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**187.北魏の追諡の濫用 天下にあってその先代を追尊するのは、礼の定めである。しかし二、三代にすぎない追尊の範囲が、北魏のみは制限がなくなっている。道武帝が建国して帝を称すると、その始祖の力微を追尊して神元皇帝とした。神元より以下については、沙漠汗は文帝といい、悉鹿は章帝といい、綽は平帝といい、弗は思帝といい、禄官は昭帝といい、猗迤は桓帝といい、猗盧は穆帝といい、鬱律は太祖平文帝といい、賀は恵帝といい、紇那は煬帝といい、翳槐は烈帝といい、什翼犍は昭成帝といって、十三帝におよんだ。また神元より上については、極遠の祖まで追尊して、毛は成帝といい、貸は節帝といい、観は荘帝といい、樓は明帝といい、越は安帝といい、推寅は宣帝といい、利は景帝といい、俟は元帝といい、肆は和帝といい、機は定帝といい、蓋は僖帝といい、儈は威帝といい、鄰は献帝といい、詰汾は聖武帝といって、またともに十四帝であった。 (翻訳途中) **187.後魏追諡之濫 有天下追尊其先世,禮也。然不過兩三代,獨後魏則無限制。道武帝建國稱帝,既追尊其始祖力微為神元皇帝,自神元以下,沙漠汗曰文帝,悉鹿曰章帝,綽曰平帝,弗曰思帝,祿官曰昭帝,猗迤曰桓帝,猗盧曰穆帝,鬱律曰太祖平文帝,賀曰惠帝,紇那曰煬帝,翳槐曰烈帝,什翼犍曰昭成帝,凡十三帝。又從神元而上,追尊極遠之祖,毛曰成帝,貸曰節帝,觀曰莊帝,樓曰明帝,越曰安帝,推寅曰宣帝,利曰景帝,俟曰元帝,肆曰和帝,機曰定帝,蓋曰僖帝,儈曰威帝,鄰曰獻帝,詰汾曰聖武帝,又共十四帝。則不惟諡號遙加,並名諱亦出於追製,苟欲崇其祖先而至於濫褻已甚,此不經之甚者也。 按漢制,開國之君稱祖,以下則倶稱宗。自曹魏始三代稱祖,武帝稱太祖,文帝稱高祖,明帝稱烈祖(明帝廟號乃生前所定,尤屬不經,故孫盛譏之。)晉亦三代稱祖,司馬懿追稱高祖,昭追稱太祖,武帝稱世祖。慕容氏亦三代稱祖,廆追稱高祖,皝追稱太祖,雋僭號稱烈祖。姚秦亦三代稱祖,弋仲追稱始祖,萇稱太祖,興稱高祖。至元魏則更有兩太祖,道武既追尊平文帝為太祖,及道武崩,其廟號又稱太祖,此列朝所未見也。其後太武帝稱世祖,獻文帝稱顯祖,孝文帝稱高祖。北齊則高歡追稱高祖,文宣帝稱顯祖,武成帝稱世祖,亦三代稱祖。周宇文泰追稱太祖,武帝稱高祖。南朝則宋武帝稱高祖,文帝稱太祖,孝武帝稱世祖,亦三代稱祖。齊高帝稱太祖,武帝稱世祖。梁武帝稱高祖,元帝稱世祖。陳武帝稱高祖,文帝稱世祖。祖以功,宗以德,原非必一祖之外,不得再稱祖。然亦須揆其功而祖之。創業中興,有大功於世,祖之可也。如魏明帝、宋文帝、孝武帝、後魏獻文帝、北齊武成帝諸君,不過蒙業繼體,在位僅數年,無功可紀,乃亦以祖為廟號,僭偽之朝,苟為崇奉,固不可為法也。 |    前頁|[[『廿二史箚記』>トップページ]][[巻十四>巻十四 魏齊周隋書并北史 ]]|  次頁| |[[南北朝通好以使命為重]]|187.後魏追諡之濫|[[保太后]]|

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