ぷっくりと持ち上がった白い布地のしわの背に、なだらかな輝きが散っていた。食卓上の、この、マナーの悪い、小さな山脈を、開放的な窓から投げ込まれた陽光が舐め上げて、森然とした繊維の合間にやわらかく吸い込まれているのだ。

人差し指を立てて、そのしわを上から平らかに均すと、日向玄ノ丈は、清潔に整えられたテーブルクロスの真新しさで、改めて、唇を軽くへの字にしながら感心に浸る。

俺も随分と立派になったもんだ。

勿論、自身が更正しただとか、社会的地位を得ただとかいう意味ではない。ついでにいうと、口にしてすらいない、ただの傍白である。

濡れ布巾できちんと磨かれた床に、体感で、日向の倍ほどもありそうな高い天井、腰掛けているのは洒落た背をした椅子で、軋むどころか、手すりすらついてやしないのに落ち着きがいい。ついでに言うと、まだ、神経のところどころで、違和感が消えていないので、こいつは大層ありがたかった。

大層なご身分になったもんだ、と、自身に対して揃えられた調度の類に、いつものように、唇の端を僅かにひん曲げての、牙を隠した笑みを零す。自嘲している訳ではない。もっと言えば、自慢している訳でも、自負している訳でもなくて、この男は、自分の今の境遇を、明らかに面白がっている節があった。

「――――――……。」

白壁に跳ね返る陽光が、目に眩しい。
この建物の中では、世界は薄暗くもなくて、身構える必要もなくて、トレードマークのように引っ提げていたはずの黒い帽子は出番を待ち構えて玄関前に掛けられっぱなしだし、サングラスは胸に差しっぱなしのままだ。

遠くへ来たんだ。

文字通りの世界移動者でもある玄ノ丈は、だが、渡ってきた幾多の旅の道程をではなしに、常人の万倍を遥かに越す鼻腔で捉えた、日本ではありえない日差しに、様々の物がぬくめられた熱気や、活力にみなぎった潮の香でもって、そう、述懐を胸に抱いている。

俺が今いる場所は、昔より、ずっと遠い。

「もうすぐ出来ますからね」
「ああ」

油の跳ね散る、しゃんしゃんけたたましい音量に負けない、弾むような暖かい女の声に、いらえ、瞬きで玄ノ丈は時を、見つめていた瞳の中から同じく散らした。

南洋の暑さに引けを取らぬ熱量を、キッチンの方から嗅ぎ取る。
うまそうな匂いだ。いつか光太郎を招いて、唸らせてやりたい。

食事を採ると、ソファーで並んでくつろいだ後に、今日も連れ立って街へと降りた。

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「この前行ったレストラン、すごかったね」
「ありゃあ、入りましょうって誘ってきたお前さんがすごいんだ」
「今日は食べてきたから、軽い飲み物があって、話せるだけのところでもいいかもしれませんね」

手、1つ分の距離を開けて、こちらの歩調に気を使う相手に合わせながら、その実、16分の1テンポだけ向こうより早く、意図的に前へと出つつ、玄ノ丈は道をするりと雑踏の中に開いていく。

新宿の界隈に比べたら、周りを行く人間たちの速度はずっとおおらかだから、その分、あの頃よりも油断した素振りは作りやすい。

染み付いた、都会の野生の習性で、そうして常に傍らにいる相手のことを、森の中で踏んだ枯れ葉に音を立てないような自然さで、庇い続けている。

もう、この程度のことは、出来る程度には回復したが、まだまだだな。

「バーなんかだと、ありがたい」
「この辺にあるかなあ……」
「見つからなければ、買って帰ればいいさ」
「まだ、この前のも残ってますよ」

あ、でも、この瓶なんか可愛いかも。と、店頭に籠入りで陳列してある、銀色のやわらかい色合いをしたウィスキーフラスコを見つけると、ひょいとそちらに顔を覗き込ませたので、つられて日向は足を向けた。

視線の違いもあるのだろう。二人で歩いていると、こうやって視野が広がる。そのことに再び気付き直したのは、何年振りのことだったろうか。

フラスコとセットの品なのだろう、隣に添えてあった、濃い、琥珀色のボトルを手に取ると、熟成された香りが、掌の中の重みから伝わってきた。

いい酒だなと言ったら、何故だか隣で嬉しそうな顔をされた。
やっぱり玄ノ丈さんにはウィスキーって似合いますよね。ハードボイルドなイメージで。

どうだろうなと笑って返し、
小一時間ばかりウィンドウショッピングを楽しんだ。

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潮騒を枕に、星明かりだけを灯してベッドに横たわりながら、
玄ノ丈は卵のことを考えた。

夜風が吹き抜ける。
うっすらかいた汗や、潮の粘りに、毛繕いをしたくなるが、
今は身じろぎもせず、我慢する。

ハードボイルドってのは、固ゆで卵だ。
どんなことにも動じない、ついでに言えば、死んだ卵の有様だ。

ハードボイルドからは、生まれない。
何も生まれてこない。

だから、生まれたばかりの、か弱い雛鳥よりも、もっと弱い生き方だ。
そう生きるしかなくなってしまったから、そう生きるだけの生き方で。
いっそ、気取るより他にないから貫いてきただけの、死に方だ。

じゃあ、俺は昔と比べて変わったか?

瞳を誰も見ていないところできらめかせながら、自問する。

変わっちゃいない。
いつでも死ねる。笑いながら、くそったれな悪党共に、親指を下に向けて、いつでもだ。

変わったのは周りだろう。

この部屋の、家主の顔を真っ先に思い、やはり、胸の中で笑顔を作る。ただし悪党共に向けるそれとは違って、心底面白そうに。

2つの笑顔が自分の中には眠っている。
2つの顔が、自分の中で、眠っている。

どうにも笑っちまう。
こいつは面白すぎる。

腕を伸ばしたまま、まるでその中に手放したくない何かを握りこんででもいるかのように、拳を作り、確かめた。

固ゆで卵からは何も生まれない。
生まれなくったって構わねえ。ずっとそのつもりで生きてきて、きっとそうやって俺は死ぬんだろう。

だけどな。だけど――――――……。

闇夜の瞬きに時が散る。

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『は……はい。口説いてます』

目に浮かぶ、赤い顔。けれど、すごく、真剣な。

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『手をつないだままでいたいなって…』

不安げに揺れる声の可愛さ。

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『玄ノ丈さん、喜んでくれるといいな。』

思わず上げた笑い声に、にゃーと飛び上がった肩。

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『…あなたは、私のことを、どう思っていますか?』

見つめ続けてくる瞳の重たさ。

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『気に入ってもらえたら、うれしいです』

無邪気にはしゃぐ様子の、罪のなさ。

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『消えないでください……』

触れたところから伝わる熱。

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『誕生日だから、好きな人といっしょにいたいんです』

やわらかい髪の、細く、心地よい手触り。

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「…………」
「玄ノ丈、さん?」

なんでもないさ、と言おうとして、
頬を撫でることで、返事に代えた。

遠くまで来た。
けれど、俺はここにたどり着いた。

「……?」

不思議そうに見つめる顔に、髪を撫で、
ゆっくりと顔を寄せていきながら…………。

「美弥」

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『あなたに、また会えて、よかった…』

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狼の固ゆで卵を暖めた、
風変わりな猫の一日は、
そうして降り積もるように過ぎていく。

触れてきた唇は、今日も暖かい。

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最終更新:2010年10月13日 23:44