ぬくもりを、感じた。

長い長い眠りの後に、誰もが覚える強張った五体の感触。それを、融かすようなぬくもりが、手を中心にして、流れ込んでいる。
細胞がぬくもりを覚え、細胞から血へとぬくもりが手渡され、そうして体中を、ゆっくり、ゆっくり、ぬくもりがほぐしていく。

無意識に緩んだ脳に、差し込む空気の振動。鼓膜が伝えるそれを、理解の出来る、意味に落とし込もうと脳が努力し始めているのがわかった。

誰かが待っているのだ。

ううん。

誰かじゃない、知ってる。

待ってくれているのは…………

安堵が緩んだ脳をさらに覚醒へと押し上げる。

急いではいるが、あくまでも乱暴にならない足音が遠ざかっていくのが聞こえた。

光が意識に差し込む。

薄く、目を開いていくと、そこには……

「おかえり、トラナ」

心を切り裂くような、笑顔があった。

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秘宝館SS:『それでも心に吹く風は』

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いやだこわい死体がどうして笑って答えてくれないいやだいやだいやだいやだいやだあああああああああああああああああああああああ……

「大丈夫、大丈夫だ…」
「あ……」

気がついた時、彼女は秋津の腕の中に抱かれていた。

動悸が激しく、顔は冷たい。頬を、驚くほどの量の涙が伝っていた。パジャマの襟首まで濡れている。

病室内は、暗闇に包まれたままだ。

薄明かりの中で、六合でもそうしていたように、秋津が彼女を見つめている。

人のいい、やさしい顔だ。

いくつの物語を超えても変わらないでいてくれる、そのひげのない顔。乱れて引きつっていた呼吸をトラナは自分で整えようと努力しながら、胸にぎゅうっと抱きついた。

しっかりと受け止めてくれる胸。

そこに頬を押しつけ顔を埋める。

気がつけば、部屋の入り口には看護士が立っていた。それを秋津が手で無言で緩く制止して、頷き返して送り返すのを、トラナはじっと間近で見つめる。

気がつけば、鼓動は秋津にすりつけた自分の体との接点からしか響いて来てはいなかった。正常な、圧迫された動脈から感じる、鼓動のリズムと強度。

ほ、と小さく吐息が漏れる。

「水、飲むか?」
「ジュースがいい…」
「OK」

据付の冷蔵庫から飲み差しのパックを取り出すと、秋津は少しカーテンと一緒に窓を開けて、病室に風を通した。ガラス越しではない、生のままの夜の明かりが手元を照らす。

手渡されたパックのストローに口をつけると、するすると飲み干していく。林檎の甘みが疲れた体に心地よく、よく冷えた冷たさが、体の中に、心地よい。溜まっていた体の熱が、それで気だるさと共に抜け落ちていく感じがした。

深く、ベッドに身を落ち着ける。

秋津は布団のかかり具合を直してくれた。

何も言わないでいてくれる。

ただ、必要なことだけしてくれる。

それが今のトラナには一番うれしかった。

ベッドの端に腰を下ろしている秋津の重みで、少し、体がそちらの方へと沈んでいる。

手を、布団の下から求めると、しっかりと秋津は握り返してくれた。

緊張が、また体の中から抜けていく。

気がつくと、トラナは再び深くまぶたを下ろしていた…………

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がたん!

吐き出された缶を手に取るために屈んだ秋津は、自販機の前で、知らず、自分が溜め息を漏らしていたことに気がつくと、唇の片端をひん曲げ、同じ側の眉をしかめた、何ともいえないような、苦笑いにも見えない笑みを浮かべた。

疲れを見せることはしない。たとえそれが己にであろうとも、疲れを疲れと認めないことで、秋津はそれを本当に疲れとしない術を、身につけていた。

娘と、娘の友達がいるからだ。

昔は片っぽでよかったんだがな。

そんな述懐を喜び混じりに心に浮かべる。

あの懐かしい海と廃墟の日常。モヒカンや、溢れ返るようなレトロライフのいた世界。

あれから流れてたどりついたここでも、俺はギターを背負っている。

プルタブを押し開けると、濃い無糖珈琲を胃に流し込む。胸のすくような香りが舌と鼻腔をくすぐり、目が少し冴えた。

聞かされた限りでは、このトラナの傷は、やはり深いものであるらしい。若い分だけ、脳に走った強烈な恐怖と嫌悪の電気信号の焼き付けていった痕跡もまた、新たな神経細胞の変化の中に組み込まれてはいきやすいとのことだが、人の死と自分の死とが、連動して記憶に刻まれている。忘れがたいものがあるのだろう。

その二つの記憶の印象の強さが、眠るたび、甦っては混ざり、トラナを苦しめている。

苦いのは、珈琲だけではなかった。

そっとリサイクル用の分別BOXに空き缶を落とす。深夜で回収されたばかりのがらんどうのゴミ箱に、空き缶は当たるものもなく孤独な音を一瞬だけ閃かせて沈黙する。

二人が悪いわけでもないのだ。

生きていれば、すれ違いはよくある。互いが何を感じていて、何を考えているか。そんなものは口にしないとわからない。口にしたところで、信じてもらえないことも、そりゃあ、ある。

秋津は心配はしていたが、以前のような不安は抱いてはいなかった。

風杜が同調能力を発現した時は、娘の友達を場合によっては自分の意志で引き離さなければならなかった。あの時に比べれば、問題はずっと致命的でもなければ物理的でもない。だから秋津はもやもやとした不安を抱かずに済んでいた。

廊下を、トラナ・クイーンハートの待つ病室へと戻っていく。

消灯時間はとうに過ぎているものの、いつ、何があるかわからない。足元を照らす非常灯の光度は高く、ぼんやりと白壁の青く明るい。長く伸びたリノリウムの床の上の滲む陰影を、そっと踏んでいく秋津。

友達同士は、生きてさえいれば、時間がまた元通りにしてくれる。それを知っているから、秋津は心配をしかしていなかった。

どちらかが、手をのばし続けるその時間が、必ずまた、二人を元通りにしてくれる。

だから心配なのは風杜の方だった。

あの子は次は、大丈夫かな。

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また、この夢。

トラナはわかっているのに同じ反応を繰り返してしまう自分が嫌で、夢の中の自分とは違う、もう1人の自分を、そう呟かせた。

死体。

私の死体が転がっている。

それを見ながら神奈が笑ってる。

どうして?

涙が零れる。

死体は動かない。夢を見つめるもう1人の自分が、泣いている。

青い、綺麗な海が神奈と自分の死体の前に広がっている。

神奈はトラナを置いて1人で海へ行ってしまう。

呼び止めようと手を伸ばそうとして、夢の中にいる自分に体がないことに気がつく。

神奈は笑っている。神奈は振り返らない。

追いかけようとして、びょうびょうと吹きつける風が、トラナの足なき歩みを妨げる。

風に、もがく。

どうして?

失うのは、嫌だった。

どれだけ繰り返しても嫌だった。

灰色の雲が空を満たし、薄暗い茜色が雲を染める。

水没した廃墟に取り囲まれて神奈が踊る。楽しそうに笑顔を浮かべながら。

風が吹く。雲が吹き流れ、不吉な茜色だけがどんどん深くなっていく。

あたりは暗くなり、神奈の顔が見えなくなっていく。

風が、どんどんトラナを神奈から引き離してしまう。

いや、いや、いや……っ!!

声なき声を、トラナは風に震わせる。

胸が、痛んだ。

苦しくて、潰れそうだった。

夢の中では体がない。それでも潰れてしまいそうになる。

いかないで……

心が、軋んで風に、悲鳴を上げていた。

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ひどい寝汗。

目が覚めるとその気持ち悪さにまず気がつく。

傍らでは、椅子に腰掛けて秋津が眠っていた。

気は重たかったが、体がどこか悪いわけでもないのでベッドから降りて自分で冷蔵庫を開け、飲み物を取る。

「…………」

その幼い顔から、表情は削ぎ落とされている。

ふと、頬をなでる冷たさに振り返る。

窓が小さく開いていて、カーテンが風に揺れていた。

パパが開けたのね。

空気を入れ換えるために看護士が定期的に窓を開けるのを見て真似たのだろうか。開け幅までそっくりだった。

夜に吸う、外気は久しぶりだった。

風に揺れる葉擦れの音が、耳に細かく気持ちよい。

凍りついていた五感をくすぐるような解放感。

振り返れば、腕組みをしながら寝ている秋津の髪が、揺れていた。

知らず、微笑む。

窓から見上げた夜空は、病室の天井なんかよりもずっと広くて、そして遠かった。

胸の中にわだかまる、重たいものの存在を、そうしていると、よく感じられる。

トラナはそれに気付いた途端、発作のように泣きかけ、

そして、

―――――びょおう……!

「…………っ!」

吹き抜けた、一際強い夜風に思わず目を細める。

風は室内を駆け抜け、あちこちの物を動かし深夜に似つかわしくない騒々しい音を立てていく。

「あ………………」

一瞬、トラナの心が止まった。

その一瞬は、だからとてもとても長いように、トラナの心には感じられた。

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「起こしちまったか」

秋津の声。

顔の横から手が伸び、きゅ、っという音と共に窓を閉める。

途端に室内は静寂に戻った。

見上げると、笑いかける、秋津の顔。

「パパ…」

風が、さらっていったのだろうか。

いつの間にか胸の中の重たさは、ほんの少しだけ減っていて。

「う……」
「おおっ」

トラナは秋津の胸に抱きつくと、ぼろぼろぼろぼろ泣き出した。

何故だかわからない。けれど、泣きたくなったのだ。

「うううううううう~~~~……………………!!」

秋津はただ黙ってトラナの頭をなでる。ぎゅうとする。

それでいっそう涙が溢れる。

病院で目が覚めてから一番泣いた、その夜は、トラナはもう、悪夢を見ることはなかった。

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「うん、うん…そうだな、そうしよう」

翌日の午前中、病院の電話口で風杜からの相談を取り次がれた秋津は、内心で安堵していた。

秋津に、トラナの様子を見てもらい、良いタイミングで連絡をもらってから、風杜はまた見舞いに来ると言っていた。

トラナよりは年上だが、まだ子供といっていい年代の少女だ。それでも人は、見かけの年齢に縛られるものではない。トラナがそうであるように、心は、皆、違う形をしている。

動揺もまだ尾を引いているだろうに、正しい手段を選べる風杜を、秋津は改めてトラナの友達でいてほしい子だと、そう感じていた。

受話器を置くと院内の控え目な喧騒が耳にまた戻ってくる。

ロビーでは、パジャマ姿でトラナが元気そうに歩き回っている。医師からの話によると大分調子が良くなっているとのことで、少しぐらいなら外を歩かせてもいいそうだ。

午後には病院の敷地内を散歩して、ついでにギターでも久しぶりに持ってきて爪弾いてやろうか。そんなことを秋津は思う。

きっと大丈夫だ。

玄関のガラス戸越しに外を見て笑う、トラナを見ながら、秋津は二人を信じた。

娘達は、大丈夫。

「パパ、ほら、みて。さむそうなかぜ」
「ああ、もう12月だからな。午後はカーディガンを着ていくか?」
「ううん、いらないわ」
「その格好じゃ寒いだろう」

それでもトラナは首を振る。

吹く風は、四季の移ろいをこの東国に運んでいる。

目には見えないその風を、見つめながらトラナは言った。

「かぜにあたりたいの」

そのまなざしは遠く、そして微笑んでいて―――

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The undersigned:Joker as a Jester:城 華一郎(じょう かいちろう)

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最終更新:2008年03月13日 14:31