189.異姓封王の濫発は北魏に始まる


  太武帝が即位すると、長孫嵩を封じて北平王とし、奚斤を封じて宜城王とし、長孫翰を封じて平陽王とし、叔孫建を封じて丹陽王とし、司馬楚之を封じて琅邪王とし、杜超を封じて湯平王とし、穆寿を封じて宜都王とし、長孫道生を封じて上党王とし、楼伏連を封じて広陵王とした。これより功臣で王でない者はいなくなった。文成帝は周忸を封じて楽陵王とし、杜遺・閭若文・劉尼・杜元宝・源賀・閭武皮・常英・閭毗・閭紇・尉眷・乙渾・李峻が爵位を進められて王となった。また陸麗を封じて平原王とすると、陸麗は爵位を父に譲りたいと請願したので、文成帝は「わたしがどうして卿ら父子を封じてふたりとも王にすることができないことがあろうか」といって、その父の陸俟を封じて東平王とした。後に陸麗の子の陸叡が献文帝に仕えて、また東郡王に封ぜられたので、一門のうちに三人の王を持つこととなった。献文帝はまた慕容白曜を封じて済南王とし、韓頽を封じて襄城王とした。孝文帝はまた陳建を封じて魏郡王とし、苟頽を封じて河東王とし、王叡を封じて中山王とし、張祐を封じて新平王とした。太和十六年、拓跋の遠族で太祖の子孫でない者あるいは異姓の者について、王に封ぜられていた者はみな降格されて公とし、公は侯とし、侯は伯とするようはじめて命じられた。その子弟はもとの爵位のまま、みな将軍の号を除かれた。ただ長孫道生のみが大きな功績により特別に降格されず、このため名器としてますます尊重された。至北斉武成帝時、又極猥褻。奄人鄧長顒・韓宝業・盧勒叉・斉紹・秦子徴・陳徳信俱封王。後主高緯のときに、庶姓で王に封ぜられる者は最も多く、穆提婆は城陽郡王となり、高阿那肱は淮陽郡王となり、韓長鸞は昌黎郡王となったが、みな後主の寵臣であった。張景仁以侍書封王、傳謂倉頡以來、八體進爵、一人而已。又有倉頭陳山提・蓋豊楽・劉郁斤・趙道徳・劉桃枝・梅勝郎・辛洛周・高舍洛、至武平時、皆封王、其亦及武平者、亦追贈王爵。斉書謂倉頭始自家人、情寄深密、及後主時、已是先朝勳舊、故致此叨竊、また楽人の曹僧奴とその子の曹妙達は、琵琶を弾くことができることから王に封ぜられた。此外官階更不可數計、開府千餘、儀同無數。諸貴寵追贈祖父、歲一進官、位極而止。馬や鷹や犬までも赤彪儀同・逍遙郡君・凌霄郡君のような類の郡君・儀同の号を持った。はなはだしきに至っては闘鶏もまた開府の号を持ち、官爵の濫発はここに極まった。このため当時の官爵を受けた者は、栄誉とはせず、かえって屈辱とみなした。陽休之は中書監となり、燕郡王に封ぜられたが、「わたしは奴隷ではないのに、どうしてこのようなものを授けられねばならないのか」と人にいった。可見人之賤之、至不齒於入列也。荒亂之朝、何所不至、固不可以常理論矣。


189.異姓封王之濫自後魏始


  太武帝即位,封長孫嵩北平王,奚斤宜城王,長孫翰平陽王,叔孫建丹陽王,司馬楚之琅邪王,杜超湯平王,穆壽宜都王,長孫道生上黨王,樓伏連廣陵王。自是功臣無有不王者。文成帝封周忸樂陵王,杜遺、閭若文、劉尼、杜元寶、源賀、閭武皮、常英、閭毗、閭紇、尉眷、乙渾、李峻,俱進爵為王。又封陸麗為平原王,麗乞以讓父,帝曰:「吾豈不能以二王封卿父子也。」乃封其父俟東平王。後麗之子叡事獻文帝,又封東郡王,一門之內遂有三王。獻文帝又封慕容白曜濟南王,韓頹襄城王。孝文帝亦封陳建魏郡王,苟頹河東王,王叡中山王,張祐新平王。太和十六年,始詔諸遠族非太祖子孫及異姓封王者,皆降為公,公為侯,侯為伯,其子男仍舊,皆除將軍之號,惟長孫道生以大功特不降,自是名器稍重。至北齊武成帝時,又極猥褻。奄人鄧長顒、韓寶業、盧勒叉、齊紹、秦子徴、陳德信俱封王。後主緯時,庶姓封王者尤多,穆提婆城陽郡王,高阿那肱淮陽郡王,韓長鸞昌黎郡王,皆倖臣也。張景仁以侍書封王,傳謂倉頡以來,八體進爵,一人而已。又有倉頭陳山提、蓋豐樂、劉郁斤、趙道德、劉桃枝、梅勝郎、辛洛周、高舍洛,至武平時,皆封王,其亦及武平者,亦追贈王爵。齊書謂倉頭始自家人,情寄深密,及後主時,已是先朝勳舊,故致此叨竊,又有樂人曹僧奴及其子妙達,以能弾琵琶亦封王。此外官階更不可數計,開府千餘,儀同無數。諸貴寵追贈祖父,歲一進官,位極而止。馬及鷹犬皆有郡君、儀同之號,如赤彪儀同、逍遙郡君、凌霄郡君之類,甚至闘鶏亦號開府,官爵之濫,至此極矣。故當時受之者,不以為榮,且反有以為辱者。陽休之為中書監,封燕郡王,謂人日:「我非奴,何忽有此授。」可見人之賤之,至不齒於入列也。荒亂之朝,何所不至,固不可以常理論矣。

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最終更新:2019年11月11日 11:13