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**215.一帝數后   一帝一后,禮也。至荒亂之朝則漫無法紀,有同時立數后者。孫皓之夫人滕氏無寵,長秋宮僚備員而已。而内諸姫佩皇后璽綬者甚多。(三國志)劉聰僭位,立其妻呼延氏爲皇后。后死,納劉殷女爲皇后。后死,又納靳準女爲皇后,未幾,進爲上皇后,而立貴妃劉氏爲左皇后,貴嬪劉氏爲右皇后,又立樊氏爲上皇后。四后之外,佩皇后璽綬者又七人。後以宦者王沈養女爲左皇后,宣懷養女爲中皇后。(晉書載記)後周宣帝初即位,立妃楊氏爲皇后,其後自稱天元皇帝,又立妃朱氏爲天元帝后,妃元氏爲天右皇后,陳氏爲天左皇后。尋進楊氏爲天元大皇后,朱氏爲天大皇后,元氏爲天后大皇后,陳氏爲天左大皇后,陳氏又改爲天中大皇后,而以妃尉遲氏爲天左大皇后。(後周書本紀)
**216.ひとりの皇帝に数人の皇后   ひとりの皇帝にひとりの皇后というのが、礼である。荒れ乱れた王朝では放漫で法や紀律がなく、同時に数人の皇后を立てる者がいた。孫皓の夫人の滕氏は寵愛がなく、長秋宮の官僚は定足数を備えているだけであった。しかし宮中の諸姫で皇后の璽綬を佩びる者がはなはだ多かった(『三国志』呉書妃嬪伝)。劉聡が皇帝を僭称すると、その妻の呼延氏を立てて皇后とした。呼延皇后が死去すると、劉殷の娘を納れて皇后とした。劉皇后が死去すると、さらに靳準の娘を納れて皇后とした。ほどなく靳皇后を進めて上皇后としたが、貴妃の劉氏を立てて左皇后とし、貴嬪の劉氏を立てて右皇后とし、さらに樊氏を立てて上皇后とした。四皇后のほかに、皇后の璽綬を佩びる者がさらに七人いた。後に宦官の王沈の養女を左皇后とし、宣懐の養女を中皇后とした(『晋書』劉聡載記)。北周の宣帝が初めて即位すると、妃の楊氏を立てて皇后とした。その後、天元皇帝を自称すると、さらに妃の朱氏を立てて天元帝后とし、妃の元氏を立てて天右皇后とし、陳氏を立てて天左皇后とした。まもなく楊氏を進めて天元大皇后とし、朱氏を天大皇后とし、元氏を天后大皇后とし、陳氏を天左大皇后とした。陳氏をさらに天中大皇后と改めたが、妃の尉遅氏を天左大皇后とした(『周書』宣帝紀)。 **216.一帝數后   一帝一后,禮也。至荒亂之朝則漫無法紀,有同時立數后者。孫皓之夫人滕氏無寵,長秋宮僚備員而已。而内諸姫佩皇后璽綬者甚多。(三國志)劉聰僭位,立其妻呼延氏爲皇后。后死,納劉殷女爲皇后。后死,又納靳準女爲皇后,未幾,進爲上皇后,而立貴妃劉氏爲左皇后,貴嬪劉氏爲右皇后,又立樊氏爲上皇后。四后之外,佩皇后璽綬者又七人。後以宦者王沈養女爲左皇后,宣懷養女爲中皇后。(晉書載記)後周宣帝初即位,立妃楊氏爲皇后,其後自稱天元皇帝,又立妃朱氏爲天元帝后,妃元氏爲天右皇后,陳氏爲天左皇后。尋進楊氏爲天元大皇后,朱氏爲天大皇后,元氏爲天后大皇后,陳氏爲天左大皇后,陳氏又改爲天中大皇后,而以妃尉遲氏爲天左大皇后。(後周書本紀) |    前頁|[[『廿二史箚記』>トップページ]][[巻十五>巻十五 魏齊周隋書并北史]]|  次頁| |[[隋書志]]|216.一帝數后|[[隋文帝殺宇文氏子孫]]|

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