近代以前は、学校教育を受けることは上流階級の特権であった。近代社会になり、身分制度が打破され、経済活動が拡大し、国民の教育水準の向上が求められるようになって、大衆的な教育制度が発達した。日本の江戸時代、武士は幕府や藩が設立した学校に通っていたが、農民以下の身分の人々は一切学校に通うことを強制されなかった。しかし、多くの人々は「寺子屋」と呼ばれる教育機関に通って、文字や計算を学んでいた。江戸時代の識字率は国際的に見て最も高かったと言われているが、このような民衆の自発的な教育組織は決して日本だけにあったわけではなく、かなり多くの国で発展していたのである。そして、19世紀後半になって、先進国において義務教育制度が成立した。しかし、それは決して権利としての教育を国民に保障するためではなかった。あくまでも国家政策の一環として、つまり、支配の安定や国際競争に勝つための手段と考えられていた。つまり文字通り「国民の義務」としての教育が展開していった。
 しかし、教育を権利として考える教育権の思想はそうした制度化に先立って、発展していた。その代表はフランス革命のときに活躍したコンドルセである。4)堀尾輝久は全ての者の教育を受ける権利、家庭教育の延長としての公教育(私教育の組織化)、知育限定論という内容で整理しているが、「統一学校の父」としてのコンドルセ思想という視点からみると、多少異なった検討が必要である。堀尾輝久『現代教育の思想と構造』岩波書店参照
 コンドルセの主張は次のように整理することができる。
 1.公教育が全ての人に対する社会の義務であること。5)コンドルセ『公教育の原理』松島均訳 明治図書 p9-15
 全ての国民という時、障害者をも含んで言われていることは銘記すべきであろう。6)Condorcet 'Troisieme Memoire──sur l'instruction commune pour les hommes' in "Auvres de Condorcet" vol.12 M.F.Arago p325
 教育は三つの種類が考えられている。第一に、自分の能力や教育に充当出来る時間的余裕に応じて、職業や趣味のいかんを間わず、全ての人が承知していることが良いと思われる事柄を、国民の全てに教えること。第二に、一般的利益のためにそれを利用しうるように、それぞれの問題についての特質を知る手段を確保すること。第三に、将来生徒たちが従事する職業が必要とする知識を彼等に用意すること。7)コンドルセ 前掲 p22
 2.これらの教育を各々子供のための教育と成人のための教育に区分し、適用されるべき原理を区別したこと。
 コンドルセの公教育論は、知育限定論で知られるが、成人教育については、必ずしもそうではない。むしろ、画一化されない形での道徳教育、原理・動機にまで及ぶ政治教育を主張している。8)Condorcet op.cit. p328
 3.普通教育を階梯として組織すること。9)コンドルセ 前掲 p25-27 その理由として、公職が一つの職業とならぬように国民が公職を遂行することができるようにするため、仕事や職業の区分が人民を愚味にすることがないようにするため、一般教育によって虚栄心と野望とを減少するための三つをあげている。
 4.国家から給与を支払われる専門職としての教職の確立。
 しかし、この原則は「教師は団体を形成してはならない」いう原則と結びついていた。「これこそが、野心に変ぜず、好策に堕さない競争心を教師の間に維持する唯一の手段であり、教育を習慣的な精神から守る唯一の手段」だからである。10)同上 p100 これは社会の義務性を純粋に表現したものと考えられる。
 5.普遍的有用性をもつものとしての科学教育、芸術教育。11)Condorcet op.cit. p337
 以上のようなコンドルセの主張は、その後のフランスの教育改革の長い指針となった。
 コンドルセの主張は、教育の条件を整えることが社会の義務であって、教育を受けることが国民の義務ではない、とするものであるが、実際の国家制度としての教育制度は、「義務教育」制度として成立した。「権利としての教育」を放棄することができるかどうかについては、論者によって意見の相違があるので、立ち入ることはしないが、「放棄できない」とする立場にたつと、「義務教育」であるか、「権利教育」であるかは、大きな相違はないことになる。
 ここではとりあえず、歴史的概観であるために、実際に成立した「義務教育」について、みておく。
 日本の義務教育は、極めてあいまいな形ではあるが、「学制」で規定された。

 第十二章 一般人民華士族農工商及婦女ノ学ニ就クモノハ之ヲ学区取締ニ届クヘシ若シ子弟六歳以上ニ至リテ学ニ就カシメサルモノアラハ委シク私塾家塾ニ入リ及巳ムヲ得ザル事アリテ師ヲソノ家ニ招キ稽古セシムルモ皆就学ト云フヘシ
 
 しかし、これは現在のような明確な法的規定ではなく、国家的努力目標に近いものがあった。最初に義務教育の規定を具体的に盛り込んだのは、明治12年教育令である。

 第十三条 凡児童六年ヨリ十四年ニ至ル八箇年ヲ以テ学齢トス 
 第十四条 凡児童学齢間少クトモ十六箇月ハ普通教育ヲ受クヘシ
 第十五条 学齢児童ヲ就学セシムルハ父母及後見人等ノ責任タルヘシ但
 事故アリテ就学セシメサルモノハ其事由ヲ学務委員ニ陳述スヘシ 12)http://202.244.24.5/v100nens/index-14.html\#ss1.3.1.2

 この教育令は「自由教育令」と呼ばれ、国家が強制的に義務教育を実施しようとするよりは、むしろ国民の自発的意志に依拠しようとしたものとされている。学制百年史によれば、学制による就学強制は、当時の経済力ではとても負担が大きく、当初は授業料が徴収されたので農民の反感を買ったが、アメリカの分権的な教育行政に関心をもっていた文部大輔田中不二麻呂が、地方の実情にあったやり方を求めたのが、教育令である。
 そこでは、学校に行くだけではなく、ほかの道も容認していたこと、学校を設立することが困難な地方は教員巡回のような手段も認めていたこと、学務委員を選挙で選ぶことを規定していたことなどが、特色とされていた。しかし、そうした自由なやり方によって地方の教育は崩壊寸前となり、より強制的な色彩の強い改正教育令が、明治13年に出された。改正教育令に定められた小学校に関する規定を教育令と比較して、文部省「学制百年史」はその改正の要点を、まず就学義務の強化に注目している。
 (1)教育令における小学校就学の最短規定一六か月を改めて三か年とし、毎年少なくとも一六週間以上就学させる義務があるとした。また三か年の課程を終了しても相当の理由がなければ毎年就学すべきものとしている。
 (2)学齢児童の就学を督励するため、就学督責規則を定めるものとし、その規則は府知事県令が起草して文部卿の認可を受けることとした。
 (3)学齢児童を学校に入れず、また巡回授業にもよらないで別に普通教育を授けようとするものは郡区長の認可を要し、郡区長は児童の学業をその町村の小学校で試験させることとした。
 (4)小学校の年限は三か年以上八か年以下とし、授業日数は毎年三二週間以上とし、授業時間は一日三時以上、六時以下とした。13)http://wwwwp.mext.go.jp/v100nen/index-22.html\#ss2.2.2.2
 この後一貫して、戦前のみならず、戦後も含めて、教育の国家的な教育制度は政府の強い統制下に置かれてきた。しかし、当初においては、地方の実情にあった教育のあり方を許容した姿勢もあったことは、極めて興味深い。また、就学義務ではなく、家庭教育のような形態も容認していたことは、銘記されてよい。
 日本には教育を権利として把握する考え方はなかったのだろうか。
 明治22年に制定された大日本帝国憲法は「臣民権利義務」という章があるが、そこには「教育」の規定は存在しない。国民の三大義務とされる「兵役・納税・教育」というのは、憲法的には前二者のみ規定され、教育は勅令によって規定されている点で位相の違う概念・制度であった。
 日本の内的な思想の発展として権利概念が発達したとはいえないが、しかし、教育が人を育て国を作るという意識は古くから存在した。江戸時代の識字率が当時の世界で最も高かったことは、欧米の研究者によって明らかにされた。(ドーア『江戸時代の教育』岩波書店)
 戊辰戦争における「米百表」の言葉は、小泉潤一郎首相が広めて大衆化したが、教育界では以前から有名な逸話であった。米百表の考えは日本社会に強く根付いていた感覚であったといえる。そして明治維新後から始まった自由民権運動はそれ自体が教育・学習運動であった。第一次大戦後の大正自由主義の時代に自由主義教育がさかんになり、多くの学校が作られたのも重要な事実であった。
 そのような権利意識をもった教育論があったとはいえ、やはり総体としては戦前の教育は義務意識を涵養し、出世のための手段と考えられ、次第に軍国主義的な色彩に染まって行った。戦後のアメリカによる教育改革は日本に権利としての教育という考えをもたらしたが、どの時点でそれが日本社会に根付くようになったのか、あるいはまだ根付いていないのかはそれぞれの世代の教育感覚を検証してはじめて明らかになるかも知れない。
 日本国憲法は、26条で「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」と規定し、この権利を充足させるために、保護者にはその保護する子女に、普通教育を受けさせる義務を負わせ、国地方公共団体には、教育条件を整備する義務を追わせている。

 憲法改正の最初期の私案とされる松本案(昭和21年1月4日)では、権利は帝国憲法よりも簡略であり、http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/058c/058ctx.html 教育については何も触れていない。
 昭和21年2月14日に出された「東京帝国大学憲法研究委員会」の文書では、具体的に記されていないが、権利として付加されるべきものとして、「教育に関するもの」が提起されている。
 政府がGHQに提出した憲法改正要綱においても、教育については触れられていない。http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/074a/074atx.html

 昭和21年2月に出されたいわゆるマッカーサー草案で、はじめて、教育や子どもの福祉に関する規定が現れる。
 Protect and aid expectant and nursing mothers, promote infant and child welfare, and establish just rights for illegitimate and adopted children, and for the underprivileged;
Establish and maintain free, universal and compulsory education, based on ascertained truth;
Prohibit the exploitation of children;
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/147/147tx.html

 これを受けて政府は3月に草案を閣議決定し、GHQに提出した。いくつかの修正文書があるが、3月2日の「入江文書」として保管されている文書に、現行の条文に似た文言がでている。

第二十三条 凡テノ国民ハ法律ノ定ムル所ニ依リ其ノ能力ニ応ジ均シク教育ヲ受クルノ権利ヲ有ス。
凡テノ国民ハ法律ノ定ムル所ニ依リ其ノ保護スル児童ヲシテ普通教育ヲ受ケシムルノ義務ヲ負フ。其ノ教育ハ無償トス。http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/088/088tx.html





 このような制度によって、日本国民はほぼ100%が義務教育を受けているだけではなく、95%以上が高校教育を、また半数が高等教育を受けている。
 国際的にも「教育を受ける権利」は条約として規定されていった。「世界人権宣言(1948年12月10日、第3回国際連合総会採択)は、第26条で次のように規定している。

 1 すべて人は、教育を受ける権利を有する。教育は、少なくとも初等の及び基礎的の段階においては、無償でなければならない。初等教育は、義務的でなければならない。技術教育及び職業教育は、一般に利用できるものでなければならず、また、高等教育は、能力に応じ、すべての者にひとしく開放されていなければならない。 
 2 教育は、人格の完全な発展並びに人権及び基本的自由の尊重の強化を目的としなければならない。教育は、すべての国又は人種的若しくは宗教的集団の相互間の理解、寛容及び友好関係を増進し、かつ、平和の維持のため、国際連合の活動を促進するものでなければならない。 
 3 親は、子に与える教育の種類を選択する優先的権利を有する。 
最終更新:2008年11月20日 06:00