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五代諸帝皆無後」(2008/08/19 (火) 16:55:10) の最新版変更点

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*305.五代の諸皇帝には皆子孫が残らなかった 後梁の太祖朱温の子の彬王の友裕は早く亡くなった。 郢王の友珪は皇帝殺害を企てて逆に処刑された。 養子である博王の友文は、朱友珪に陥れられ殺された。  均王の友貞が皇帝の位を継ぎ,これが末帝てある。後唐の兵が乱入してきた際,建國樓で自殺した。 康王の友孜は,末帝の時に先に謀反を図り処刑された。  賀王の友雍、福王の友璋、建王の友徽は,歐陽修の五代史(新五代史)ではこの三人の死の状況はわからないとしていて,薛居正の五代史(旧五代史)もまたその死の記述は無いが,王禹偁の五代史闕文のなかで,後唐の莊宗が開封に乱入した際,朱氏一族を盡く処刑したとの記載がある。つまり友璋達は皆殺されたのである。資治通鑑では後唐の軍勢がまさに到着しようとする時に,末帝が兄弟がこの混乱に乘じての謀反を企てるのを疑って,皆これを殺したとしている。これによって梁の太祖後に子孫が残っていないことがわかるのである。    後唐の武皇帝の李克用は子の落落及び廷鸞を,洹水、晉州の二戰で,皆梁の捕虜となり殺されてしまった。これは梁本紀に見える。しかしこの二人は薛史(新五代史)の宗室傳、歐史(新五代史)の家人傳には共に記載されていない。  この新旧五代史に記載されているのは,長子の(後唐の)莊宗、李存勗でこれは郭從謙に殺害された。  睦王の存義は郭崇韜の婿であることを理由に,先に莊宗に殺された。  永王の存霸、申王の存渥は,(莊宗が近衛兵に殺されるという)事件後に共に太原に逃亡し,自軍の者に殺された。  通王の存確、雅王の存紀は,霍彦威に殺された。  惟邕王の存美、薛王の存禮は,薛史(新五代史)では二人ともどのように亡くなったかはわからないとしている。(資治)通鑑では存美は病気で半身不随となり,晉陽で生き延びたとしている。  これで武皇帝李克用の(生き延びた)子孫は,僅かに一人の半身不随の子だけだったということがわかるのである。    莊宗の子の魏王の繼岌は,莊宗(が近衛兵に殺されるというという)異變を聞いた後,自ら首を吊って死んだ。  繼潼、繼嵩、繼蟾、繼嶢は,薛史(新五代史)では皆どのように死んだかはわからないとしている。  ただ清異録では後唐の福慶公主が孟知祥に降嫁していたので,莊宗の諸子は髮を剃って僧となり,間道を通って蜀へ行き,孟知祥は妻の公主の甥ということで,厚遇したとしている。つまり莊宗の子には蜀で生き延びた者がいるのである。    明宗の長子の從審は,莊宗が改名させて從璟として後繼者としたが,元行欽に殺された。  次男の秦王の從榮は,兵を率いて宮殿に乱入したため,安從益に殺された。  宋王の從厚が即位して愍帝となったが,國が滅んだ後酖毒で死んだ。  從璨は先にふざけて皇帝用の榻に座ったとして,安重誨に陷いれられて死んだ。  許王の從益は,廢位されて洛陽に居た。契丹の主が死んで北に戻る際,蕭翰が知南朝軍國事とした。その後、後漢の高祖が入洛した際,死を賜った。    愍帝には子の重哲がいると明宗紀にみえるが,薛、歐の二史(新旧五代史)には共に傳が無い。おそらくどのように亡くなったかがわからないのだろう。  明宗には生き延びた子孫がいないのである。    廢帝の長子の重吉は,愍帝に殺された。  次男の雍王の重美は,廢帝と一緒に自ら焼け死んだ。  廢帝には生き延びた子孫はいないのである。  後晉の高祖の子の剡王の重允、虢王の重英は,皆高祖が兵を挙げた時,後唐の廢帝に誅殺された。  楚王の重信、壽王の重義は皆張從賓に殺された。  齊王の重貴が皇帝の位を継ぎ,是が出帝である。後に契丹に降伏し北に遷された。  夔王の重進、陳王の重杲は,早くに亡くなった。  末子の重睿は,出帝に従って北に遷った。重信の二人の子及び出帝の子の延寶、延熙は,皆同じく出帝に従って北に遷ったが,どのように亡くなったかはわからない。  後晉の皇帝の子孫で中國で生き延びた者はだれもいないのである。  後漢の高祖の長子で魏王の承訓は高祖に先だって亡くなった。  次男の承祐が皇帝の位を継ぎ,これが隱帝であるが,郭允明に殺された。  その下の陳王の承勳は,病気で皇帝として即位できなかった。廣順年間の初めに,亡くなった。  後漢の高祖の子孫で生き延びた者はいないのである。  後周の太祖が兵を鄴で挙げた際,後漢の兵がその京師の邸宅を包囲し,子の青哥、意哥は皆誅殺された。  後周の太祖の子孫で生き延びた者はいないのである。  世宗が養子となっていたので皇帝の位を継いだが,その子の宜哥、喜哥、三哥は先だって京師の邸宅にいた際,太祖の子供達と同じく後漢に誅殺された。  その下の恭帝は,皇帝位を宋に譲った。  その下の熙謹は,宋の乾德二年に亡くなった。  その下の熙讓、熙誨は,どのように亡くなったかわからない。  恭帝は皇帝の位を譲った後,十四年でなくなったが,後周の子孫は崇義公に封じられ,宋の三百餘年中,ずっと変わらず世襲していったが,これは今までの諸帝に比べて,獨り幸福だといえるだろう! 305.五代諸帝皆無後 梁祖朱溫子彬王友裕早卒。郢王友珪以弒逆被誅。養子博王友文為友珪矯殺。均王友貞嗣位,是為末帝,唐兵入,自殺於建國樓。康王友孜,末帝時先以謀反誅。賀王友雍、福王友璋、建王友徽,歐史謂此三人不知所終,薛史亦不載其卒,而王禹偁五代史闕文,謂唐莊宗入,盡誅朱氏。則友璋等皆被殺也。通鑑則謂唐師將至,末帝疑兄弟乘危謀亂,盡殺之。是梁祖後無子孫也。 唐武皇李克用 有子落落及廷鸞,洹水、晉州二戰,皆為梁所擒殺,見於梁本紀。而薛史宗室傳、歐史家人傳俱不載。見於二史者,長子莊宗存勗為郭從謙所弒。睦王存義以郭崇韜婿,先為莊宗所殺。 永王存霸、申王存渥,國變後俱逃太原,為軍士所殺。通王存確、雅王存紀,為霍彥威所殺。惟邕王存美、薛王存禮,薛史謂皆不知所終。通鑑則謂存美以病風偏枯,得免居於晉陽。是武皇後,僅存一廢疾之子也。 莊宗子 魏王繼岌,聞莊宗之變,自縊死。繼潼、繼嵩、繼蟾、繼嶢,薛史謂並不知所終。惟清異錄謂唐福慶公主下降孟知祥,莊宗諸子削髮為僧,間道走蜀,知祥以公主之姪,厚待之。則莊宗子有延於蜀者。 明宗 長子從審,莊宗改為繼璟,為元行欽所殺。次秦王從榮,以率兵入宮,為安從益所殺。宋王從厚,即位是為愍帝,失國後以酖死。從璨先以戲登御榻,為安重誨陷死。許王從益,廢居於洛。契丹主北歸,蕭翰令知南朝軍國事。漢祖入洛,賜死。 愍帝有子重哲,見明宗紀,而薛、歐二史皆無傳,蓋亦不知所終。是明宗後無子孫也。 廢帝 長子重吉,為愍帝所殺。次雍王重美,同廢帝自焚死。是廢帝後無子孫也。 晉高祖子 剡王重允(本高祖弟,養為子)、虢王重英,皆高祖起兵時,為唐廢帝所誅。楚王重信、壽王重義皆為張從賓所殺。齊王重貴嗣位,是為出帝。後降契丹北遷。夔王重進、陳王重杲,早卒。 少子重睿,從出帝北遷。重信有二子及出帝子延寶、延熙,皆隨北遷,不知所終。是晉帝後亦無子孫在中國也。 漢祖 長子魏王承訓先卒。次承祐嗣位,是為隱帝,為郭允明所弒。次陳王承勳,以廢疾不得立。廣順初,卒。 是漢祖後無子孫也。 周祖起兵於鄴,漢以兵圍其京邸,子青哥、意哥皆被誅,是周祖後無子孫也。世宗以養子嗣位,其子宜哥、喜哥、三哥先在京邸,同為漢所誅。 次恭帝,遜位於宋。 次熙謹,宋乾德二年卒。次熙讓、熙誨,不知所終。 而恭帝遜位後,又十四年而殂,周子孫封崇義公,歷宋三百餘年,世襲不替,比於諸帝,獨幸矣!    
*305.五代の諸皇帝には皆子孫が残らなかった  後梁の太祖朱温の子の彬王の友裕は早く亡くなった。  郢王の友珪は皇帝殺害を企てて逆に処刑された。  養子である博王の友文は、朱友珪に陥れられ殺された。  均王の友貞が皇帝の位を継ぎ,これが末帝てある。後唐の兵が乱入してきた際,建國樓で自殺した。  康王の友孜は,末帝の時に先に謀反を図り処刑された。  賀王の友雍、福王の友璋、建王の友徽は,歐陽修の五代史(新五代史)ではこの三人の死の状況はわからないとしていて,薛居正の五代史(旧五代史)もまたその死の記述は無いが,王禹偁の五代史闕文のなかで,後唐の莊宗が開封に乱入した際,朱氏一族を盡く処刑したとの記載がある。つまり友璋達は皆殺されたのである。資治通鑑では後唐の軍勢がまさに到着しようとする時に,末帝が兄弟がこの混乱に乘じての謀反を企てるのを疑って,皆これを殺したとしている。これによって梁の太祖後に子孫が残っていないことがわかるのである。    後唐の武皇帝の李克用は子の落落及び廷鸞を,洹水、晉州の二戰で,皆梁の捕虜となり殺されてしまった。これは梁本紀に見える。しかしこの二人は薛史(新五代史)の宗室傳、歐史(新五代史)の家人傳には共に記載されていない。  この新旧五代史に記載されているのは,長子の(後唐の)莊宗、李存勗でこれは郭從謙に殺害された。  睦王の存義は郭崇韜の婿であることを理由に,先に莊宗に殺された。  永王の存霸、申王の存渥は,(莊宗が近衛兵に殺されるという)事件後に共に太原に逃亡し,自軍の者に殺された。  通王の存確、雅王の存紀は,霍彦威に殺された。  惟邕王の存美、薛王の存禮は,薛史(新五代史)では二人ともどのように亡くなったかはわからないとしている。(資治)通鑑では存美は病気で半身不随となり,晉陽で生き延びたとしている。  これで武皇帝李克用の(生き延びた)子孫は,僅かに一人の半身不随の子だけだったということがわかるのである。    莊宗の子の魏王の繼岌は,莊宗(が近衛兵に殺されるというという)異變を聞いた後,自ら首を吊って死んだ。  繼潼、繼嵩、繼蟾、繼嶢は,薛史(新五代史)では皆どのように死んだかはわからないとしている。  ただ清異録では後唐の福慶公主が孟知祥に降嫁していたので,莊宗の諸子は髮を剃って僧となり,間道を通って蜀へ行き,孟知祥は妻の公主の甥ということで,厚遇したとしている。つまり莊宗の子には蜀で生き延びた者がいるのである。    明宗の長子の從審は,莊宗が改名させて從璟として後繼者としたが,元行欽に殺された。  次男の秦王の從榮は,兵を率いて宮殿に乱入したため,安從益に殺された。  宋王の從厚が即位して愍帝となったが,國が滅んだ後酖毒で死んだ。  從璨は先にふざけて皇帝用の榻に座ったとして,安重誨に陷いれられて死んだ。  許王の從益は,廢位されて洛陽に居た。契丹の主が死んで北に戻る際,蕭翰が知南朝軍國事とした。その後、後漢の高祖が入洛した際,死を賜った。    愍帝には子の重哲がいると明宗紀にみえるが,薛、歐の二史(新旧五代史)には共に傳が無い。おそらくどのように亡くなったかがわからないのだろう。  明宗には生き延びた子孫がいないのである。    廢帝の長子の重吉は,愍帝に殺された。  次男の雍王の重美は,廢帝と一緒に自ら焼け死んだ。  廢帝には生き延びた子孫はいないのである。  後晉の高祖の子の剡王の重允、虢王の重英は,皆高祖が兵を挙げた時,後唐の廢帝に誅殺された。  楚王の重信、壽王の重義は皆張從賓に殺された。  齊王の重貴が皇帝の位を継ぎ,是が出帝である。後に契丹に降伏し北に遷された。  夔王の重進、陳王の重杲は,早くに亡くなった。  末子の重睿は,出帝に従って北に遷った。重信の二人の子及び出帝の子の延寶、延熙は,皆同じく出帝に従って北に遷ったが,どのように亡くなったかはわからない。  後晉の皇帝の子孫で中國で生き延びた者はだれもいないのである。  後漢の高祖の長子で魏王の承訓は高祖に先だって亡くなった。  次男の承祐が皇帝の位を継ぎ,これが隱帝であるが,郭允明に殺された。  その下の陳王の承勳は,病気で皇帝として即位できなかった。廣順年間の初めに,亡くなった。  後漢の高祖の子孫で生き延びた者はいないのである。  後周の太祖が兵を鄴で挙げた際,後漢の兵がその京師の邸宅を包囲し,子の青哥、意哥は皆誅殺された。  後周の太祖の子孫で生き延びた者はいないのである。  世宗が養子となっていたので皇帝の位を継いだが,その子の宜哥、喜哥、三哥は先だって京師の邸宅にいた際,太祖の子供達と同じく後漢に誅殺された。  その下の恭帝は,皇帝位を宋に譲った。  その下の熙謹は,宋の乾德二年に亡くなった。  その下の熙讓、熙誨は,どのように亡くなったかわからない。  恭帝は皇帝の位を譲った後,十四年でなくなったが,後周の子孫は崇義公に封じられ,宋の三百餘年中,ずっと変わらず世襲していったが,これは今までの諸帝に比べて,獨り幸福だといえるだろう! *305.五代諸帝皆無後 梁祖朱溫子彬王友裕早卒。郢王友珪以弒逆被誅。養子博王友文為友珪矯殺。均王友貞嗣位,是為末帝,唐兵入,自殺於建國樓。康王友孜,末帝時先以謀反誅。賀王友雍、福王友璋、建王友徽,歐史謂此三人不知所終,薛史亦不載其卒,而王禹偁五代史闕文,謂唐莊宗入,盡誅朱氏。則友璋等皆被殺也。通鑑則謂唐師將至,末帝疑兄弟乘危謀亂,盡殺之。是梁祖後無子孫也。 唐武皇李克用 有子落落及廷鸞,洹水、晉州二戰,皆為梁所擒殺,見於梁本紀。而薛史宗室傳、歐史家人傳俱不載。見於二史者,長子莊宗存勗為郭從謙所弒。睦王存義以郭崇韜婿,先為莊宗所殺。 永王存霸、申王存渥,國變後俱逃太原,為軍士所殺。通王存確、雅王存紀,為霍彥威所殺。惟邕王存美、薛王存禮,薛史謂皆不知所終。通鑑則謂存美以病風偏枯,得免居於晉陽。是武皇後,僅存一廢疾之子也。 莊宗子 魏王繼岌,聞莊宗之變,自縊死。繼潼、繼嵩、繼蟾、繼嶢,薛史謂並不知所終。惟清異錄謂唐福慶公主下降孟知祥,莊宗諸子削髮為僧,間道走蜀,知祥以公主之姪,厚待之。則莊宗子有延於蜀者。 明宗 長子從審,莊宗改為繼璟,為元行欽所殺。次秦王從榮,以率兵入宮,為安從益所殺。宋王從厚,即位是為愍帝,失國後以酖死。從璨先以戲登御榻,為安重誨陷死。許王從益,廢居於洛。契丹主北歸,蕭翰令知南朝軍國事。漢祖入洛,賜死。 愍帝有子重哲,見明宗紀,而薛、歐二史皆無傳,蓋亦不知所終。是明宗後無子孫也。 廢帝 長子重吉,為愍帝所殺。次雍王重美,同廢帝自焚死。是廢帝後無子孫也。 晉高祖子 剡王重允(本高祖弟,養為子)、虢王重英,皆高祖起兵時,為唐廢帝所誅。楚王重信、壽王重義皆為張從賓所殺。齊王重貴嗣位,是為出帝。後降契丹北遷。夔王重進、陳王重杲,早卒。 少子重睿,從出帝北遷。重信有二子及出帝子延寶、延熙,皆隨北遷,不知所終。是晉帝後亦無子孫在中國也。 漢祖 長子魏王承訓先卒。次承祐嗣位,是為隱帝,為郭允明所弒。次陳王承勳,以廢疾不得立。廣順初,卒。 是漢祖後無子孫也。 周祖起兵於鄴,漢以兵圍其京邸,子青哥、意哥皆被誅,是周祖後無子孫也。世宗以養子嗣位,其子宜哥、喜哥、三哥先在京邸,同為漢所誅。 次恭帝,遜位於宋。 次熙謹,宋乾德二年卒。次熙讓、熙誨,不知所終。 而恭帝遜位後,又十四年而殂,周子孫封崇義公,歷宋三百餘年,世襲不替,比於諸帝,獨幸矣!    

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