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※mono....この枠はドイツ版新幹線についての話題です。
ドイツ
■ ドイツ版新幹線がお披露目した「夢」のようなポンコツっぷり....革命的なのに「2時間超の遅延」って… 「川口マーン惠美「シュトゥットガルト通信」(2017.12.15)」より
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日本ではありえないトラブル

東海道新幹線の構想が公にされたのは1957年。しかし当時は、鉄道は過去の交通機関で、これからは飛行機と自動車の時代という風潮が強く、「できないもの、無用のもの」という揶揄を込めて、「夢」の超特急と呼ばれていたという。

ところが、それが着工3年余りで完成し、1964年、東京オリンピックの直前に、東京と新大阪間が3時間10分(開業当初は4時間)で結ばれるようになると、「ひかり」は夢ではなく、現実として、あっという間に日本の誇りとなった。

以来、50余年、新幹線には「脱線」も「衝突」もなし。鉄道側に責任のある死亡事故ゼロの記録も破られていない。地震を感知すると、揺れが始まる数秒前に、ピタリと止まる。新幹線は今なお、日本人の誇りだ。

新幹線に乗ると、その快適さにいつも満足する。悪天候以外で遅れはほとんどないし、車内は清潔だし、静かだし、ドアやトイレが故障していることもない。ときに「こだま」しか停まらないような駅のホームに佇み、「ひかり」や「のぞみ」が数分おきに目の前を矢のように通り過ぎていく様を見ると、感動さえ覚える。日本はすごい国だ。

ところ変わってドイツ。

ドイツの鉄道ほど評判の悪いものはない。これは私だけが言っている話ではなく、ドイツ人ほぼ全員の意見でもある。歓談の席で偶然にもドイツ鉄道が話題にのぼると、皆が一斉に、しかも生真面目に、自分がドイツ鉄道のせいでいかに酷い目にあったかという話を始めて、たいてい止まらなくなる。

ドイツ鉄道は2017年、8割の遠距離列車を定刻で走らせるという目標を立てた。ドイツ鉄道のいう定刻とは遅れが6分以内の場合である。しかし、10月の時点で、6分以内の遅延で目的地に到着した遠距離列車は74.3%にすぎないことがわかり、目標達成は断念した。

(※mono....中略、詳細はサイト記事で)
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さて、そのドイツ鉄道が、1992年以来、一大プロジェクトに取り組んでいた。ベルリンとミュンヘンを結ぶ超高速列車の建設だ。いわゆるドイツ版新幹線である。

計画が決まったのは、東西ドイツ統一のすぐ後だから、「ドイツ統一の交通プロジェクト」と呼ばれていた。以来、工期は26年で、工費が100億ユーロ。26のトンネルと37の橋が作られ、623kmを約4時間で結ぶ。それまでは6時間以上だった所要時間が3分の2になると、ドイツ鉄道は寿いだ。

さて、その超特急が、去る12月8日、いよいよめでたくお披露目となった。メディアも舞い上がり、「画期的」どころか「革命」とまで書いた。

(※mono....中略)
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ところが、すでにそのころ、やはり200人もの賓客とマスコミ関係者を積んでミュンヘンに戻ろうとしていたその超特急は、技術的問題により途中で立ち往生したままだった。結局、2時間以上の遅延で、深夜0時30分にようやくミュンヘン駅に到着したという。

ただ、翌日のニュースでそれが報道されたときには、誰もがちょっとしたミスだろうと、さして気にも止めなかった。それよりも、10日から1日3往復で始まるという商業運転のほうに、皆の期待は集中していたのである。

さて、いよいよ10日。普通の乗客を乗せた超特急は、まずは予定通りの運行。ところが、12時5分のベルリン発ミュンヘン行きは何度も止まり、大遅延。また、ミュンヘンからベルリンへ向かっていた列車も、すぐに止まってしまい、結局、古い線路に誘導され、乗客は普通の特急に乗り継ぎ、ようやく3時間近い遅れでベルリンに到着したという。

1日3往復しか走らない電車でこのトラブルだ。しかも、自由席で片道150ユーロという高運賃なのである。

ハイテク国の「技術上の問題」

翌11日月曜日も、状況は改善されなかった。7時38分ベルリン発の始発列車はあっけなく運休。その翌日の12日も、やはりこの早朝の便は運休。これでは、ビジネスで使おうと思っていた人は窮地に陥る。

12日になってようやく公表された遅延の理由は、「技術上の問題」。新しく導入されたEUの安全システムETCS(European Train Control System)が悪さをしているのだとか。ただ、報道によると、このシステムは他のEUの国々では、すでに何年もちゃんと機能しているというから、理解に苦しむ。

公共交通の乗客の利益を代表する団体「プロ・バーン」のスポークスマンによると、「トラブルは、システムにあまりにも多くのハイテクが詰まり過ぎていて、日常的ではないから」だそうだ。21世紀のコメントとは思えない。

(※mono....以下略、詳細はサイト記事で)


二階俊博
■ 新幹線技術を中国に売った自民党の大物 「社会科学上の不満(2017.5.31)」より
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今、世界各国での新幹線を巡って、日本と中国の受注合戦が繰り広げられている。
そもそも、新幹線技術を中国に渡したのは、日本崩壊を策動する、現、自民党政調会長の二階俊博(和歌山三区)に従ったJR東日本と川崎重工である。
更に今、東北新幹線の技術は、中国の国際特許になってしまっている 。


「政治家は結果に責任を負う」とふた昔ほど前の政治家が良くTVで口にしていたが、現在ではもう誰も責任を負わないようだ。
民進(民主)党が責任など負わない事は国民の周知の事実である。ここでは国民であり市民ではない。他の野党も同様か?それ以上酷い。拉致問題など日本国内に協力者がいなければできない事である。
その協力者の支援をマスゴミがやって来たと多くの国民はみている。市民ではないよ!日本国籍を有している者が日本国民。
しかし、自民党も「責任政党」とか宣うが無責任な輩が跋扈している。
二階議員は最近も中国に行かれ何か良いことがあったようだが、いい加減にして欲しい。

(※mono....以下略、詳細はブログ記事で)


★■ 中国、日本の新幹線技術を国際特許出願…なぜ川崎重工は技術を流出させたのか 「ビジネスジャーナル(2013.6.28)」より


■ 荷物検査は本質ではない 東海道新幹線火災から考える 「ITmediaビジネス(2015.7.3)」より
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6月30日、東京発新大阪行「のぞみ225号」の1号車で男が焼身自殺を図って死亡した。巻き込まれた女性が死亡。20人以上が重軽傷。一部報道では東京オリンピックの防犯に言及し「新幹線のテロ対策の必要性」「荷物検査」を論じている。しかしこれは過剰な反応だ。悪意を持つ者はどんな対策もすり抜ける。

(※mono.--中略)
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どんな対策も悪意と自殺は防げない

 今回の事故報道で「新幹線にも手荷物検査が必要か」という指摘が見られる。しかしこれはまったく馬鹿げた話である。問題の本質はそこではない。本件は悪意による事故であって、悪意は未然に防げない。むしろ悪意による犯行が発生した後、被害を最小にするための方策を検討すべきだろう。

(※mono.--中略)
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運転士の対応を賞賛しよう

 JR東海だって東海道新幹線を100%安全だとは本気で考えていない。だから各車両に防犯カメラと消火器2台を設置している。この消火器が今回の事故で役に立った。乗務員の対応も見事だった。NHKなどの報道によると、11時40分ごろに2号車のトイレで非常ボタンが押され、それを認知した運転手が列車を緊急停止させ、消火器で鎮火させている。当然の仕事とはいえ、目の前で人が燃えている状況だ。冷静な対処は賞賛に値する。

(※mono.--中略)
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 どんなに安全対策を施したとしても、悪意はそれをすり抜ける。ホームドアを設置したところで、本気で自殺したい人は乗り越えるだろうし、駅以外の場所を選ぶだろう。今回の事件は、手荷物検査があったら防げたかもしれないし、防げなかったかもしれない。駅で販売するペットボトルと同じ容器で有害物質を持ち込まれたら判別できない。


★■ 東海道新幹線の一番電車「時速210キロ」は「160キロまで」との通達に背いた〝異常運転〟だった……運転士が感じていた〝圧力〟と現場の思いとは… 「産経west(2014.10.1)」より
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 「試運転は時速210キロできたが、営業運転は160キロで行く」。新大阪駅発「ひかり」1番列車の運転士に抜擢(ばってき)された大石和太郎さん(81)は、開業まで1カ月を切った昭和39年9月、上司からこう命じられがくぜんとした。「160キロでは夢の超特急ではない。今まで何をやってきたんだ」との思いがあった。
+ 続き
 38年に東海道新幹線の開業準備室に配属され、試験用のモデル線で試作車の試運転を繰り返してきた。全線のレールがつながったのは開業のわずか3カ月前。車両故障や停電トラブルに悩まされ、「開業前日までまともに定時で運転できなかった。まさにぶっつけ本番だった」と振り返る。

 東京五輪開幕を目前に控えた50年前の10月1日早朝、大石さんは大阪府摂津市と茨木市にまたがる東海道新幹線鳥飼車両基地で団子鼻の0系に乗り込んだ。

 まだ夜も明けきらぬ午前5時15分、車両基地を出発した回送列車は15分ほどで始発の新大阪駅に着いた。当時は周辺にビルもほとんどなく「駅だけがぽつんとあった」。だが、ホームが目に入り、目を疑った。

 鈴なりの人であふれかえっていたからだ。式典の中央に引っ張り出され、盛大なファンファーレに戸惑いながら花束を受け取った。こんな出発式があることすら聞かされていなかった。

 午前6時、大勢の人々に見送られながら定時に発車。「何としても210キロを出す」。心に誓ってハンドルを握り締めた。だが東京までの所要は4時間。時速160キロ走行を想定したダイヤが組まれており、210キロまで出せばダイヤよりも相当早く東京に到着する懸念があった。そもそも通達に背くことになる。

 車掌から「いつ時速200キロ出るんだい。お客さんが速度計の前で待ってるよ」と言われ、意を決した。「160キロというお利口さんの運転はできない」

 京都駅を出発すると、70キロに落として運転し、わざと列車を遅らせる作戦に打って出た。通常ではあり得ない「異常運転」だった。

 しかし、新幹線の運行を管理する指令所から問い合わせはなく、運転席に同乗していた上司の指導助役も、意図的な列車の遅延をとがめることはなかった。

 「口にこそ出さないが、みんなの思いは同じだ」。大石さんはそう確信した。

 大津市に入ると「フルノッチ(最大の加速操作)を入れた」。速度計の針は通達で定められた時速160キロを超え、瀬田川橋梁(きょうりょう)をすぎたころ、210キロに達した。ビュッフェ車に設置された速度計の前に集まっていた乗客から歓声が起こり、報道関係者はこぞって世紀の瞬間をカメラに収めた。車掌からすぐ「大変な騒ぎだ」と連絡が入った。

 5年という短い工期で建設されたため、路盤が安定するまでの慣らし運転の意味で「時速160キロ」の通達が出たとされている。

 しかし、大石さんは「それだけではない。何らかの外圧も影響していたのではないか」といぶかる。

 「新幹線の父」と呼ばれた第4代国鉄総裁、十河信二氏は在来線と同じ狭軌による建設を主張する国鉄内部の声を押し切り、広軌(標準軌)での建設を推進した。「十河さんは『赤字ローカル線はいらない。政治路線だ』と言った。政治家から組合、みんな敵だった」と振り返る。国鉄内では資金と人材を新幹線に集中投資する十河氏のやり方に不満がくすぶっていた。

 「160キロ通達は意趣返しではないか」。少なくとも大石さんはそう感じていた。十河氏は予算が超過した責任を負う形で38年5月に退任。島氏も後を追うように退職し、記念すべき出発式に2人の姿はなかったからだ。新幹線に携わってきた国鉄マンの間では、「大石ならきっと210(キロ)出してくれる」との期待感が広がっていたという。

 豊橋-浜松間で運転を交代し、1番列車は東京駅に定刻通り到着した。後に、国鉄新幹線支社長が東京駅で大石さんと涙ながらに握手し、労をねぎらったとの記録が残された。

 しかし、実際はそんな事実はなく、大石さんは「異常な運転はしたが、あのとき出した210キロは私個人の跳ね上がりではない。みんなの誇りだった」と振り返った。(大竹直樹)

★■ 新幹線開発は「敵が多かった…」 大阪に残る国鉄マンの遺構 「産経west(2014.10.1)」より
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 「新幹線の父」と呼ばれた2人の国鉄マンが植えた1本の木が、今年4月に閉館した大阪市の旧交通科学博物館の一角に植えられている。第4代国鉄総裁の十河(そごう)信二氏と技師長の島秀雄氏が開館を記念して37年1月に植樹したサンゴ樹だ。
+ 続き
 十河氏は国鉄総裁に就任すると、すでに国鉄を辞職していた技術者の島氏を技師長として呼び戻し、新幹線プロジェクトを実現させた。国鉄内部の声を押し切り、スピードアップが期待できる広軌(標準軌)での建設を推進し、現在の新幹線の礎を築いた。しかし、新幹線開発への莫大(ばくだい)な予算投入に批判が高まると、十河氏は38年5月に退任。島氏も退職した。

 「十河さん、島さんは責任を取って辞めた。開業前に…。敵が多かった」。初代新幹線「0系」の車両開発に携わった鉄道技術研究所(現鉄道総合技術研究所)の技術者、田中眞一さん(81)は振り返る。

 世界初の高速鉄道の開発は苦難の連続だった。

 「飛行機の雑誌を持ってきて勉強しろ!」。開発者らはこう厳命されたという。田中さんは「最初は時速210キロではなく、もっと速いスピードを想定していた」と明かす。神奈川県小田原市と綾瀬町(現綾瀬市)を結ぶモデル線で行われた初めての時速200キロ試験では、「ガタガタガタ」と車体が音を立てて揺れ、レールが曲がった。脱線事故につながる可能性もある「蛇行動」という現象。恐怖すら覚えたが、開業時期が決まっていたため、泊まり込みで試験を繰り返した。

 39年10月1日、東京で行われた「ひかり」1番列車の出発式。新幹線プロジェクトを牽引(けんいん)した十河、島両氏の姿はなかった。そのためか、2人の功績を示すものは少ない。旧交通科学博物館に植樹されたサンゴ樹は数少ない“記念碑”でもある。

 飛行機や自動車が発達し鉄道の未来に陰りが差していた時代に新幹線は華々しくデビュー。その後仏TGVなど欧州で高速鉄道が相次いで誕生し中国や台湾、韓国、米国へと広がった。

 「新幹線は技術を積み重ねた集大成。新幹線によって斜陽化していた鉄道が息を吹き返した」。田中さんはしみじみと語る。

 サンゴ樹は平成28年春にオープンする「京都鉄道博物館」(京都市)の敷地内に移植される見通しだ

★■ 東海道新幹線の半世紀 - 思い出と秘話でたどる新幹線50年 「WEDGE(2014.10.1)」より
(※ 詳細略、サイト記事で。副題のみ転記。)
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  • 「高速線」という案もあった新幹線の呼び名
  • 新大阪駅ではストップウォッチで乗り換え時間の測定も
  • 中間車12両すべてグリーン車の「ひかり」
  • 新幹線50年を支えてきた安全への取り組み
















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最終更新:2017年05月31日 18:26