空が蒼く焼けていた。

決して大きくはない肩に、毛布を引き寄せながら、火焔はそれでもやってくる何かを見上げていた。

「ばる」

のってのって、コガが歩いて隣に座り込む。

「うん」

短く火焔はコガの言葉に応えた。

じっと、見守るようにうずくまった視線。その視線の向こうでまっすぐに空を見上げる青い瞳。

夜が空を藍色に舐め尽くし、太陽の名残りがどんどん空から払拭されていく。

波頭は、見えない黒に染まった。

りゅう、と、決して暖かいばかりではない風が、頬をなでていく。

少女の赤い髪が、風になびいた。

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長い長い不自由な離島暮らしがやっと終わりを告げたその日、火焔は彼女を見つけてくれた高原らと共に、ささやかな食卓を囲んでいた。

「おいしい!」
「ばる!」
「もっといっぱい食べて、早く元の健康的な姿に戻ってくださいね」

焚き火で直接炙った糧食を、口いっぱいにほおばっていく火焔と、その元となる生の肉を噛み裂いては飲み込むコガのうれしそうな様を見て、玄霧はそう言いながら自分も控えめな食事を採った。

一眠りしたら幾分増しになったとはいえ、まだまだ肌にも毛先にも、油っけが足りていない。久しぶりに味のついた暖かな食事が食べられた火焔は、この料理ともいえない料理におかわりを要求し、精力的に腕を振るっている高原の手を存分に焼かせた。

ターキッシュバンによる食料その他の生活必需品のピストン輸送にも、一人で行うのには限界があるため、今は彼もこの島で二人と一匹と一緒に休憩中だ。

トレードマークのサイドポニーも新たな髪紐で復活し、ぺかりんと元気いっぱいに火焔は給仕を受ける。

はぐ、もぐ、ごく、ごく、ごく。

高原は、長い間栄養状態が悪かったのに、あまり急いで食べ過ぎるとおなかを壊すんじゃないかとも思ったが、このペアーに限ってそういうこともなさそうだったので黙って枯れ枝を削って作った現地調達の木串に肉を刺し火のそばに立てて固定した。

既に日は落ちており、人工灯一つない母島は星月夜の明るい青に染まっている。一日が終わるまではまだ、いくらかの時間が残っているはずだった。

「この様子なら大丈夫そうですね」
「?」

不思議そうにこっちを向いたその顔に、玄霧は何でもないといった風に笑いながら頷いた。火焔は敏感にその表情を読んで、考えるよりも先に、水気を取り戻してふっくらとしたその唇から言葉を発していた。

「玄霧、帰るの?」

参ったな、と思う。

質問自体に他意はないのだろうけれど、この結城火焔という少女は、普段のかっとんだ振る舞いとは裏腹に極めて理性的で揺らがない正しさを、その形のよい大ぶりの胸に宿している。それは動物兵器に育てられた存在らしい野性の的確さと、健やかに育った体が本能的に教える歳相応の少女らしい感覚と、少女というよりまだ人格的には多分に子どもなところを残している部分との三つから成り立っていて、どこまでこちらのことを見透かしているのか、見ていると、時々わからなくなることがあるのだ。

「ええ。帰りたくはないんですけど、都合があって。タマハガネが迎えに来るまでは、高原たちが定期的に来てくれますから」
「そっか」

相槌を打った火焔の瞳は、表面上、まったく平静のようだった。沸いた湯で淹れた茶を、飲みながら膝を抱えている姿からは、彼女の内面でどのような感情が動いているかは想像できない。

「…………」

高原は、そんな二人を見守りながら、何も言わずに自分もやっと遅まきながら食事を採り始めた。家に帰れば妻と、そしていまやそのおなかには、もう一人の家族が待っている。玄霧もそんな彼の状況を知ってはいるからこそ、内心でこの場に付き合ってくれている彼へと礼を言っていた。

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食事が終わると、準備の間に設営したテントに火焔は転がりこんだ。

玄霧は既に帰ってしまい、それに遅れること少しで、高原もターキッシュに乗って去ってしまっている。

「ん…」

ようやく来た助けについて、何かを考えるより先に、今は体が眠りを要求していた。

中はちょっと狭いがコガも一緒だ。

野宿していた間に比べれば、布一枚でこうも違うかというほどテントの中は暖かい。防水・断熱加工の素材がしっかり利いている。毛布も満足に足元から引き上げず、そのまま火焔は眠ってしまった。

ゆるやかに起伏するコガのおなかがとても気持ちよかった。

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翌日はコガと一緒にボールで遊んだ。

久しぶりに純粋な運動目的で体を動かしたので、すっきりした。

浴びるほどの水で本当に水浴びをした。コガの毛もそれを使ってブラッシングしてあげられたので、随分見違えるほどになった。

届いた荷物の中には天孤からの手紙もあって、無事とわかって改めて安心した。

生活用雑貨さえあれば、火焔も一通りのことはできるので、その日は一人と一匹でいつもどおりに食事した。

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三日目。

夜明け頃からどうやら雨が降っていたらしく、日中はずっと降り続いていた。

定期便(ターキッシュバン)のパイロットが言うには台風が近づいているらしかった。それなので、風除けや、テントが飛ばされないよう、今度の輸送物資はそうしたものが豊富に含まれていた。

小笠原諸島に台風が来るのは火焔がいる間だけでもこれが初めてではなかったので、遮るもののない島台風の猛威は肌身に染みてよくわかっていた。

レインコートを着ながら作業を進めたが、強風で途中風防を固定するためのトンカチがすっ飛んだ。それが鼻面に直撃したコガと喧嘩して、とにかくその日は早めに寝てしまった。

びょうびょうとひどい風音だったが、いつものとおり身を寄せ合って寝ていたら、それも気にならなかった。

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救助船が来るまであと三日になった。

台風一過で、海岸はすごいありさまになっていたが、準備したおかげでテント周りは無事だった。

澄んだ空気が清冽で、その夜、火焔は何とはなしに夜の海を眺めていた。

「・・・・・・」

なんとなく、天孤から来た手紙を読み返す。

その日火焔は一人で寝た。

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救助船が来るまであと二日。

「ばう!」

つまらなそうな顔をしているな、とコガが火焔に言った。

そう? と聞き返したら、まあ、どうでもいいが…といった表情であくびをされたので、火焔はコガにチョップした。

「美少女いないと火焔ちゃんも確かに退屈かもね~」
「ばう」

その日来た定期便のパイロットが女性だったので火焔はさっそくハントした。

狭い島でのことだし、誰もつっこむ人間がいなかったので、思ったより物足りなかったが、まあ、それでもそれなりに満足ではあった。

夜にはまた外に出て、これまで過ごした山を見上げた。

山羊がひょっこり顔を出したので、抱きついて遊んだ。山羊も、彼らが山中にいた間のことを知っているので、コガを怖れずテントの近くまでやってきて、一緒に夜食を食べた。

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「随分顔色がよくなりましたね」

翌日にはタマハガネが来ることになっている日の昼頃に、久しぶりに高原がやってきた。

実際火焔の顔は、15歳に似つかわしい、ほんのり丸みを帯びた壮健を取り戻している。この数日よく食べたわりには訓練らしい訓練をしていないので、ひょっとしたら前より体重が増えているかもしれなかった。

そのあたりのことに言及するのはまずいと妻との日常生活の経験上知っていたので、高原は、言葉を濁しながらそれとなくそういうことを話してみた。えへへーと元気に頷くか、昨日同僚の被害報告を聞いていたので、そろそろ悪びれずに退屈さでも口にするかと思ったら、火焔の反応は芳しくなかった。

「…ここに、愛着でも湧きましたか?」
「ううん」

じゃあ…と、続けて聞こうとした時、高原は火焔の表情に言葉を止めた。なんとなく、彼女が何を思っているのか、わかったからだった。

それで、しばらく世間話をしながら、今日は早めに戻るため、明日の撤収のためにいろいろ細かなものを片付け、日中のうちに退散することにした。

奥さんによろしくねー、との火焔の言葉を背にターキッシュバンは飛び去っていく。

「…………」

もう、明日にはターキッシュバンではなくタマハガネが来る。それまでは、誰もこの島にやってこない。

コガの頭を抱き寄せようとして、逆にべろりとなめられた火焔は自分が何を考えていたのかにやっと気付いて笑った。

なんだ。

そんなことか。

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その日火焔は毛布を持って、最初に迎えが来た場所から夕暮れを眺めていた。

潮風が毛布を重くする。ぐい、と体の手前からひっかぶり、寒くないよう、夜に備えて身を固めた。

紐をほどいた赤髪は、夕焼けに、茜色に染まってまっすぐ背中を隠す。

ばる、と鳴き声が後ろからしたので振り返ってみると、また来ていた山羊とコガが挨拶をかわしていた。コガはいつもの人間臭い表情で、人間のする世間話みたいにうろうろと山羊とコミュニケーションを取っている。

コガが何を考えているのかはわかったけど、山羊とは付き合いが浅かったので、火焔には山羊が何を考えているかまではわからなかった。

やがて夕暮れも消え、水平線の向こうに日が没する。

……恥ずかしいところ、いっぱい見られちゃったな。

でも真面目に私のことを救おうと頑張ってくれた。助けに来てくれたし。

思い出すのは一人の『友達』のこと。

友達とは、一緒にいないとつまらないものね。

そう思いながら、また、背後のコガたちを振り返ると、山羊は既に去っていた。コガもあくびをしながらのんびりその場に座り込んでいる。火焔がこっちを見ているのに気付くとコガは、どうした、とでもいうように首をもたげて見つめ返した。

「なんでもない」

ばる、といらえが返ってくる。

気がつくと、空はその色を根底から変えていた。暗い、青が見る間に水平線と溶け合って、東の空から夜を運んでくる。

それでもなお、西に消えた夕陽の名残りが空を焼いていて、それで、空は蒼く焼けたようになっていた。

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また、会えるよね――――

思いながら火焔は空を見上げる。

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その夜、火焔は空を見上げていた。その青い瞳に、藍色に舐め尽された空の、太陽の名残りが消え、ぽつぽつと浮かび上がってきた小さな光が映りこむ。

白い、満天の星の輝き――――

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小笠原紀行:夜空の瞳

~Fin~

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-The undersigned:Joker as a Clown:城 華一郎

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最終更新:2007年10月28日 23:35