石烈執中、すなわち胡沙虎は,本紀や列傳では紇石烈執中,すなわち胡沙虎とされ,紇石烈胡沙虎とも記されている。内族承立すなわち慶山奴は,本傳では慶山奴,すなわち承立とも記されている。蒲察琦すなわち仁卿は,本傳では蒲察琦,すなわち仁卿と記されている。これは皆金史を編纂した時に、急いで書き上げて校正する時間が無かったために,多くが誤ったままなのである。


383.金史氏名不畫一

  金史紇石烈牙吾塔傳末云,「塔」亦作「太」,亦曰「牙忽帶」,女真語本無正字也。故流傳於宋,往往記載互異。至金史一朝之書,則纂修者應各傳彼此校訂,以歸畫一。乃一撒離喝也,熙宗紀作撒離合,睿宗紀作撒離喝。(宋史作撒離曷。)一合達、蒲阿也,本傳作合達、蒲阿,訛可傳又作合打、蒲阿。一阿忽帶也,馮璧傳作阿虎帶,訛可傳又作阿祿帶,其下又云阿魯帶。一撒合輦也,一傳中忽作撒合輦,忽作撒曷輦。紇石烈執中即胡沙虎也,乃紀傳忽而紇石烈執中,忽而胡沙虎,忽而紇石烈胡沙虎。内族承立即慶山奴也,乃本傳忽而慶山奴,忽而承立。蒲察琦即仁卿也,乃本傳忽而蒲察琦,忽而仁卿。此皆修史時倉猝成書不暇刊正,故多歧誤也。

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最終更新:2008年07月29日 14:32