「ただの人間には興味がありません。この中に宇宙人、未来人、超能力者、異世界人がい
たら、あたしのところに来なさい。以上!」

 と、受験勉強のストレスから開放されて無事に高校生となり、その初日の挨拶で涼宮ハ
ルヒが、かなり電波ゆんゆん……もとい、個性的な自己紹介をしてクラス全員をドン引き
させたその日も、今では遠い昔のこと。
 その後に続く宇宙人とのファーストコンタクト、未来人との遭遇、地域限定超能力者と
の出会いを経てオレが巻き込まれた事件も──時には死にそうな目にあったが──今では
いい思い出さ。

 そう、すべては思い出になった。

 結局、ハルヒの能力は完全になくなりこそはしなかったが、安定の一途を辿り、よほど
のショックを与えない限り発現することはないらしい。だから、何かが終わったわけでも
なく、何かが始まったわけでもない。結局、非日常的なことはオレたちSOS団にとって
日常的なこととなり、日々はただ流れた。

 それぞれの今の状況を、軽く説明しようか。

 長門はハルヒ観測の役目がまだ続いているのか、あいつと同じ大学に入学した。ただ、
一人の人間として生きる道も与えられたのか、将来は国会図書館の司書を目指している風
だ。あいつが公務員になるのは、どうも想像できないね。

 朝比奈さんは未来へ戻った。いや、明確な別れの言葉を受け取ったわけではないから、
まだちょくちょくとこの時間帯にやってくることはあるようだ。ただ、その風貌は高校生
時代にオレを助けてくれた朝比奈さん(大)に通じる雰囲気となり、過去のオレたちを助
けるために過去と現在と未来を行き来していることだろう。

 古泉は若き学生起業家だ。オレと違って頭のデキがよかったのか、それとも『機関』の
後ろ盾があったからなのか、IT関連でそこそこの業績を残している。無論、ハルヒの能
力が完全に消えたわけではないので、地域限定の超能力は健在。年に1回か2回は《神人》
退治をやってるようだが、昔ほどの重圧ではなくなったと言っていた。

 そしてハルヒは、何を思ったのか考古学の道を目指して勉学に励んでいる。曰く「歴史
に埋もれた世界の不思議をすべて解き明かすのよ!」と息巻いていたが、まぁ、昔に比べ
ると現実的というか、地に足が着いた意見というか、あいつも大人になったということか。

 かくいうオレも大人になり──といっても、何が子供で何が大人なのか、その境界線が
はっきりしないまま年齢ばかりが上書きされて──今では一人で暮らしている。残念なが
ら、ハルヒと同じ大学ではない。
 都内の三流……とまでは言わないが、決して一流とも言えない大学に通い、地元での知
り合いとも離れ、オレはオレで我が道を進んでいる。今ではこっちでも知り合いが出来た。
ただまぁ……艶っぽい話は何もないがね。

 決してハルヒたちと一緒の道に進むのがイヤだったわけではない。かといって、是が非
でも一緒に進もうと思っていたわけでもない。なんだかんだと、ハルヒたちと過ごした三
年間は楽しかった。ただ、楽しかったからこそ距離を置いた。何故そうしたのかは、オレ
がただ単に天の邪鬼だからかもしれないし、ハルヒがオレと距離を置くことを望んだから、
かもしれない。

 その切っ掛けはたぶん……いや、間違いなく高校の卒業式だろう。各々の進路も決まり、
オレとハルヒが離ればなれになることが確定事項となっていたその日のことを、オレは今
でもはっきり覚えている。
 ………………
 …………
 ……

形式通りの卒業式が終わり、女子生徒は別れに涙し、男子生徒は三年間恨み続けた教師
にどうやってお礼参りをしてやろうかと話し合う中、オレは毎日の放課後に通っていた文
芸部部室に向かっていた。誰かに呼ばれたわけでも、何か目的があったわけでもない。た
だ、今日がこの道を通る最後の日だと思うと、やや感傷的にもなる。

 いつもより遅い足取りで部室へ向かい、扉を開けると「あんたも来たの?」と、ハルヒ
一人だけがそこにいた。

「姿が見えないと思ってたが、ここにいたのか」
「そりゃあね、団長たるあたしが高校生活最後の日に、ここへ来るのはあたりまえじゃない」
「おまえでも感傷的になってるってわけか」
「おまえで『も』は余計ね」

 パイプ椅子を引っ張り出し、オレは腰を下ろす。ハルヒはオレと2~3会話を交わした
だけで、あとは黙って外を見ていた。耐えようがない沈黙、というわけでもないが、いつ
も沈黙を守り続ける長門がそこにいるような、落ち着いた気分にもなれない。
 オレの視線は自然とハルヒの後ろ姿に向けられていた。

「ねぇ、キョン」

 オレの視線に気づいたのか、それとも沈黙に耐えられなくなったのか、ハルヒの方から
呼びかけてきた。「なんだ?」と返事をするも、こちらに目を向けようとはしない。

「あんた……だけじゃないけど……あたしに隠れて、いつもこそこそ何をしてたの?」

 その言葉は、何の話だと惚けられるほど軽いものではなかった。はっきりすべてを知っ
ているわけではないが、何かある、と勘の良いこいつは見抜いていたんだろう。

「何って……未来人と一緒に時間旅行をしたり、宇宙人と脅威の謎生物と戦ったり、超能
力者と悪の秘密結社を叩き潰したり……かな」

 すべて本当のことだが、オレは努めてふざけ調子でそう言うと、窓の外に顔を向けてい
たハルヒは、顔半分を振り向かせてオレを睨んできた。

「……それ、本気で言ってる?」
「本気か冗談か、どっちだと思う?」
「……言いたくないってわけね」

 古泉の真似をして、オレは肩をすくめてみせる。出会った当初なら襟首掴まれて締め上
げられるところだが、今ではすっかり丸くなったもんだ。はぁ、っとため息をついて、オ
レの方へしっかりと向き直った。

「ま、そういうことにしといてあげる。あたしも……この三年間、楽しかったしね」
 どこかメランコリックな表情を見せるハルヒに、オレは気になることを聞いてみた。
「SOS団はこのまま解散か?」

 SOS団を作ったのはハルヒだ。だから、解散させるか存続させるかを決定するのは、
ハルヒの役目だ。オレたち団員は……ま、従うだけさ。

「まさか。あんたたちは、あたしの忠実な下僕なの。呼んだらすぐに集まらないと承知し
ないわよ。特にあんたは、一番遠くに行っちゃうんだし。遅刻したら、罰金だからね」

 ハルヒはオレたちとの繋がりを断ち切ろうと思ってはいないらしい。ただ、それが未来
永劫続くとも思っていなかったんだろう。いつもは語尾にエクスクラメーションマークが
似合うのに、その日に限っては言葉に力がない。

「悪しき慣習のおかげで、罰金に対する免役がついたからな。あまり強制力はないぜ」
「あら、学生レベルと同じと思わないほうがいいわよ?」
「大学生も学生だろ」
「くだらない言い訳なんて、みっともないわ」
「まぁ……努力はするさ」
「そうね、あんたが一番頼りないんだから、努力してよね」

 ああ、とオレが返事をすると、再び沈黙が訪れた。
 残念ながら、そのときのオレには自分からハルヒに振れるような話題の持ち合わせはな
かった。語るべき言葉はこの三年間で散々出尽くしたし、今更言うべき言葉など、何もない。

「んじゃ、オレはそろそろ行くよ」
「……ああ、そうだ。あんたに言うことあったの、忘れてたわ」

 腰を上げたオレに向かって独り言のように、本当にたった今思い出したことのように、
ハルヒが口を開いた。その言葉にオレへの呼びかけがなければ、そのまま出て行きそうに
なるくらい、本当にどうでもいいような口調だった。

「あたし、あんたのこと好きよ」

 はにかむような甘酸っぱさも、照れるような奥ゆかしさもなく、それが世界の常識だか
らただ告げただけのような──これと言った感情の機微もなくハルヒはそう言った。

 だからオレは、すぐに何か言うことができなかった。驚きもしなかったし、嬉しさも感
じなかった。心の中がざわつく感じもなければ、浮かれることもない。そのことを予め知
っていたかのように、極めて冷静に返事をしていた。

「いつから?」
「ずっと前から。SOS団を作ったときからかしら」
「それを今、言うのか」
「今だからよ。昔、言ったでしょ? 恋愛感情なんて一時の気の迷い、精神病みたいなも
んだって。でも三年間、その気持ちは消えなかった。三年経っても消えないなら、それは
あたしの純粋な気持ちってことでしょ? ナチュラルなものなの。それを確かめるのに必
要な時間が、あたしには三年必要だっただけ。だから、今」

「オレは……」
「ああ、あんたの気持ちなんていいわ。ただ、あたしがそれを言いたかっただけだから…
…三年間、ありがとう」

 ──ありがとう、か。こいつの口から感謝の言葉が出てくるとはね、青天の霹靂ってヤツだ。
 握手でも求めているかのように、ハルヒが手を突き出してきた。こんなしおらしく、け
れどどこかサバサバとした表情は初めて見る。三年間、片時も離れずハルヒを見てきたつ
もりだが、オレでもまだ知らない顔があったのかと──そんなことを思う。
 オレは握手を求めるハルヒの手を握るべきかどうか、迷った。手を握り合うようなこと
は、この三年間で幾度となくあったが、今はどこか照れる。

 それでも、心を決めて手を差し伸べようとポケットから取り出すと、ぐいっとハルヒの
方から掴んできて力任せに引っ張られた。
 相変わらずの馬鹿力め。不意打ちとは言え、男をぐらつかせる力を出せるのは、おまえ
くらいなもんだ。だから……今こうしてオレの唇とおまえの唇が触れ合ってるのは、おま
えのせいなんだぞ。

「じゃあね、キョン」

 短いキスのあと、ハルヒはこの日初めて、笑顔を浮かべた。何かを吹っ切ったように、
どこか切なそうに。
 それが──高校時代にオレが見た、最後のハルヒの姿だった。
 ……
 …………
 ………………
 そして三年の月日が流れ、今に至る。あれからオレは、ハルヒに会っていない。あの日
の部室であいつは呼び出すようなことを言っていたが、実際にはそんなことはなかった。

 かといって、まったく疎遠になってるわけでも……なってるのかな。卒業直後はメール
のやりとりを、それこそ毎日のように行っていた。ただ今はそれほど頻繁なわけではない。
週に1~2通。タイミングが悪ければ、月1だっておかしくない。

 それは互いにやるべきことが出来たからだし、互いの人生を歩み始めたからだ。人はそ
れぞれ歩むべき道があり、オレとハルヒは高校を卒業すると同時に道が分かれた。
 ただ、それだけ。それだけだと思っていた。
 その日の朝、電話が鳴るまでは。


 五月のゴールデンウィーク明け、妹が東京見物と称してオレのアパートを占拠していた
嵐が昨日でようやく通過したその日の朝のことだ。寝不足続きで昏々と眠り続けていたオ
レは、間断なく鳴り続ける携帯の着音で無理矢理たたき起こされた。

 乱雑に放り投げてある携帯に手を取り、不機嫌極まりない心持ちで通話ボタンを押す。
画面に映っている着信履歴を見なかったのは、一生の不覚と言えるだろう。

「はい、どちらさん?」
『も──し、み──です』

 不機嫌極まりない声で電話に出たオレは、相手がすぐに理解できなかった。寝惚けてた
ってのもあるだろう。昼夜逆転生活を余儀なくされたため、寝酒をかっくらったせいもあ
る。おまけにアパートの立地が悪いので、よく電波が途切れることも原因のひとつに上げ
ておこう。

「あ、誰だって?」

 寝不足に苛々も相まって、最初より口調がきつくなってたかもしれない。布団から抜け
出して窓際まで移動しつつ、早朝から電話をかけてきた不躾な相手に、オレはつっけんど
んに聞き返していた。

『ひゃうっ。あ、あの……朝比奈みくるです。えっと、今大丈夫ですか?』
「え?」

 オレは携帯を耳から離し、着信相手の番号と名前を見た。ここしばらくご無沙汰だった
朝比奈さんの番号で間違いない。一気に目が覚めるとともに、思わず青ざめたね。

「あ、ああ、大丈夫です。すいません、電波状態がよくないもので」
『それより、今日って何日ですか?』

 なんだそれは? というのが、正直な感想だった。気分を害されたんじゃないかと思っ
た、オレのピュアな気持ちをわずかばかりでも返していただきたい。
 こうして朝比奈さんと会話をするのも、実に久しぶりだ。過去と未来を行き来している
彼女には、こちらから連絡を取る手段がない。やんごとなき事情があるときは、彼女がこ
の時間で借りているマンションにレトロな手紙を送っておくしかない。どうしても朝比奈
さんからの連絡待ちになってしまうんだ。

「なんですか、それ?」

『今、キョンくんって東京のアパートですよね? あたしの勘違いならいいんですけど…
…今日、五月のゴールデンウィーク明けですよね?』
「そうですね、それで合ってますよ」

 ちらりとカレンダーに目を向けて、妙な確認を取ってくる朝比奈さんの言葉を肯定する。
時間旅行を続けていて曜日感覚がおかしくなった、なんてことは、昔の朝比奈さんなら十
分ありえるんだが……今もそうなんだろうか?
『キョンくん、不躾な質問でゴメンだけど……そこに今、涼宮さんいる?』
「え、ハルヒ……ですか?」

 なんでそこでハルヒなんだ?

「いませんよ」
『ええええええっ!』

 ガラスさえもぶち破りそうな超音波に、オレは咄嗟に携帯から耳を話した。なんなんだ、
いったい?

「どうしたんですか?」
『あ、あの、キョンくん、今日はどこにも行っちゃだめですよ! すぐに連絡しますから、
そこで待っててください!』
「それはいいですけど、」

 ちゃんと説明してください、と言わせて貰えずに通話は切られた。
 唐突に電話をしてきたかと思えば、意味不明な切り方。まったくもって朝比奈さんらし
くない。高校を卒業してからは、唐突な行動が確かに増えていたが、それもすべて過去に
オレが体験したことと合わせてみれば納得できる範囲のもの。

けれど今日の電話だけは、あまりにもらしくない。いや、今の朝比奈さんらしいと言え
ば、らしい行動か。オレが高校時代に会っていた朝比奈さん(大)と同じような、秘密を
隠している『らしさ』だ。

 ──また何か起きたんだな……

 と、オレは朧気ながらに考えた。けれど今はもう、オレがしゃしゃり出るようなことも
あるまい。ハルヒ中心のドタバタ騒ぎは幕を下ろし、あまつさえオレとハルヒの道は分か
れてしまった。今のオレにできることは、昔話を語るくらいさ。

 そんなことを薄ぼんやり考えていると、また携帯が鳴った。今度はちゃんとディスプレ
イに目を通す。朝比奈さんだ。

「もしもし?」
『今からそっちに、えっと、たぶん古泉くんが行くと思います。合流したら、すぐこっち
に来てください』

 まるで高校時代のハルヒからの電話みたいだ。定型文の挨拶すらなく、朝比奈さんは電
話口で一気にまくし立てた。

「古泉ですか? なんだってあいつが、」
『あたしは長門さんと一緒にいますから、詳しくは合流してから。キョンくん、待ってま
すから、必ず来てくださいっ』

 がちゃり、と切れた。もうちょっと甘い話をしませんか、朝比奈さん。

 なんて感傷に浸る間もなく、呼び鈴が鳴らされる。このまま布団の中に潜り込んで夢の
世界に旅立とうかとも思ったが、朝比奈さんたっての願いとあればそうもいくまい。

「ご無沙汰してます」
「早かったな」

 久しぶりに見る古泉は、学生時代に散々見せていた笑みを潜めていた。せっかくの再会
だ、作り物でも笑みを見せてくれたっていいだろうに。

「笑っていられる状況ならばそうもしますが、今は緊急事態なもので」
「緊急事態だって?」

 こいつが緊急事態ということは、近年希にみる巨大な閉鎖空間でも出来たか? そうだ
ったら、ここ最近のことを考えれば緊急事態だな。けれど何故、今になってオレを引っ張
り出すんだ。そもそもオレを巻き込む理由なんてあるのか?

「朝比奈さんから何も聞いていませんか? ともかく、時間が惜しいのですぐに行きますよ」
「寝起きなんだよ、顔くらい洗わせてくれ。つか、いったいどこに行くんだ?」
「里帰りです」

 言うや否や、古泉はオレの腕を鷲づかみにすると部屋から引っ張り出し、そのままコイ
ツの車の中に押し込められた。さすが社長さん、ン千万クラスの高級スポーツカーとは恐
れ入る……って、そんなことはどうでもいい。何なんだ、この強引な展開は?

「オレの都合も考えろよ! 何なんだ……わかるように説明してくれ」

 ここがサーキットだとでも言いたげなドライビングで車をかっ飛ばす古泉に、オレは舌
を噛みそうになりながら問い質す。ハンドルを握る古泉は、ちらりとオレを一瞥した。

「あなたの都合を尊重したいのは山々ですが、これでも僕はあなたの友人の一人であると
考えているもので。友人の未来に関わることであれば、放っておけませんよ」
「オレの未来? なんだそりゃ」
「未来について、僕は専門外です。適任者に詳しい話を聞いてください」

 それっきり口を閉ざして、車は高速道路を150キロオーバーで突き進む。途中休憩一
切なしで、オレは懐かしの故郷に足を踏み入れた。
 あまりの急展開だが、見慣れた景色を眺めると妙に落ち着く。懐かしさと切なさが鳩尾
あたりでぐるぐる回る。東京に出て三年、一度も戻ってきてなかったから、その思いはひ
としおだ。

 そんな懐郷の念に浸っているを置き去りにして、古泉が運転する車はさらに懐かしい場
所へオレを運んだ。長門のマンションだ。あいつ、まだここに住んでたのか。

 昔はオレの役目だったが、今日に限っては古泉が長門の部屋のキーナンバーを入力して
呼び鈴を鳴らす。がちゃり、と音がして部屋主が通話ボタンを押したことを知らせるが、
声は聞こえない。

「長門さん、僕です。彼も連れてきました」

 そう告げると、カチッと音がしてエントランスの鍵が外される。通話を終わらせた古泉
は、そのままマンションの中に入っていった。無論、ここまで連れてこられたオレだ、逃
げるわけもなく後に続いた。
 見れば思い出すマンションの廊下は、体がしっかり覚えているもので、七階に上がって
長門の部屋前まで足が勝手に動く。玄関の横にある呼び鈴を鳴らすと、鍵を外して部屋主
が現れた。

「……長門か?」

 正直、驚いた。朝比奈さんの成長した姿は高校時代に何度も見ているから、驚きはない。
古泉は昔とそれほど変わってないし、野郎がどう変わろうが興味はない。
 けれど長門に関しては別だ。宇宙人という特性があるとは言え、女性であることに変わ
りない。女性なんてのは、高校生と大学生ではがらっと印象が変わる。少女から女性にな
るとでも言うのか、カワイイから綺麗に変わるもんだ。

 今の長門は、まさにそれだ。細かい部分で昔のままだが、ナチュラルメイクに控えめな
がらも髪をセットして、さらに身長もオレの肩くらいまで伸びて、おまけに女性らしい体
型になっていれば、そりゃ驚きもするさ。まだ成長期真っ只中だったことに、だけどな。

「……なに?」

 オレの不躾な視線に気づいたのか、長門が小首をかしげる。

「いや、綺麗になったなと思ってさ」

 こんな恥ずかしいセリフがすらっと出てくるのも、オレが大人になった証拠かね。
 長門はその言葉を受けて睨み……いや、照れた視線と自己解釈しておこう。何も言わず
に身を引いて、オレと古泉を部屋の中に招き入れた。
 部屋の中は、昔に比べて生活感ある風景になっていた。それでもオレのアパートに比ら
れば少ないが、生活してるなぁ、と思えるくらいには荷物が増えている。

 そんな中に、朝比奈さんはいた。

 コタツの前で正座して、握りしめた両手を膝の上に置き、差しだされたお茶に手をつけ
た風もなく俯いている。どこかで見たことある格好だな、と思えば、オレがバイトしてい
る喫茶店の女の子が店長に怒られて落ち込んでいる、そんな格好にそっくりだ。

「あ……キョンくぅ~ん」

 オレと古泉に気づいて、朝比奈さんは顔を上げるや否や泣き顔になった。あまりの懐か
しさにうれし泣き……って感じじゃないことは断言できる。

「ご、ごめんね、キョンくん。あ、あたし……ひっく……こ、これでも、い、一生懸命が
ん、がんば……うぅ……頑張って勉強し、して……うくっ……き、禁則事項も少なく……
ひっく……な、なったんだけど……」

 済みません、朝比奈さん。泣き声が混じっていて要領を得ないんですが。
 困り果てたオレは頭をかいて、泣きじゃくる朝比奈さんに触れるか触れないかという力
加減で抱きしめた。あいにく古泉に無理矢理アパートから引きずり出されたもんでね、ハ
ンカチの持ち合わせはないんだ。かといって、常日頃から持って歩いてるわけじゃないが。

「朝比奈さん、落ち着いてください」
「あ、あの……」

 泣きやんだ朝比奈さんは、オレの腕の中で驚いているようだ。高校時代じゃ、とてもこ
んな真似はできなかっただろうな、なんてオレでも思う。けれど泣きじゃくる相手には、
それ以上のショックを与えて泣きやませるのが一番なんだ。妹やイトコ連中を相手に、オ
レはそれを学んだね。

「大丈夫ですね。それで、何があったんですか?」

 やや名残惜しい気もするが、朝比奈さんを離してその目を見つめる。潤んで赤い瞳が魅
力的だが、次に出てきた言葉はオレの溢れる恋慕を根こそぎ奪い取るに十分な威力を秘め
ていた。

「はい……あの、時空改変が行われています」

 くらりと来たね。
 正直、すぐには理解できなかったさ。久しぶりに聞くトンデモ話だ。平凡な日常生活を
送っていたオレに、おまけに文系のオレに、科学的な匂いが漂う話をすぐに理解できる頭
脳の持ち合わせなんてあるわけがない。

 そもそも──時空改変だって? それはあれか、オレが高校1年の時に遭遇した、長門
が引き起こしたあれのことか?

「そう」

 今から六年前に事を起こした張本人が、オレの問いかけを肯定する……と、今の言い方
はちょっとひどいな。何がひどいかはわからんが、ひどい気がする。ただ、オレも急な話
で混乱してるんだ。そこはわかってくれ。

 長門は頷き、説明してくれた。

「今回の改変は劇的な変化はない。緩やかに、誰にも気づかれず行われた。わたしは現在
もいかなる時間帯における自分の異時間同位体との接続コードを凍結している。そうでな
ければ気づいたかもしれないが、手遅れ」
「手遅れって……そもそも、何がどう改変されているんだ? オレには何も変わってない
ように思うんだが……」

「そうです。だから、今まであたしも気づかなかったんです。でも今日、あたしが知って
いる未来とは決定的に違うことが起きているんです」

 落ち着きを取り戻した朝比奈さんが、長門の説明の後に続く。未来のことに関しては、
やはりこの人に聞くしかない。

「その違いって、何ですか?」
「今日は、あたしが知る限りでは、キョンくんと涼宮さんが入籍する日なんです」

 …………。
 いや、うん。正直、今の瞬間に意識がぶっ飛んでたね。マンガ的表現をするならば、口
から魂が抜け出たイラストがピッタリ当てはまるだろうさ。

 なんだって? オレとハルヒが入籍? そんなバカな。

 そもそも、それが本当の話だったとして、オレとハルヒの入籍が今日じゃないから時空
改変されてます、って考えるのは短絡的じゃないか? 前に朝比奈さんも言ってただろう。
時間の流れはちょっとした歪みなら修正されると。朝比奈さんが知る未来と微妙にズレて
いるからって、そこまで話を飛躍させるのはどうなんだ?

「そうです。ちょっとした時間の歪みなら、確かに修正されます。でも……キョンくんと
涼宮さんの結婚は、そんなちょっとした歪みじゃないんです」
「……どういうことです?」
「えっと……それは今のあたしでも禁則事項です。でも、キョンくんと涼宮さんの結婚は
とても重要なことなんです。あたしが知る未来のためにも、この世界のためにも」

 未来のため、世界のためか。これは……そうだな、今だからこそ言うべきか。言ってお
かなくちゃならないだろうな。

「朝比奈さん、正直なことを言いますが、オレはハルヒと結婚することに文句はありませ
ん。ただですね、オレもどうせ結婚するなら、自分が惚れ込んで、相手もオレのことを好
きでいてくれる女性と結婚したいんです。誰でもいいってわけじゃありません。朝比奈さ
んは、周りから『こいつと結婚しないと世界がおかしなことになるぞ』って言われて、結
婚できますか?」

「それは……」
「それにですね、もしここでオレが『実は朝比奈さんのことが好きです』とか『長門のこ
とが好きなんだ』って告白したら、それでも朝比奈さんはオレに『ハルヒと結婚しろ』っ
て言うんですか?」

 オレの言葉に、朝比奈さんはまた、泣きそうな顔になった。その表情だけで、オレの言
いたかったことを理解してくれたんだと分かる。そう思う。

 つまり、オレは世界のため、未来のためっていう大義名分で動くことは、もうできない。

 ほかの連中と違って、オレは凡百な人間だ。正義の味方でもなければ、自己犠牲で得た
平和に感動できる純粋な心根の人間でもない。人並みに欲望もあって、人並みに臆病で、
人並みに安定した生活を望む、ただの人間なんだ。電車の中で目の前に年寄りがいれば席
を譲るが、戦争を止めるために平和維持軍に入隊できるヤツじゃない、ってことさ。

「そんな顔しないでください。困らせるつもりじゃないんです。ただ、分かって欲しかっ
ただけなんですよ。もう、未来のためとか世界のためとかで自分を犠牲にできるほど、純
粋じゃないんです」
「確かにその通りですね。あなたの意見はもっともですし、何も間違っていませんよ」

 そう言って頷き、古泉がオレの意見に賛同してくれた。こいつがそんな風にオレの肩を
持つとは意外だ。

 そう思っていたんだが……。

「今の朝比奈さんの発言も、やや的を外していますしね。他のお二人がどのように考えて
おられるのかわかりませんが……僕があなたをここへお連れするときの言葉を覚えていま
すか?」

 おいおい、人の記憶力を疑うような発現だな。たった数時間前の話を忘れるほど、ボケ
ちゃいねぇよ。

「ならば安心です。こう考えてください。あなたと涼宮さんの結婚で世界の安定が得られ
るのは、ことのついで……おまけみたいなものです。重要なのは、あなたが本来結ばれる
べき人との未来が消失していることです。これはあなた自身にとっては人ごとではありま
せんし、一大事ではありませんか?」

 前口上が長いのは相変わらずか。何が言いたいんだ、古泉。

「友人のバラ色の未来が失われようとしているのです。それを救うのは当然でしょう?」

 この野郎……何がバラ色の未来だ。ハルヒとの結婚が本当にバラ色だとでも思っている
のか? あの天上天下唯我独尊の団長さまと四六時中顔を付き合わせることになるんだ
ぞ。それのどこが幸せだって言うんだ。

「本当にそのようにお考えで?」

 ええい、そのなんでも見透かしたような薄ら笑いはやめろ。

「……あのな、長門も言ったじゃないか。仮に、今の言葉がオレのごまかしだとしよう。
でも、もう手遅れなんだろ? 今回の時空改変を起こした張本人は、話を聞く限りハルヒ
のようだが、過去に遡ってアイツに修正プログラムを打ち込んでも、もうダメなんだろ?」
「そう」

 長門の言うことはいつも端的だ。余計なことを言わず、事実だけを告げる。こいつがダ
メだというのなら、何をどうやってもダメなのさ。

「ほらみろ。どっちにしろ、」
「でも」

 息巻くオレの出鼻をくじくように、長門は口を閉ざさなかった。
 ……でも、だって?

「時空改変が行われたその時間に、楔を打ち込めば修正することは可能」

 長門……それは全然ダメな状況じゃないぞ。まだ修正する可能性が残ってるじゃないか。

「ちょっと待て。何をどうしろって言うんだ?」
「今は正しき未来と謝った未来に道が分かれている状態。その分岐は緩やかだが、三年と
いう月日を経て決定的な違いをもたらした。ならば道が分かれたその時間において、歪み
をもたらした道に進まないよう正しき道へ楔を打ち込めば、三年の月日を経て正しい時間
軸に戻る可能性は高い。ただ──」

 長門はそこで言葉を途切れさせて視線を宙に彷徨わせた。

「──道が分かれた時間がいつなのか、それはわたしにもわからない」

 口を閉ざし、長門はオレをじっと見つめた。その視線は「あなたなら分かるはず」と言
わんばかりの目つきだ。
 確かに思い当たるときはある。おそらく、間違いない。

 ──高校卒業のあの日、ハルヒにキスされたその日……


 あの日から、オレとハルヒの道は分かれた。オレはそう確信している。もしその日でな
かったとしたら、他に思い当たる日はない。もし過去に遡るなら、その日以外にありえない。

 そしてもうひとつ、悩まなければならないことがある。

 長門は「楔を打ち込む」と言った。ならばその「楔」とは何を指すんだ? このまま過
去に遡ったとして、何をどうすればいいか分からないままでは、何もできないじゃないか。

「キョンくん、その時間に行きましょう」

 と、朝比奈さんが悩むオレに向かってそう言った。

「あれこれ考えてちゃダメですっ! あたしたち、今までみんなで協力して何とかやって
きたじゃないですか! 行動しなくちゃ、何も始まらないんですっ!」

 そう……だな。ああ、確かにそうだ。昔からそうじゃないか。SOS団絡みの出来事は、
いつも訳も分からないまま巻き込まれて、それでもなんとかやってきた。今更あれこれ考
えるのはオレらしくない。

「今になって、ひとつだけわかったことがある」

はぁ~っ、とこれ見よがしにため息を吐いて、オレは目の前の三人を睨み付ける。出来
る限り、渋面を作ったつもりだ。

「SOS団なんておかしな団体に所属していると、どいつもこいつもお人好しになるんだな」

 それなのに、朝比奈さんや古泉は言うに及ばず、長門でさえもわずかに微笑んだように見えた。




 どさっと、それこそ尾てい骨が砕けるような勢いで地面にへたり込むのは、男二人の役
目。方や女性二人は慣れたもので、けろりとしている。
 ここは、いつの日だったか朝比奈さんと歩いた公園の常緑樹の中。今がいつなのかすぐ
にはわからないが、長門のマンションの中からこんなところに移動しているとなれば、時
間遡航に成功したのだろう。これがただの瞬間移動だとしても驚異的だがね。

「いやあ……話には聞いていましたが、これほどの衝撃とは思いませんでしたよ」

 どうやら古泉もオレと同じ感想を持ったようだ。
 時間旅行の目眩。嘔吐寸前までに世界がぐるぐる周り、目を閉じていても光が瞬く感じ
は、極悪な代物と断言しても生ぬるい。どうしてこんなのが平気なのか、朝比奈さんにじ
っくり聞いてみたいもんだ。

「というか、なんでおまえや長門まで着いてくるんだ? オレと朝比奈さんだけで十分だろ」
「せっかくの機会ですからね。時間旅行というものをやってみたかったんですよ。あなた
の邪魔をするつもりはありませんので」

 邪魔するとかしないとか、そういう問題じゃないないだろ。そもそも朝比奈さん、いつ
からそんな適当になったんですか。

「朝比奈さんを責めるのは酷というものです。僕と長門さんはその辺りで時間を潰してい
ますから、お役目を果たしてきてください。よろしいですね、長門さん」
「……わかった」

 何がわかったんだ長門。わかるなよ長門。おまえまで古泉みたいに時間旅行を楽しみた
かっただけってのか? おいおい、いろいろ変わったな、おまえら。

「それではまた、後ほど」

 敬礼のような挙手で挨拶をすると、古泉と長門は人気が途絶えた頃合いを見計らって、
公園の外に姿を消していった。

「いいんですか、あれ……」
「今日は……えっと、特例です」

 特例って……朝比奈さんもいろいろ成長したもんだ。昔は禁則に次ぐ禁則で思ったこと
も言えず、訳も分からないまま巻き込まれて泣いていたのにな。高校時代の庇護欲をそそ
る愛くるしさが懐かしいぜ。いやまぁ、今もそうと言えばそうなんだが。

「今、いつの時代の何時ですか?」

 古泉と長門の奇行や、朝比奈さんの成長を見て感慨にふけっている場合じゃない。オレ
が時間を聞くと、朝比奈さんは華奢な腕には似合わないゴツい電波時計に目を向けた。

「今はキョンくんたちが卒業した日の、午後2時を過ぎたころです」

 その時間、オレは当時何をしていたかな……ええっと、ああそうか、ハルヒと二人で部
室にいて……キスされた時間か? もうちょっと前の時間かな。あのときは時間感覚が麻
痺していたから、よくわからない。

「朝比奈さん、ちょっと質問なんですが」
「はい、なんですか?」
「今回の時空改変は、どのタイミングで修正すればいいんでしょうかね? 前のときは長
門が変えた直後に戻したじゃないですか。今回もそんな感じですか?」

「えっと……前回のときはキョンくんを除いて、世界すべての記憶がその日を堺に塗り替
えられてましたよね? だからあのときは、改変直後でなければダメだったんです。でも
今回は緩やかな変化ですから……ゆっくりするわけにもいきませんけど、考える時間はあ
ると思います」

 考える時間か……。

「その時間ってどのくらいです?」
「ん~っと……そうですね、リミットは今日一日と思ってください。そうでなければ、あ
たしたちが元時間に戻ったときに年齢がおかしなことになっちゃいますよ」

 まだ時間がある、とわかっただけでも有り難いですよ。長門が言う「楔」とやらが何な
のか、考える時間があるわけだからな。

 とは言うものの、今回ばかりはすでにお手上げ状態だ。何しろ前回の時空改変では、最
初こそオロオロしていたが、後になって長門のヒントが出てきた。そのおかげで、オレは
役目を果たせたようなもんだ。

けれど今回は、そのヒントすらない。長門自身もどうすればいいのか分からないままの
ようだ。数学者さえ頭を悩ませる難問に、小学生が挑むようこの状況を嘆かずにいられる
か。おまけにその正解を見つけ出さなければ、世界は改変されたままってことになる。

「ごめんなさい、キョンくん……」

 どうすべきか悩んでいたオレは、口数が少なくなっていた。そんなオレの態度を見て、
何を思ったか、朝比奈さんが頭を下げてくる。

「あたし、自分でも少しは成長できたかなって思ってたの。でも……やっぱりダメですね。
肝心なときに役立たずで」

 おいおい、まったくこの人は、いったい何を言い出すんだ?

「それ、本気で言ってます?」
「……え?」

「今回のことに気づいたのも、この時間まで戻ってこられたのも、朝比奈さんのおかげじ
ゃないですか。おまけに今は、過去のオレたちを助けてくれているんでしょう? 言葉じ
ゃ言い表せられないくらい感謝してますよ。もっと自信をもってください──なんて、オ
レに言われても慰めになりませんよね」

「そ、そんなことないですっ! あたし、ずっとキョンくんに迷惑かけっぱなしだったか
ら……だから、そう言ってもらえると、すっごく嬉しいです」

 真剣そのものの目で、胸の前で両手を握りしめて朝比奈さんはそう言った。
 そうそう、泣き顔よりも真剣な顔、真剣な顔よりも笑顔があなたには一番似合いますよ。

……そういえば。

 ハルヒはいつも、どんな顔で笑っていたかな。出会ったころは怒ってばかりだが、SO
S団を作ってからはよく笑うようになった。時にふてぶてしく、あるいは生意気そうに。
それでも最後はマグネシウム反応のような眩しいくらいの笑顔を浮かべていたな。

 ……何か違和感があるな。なんだろう、この感覚は。完成したはいいけれど本来の絵と
違うジグゾーパズルが出来上がったような気分だ。
 何かしっくり来ない。どこかおかしい。これはいつの時代に感じた違和感だ?

「……ああ、そうか」

 我知らず、考えが唇を割いて漏れる。
 あのときか。あの日の笑顔か。それが今に繋がってるっていうのか?

「どうしたんですか?」

 思案に暮れるオレに向かって、朝比奈さんが不思議そうに声を掛けてくる。それでもす
ぐには返事をせず、しばし考えていたオレは……やはりその考えしか思い浮かばない。思
い込みかもしれないし、間違いないと断言できる根拠もない。それでも今のオレに与えら
れた情報だけでは、それくらいしか解答を導き出せない。

「朝比奈さん、もうハルヒのトンデモ能力は落ち着いているんですよね? 今のオレがあ
いつに会うのはアリですか?」
「え……っと、涼宮さんの能力が減退しているのか、それともただ安定しているだけなの
かによりますけど……あ、でも、今日の夜に涼宮さんは誰かと会ってますね」
「それがオレですか」

「たぶん……ごめんなさい、この日の涼宮さんの行動は一通り把握しているけれど、今回
の出来事はあたしも初めて体験することだから、確信めいたことは何も言えないの」
「ハルヒの行動がわかるだけでも有り難いですよ。それで、ハルヒが誰かと会っているっ
ていうのは、何時頃の話ですか?」
「夜の……えっと、9時ごろですね」
「夜の9時?」

 果て……? なにやら身に覚えのある時間だな。

「場所は公立の中学校……涼宮さんが中学時代を過ごした学校の校庭です」

 ああ、なるほど。そういうことか。だからオレはまた、巻き込まれているのかね。

 公立中学の校庭で夜の9時といえば、七夕の校庭ラクガキ事件の日と同じ場所、同じ時
間じゃないか。ハルヒにとってもうひとつの思い出の場所で待ち合わせする相手といえば、
一人しかいない。オレのことだが、オレじゃないヤツだ。
 まだまだ活躍しなきゃならんらしいぞ、ジョン・スミス。

「その時間、ハルヒは自主的に中学まで行くんですか?」
「どうでしょう? 時間の流れがノーマライズされたものであるのなら、涼宮さんが出か
けることは規定事項です。ですが、今は異常な時間なわけですから……」

 この状況で、危ない橋を渡る賭け事をするほど、オレはギャンブラー気質じゃない。だ
ったら素直に呼び出しておいて、憂いを払っておいたほうが無難か。

「朝比奈さん、この時代で今のオレが買い物するってのは大丈夫なんでしょうか?」
「えっと……この時間の経済を大きく左右するような買い物でなければ問題ないですけど、
何を買うんですか?」

「レターセット……かな?」
「え?」

 頭の上にクエスチョンマークがふよふよ浮かんでいる朝比奈さんに、オレは肩をすくめ
てみせた。

「未来人が過去とコンタクトを取るのは、手紙がお約束なんでしょう?」





 色気のない封筒に、味気ない便せんを使って「あの日の校庭にあの日の時間に来られた
し。J・S」と素っ気なく書き記した手紙をハルヒの家に投げ込んだオレは、ぽっかり空
いたこの時間をどうしようかと考えていた。

 そもそも9時にハルヒがオレと会うということになっているのなら、その時間帯付近に
時間遡航すればよかったんじゃないか。仮にオレが手紙を出すことも規定事項に含まれて
いるのなら、その役目は果たしたんだ。余計な時間をここで過ごすより、約束の時間まで
跳躍できないものだろうか。
 そう朝比奈さんに提言したのだが、却下された。

「何故です?」
「まだ、古泉くんや長門さんが戻ってきてませんから……」

 そういやあの二人、いったいどこをほっつき歩いてるんだ? 勝手に着いてきて、事が
終われば呼べなん……あれ? 呼べって、どうやって連絡を取れと言うんだ? この時間
じゃ携帯なんて使えないだろうし、家に電話するなんてもってのほかだ。

「朝比奈さん、長門や古泉とどうやって連絡取るんですか?」
「え? え~っと、それは……」

 何気ない質問のつもりだったのだが、朝比奈さんは言葉を濁して腕時計に目を落とした。
何をそんなに時間を気にしているんだ? オレとハルヒの約束には、まだ5時間くらいは
余裕がある。それとも長門と古泉の二人と時間で待ち合わせでもしてたのか? あるいは、
時間的に気になることが他にあるとでも?

「朝比奈さん、二人がどこにいるか知ってるんですか?」
「あ、あの、別にそれは気にしなくても」

 オレは再度、尋ねた。朝比奈さんは、明らかに動揺している。
 ……裏があるのか。
 何が特例だ。古泉と長門もこの時間帯でやることがあるから、着いてきたんじゃないか。

「あの二人はどこで何をやっているか、知っているんですね?」
「それは……えっと」

 なんで口ごもるんだ、朝比奈さん。オレに言えないようなことを、あの二人はコソコソ
やってるのか? だとすれば、長門が、というよりも古泉主導での企みか。あの二人の利
害が一致し、あまつさえ朝比奈さんさえも一枚噛んでいる画策。

 それは今回の騒ぎのことか? まさか……今回の時空改変が狂言だとでも言い出すんじ
ゃないだろうな?

 だってそうだろう。

 オレは高校を卒業してから今日に至るまでの三年間、何かが変だと感じるようなことは
何もなかった。改変されたのか否か、と問われれば「ありえない」と答えるさ。ただ、未
来人たる朝比奈さんがそう言いだし、万能宇宙人の長門が肯定し、無駄に状況だけは把握
している古泉までも乗ってきている。

こいつらを知っているオレだ、そう言われれば信じるしかないじゃないか。もし三人が
そろってオレを騙そうというのなら、オレは疑いもなく騙されるさ。

「だ、騙すなんて、そんなこと、」

 わかってる。わかってるさ、朝比奈さん。古泉は……まぁ、おいとくとして、朝比奈さ
んや長門がオレを騙す真似をするわけがないさ。だからこそ、なんだ。

「わかっているから、本当のことを話してくれって言ってるんです」

 しばしの逡巡のあと、ふぅっ、とため息を吐いて、朝比奈さんはどうやら観念したらしい。

「キョンくんには、涼宮さんのことだけを考えていてもらいたかったんです。実は今、」

 意を決して朝比奈さんが口を開くのと、それはほぼ同時に起こった。
 瞬き一回分の刹那の瞬間に、周囲の景色ががらりと姿を変える。夕闇迫る朱色の空が、
雲一つない青空に変わり、堅いアスファルトの地面が足を取られそうな砂丘に変わる。
 視界を奪うほどではないが黄土色の靄が辺りに漂い、平坦な空間がどこまでも続いている。

「ひゃうっ!」

 朝比奈さんがオレに飛びついてきたが、オレだって何かに飛びつきたい気分だ。
 なんだこれは? なんなんだ、いったい!?

「きょっ、きょきょ、キョンくん、ああの、あれ何ですかぁっ」

オレに縋り付く朝比奈さんが、オレの左手方向を指さして叫んだ。釣られて見れば、ガ
キの頃にテレビでみた巨大ロボットのような巨体の、それでいてのっぺりした巨人が、両
手を鞭のようにしならせて暴れている。
 まるで《神人》みたいじゃないか……って、ここは閉鎖空間なのか? なんでこんな所
にオレと朝比奈さんは引きずり込まれているんだ?

「こここ、こっち来てますよぉっ」

 そんなこと、見ればわかりますって。
 オレは朝比奈さんの手を取って、《神人》っぽい巨人に背を向けて走り出した。どこか
に行けるわけでもないが、逃げ出したくもなるさ。とは言え、こっちが50メートル走っ
たところで、相手は一歩でチャラにしちまう相手。どだい、逃げられるわけがない。
 あっという間に距離を詰められ、降り注ぐ光を遮る影がオレと朝比奈さんを覆った。脳
裏に辞世の句が十個くらい浮かんだが、せめて朝比奈さんだけでも守りたい。

 そう考えて、朝比奈さんを守るつもりで覆い被さって床に伏せた。そんなことをしても、
相手の質量を考えれば二人そろってぺちゃんこになることは分かっているさ。それでも、
そうしてしまうのは条件反射以外の何ものでもない。
 間近で雷が落ちたように、空気が軋む。オレの体は空中に緩やかに放り投げられ……っ
て、なんで放り投げられているんだ?

 どさり、と背中から地面に叩きつけられる。足下が柔らかい砂で助かった。受け身なん
て取れるほど、機敏じゃないんだ。
 機敏じゃないと言えば朝比奈さんは……と思って視線を巡らせると、地面に叩きつけら
れる前にキャッチされてご無事のようだ。

「古泉……」

憎々しげに、あるいは感謝を込めて、オレは朝比奈さんを抱きかかえている微笑みエス
パーを睨み付けた。

「言いたいことや聞きたいことは山のようにあるが、とりあえずは朝比奈さんを無事に守
ってくれてありがとう、と言ってやる」
「その言葉を聞いてホッとしました。てっきり、怒られるものだと思っていたので」
「怒るのはこれからだっ! なんだこれは? いったい過去まで来て、おまえと長門は何
をやってんだ! ここがどこで、なんで《神人》っぽいのが暴れているのか説明しろっ!」

 怒鳴り散らすオレに、古泉は抱えていた朝比奈さんを下ろして肩をすくめた。

「残念ですが、あまり説明する時間はありません。ここは特殊空間ですから、本来の時空
間と時間の流れが違っていまして。あまりあなたをここに引き留めるわけにもいかないん
ですよ」
「オレは説明しろ、と言ったんだ」
「それはここを脱出してから、長門さんに聞いてください」

 古泉の体から赤い光が滲み出たかと思うと、その姿を赤光の球体へと変えて飛んでいく。
オレが初めて古泉に連れられて閉鎖空間に入り込んだときと、まったく同じ姿だ。
 ってことはだ、あそこで大暴れしている巨人は、やっぱり《神人》ってことなのか?

「こっち」

 ぐいっ、と首が絞まるほどの勢いで襟首を引っ張られ、口から「うげっ」っと声が漏れ
た途端に、辺り一面が真っ暗になった。
 別に締められてオチたわけではない。あの閉鎖空間らしき場所から、どうやら元の世界
に戻っただけのことだ。ただ……どうも入り込んだときからそれほど時間が経過したとも
思えないのに、空は夜の帳で覆われていた。

「時間がない。急いで」

 オレの襟首を力任せに引っ張りながら、長門がそんなことを言った。

「ま、待て。急ぐ前にオレがオチる! 掴むなら手を掴んでくれぇっ」

 必死の嘆願を聞き入れてくれたのか、長門はようやくオレの襟首から手を離してくれた。
最初から朝比奈さんの手を握ってるのと、同じようにしてくれ。

「急ぐのはいいが、おまえと古泉が何をやっていたのか説明してくれ。さっきの巨人はな
んなんだ? あの空間はハルヒが作り出してたのか?」
「違う。我々に対する敵対勢力の残存兵力が、涼宮ハルヒの情報創造能力を流用して作り
出した疑似位相空間模と局地戦用人型兵器」
「敵対勢力?」

 それはあれか、高校1年のころからチラホラ現れた、長門の親玉とは別種の情報生命体
やら朝比奈さんとは別種の未来人やら古泉の『機関』と対立してたヤツらのことか? け
れどあいつらは……。

「それはあなたが気にすることではない。事後処理はわたしたちそれぞれが行わなければ
ならないこと。先ほどの局地的非浸食性異時空間へあなたと朝比奈みくるが引き込まれた
のは、わたしと古泉一樹の落ち度。済まない」

 ……じゃあ何か、全部すっかり終わったもんだと思ってたのはオレだけで──朝比奈さ
んは過去のオレたちを助けてくれているから別としても──長門や古泉は現在進行形で厄
介事を抱え込んでるのか?

「敵対勢力にとって、時空改変が行われ始めているこの時間帯が最後のチャンス。何かし
らの接触があることは予測できる範囲」
「今は過去だろう、この時間のおまえや古泉は何をしてるんだ」
「この時間平面に存在するわたしの異時間同位体もそのことを把握しているが、わたしの
役目はあくまでもあなたと涼宮ハルヒの保全。他時間平面からの干渉に関してこの時間平
面に存在するあなたや涼宮ハルヒに敵対的接触が行われない限り、わたしが干渉すること
はない」

 ……クールというか、融通が利かないというか、いかにも長門らしい。

「どうして、まだ厄介事が続いていたことをオレに教えてくれなかったんだ」
「宇宙生命体の処理や未来の懸念、反社会的勢力への対処は、各々が所属する組織の問題。
あなたを巻き込むべきではないと判断したのは、わたしや朝比奈みくる、古泉一樹それぞ
れの結論。あなたはには」

 長門はゆっくりと、けれどしっかりオレを指さした。

「涼宮ハルヒのことだけを想ってほしい。それがわたしの……わたしたちの願い」

 おまえは……おまえらはホントに……どうしていつも、人のことばかりを先に考えるん
だ。そりゃオレには何もできないかもしれないが、もうちょっと頼ってくれたっていいだ
ろうが!

「それは違う」

 いつもより機敏に首を横に振って、長門はオレの言葉を否定した。

「今ならわかる。涼宮ハルヒは世界を変える力を持ち、あなたは人を変える力がある。三
年前まで、わたしたちはあなたに頼り続けていた。だから今は──」

 長門は視線を彷徨わせ、自分の頭の中にある語録の中からもっとも適した一言を選び出
したようだ。

「──恩返し」

 恩……恩ときたか。まったく、何言ってやがる。それこそお互い様じゃないか。
 今までオレがどれだけ長門に……長門だけじゃない、朝比奈さんや古泉たちに助けられ
たことか。オレに人を変える力がある、だって? それこそバカげている。変えたのはオ
レじゃない。おまえたちが自分で変わろうと思ったから、変わったんじゃないか!

「ああああああっ!」

 突如、朝比奈さんの場違いな叫び声が木霊した。

「な、なんですか突然!?」
「たっ、大変ですっ! 涼宮さんと約束の時間まで、あと30分もないですよぉ~っ」

 おいおいおいおい、マジか。時間に余裕があると思っていたのに、何時の間にそんなに時
間が過ぎたんだ?

「疑似位相空間の中は通常空間と時間の流れが異なる」

 先に言ってくれ長門。

「急いで、とわたしは言った」

 ……ああ、そうだな。そうだった、悪かったよ。さっきまでのいい話が台無しになるか
ら、そんな睨まないでくれ。

「と、とと、とにかく急ぎましょ~っ」

 言われるまでもない。オレたちはハルヒが待っているであろう、公立中学校を目指して
走り出した。
 なんだっていつもいつも、時間ぎりぎりになるのかね? 高校時代の市内パトロールの
時みたいに驚異的な集合時間前行動を取っていたSOS団としては、嘆かわしいことこの
上ない状況じゃないか。オレだって誰かとの待ち合わせのときは、今でも最低でも10分
前には待ち合わせ場所に着くようにしてるってのに。

「……え? あれ、うそ……なんで?」

 急いでいたオレたちだったが、急に朝比奈さんが立ち止まって困惑顔を浮かべた。困惑、
というよりも青ざめている。これ以上、どんな厄介事が降りかかってきたっていうんだ。

「あの……あたしたち4人に、元時間への強制退去コードが発令されちゃいました……」
「はぁ?」

 勘弁してくれ……いったいどんな厄介事のドミノ倒しだ? そもそも、いったい何の話
だ? いや、言いたいことはわかる。この時間において、オレたち4人はイレギュラーな
存在だ。だからこれ以上引っかき回さずに元の時間に戻れ、と言いたいんだろう。
 だが待ってくれ。そうじゃないだろ。オレたちは改変された世界を元に戻すためにこの
時間に来ているんだ。そうじゃなかったんですか、朝比奈さん!?

「そ、そうです! でも、上の……あたしの組織のもっと上の方から、今回の改変は歴史
変化の許容範囲と見る意見もあって……だから、その」

「つまり、あなたと涼宮さんの結婚がもたらす変化より、結婚しない未来の方を選択した、
ということですか」

 おまえ、古泉……何時の間に現れやがった。というか、無事だったか。

「空間の断裂がこの近くだったのは幸いですね。手間取りましたが、なんとか弱体化させ
ることはできました。あとはこの時間平面の『機関』の役目です。それよりも、困った事
態ですね」
「何がだ?」

「朝比奈さんも単独で動いているわけではなく、我々の『機関』のような仕組みになって
るのでしょう。そこで今回の出来事の意見が分かれており、結果、今回の時空改変は歴史
が持つ多様性のひとつ、許容範囲内の変化だったと結論づけたのではないでしょうか?」

「なんだそれは? ずいぶん勝手な話じゃないか。そもそも今回の時空改変はオレとハル
ヒが結婚するかしないか、だろ? それはちょっとした歪みとかじゃなくて、未来におけ
る決定的な違いを生み出すんじゃなかったのか?」

 これじゃまるで、朝比奈さんが所属する組織の上が、オレらの敵対勢力の肩を持つよう
なもんじゃないか。おかしくなってる未来をまともな形にするために、オレたちはこうや
って過去までやってきて……まとも?

 ……なら、本来、朝比奈さんが知っている未来と、今こうしておかしくなっているとい
う未来の違いってなんだ? オレとハルヒが結婚するかしないかで、未来が無視できない
ほどの決定的な違いってなんだ? 朝比奈さんが「禁則事項」と言った、その答えはなん
なんだ?

「あなたと、涼宮ハルヒの子供」

 答えを言うことができない朝比奈さんに変わって、神託を下す使徒のように長門は告げた。

「確証はない。けれど考えられる選択肢のひとつ」
「どういうことだ?」
「あなたと涼宮ハルヒが結ばれることによって、涼宮ハルヒが有する情報創造能力がどの
ように変化するか、あるいは受け継がれるか、それがわかる」

 なんだそれは?

「……その考えは『機関』の中にもありました」

 どこか言いにくそうに、古泉が長門の言葉を受け継いで話を続ける。

「涼宮さんは世界を創造するという、神の如き力を持っている。けれど体は生身の人間で
す。いずれは老衰で、あるいは突発的な事故や病気で不帰の客となる日が必ず訪れます。
そのとき、世界はどうなるのか。何事もなく続くのか、あるいは消滅するのか、もしくは
がらりと様変わりをするのか……それとも、力を受け継ぐ神の子が現れるのか」
「それが……ハルヒとオレの子供だとでも? それを言うなら……」

 言っていいのか? それを、オレが。

「……何もオレとの子供じゃなくたっていいだろう。ハルヒが産む子供であれば、別にオ
レじゃなくたって」

 言うべきじゃなかった。口にして後悔した。オレが何を思ったのかは……まぁ、察してくれ。

「朝比奈さん、強制退去コードが発令されたとおっしゃいましたが、具体的にはどうなる
のでしょう?」

 オレが今、どんな顔をしているのかはわからない。ただ、古泉はオレの意見を無視して
朝比奈さんに話を戻した。

「朝比奈さんは立場上、元時間に戻らなければならないでしょうが、僕たちにまで強制力
がある命令とは思えません。僕たちが勝手に行動すること──そういうことにして、見逃
してはいただけませんか?」

 珍しく古泉が悪巧みめいたことを言うが、朝比奈さんは力なく首を横に振った。

「強制退去コードが発令された以上、あたしに拒否権はありません。仮に拒否できたとし
ても、あたしたち4人は強制的に元時間へ時間遡航させられます」
「……長門さん、その場合、あなたの力で時間遡航をキャンセルすることはできますか?」
「できなくはない。が、推奨はしない」

 長門にしては珍しく、その表情に諦めの色が浮かんでいた。

「朝比奈みくるの所属する組織と敵対することになる」
「しかし……」
「やめとけ、古泉」

 気持ちは嬉しいがな、これ以上、オレとハルヒのことで話をこじらせたって仕方がない。
下手すれば、朝比奈さんの立場がマズイものになる。

 これがまぁ、運命ってヤツだ。もともとオレとハルヒの道は、高校卒業と同時に分かれ
た。普通なら、もうそれっきりさ。けれどオレの場合、もう一度だけ道が交わるチャンス
があっただけめっけもンさ。それでも交わることができなかったというのなら、それを運
命といわず、なんと言おうか。

 それだけハルヒがオレ……たちと離れることを望んでいたってことだろう。あいつが一
人で進むべき道を選んだというのなら、追いかけるべきじゃない。

「あなたは……それでいいんですか?」
「いいも悪いも、もう何もできることはないだろ。オレだって……」

 そうさ。オレだって出来ることがあるのなら、なんとかしたい。けれど時間がない。で
きることは何もないじゃないか。諦めたくはないが、諦めざるを得ないじゃないか。

「…………まだ……」

 ポツリ、と朝比奈さんが呟いた。

「まだ、です。まだ出来ることはあります。強制退去コードが執行されるまで、まだもう
少しだけど、時間があるはずです。5分後かもしれないし、次の瞬間かもしれないけど、
まだ諦めちゃだめですっ」
「しかしですね……」
「しかしもカカシもありませんっ! キョンくん、諦めるためにこの時間平面に来たんじ
ゃないでしょ? 涼宮さんとまた、会いたいんでしょ? なら、諦めないでください! 
あたし、イヤなんです。ホントのことがウソになっちゃうなんて、そんなの絶対イヤなん
ですっ!」

 朝比奈さん……。

あああああーっ、くそっ! 何をやってんだオレは!? 歳とって諦めやすくなっちまっ
たか? 朝比奈さんにそんな当たり前のことをいわれなくちゃ行動できないような、マヌ
ケな男になっちまってたのか? 情けないにも程がある。

「すいません、朝比奈さん。それに、長門も、古泉も。迷惑かけちまうが、勘弁してくれ!」

 オレは走り出していた。普通に考えれば間に合うはずもなく、こんなことしたって無駄
で無意味なのはわかっている。

 だからどうした。

 無駄で無意味のどこが悪い。オレは感じたままに、感じたことをするだけだ。
 立ち止まってたまるか。下を向いてどうする。あいつはいつも、くっだらないことをク
ソ真面目に前を向いて、一時も立ち止まらずにやりたいことをやってたじゃないか。

 思い出せ。長門が世界を改変させたとき、オレは何を考えた? どういう結論を出した?

 忘れるわけがない。身の回りに宇宙人やら未来人、超能力者がふらふらしている世界を
肯定し、受け入れ、傍観者から当事者になることを選んだ。涼宮ハルヒという訳の分から
ないヤツを中心に、バカ騒ぎしてやろうと決めたんじゃないか。
 それを決めたのはオレだ。もう離さねぇぞ、ハルヒ。おまえが拒んだってな、オレのほ
うから食らいついてやる。おまえの我が侭にはイヤってほど付き合ってやったがな、オレ
と離れたいなんて我が侭だけは、大却下だっ!

「はっ……がぁっ、くそっ……」

 もう汗も噴き出しやしねぇ。口の中はカラカラだ。運動不足がここに来てアダになって
やがる。足の筋肉は悲鳴を上げて、目もかすみ、音もよく聞こえない。

見慣れた線路沿いの道までたどり着いた。あとはそこの角を曲がればゴールだ。ここで
立ち止まったら、二度と動けない。そんな気分で角を曲がる。

 そこでオレは愕然とした。

 道がない。真っ暗な闇が、そこにある。なんだコレは? どういうことだ。
 後ろを振り返れば、今まで走ってきていた道が、景色が、光の粒子に姿を変えて消えて
いる。角砂糖で作られた町並みが、雨に濡れて溶けていくようだ。

 まさかこれが……朝比奈さんの言っていた強制退去コードの発現ってやつか? オレは
……間に合わなかったのか?

「くそっ……」

 間に合わなかった。ゲームオーバーだ。コンテニューも復活の呪文もありゃしない。未
来を出し抜こうなんて、オレには過ぎた妄言だったってことか。

「認めるか……認めねぇぞ、こんなこと!」

 散々走り回って、喉もカラカラで声なんて出ないと思っていたんだが、それでもオレは
叫んでいた。まだ、オレの体は声を出す気力を残していたらしい。

「ハルヒーっ!」

 周囲が闇に包まれる。確かにそこにあるのは、立つことだけを許された儚げな小さい足
場だけ。それすらも、今に消え去ろうとしている。

「待ってろ、必ず会いに行くから!」

 違うだろ。そうじゃない。言いたいことは、そんなことじゃない。いい加減にしろよオ
レ。二十歳を過ぎて一年も経ついい大人が、言いたいこともわからないのか!?

「ハルヒ、オレは……っ!」

 視界が回る。耳鳴りがする。誰かの声が聞こえた……気がする。
 誰だ? 誰かそこにいるのか? そこにいるのはおまえか、ハルヒ?

 手を伸ばす。その方向で合っているのかどうか、わからなくともオレは手を伸ばした。
 目を見開いているはずなのに、何も見えない。闇がこれほど怖いと思ったことはなかった。
 伸ばした指先に、何かが触れる。触れたような気がした。必死にそれをたぐり寄せよう
ともがくが、感覚がない。自分の体なのに、自分のものじゃないみたいだ。

 不安ともどかしさで、気が変になりそうだった。

 体全身の感覚がなくなる。上下感覚すら消失する。

 そしてオレは──何かを手にしたのか、それとも失ったのか──それを確かめることも
なく……意識を暗転させた。

 ゴンッ! と、額に携帯電話がダイブしてきた衝撃でオレは目を覚ました。最悪な目覚
めに気分も落ち込むってもんだ。おまけに体全体が筋肉痛で痛むし、どうして自分がアパ
ートの自分の部屋で寝ていたのかさえ思い出せない。

 ──まいったな……

 ご丁寧に、強制的に現代に戻されたかと思ったら、自分のアパートか。旅費が浮いて助
かった、なんて感謝するとでも思ってるんじゃないだろうな?
 オレはついさっきまであったことを、すべてしっかり覚えている。人を引っ張り回すだ
け引っ張り回して、こっちが何もできないのをいいことに、無理矢理元の時間に戻された
恨みを忘れてたまるか。
 オレに感謝されたいんだったらな、せめてその記憶もしっかり消してくれ。

「くそっ……」

 ここまで自分が無力だと思い知らされた日はなかった。泣くべきか叫ぶべきか、それす
らもわからない。眠りを妨げた携帯電話を手にとって、八つ当たり気味に投げ捨てようと
思ったそのとき、ふと画面を見れば、おびただしい量の着信履歴があることに気付く。

 履歴は、朝比奈さん6割、古泉3割、長門1割ってとこか。留守電にも、各々コメント
が入っていた。いちいち紹介するのも面倒臭い。ざっくばらんに紹介すれば、朝比奈さん
は謝罪、古泉は慰め、長門は……相変わらず、何が言いたいのかさっぱりだが、まぁ、慰
めてくれているんだろう。
 魂の抜け殻になった体は、各々のコメントをただ適当に聞き流していた。

 ため息しか出ない。

 どんな慰めや謝罪の言葉をもらったところで、誰に当たり散らせばいいってもんでもな
い。この結果になったのはハルヒが望んだからであり、オレの力不足のせいでもある。

 遠いな、ハルヒ。

 おまえがこんな遠くに感じたのは初めてだ。おまえと離れたこの三年間、そんなことを
微塵も思ったことはないし考えたこともないが、今は無性におまえが遠くに感じる。

「……ん」

 三人のメッセージを聞きつつ、頭の中ではハルヒのことを考えていたオレは、おそらく
最後に録音されていたであろうメッセージで、ふと現実に引き戻された。
 これまで散々録音されていた三人それぞれの声が、そのメッセージで途切れた。何も喋
ってねぇ。留守録に切り替わると同時に切ってやがる。

 イタズラ電話か、間違い電話か。

 どっちだっていいさ。用があるヤツなら、メッセージのひとつも入れておくだろう。
 携帯を投げ捨て、煙草に手を伸ばし、火を点ける。紫煙を燻らせ、テレビを付けると、
朝のワイドショーがやっていた。丁度朝の八時か。
 コメンテイターが「ゴールデンウイークが終わって今日から仕事の人も……」などと、
どうでもいい前振りをしている。

 だからどうした。そろそろ将来のことを見据えて仕事選びを始めたオレなんて、毎日が
暇つぶしみたいな……なんだって? 今、なんて言った?

 オレはテレビにかじり付く。ええい、おっさんのドアップなんぞ映さなくていい。今日
が何日なのか教えろ。って、そうか、携帯を見ればいいのか。

放り投げた携帯を拾い上げて、カレンダーを見る。間違いない、疑念が確信に変わった。
 今日は、朝比奈さんの電話でたたき起こされてハルヒが起こした時空改変を修正するた
めに過去へ旅立ったその日だ。
 それが何を意味するのか? 答えはシンプルだ。けれど、その計算式は複雑極まりない。
答えはわかっているが、その説明ができない。
 先に答えを出しておこう。

 時間がズレしている。

 それしかない。それで間違いないし、それ以外にあり得ない。
 本来なら……というか、オレの記憶が正しければ、これから古泉に連れられて田舎に戻
り、長門のマンションから三年前の過去に旅立つはずだ。
 しかしそれは、もう過ぎたことになっている。

 何故それがわかるのか。

 決まっている。朝比奈さんや古泉、長門からの留守録メッセージが、事の終わりを告げ
ているからだ。この日、オレの記憶では「今日、過去に行って失敗する」という、その規
定事項はすでにクリアされている。

 どういうことだ? 何がどうなっている? すべての出来事が1日ズレていることに…
…どんな意味があるんだ? そのことを説明できるのは……あいつしかいない。

 オレはすぐに電話をかけた。コールを待つまでもなく、すぐに繋がる。電話の前で待機
してたんじゃないかと思える速さだ。

「すまん長門、オレだ。ちょっと混乱してるんだが……」
『わかっている』

説明が短く済んで助かる。こいつにも、すべてわかっているんだな。それとも、この存
在しない一日をくれたのは、おまえか?

『わたしは何もしていない。今日は、すべての人々にとって当たり前の一日。昨日という
過去が今日という今になった、平穏な日常。あなたにとっても、そう』

 当たり前の一日だって? 今のオレにとっちゃ、奇妙で非日常的な一日でしかないぞ。

『違う』

 長門はオレの言葉を否定する。

『今日はあなたが知っている平穏な一日。あなたが本来存在する、今の時間。誰にも邪魔
はできない。わたしがさせない。だから──』

 長門は同じような言葉を繰り返し、しばし口を閉ざしたかと思うと、最後に一言だけ付
け加えた。

『──待っている』

 がちゃり、と通話は切られた。長門から受話器を置いたのだろう。もうそれ以上、話す
ことはないと言いたげだ。
 ──いや、違うな。話すことがないんじゃない。話せる言葉がないんだ。
 あれが長門の精一杯だ。何かしらの制限を受けているのか、それとも適切な言葉が思い
浮かばなかったのか……どちらにしろ、長門はオレに答えを伝えている。

 オレが存在する時間。当たり前の日常。そして、存在しないはずの一日。

大丈夫だ、長門。おまえは本当に頼りになるヤツだよ。おまえのメッセージはいつもあ
やふやだが、伝えたいことはしっかり伝えてくれることを、オレは知っている。そしてち
ょっと考えれば、すぐにわかる答えばかりだったよな。
 オレはシャワーを浴びてから身支度を調え、乏しい財布の中身を見てため息を吐いてか
ら、外に出る。
 今日が昨日から続く当たり前の日常だと言うのなら──行くべき場所は、一カ所しかない。





 小春日和の天気とは言え、夜になるとまだまだ寒くなる。筋肉痛プラス新幹線移動のひ
どい仕打ちでへばっているオレの体は、ゆるゆると続く路線脇の道を歩くだけでも悲鳴を
上げそうだった。
 時折過ぎていく電車は、ドップラー効果を残して消えていく。次第に人気の失せていく
道に、北高のセーラー服姿の似合う朝比奈さんを背負って歩いた思い出が蘇る。

 過去を懐かしむことができるのは、大人の特権か。

 昔を思い出してため息を吐くなんて、昔は年寄りじみて自分はそうなりたくないと思っ
ていたが、逆に今は振り替える思い出があることを誇りに思う。
 その誇りも、ただ日々を積み重ねてきただけで培われるものじゃない。自分から前に出
て行動しようと思ったからこそ、作り出すことのできた思い出だ。

「おい」

 おまえの思い出だってそうだろ? オレなんかじゃ比べものにならないバイタリティ
で、いつもオレの手を引っ張って良くも悪くも行動を起こしてたよな? そこの──鉄格
子をよじ登ろうとしているお姉さん。

「なによっ」

 そいつはポニーテールの髪を揺らし、貫くような視線をオレに向けた。

 既視感を覚える。

 三年か。そういえば前も三年の差があったな。これはあのときの再現なのか……なら、
次に出てくるセリフもわかってる。

「なに、あんた? 変態? 誘拐犯? 怪しいわね」

 こういうのも、以心伝心というのかね? 嬉しいと思うべきか、嘆かわしいと感じるべ
きか、答えは保留にさせてくれ。

「おまえこそ何をやってるんだ?」
「決まってるじゃない、不法侵入よ」

 そう言って、二十歳も超えて立派な成人になったってぇのに、鉄扉の内側に飛び降りて、
閂を固定していた南京錠をはずした。その鍵、まだ持ってたのか。
 鉄扉をスライドさせて6年前のように──こいつにしてみれば、もう9年も前の話か──手
招きをして、自分はさっさとグラウンドに歩いていった。

 これでオレも不法侵入の共犯者か。

 肩をすくめて後に続くと、そいつは満点の星空の下、グラウンドの真ん中で空を見上げ
ていた。七夕と違うのは、この空の明るさか。この辺りも都会になったと思っていたが、
東京に比べると星の数が段違いだ。

「ねぇ、宇宙人っていると思う?」

 空を見上げたまま、そう聞いてきた。

「いるんじゃねぇの?」
「じゃあ、未来人は?」
「いてもおかしくないな」
「超能力者は?」
「そんなもん、そこいらにゴロゴロしてるさ」
「ふーん」

 気のない返事をして、空を見上げていた視線を足下に移す。吹き抜ける風が、束ねた髪
を凪いで駆け抜ける。その表情は、笑顔とはほど遠い。

 想起する時間はここまででいいだろ?

「悪かったよ」

 オレはその姿に謝罪した。
 これでも急いで来たつもりなんだ。あっちこっち寄り道して、長門からヒントをもらって、よ
うやく今日のこの日、この瞬間にたどり着くことができた。

 オレにとっての日常。当たり前の平穏。それは、宇宙人や未来人、超能力者と訳の分か
らん事態に巻き込まれて、その中心にいる唯我独尊の団長さまを心配する一日。
 そして、ズレた今日が過去になった今という現実。存在しない一日という奇跡を残して
おいてくれたのは──おまえだよな、涼宮ハルヒ。

 ようやく、おまえを見つけることができたよ。

「三年も待たせて、悪かった」
「まったくね。ま、あんたの遅刻癖はいつものことだけどさ」

 怒るでも呆れるでもなく、ハルヒはそう言った。どこか遠くを見ているような、けれど
その目はオレを見ているのではなく、違う何かを見ている。

「この三年間、どうだった?」
「別に。どーってことない毎日だったわ。そこそこ楽しくて、まぁまぁつまんなくて……
そういうあんたはどうなのよ」
「あり得ないことが連続の、非日常だったよ」

 それは揶揄でも誇張でもない、事実あり得ない日々の連続だったさ。毎日決まった時間
に目を覚まして大学に通い、その後バイトに行って疲れて帰ってきて寝る。
 あり得ないだろ? 高校時代のオレの日常からは、かけ離れた生活じゃないか。近くに
宇宙人も未来人も超能力者も──ハルヒすらいない日々なんだぜ。
 そんな世間一般の平凡な生活を送るハメになったのも、おまえがオレを見捨てようとし
たからなんだ。分かってるのかよ?

「なんでオレたちから離れようと思ったんだ?」
「……別にそんなこと、思ってない」

 はぁ~っ、とオレはため息を吐く。
 そうだな、おまえはオレたちから離れようなんて微塵も思っちゃいなかっただろうよ。
ただ、今のはオレの聞き方が悪かっただけだな。訂正しよう。

「なんでオレから離れようと思った」

オレはそこまで鈍感じゃないんだ。おまえは確かに長門や朝比奈さん、古泉と離れたい
とは思っていなかっただろうが、オレとはどうだ? 距離を置こうとしてたじゃないか。
 そりゃないぜハルヒ。オレを巻き込んだのはおまえの方だってのに、なのに見捨てるな
んて酷すぎるじゃないか。

「あたしが……あたしであるために……かな?」

 ハルヒは淡々とそう告げた。
 意味わかんねぇよ。おまえはいつもおまえで、そのままだったじゃないか。オレが側に
いてもいなくても涼宮ハルヒだったじゃないか。だったら、オレが側にいることを許して
くれてもいいじゃないか。

「違うわよ。あたしは、あんたがいたから『あたし』だったの」

 そう断言した。断言してから、一瞬迷うように視線を泳がせて、言葉を続ける。

「中学の時はずっと一人で好き放題やってて、周りから孤立してた。高校でも、そうだと
思った。けど、あんたがいてくれた。あんたは嫌々だったかもしれないけど、それでも引
っ張るあたしに『やれやれ』って顔しながら、それでも着いてきてくれて……それが嬉し
かった。あんたがいたから、あたしは一人じゃないって思えたし、笑っていることもでき
た。でも」

 ハルヒは、心の中の澱んだものを一緒に吐き出すかのように吐息を漏らした。

「もし、あんたがいなかったらあたしはどうなってたと思う?」

 貫くようなハルヒの視線。その視線には、何の感情も込められていなかった。喜びも悲
しみも、怒りも哀れみもない。いや、もしかするとすべての感情がごちゃ混ぜになってい
るからこそ、オレにはわからなかっただけかもしれない。

「そして気づいちゃった。あんたがあたしを守ってくれて、笑うことを許してくれて、支
えてくれてたんだって。そんなあんたがいなくなたら……あたしはどうなるの? あたし
を生かしてくれていたあんたがいなくなったら……あたしはあたしじゃなくなるの? そ
んなことないって思った。思いたかった。だから」

 それが、オレから離れた理由? それを本気で言ってるのか、ハルヒ。おまえはそれで
いいかもしれないが、ならオレの気持ちはどうなる? 自分勝手も過ぎるってもんじゃないか。

「あたしが何も知らないとでも思ってんの? あんた、いっつも額にしわ寄せてさ、すっ
ごく大変で困ったこと抱えてますって顔してたじゃない」

 オレ、そんな顔してたのか。確かに毎日そんな気分だったが、自分じゃまったく気づい
てなかった。そうだな、ハルヒは勘の鋭いヤツだから、気づかれていてもおかしくはない。

「あたし、あんたの力になりたかった。あたしに何かできることがあるのかわからないけ
ど、それでも力になりたかった。なのにあんた、何も話してくれなかったじゃない。手を
差し伸べることさえ許してくれなかった」
「それは……違う。オレは、」
「あんたが抱え込んでた不安って、あたしのことなんでしょ?」

 オレは、何も言えなかった。オレが抱え込んでいた懸案事項は、確かにハルヒのこと。
それが間違っていないからこそ、何も言えなかった。

「あたし、あんたの重荷になんてなりたくない」

 揺るがない意思。挑むような言葉。こいつの頑固さは今に始まったことじゃないし、思
い込みの激しさも並じゃない。一度口にした言葉が覆ることもない。
 それが真実の言葉なら。

「ウソはやめろ」

 今の言葉のすべてがウソだとは言わない。ハルヒの偽らざる本心であることもわかって
いる。けれど、その土台となる思いがウソなら、それは見かけ倒しの本心だ。根本にある
思いを偽っている限り、オレが簡単に騙されると思うな。
 こいつは三年前の高校卒業のときに、オレに本心を見せていた。告白したことや、キス
してきたことじゃない。すべて吹っ切ったように見せた笑顔でもない。

 最後の言葉だ。

 あれが、おまえの偽らざる本心じゃないか。

「覚えているか? おまえ、オレに『じゃあね』って言ったんだ。『さよなら』じゃなく
て『じゃあね』って。何もかも吹っ切ったように見せて、告白してキスまでして、それで
も最後の最後でおまえは『さよなら』が言えなかったんだ」

 だから、今がある。この日、この場所で出会うことができた。

「ハルヒ」

 オレはハルヒの手を取って、抱き寄せた。

 いつもこいつの方から手を差し伸べていたけれど、オレはいつも振り払っていたのかな。
悪かったよ、そんなつもりはなかったんだ。それでも今日だけは、今だけは、オレの方か
ら差し伸べる手を振り払わないでくれ。

「おまえ、卒業のときに『オレの気持ちなんてどうでもいい』とか言ってたな。ひどいじ
ゃないか。自分だけ言いたいこと言って、オレには何も言わせてくれないのか」
「……なによ」
「オレは、おまえと離れたいなんて考えたことは一度もない」
「…………」

 そうさ。オレはそんなことを本気で考えたことなんて、一度もないんだ。
 間違えるな。ハルヒに辛い思いをさせていたのはオレなんだ。意識的にしろ、無意識的
にしろ、傷つけていたのはオレのほうだ。
 そして、それを気づかせてくれたのもハルヒだ。
 それも忘れるな。ハルヒがオレと出会って変わったって言うのなら、オレもハルヒのお
かげで変わることができた。おまえが隣にいることが、オレにとっての日常であたりまえ
なんだ。もうこれ以上、無意味でつまらん非日常なんて送りたくはない。
 だから、言わせてくれ。

「おまえが好きだ」
「……そんなの……とっくにわかってたわよ、このバカっ!」

 絞り出すような声。微かに肩が震える。それでもコイツのことだ、泣いちゃいないだろ
う。泣きじゃくるハルヒなんて、想像もできやしない。

「そうか、わかってたか」

 今更だが──オレにも三年って時間が必要だったんだよ。そのくらい、察してくれ。

「三年じゃないわ」

 ハルヒはそう言うと、ポケットから色あせた便せんを取り出した。ああ、すっかり忘れてた。

「あたしにとっては、中学から今日までの、九年越しの思いよ」
「そりゃまた……気の長い話だな」
「待たせたのはあんたでしょ」
「いや待て。それはジョン・スミスだろ? オレじゃない」
「あんたがジョン・スミスでしょ?」
「いや……まあ」
「それとも、キョンって呼ぶべき?」

 こいつの意地の悪さは承知しているが、ここまでとは想定外だ。

「こんな時くらい、ちゃんと本名で呼んでくれ」
「本名……ねぇ」

 ハルヒは──本当に久しぶりに──白鳥座α星の輝きのごとき笑顔を浮かべ、底意地が
悪く口元を釣り上げてから「あんたの本名なんて忘れちゃったわ」と言って……オレの反
論なんぞ受け付けないとばかりに唇を重ねてきた。
 それは冗談だよな? まさか本当にオレの本名を忘れてるわけじゃないよな? もし忘
れてるってんなら……まぁ、いいか。

 それでごまかされるのがオレらしい役どころだろ。







 エ ピ ロ ー グ

 後日談を語るほど、まだ日は経っていない。語るべきことは何もなく、あとは口を閉ざ
すべきかもしれないが、一言だけ付け加えるのが筋というものか。

 あの存在しない一日が朝比奈さんが言うところの「オレとハルヒが入籍する日」らしい
が、だからと言って勢い余って役所に駆け込むほど、オレもハルヒもテンションは高くな
い。いやまぁ、ハルヒはそんな気満々っぽかったが、オレは東京で大学に通い、ハルヒは
地元の大学で考古学の勉強に精を出しているわけだし、距離は相変わらず離れているが、
それも大学を卒業するまでの話だから、ということで引き留めた。卒業したら……さて、
どうなるのかね? 朝比奈さんの真似をして「禁則事項」とでも言っておこうか。

 そんな朝比奈さんは、この間の一件のせいもあってか、もっと立場が上の人間になろう
と努力しているようだ。あなたなら成りたい人になれますよ。

 厄介なのは古泉だな。事の顛末を知ったあいつは、肩をすくめて「まだ僕の副業は続き
そうですね」などとほざいた。何がどう続くのか問いつめたいところだが、ま、その笑み
が作り物っぽくなかったから許してやるが。

 事が終わって一番苦労しているのは長門かもしれない。なにしろあいつはハルヒと同じ
大学だ。この前、電話で報告したときなんぞ「知ってる」とすでに把握済みの上に「涼宮
ハルヒに聞いた」と続け、最後に──これはオレの気のせいかも知れないが──ため息を
吐いたような気がした。

 それがオレの気のせいならいいが……ハルヒ、おまえはオレがいないところで長門に何
を吹き込んだんだ。一万五千四百九十八回くらい同じ夏を繰り返してようやく、つまらな
さそうにする長門に、ごく普通の日常会話で呆れを感じさせる話をしつこいくらい繰り返
したのか?

 ……考えるのはやめておこう。むしろこれから考えるのは、東京に遊びにくるハルヒを
迎えに行ったその後だ。今回ばかりは遅刻するわけにもいかない。
 携帯を手に取り、メールを確認すると「到着10分前には待ってること。遅れたら罰金
だからね!」と着信があった。

 わかってるよ。散々待たせたんだからな、今回ばかりは遅れるわけにはいかない。

 遅れるといえば、何故ハルヒが五月のゴールデンウィーク明けまで待っていてくれたの
か後になって分かった。
 過去においてオレが、というかジョン・スミス名義で投げ込んだ手紙は、高校卒業の三
月のこと。それから二ヶ月も過ぎていたのに、あいつは存在しない一日を作ってまでオレ
を待っていたのには、ちゃんと理由があるんだが……その理由が意味不明だな。

 ジョン・スミスと会った七夕でも、高校を卒業してオレと決別しようとした日でもなく、
あいつが選んだその日が──オレと普通に会話を始めた日だなんて、わかるわけないだろ。

 さて、そろそろハルヒがやってくる。驚いたことに、あいつのほうから宇宙人や未来人、
超能力者についてオレを問い質したりしてこないんだが……話をしてやるべきかな? そ
れとも、あいつが持ち込む厄介事に巻き込まれることを懸念するべきか。

 ま、どっちでもいいさ。

 それが、オレが散々苦労して取り戻したごく当たり前の日常や──ハルヒの笑顔につな
がるならね。

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最終更新:2020年03月15日 02:05