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**208.齊文宣帝能預知   齊文宣帝沈湎於酒,昏醉如癡,沈酣既久,遂虧本性,然時或發言屢中,故時人謂之神靈。嘗問泰山道士曰:「吾得爲幾年天子。」答曰:「得三十年。」帝謂李后曰:「十年十月十日,得非三十乎,吾甚畏之。」果以天保十年十月十日崩。先是帝令邢邵爲太子制名,名殷,字正道。文宣尤之曰:「殷家兄終弟及,正字『一止』,吾身後兒不得也。」邵懼請改名,帝不許,曰:「天也。」因謂昭帝(即帝弟演)曰:「奪時但奪,慎勿殺也。」後殷即位未一年爲孝昭所廢,尋又害之。(倶齊紀)定州城西門,久閉不開,文宣過之,或請開門,文宣不許,曰:「當有聖人啓之。」後隋文帝從周武平齊,除定州總管,至定州,開此門入,人莫不驚異,後果登大位。(隋書本紀)
**208.北斉の文宣帝は予知をよくした   北斉の文宣帝は酒に耽溺して、泥酔しては愚者のようになった。深酔いして長くなると、もとの性格を失って別人のようになったが、このようなときの発言はことごとく的中させた。このため当時の人はこれを神霊といった。かつて文宣帝は「わたしは何年天子でいることができるだろうか」と泰山の道士に訊ねていった。道士は「三十年いられましょう」と答えた。文宣帝は「十年十月十日が三十ではないか。わたしはたいへんこれを恐れるものである」と李皇后にいった。はたして天保十年十月十日に崩御した。先立って文宣帝は邢邵に命じて太子の名を定めさせた。名を殷とし、字を正道とした。文宣帝はこれを認めて、「殷の家は兄が死去すると弟が継いだという。正の字は一に止まると書く。わたしの死後に生まれた子が帝位を得ることはない」といった。邢邵は恐れて改名を願い出たが、文宣帝は許さず、「天命である」といった。そこで「奪うときはただ奪い、慎んで殺さないようにせよ」と孝昭帝(文宣帝の弟の高演)にいった。後に高殷は即位して一年経たないうちに孝昭帝に廃位され、まもなく殺害された(ともに『北史』斉本紀中)。定州城の西門は、久しく閉ざされていて開いていなかった。文宣帝がここを通り過ぎたとき、ある人が開門を願い出たが、文宣帝は許可せず、「聖人によってここは開かれるだろう」といった。後に隋の文帝が北周の武帝に従って北斉を平定すると、定州総管に任じられ、定州に到着すると、この門を開いて入城した。人は驚かない者がなく、後にはたして帝位に登った(『隋書』高祖紀上)。 **208.齊文宣帝能預知   齊文宣帝沈湎於酒,昏醉如癡,沈酣既久,遂虧本性,然時或發言屢中,故時人謂之神靈。嘗問泰山道士曰:「吾得爲幾年天子。」答曰:「得三十年。」帝謂李后曰:「十年十月十日,得非三十乎,吾甚畏之。」果以天保十年十月十日崩。先是帝令邢邵爲太子制名,名殷,字正道。文宣尤之曰:「殷家兄終弟及,正字『一止』,吾身後兒不得也。」邵懼請改名,帝不許,曰:「天也。」因謂昭帝(即帝弟演)曰:「奪時但奪,慎勿殺也。」後殷即位未一年爲孝昭所廢,尋又害之。(倶齊紀)定州城西門,久閉不開,文宣過之,或請開門,文宣不許,曰:「當有聖人啓之。」後隋文帝從周武平齊,除定州總管,至定州,開此門入,人莫不驚異,後果登大位。(隋書本紀) |   前頁|[[『廿二史箚記』>トップページ]][[巻十五>巻十五 魏齊周隋書并北史]]|  次頁| |[[北齊以廝役爲縣令]]|208.齊文宣帝能預知|[[北齊宮闈之醜]]|

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