「黄蕭養」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

黄蕭養」(2021/09/03 (金) 07:34:06) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

**550.黄蕭養   天順末年、広東の賊の黄蕭養が反乱を起こし、広州を包囲した。楊信民が以前に広東の官にあったとき、善政で知られていた。ちょうど楊信民が巡撫として着任すると、人を派遣して反乱軍の陣営に入らせてかれらを招諭しようとした。黄蕭養はもとより楊信民に心服していたため、期日を決めて会見を望んだ。楊信民が車ひとつで会見に臨むと、反乱者たちは望見して「やはり楊公である」といった。争って並んで拝礼し、降伏を願い出た。しかし楊信民はまもなく病没してしまった。おりしも朝廷の命により都督の董興が討伐にやってくると、黄蕭養らは恐れて、けっきょく降伏しなかった。董興は江西・両広の兵を徴発し、侍郎の孟鑑に軍務を助けさせ、天文生の馬軾を任用して隨行させた。景泰元年春、董興が広州に到着すると、反乱軍の舟は千隻あまりあって、勢いはたいへん盛んであった。しかも徴集した兵はまだ集まりきっておらず、諸将は軍の増援を願い出た。馬軾は「広州は包囲されること久しく、そのまま現有の兵で攻撃に向かえば、朽木を折るように粉砕できます」といった。董興はこれに従った。進軍して大洲に到着し、反乱軍を攻撃すると、殺され溺れ死んだ反乱兵は数えきれないほどで、残りの多くは降伏した。黄蕭養は流れ矢に当たって死に、その父や仲間たちは捕らえられて、みな処刑された。(信民および興伝) **550.黄蕭養   天順末,廣東賊黄蕭養作亂,圍廣州。楊信民先官廣東,有惠政,至是以巡撫至,使人持諭入賊營招之,蕭養素服信民,克日請見。信民單車蒞之,賊望見曰:「果楊公也。」爭羅拜願降,而信民尋即病卒。會朝命都督董興來討,蕭養等懼,遂不降。興調江西、兩廣兵,侍郎孟鑑贊理軍務,興用天文生馬軾隨行。景泰元年春,至廣州,賊舟千餘艘,勢甚熾,而徴兵未盡集,諸將請濟師,軾曰:「廣州被圍久矣,即以現兵往撃,猶拉朽耳!」興從之。進至大洲,撃賊,殺溺死者無算,餘多就撫。蕭養中流矢死,俘其父及黨與,皆伏誅。(信民及興傳) | 前頁|[[『廿二史箚記』>トップページ]][[巻三十六>巻三十六 明史]]|    次頁| |[[李添保]]|550.黄蕭養|[[劉六劉七齊彦名趙風子]]|
**550.黄蕭養   天順末年、広東の賊の黄蕭養が反乱を起こし、広州を包囲した。楊信民が以前に広東の官にあったとき、善政で知られていた。ちょうど楊信民が巡撫として着任すると、人を派遣して反乱軍の陣営に入らせてかれらを招諭しようとした。黄蕭養はもとより楊信民に心服していたため、期日を決めて会見を望んだ。楊信民が車ひとつで会見に臨むと、反乱者たちは望見して「やはり楊公である」といった。争って並んで拝礼し、降伏を願い出た。しかし楊信民はまもなく病没してしまった。おりしも朝廷の命により都督の董興が討伐にやってくると、黄蕭養らは恐れて、けっきょく降伏しなかった。董興は江西・両広の兵を徴発し、侍郎の孟鑑に軍務を助けさせ、天文生の馬軾を任用して隨行させた。景泰元年春、董興が広州に到着すると、反乱軍の舟は千隻あまりあって、勢いはたいへん盛んであった。しかも董興の徴集した兵はまだ集まりきっておらず、諸将は軍の増援を願い出た。馬軾は「広州は包囲されること久しく、そのまま現有の兵で攻撃に向かえば、朽木を折るように粉砕できます」といった。董興はこれに従った。進軍して大洲に到着し、反乱軍を攻撃すると、殺され溺れ死んだ反乱兵は数えきれないほどで、残りの多くは降伏した。黄蕭養は流れ矢に当たって死に、その父や仲間たちは捕らえられて、みな処刑された。(信民および興伝) **550.黄蕭養   天順末,廣東賊黄蕭養作亂,圍廣州。楊信民先官廣東,有惠政,至是以巡撫至,使人持諭入賊營招之,蕭養素服信民,克日請見。信民單車蒞之,賊望見曰:「果楊公也。」爭羅拜願降,而信民尋即病卒。會朝命都督董興來討,蕭養等懼,遂不降。興調江西、兩廣兵,侍郎孟鑑贊理軍務,興用天文生馬軾隨行。景泰元年春,至廣州,賊舟千餘艘,勢甚熾,而徴兵未盡集,諸將請濟師,軾曰:「廣州被圍久矣,即以現兵往撃,猶拉朽耳!」興從之。進至大洲,撃賊,殺溺死者無算,餘多就撫。蕭養中流矢死,俘其父及黨與,皆伏誅。(信民及興傳) | 前頁|[[『廿二史箚記』>トップページ]][[巻三十六>巻三十六 明史]]|    次頁| |[[李添保]]|550.黄蕭養|[[劉六劉七齊彦名趙風子]]|

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示: