週明けの月曜日。
教室の窓の外、続々と登校してくる生徒たちを見下ろしながら、
あたしは上機嫌でハミングなど口ずさんでいた。
 
日曜の夜に見た映画が、意外にヒットだったのだ。キョンの奴も
アレは見ただろうか。見たわよね、きっと。
ああ、早くキョンとあの映画の話で盛り上がりたいな! 本当は
晩の内に電話でも掛けようかと思ったのだけれど、我慢して
今朝の楽しみに取っておいたんだもの。
やっぱり、こういうのは直接話した方が楽しいもんね!
 
いやでもだからって、朝イチであたしの方から話を振るってのも
なんとなく引っかかるかも。そうね、キョンの方から
声を掛けてくれるといいんだけど…。
 
そんな、愚にもつかない事をあたしが考えていると、不意に
教室の後ろの扉付近で、幾つもの歓声があがった。
 
「わあっ、キョン君どうしたの、それ!」
「なになに、イメチェン!?」
 
いつもの朝の喧騒をさらに上回る驚きの声に、あたしも思わず
そちらへ振り返る。途端、あたしは目を真ん丸にしてしまったわ。
 
数人のクラスメートに囲まれ、照れたような困ったような表情で
頭をかいているキョン。その顔には見慣れない物体、
そう“メガネ”が装着されていたのだ。
 
細い黒のフレームに、横に長い長方形のレンズ。うわ、意外だけど
キョンのクールな所が引き立ってて、結構イイかも。
小学校の頃に人気のあった先生を思い出して、あたしはちょっと
ドキドキしてしまった。
 
だけど。それは何も、あたし一人の感想ではなかったらしい。
まるで街中で芸能人でも見かけたみたいに、数人の女子生徒たちが
キョンを取り囲んで、矢継ぎ早に質問を浴びせていた。
 
「キョン君て、そんなに視力悪かったっけ?」
「いや、俺も自覚は無かったんだけど。こないだのテストの成績で
親に絞られた時に『最近、黒板の字が見づらいんだ』なんて、
うっかり言い訳しちまったんだよ。
そしたらムリヤリ眼科に放り込まれてさ。調べてみたら、本当に
視力が落ちてたんだよな、これが」
「ゲームばっかりやりすぎなんじゃないのー?」
「いやいやいや、甘いな!」
 
女子の歓声に引き寄せられたのか、いつの間にか谷口や
国木田たちもキョンを囲む輪に加わってる。本当にアホね。
 
「ズバリ! 夜中にこっそり秘蔵のビデオとか見過ぎたせいだと
俺は読んだね!」
「きゃーっ、キョン君のえっちー♪」
「お前と一緒にすんな、谷口。つか、チャック閉めろ」
「うおっ!?」
 
いかにも、やれやれと言いたげな顔をするキョン。と、あたしの視線に
気が付いたのか、あいつは突然、首をこちらに向けた。
 
瞬間、なんとなく視線をそらせてしまうあたし。何よ。何なのよ、
今の居心地の悪さは。
そんなあたしの焦燥を知ってか知らずか。キョンの奴は
 
「ま、イメチェンとかそんな大げさな話でもないだろ。これで俺も
現代っ子の仲間入りってだけの事さ」
 
という一言で話を切り上げ、こちらに歩み寄ってきたのだった。
 
「ようハルヒ、元気か」
「別に」
「なんだ、月曜からブルーだな。何かあったのか?」
 
自分の机に鞄を掛けながら、そう訊ねてくる。キョンの質問に、
あたしは内心でびっくりしていた。
月曜からブルー? あたしが? あたしは今、そんなに
不機嫌そうな顔をしてるっていうの?
 
違う。違うわ! キョンが他の女子にチヤホヤされてたって、
あたしには別に関係ないし!
 
「キョン…あんた、そのメガネ…」
「ああ、昨日の夕方に出来たんだ。慣れないもんだから
どうもまだ耳とか鼻先とか痛くてな」
 
そう言って苦笑してみせる、見慣れたはずのキョンの顔が
なぜだか今日はやけに眩しくって、
あたしはまっすぐ見続けている事が出来なかった。
その、混乱のせいだろうか。
 
「…なんか、変よ。似合わない。前の方が良かった!」
 
気が付くとあたしは憎まれ口のようなセリフを吐いて、窓の方へ
顔を背けていた。
 
「そうか」
 
別に気分を害した様子も無く、ただキョンはぽつりとそう呟いて、
自分の机に向き直る。そのままホームルームが始まるまで、そして
それ以降も、今日のあたしがキョンと会話を交わす事は無かった。
 
朝のあの愉快な気分は、いったいどこへ飛んでいってしまったのか。
苛立ちを胸に抱えながら、午後の授業を聞き流す。
あ、でも…と6時間目の終わり際に、あたしは妙案を思いついた。
 
有希もいつの間にかコンタクトにしていた事だし、SOS団に
一人くらい、メガネ男子が居てもいいかもしんないわね。
みくるちゃんたちが、キョンのメガネにどう反応するかっていうのも
楽しみだし。そうよ、今日の部活は
キョンの初メガネお披露目会で大いに盛り上がるとしましょう!
 
「ねえ、キョン! 今日の部活だけどさ、あたしと…」
 
でも、そんなあたしの興奮には、キョンの一言によって
最悪の形で水が差されたのだった。
 
「悪いがハルヒ、今ちょっと頭が痛いんだ、もう少し
静かにしてくれないか」
 
えっ? 何よ、それ。あたしがうるさいって事?
あたしとは話したくないって事?
呆然としているあたしに、キョンはさらにこう続けた。
 
「それから、部活も今日は休ませてくれ」
「ちょ、ちょっとキョン、そんな勝手な真似はっ!」
「体の具合が良くないんだ、すまん」
 
軽く頭を下げる、そんなキョンの顔色は本当に良くなくて。あたしは
反論の言葉を思いつけなかった。
 
「だったら、あたしが保健室に連れてってあげ…」
「いや、大丈夫だ。もう授業も終わったし、一晩ゆっくり寝れば
回復するだろ、たぶん」
「そ、そう…。じゃあ好きにすれば!? あたしは部室に行くから!」
 
本当は、キョンの事が心配だった。強引にでも、一緒に家まで
ついていってやれば良かったのかもしれない。
だけどこの時のあたしの胸の中には、心配と同じくらいの憤懣が
渦巻いていた。いちいちこちらの裏目に出るような、
キョンの言い分がなんだかあたしへの意地悪のように思えたのだ。
 
学生鞄を引っ掴んだあたしはメガネキョンを教室に残して、ドカドカと
大きく足を踏み鳴らしつつ、部室棟へと向かったのだった。
 
何よ。何よキョンの奴!
ほんのちょっと女子たちにキャーキャー騒がれたからって、
いい気になってんじゃないわよ! あのバカっ!
 
 
ドカドカドカドカ、バンッ!!
 
「あ、涼宮さ…」
「みくるちゃん、お茶ッ!」
「ひゃ、ひゃいっ!?」
 
苛立ちのままに扉を蹴り開け、部室に乗り込んだあたしは
団長席に鞄を放り投げ、腕組みをして乱暴に椅子に腰を下ろした。
 
みくるちゃん、有希、古泉君、SOS団の面子は全員揃ってる。
それが余計に腹立たしかった。なんでキョンの奴は
ここに居ないのよ! あのメガネ面を見せてやれないのよ!?
あー、もう! 写メでも撮っとけば良かったわ!
 
「ご機嫌ナナメのようですね。何かありましたか?」
 
あたしの憤激を酌んだのか、困ったような微笑を浮かべて
古泉君が訊ねてきた。あいつもこういった細やかな心遣いとか、
少しは覚えなさいよねっ!
 
「それがさ! 聞いてよ古泉君! 有希もみくるちゃんも!」
 
立ち上がり、身振り手振りも交えて、あたしは今日のキョンの
SOS団員としてあるまじき言動を露呈してやったわ。
 
「――ってなワケなのよ。どう思う、キョンのあの態度!?
まったく団長に対する敬意が足りないっていうか」
 
ほとんど一息にまくし立てて、あたしは椅子に腰掛け直すと
湯飲みのお茶をぐいっとあおった。でも怒りが
血液まで沸騰させてるのか、あたしの喉の渇きはまだ治まらない。
 
「みくるちゃん、おかわりをちょうだ…」
「何がおかわりですかっ!?」
 
その時、響いた声。お世辞にもあまり迫力の無いそれは、しかし
彼女なりの精一杯の怒鳴り声だったのだろう。
その声の主を、有希は目を瞬かせ、古泉君は微笑を失い、
あたしは口をぽかんと開けて見上げていた。
丸いお盆を胸に抱えた、メイド服姿のみくるちゃんを。
 
「お茶なんか飲んでる場合じゃないでしょう!?
ひどい…ひどいですよ涼宮さんッ!」
 
大きな瞳いっぱいに浮かんだ涙を懸命にこらえ、体をぷるぷると
小刻みに震わせながら、みくるちゃんは確かにあたしを
睨みすえていた。
もしかしたら初めてじゃないだろうか、この子がここまで
怒りをあらわにしたのは。
 
「髪型とか、服とか靴とか小物とか、そういうの変えるのって
ちょっとした冒険じゃないですか!
それが成功するか失敗するか、ドキドキしながら
一歩踏み出す気持ち…分かってるはずです、涼宮さんだって
女の子なんだから! なのに…それなのに…」
 
えぐっ、ぐすっとしゃくり上げながら、それでもみくるちゃんは
あたしから瞳をそらそうとはしなかった。
 
「今日のキョン君だって! きっと心の中ではすっごく
ドキドキしてたはずですっ!
新しいメガネを掛けて…昨日とはちょっと違う自分になって…
そんな、そんなキョン君に、どうして?
どうして『似合わない』なんて言っちゃったんですか、涼宮さん!」
「だ、だって、それは…他の子たちは褒めてたし…」
 
思わぬみくるちゃんの糾弾に、つい口ごもってしまうあたし。
すると、みくるちゃんは「あーん、もうッ!」と
憤慨の色もあらわに左右に首を振った。
 
「違うでしょう!? 他の人がどう言ってたかなんて、そんなの
どうでもいいんです!
涼宮さんが『似合わない』って言っちゃったら、それで全部
台無しじゃないですかッ!」
 
子犬のように頼りなげな姿で、それでも敢然とあたしに
牙を剥いてくる。みくるちゃんを奮い立たせているそれが何か、
あたしも認めざるを得なかった。
 
『正義』だ。正しいと思う事が自分の中にあり、間違っていると
思う事があたしの中にあるから、だからみくるちゃんは
こんなにも怒っているのだ。
 
「涼宮さんが冒険する時には、いつだってキョン君が…後押しを
してくれてたじゃないですか…。それなのに…ひくっ、
うう…ひ、ひ、ひどいでしゅ涼宮さんはっ!」
 
最後にはもう、きちんとした言葉にもならずに。みくるちゃんは
堪えきれなくなったのか、両手で顔を覆って泣き始めた。
持ち手を失ったお盆が床に転がり落ち、からんからんと乾いた音を
立てて回る。と、古泉君がそれを拾い上げて、
参りましたね、と言わんばかりに肩をすくめてみせた。
 
うん、参った。今回ばかりは負けを認めるしかないわ。
泣く子と地頭には勝てぬとか言うけど、みくるちゃんの真摯な涙には
本当、平伏するしかない。
キョン、こんなに想われてるあんたは幸せ者よ? それから、
これだけ一生懸命に説教して貰えるあたしもね。
 
「分かったわ、みくるちゃん。お願いだから泣き止んでちょうだい」
「うっ、ぐすっ…涼宮、さん…?」
 
泣きじゃくるみくるちゃんを抱き寄せて、栗色の髪を撫ぜながら
あたしはそうささやいていた。
 
「うん。明日は必ず、この場でキョンのメガネ顔をみんなに
披露してみせるから。絶対、約束ね!」
「は、はい。待ってます、楽しみに待ってます!」
 
ふふ、こうしてるとなんだか妹みたい。やっぱり、みくるちゃんは
ぽわっと笑ってる方がいいわ。SOS団最強の和みキャラよね。
 
みくるちゃんの笑顔の後ろ盾を得て、あたしは学生鞄を引っ掴み、
踵を返しながら有希と古泉君に呼び掛けた。
 
「って事で、あたしは用が出来ちゃったから本日の活動は
これでおしまい!
有希! 古泉君! 戸締りとみくるちゃんの事をよろしくね!」
「………了解した」
「ご武運をお祈りしています」
 
端的に頷く有希と、芝居がかった仕草で微笑む古泉君に
ニッと笑顔を見せて、あたしはダッシュで部室を後にしたのだった。
 
 
はやる気持ちと、ためらう気持ちが心の中で入り混じったまま、
下校途中に立ち寄ったキョンの家の前。
ひとつ息を飲み込んで、あたしはインターホンのボタンを押した。
 
「はーい、誰~?」
「あの、涼宮ハルヒと申しま…」
「あっ、ハルにゃん!?」
 
まだ舌っ足らずな返事が返ってきたかと思うと、すぐに玄関のドアが
開いて、妹ちゃんがあたしの前に飛び出してきたわ。
 
「キョンくんのお見舞いに来てくれたんだよね? ハルにゃん、
やっさしーい!」
「え、いやその、ちょっと様子を見に来ただけで」
「んーん、ハルにゃんの顔を見たら、キョンくんもすぐに
元気になるよきっと! さ、上がって上がって!」
 
と、あたしはいつの間にか妹ちゃんに後ろからお尻を押されていた。
う~む、こうして懐かれるのは嬉しいんだけど、なんだか
この子が相手だと、ペースを握られっぱなしなのよね。将来が
ちょっとばかり不安だわ。
って、いったい何の心配をしてるのよあたしは!?
 
「あの、妹ちゃん、お家の方は?」
「お父さんは、まだお仕事だよ。お母さんはね、キョンくんが
調子悪いみたいだから、今晩はちょっとご馳走作ってあげるって
お買い物に行ってるのー」
「キョンの奴、そんなに具合悪いんだ…」
 
妹ちゃんの言葉に、あたしの胸はずきりと痛んだ。もしかしたら
あたしの言い放った心ない一言が、キョンを精神的に
苦しめてしまったんだろうか。
 
ああ、みくるちゃんの言った通りだ。
5月のあの日、あたしはなんとなく夢で聞いた言葉通り、無理矢理な
ポニーテールで学校に行った。キョンはそれを笑う事もなく、
『似合ってるぞ』ときちんと褒めてくれた。
 
もしあの時、冗談ででも「似合わない」などと言われていたら
どうだっただろう。考えただけでもゾッとする。
そのゾッとするような事を、あたしはキョンにしてしまったんだ。
しかもその事を、みくるちゃんに指摘されるまで気付きもしなかった。
本当にひどい。最低だわ、あたし。
 
「キョンくんはね、お部屋に居るはずだから先に行ってて!
あとでお飲み物持ってってあげるから!」
「あ、ありがとう」
 
やたらとテンションの高い妹ちゃんの笑顔炸裂っぷりとは裏腹に、
あたしは急激に気分が重たくなっていた。
階段を昇る足が止まりそうになる。いったいどんな顔で
キョンに会えばいいんだろう。
ううん、違うわ。今は自分の事を考えてる場合じゃない。いま一番
大事なのは、キョンの事のはず!
 
意を決して、あたしはキョンの部屋の扉をノックした。
 
「どーぞ」
 
ずいぶんと気の抜けた返事だわ。キョンの奴、あたしを
妹ちゃんと勘違いしてるのね。
それは、むしろ当然の事。いきなりあたしが家に押し掛けてくるなんて、
キョンの方だって予想できるはずがない。でも。
でも、キョンにとって…あたしはどんな存在なんだろう…?
 
「どう、キョン。具合は?」
 
思いきって扉を開けたあたしが中に向かってそう訊ねかけると、
こちらに足を向けてベッドに横になっていたキョンは
案の定、驚きの色もあらわに上体を起こした。
 
「ハルヒ!? お前、なんでここに?」
 
あ、メガネは外してる。そして、窓から差し込む夕焼けの赤を背景に
こちらを凝視するキョンの顔は…ひどいしかめっ面だ。
やっぱり、あたしのあの一言のせいで不機嫌なんだろうか。
 
「ん、その…帰り際にさ、キョンったら調子悪いみたいな事を
言ってたから、なんとなく気になって」
 
いや、そーじゃないでしょ!? 自分が悪いのは分かってるんだから、
素直に謝りなさいよ、あたし!
 
「なんだ、そんな事なら携帯で訊けば済むだろうに」
 
呆れたような口調で、キョンもそう言う。あたしが来たって、
別に嬉しくも何ともないんだろうか。それとも…
やっぱり、うるさくって迷惑だとか思ってるんだろうか。
 
「携帯でなんて…言えるわけないじゃない…」
「は?」
「だから! 携帯で謝るなんて卑怯じゃないって言ってるの!
そういう大事な話は面と向かって言うべきでしょ!? あたしは
あんたに直接謝りたかったのよ!」
 
我ながら、なんて言い草だろうかと思うわ。こんなバカな
謝り方をするのは世界でもあたし一人よ、きっと。
 
「本当はあのメガネ、あんたによく似合ってたって――
言わなきゃ気が済まなかったのよ! だって
それが、あたしの本心なんだから!!」
 
それでも。意地っ張りなあたしとしては、それでも精一杯の
謝意を込めたつもりだったのだ。それなのに。
 
「…なんだそりゃ?」
 
キョンの奴は、ぽかんと間抜け面で口を開けていた。明らかに
言っている事の意味が分からない、という顔だ。
 
「な、なんだそりゃって、だって、あんた――」
 
仕方がないので、あたしは部室でみくるちゃんに叱られたくだりを、
渋々ながらキョンに教えてあげたわ。本当はこんな事、
話したくはなかったんだけど。
するとキョンの奴は口元を覆って、むせぶように…ううん、
だんだん堪えきれないといった感じで笑い始めたの。
 
「ぷっ、くくっ…いや朝比奈さんの勘違いも相当だけど、
それを真に受けるお前もお前だよ、はっはは」
「か、勘違いって、え…?」
 
当惑してるあたしに、キョンはすいっと机の上を指差してみせた。
 
「ハルヒ、そこに俺のメガネが置いてあるだろ、ちょっと
それ、取ってくれないか?」
「なんですって? 団長を小間使い代わりにするつもり!?」
「いいからいいから。そうしたら、俺が笑ってる理由も
分かるだろうさ」
 
にやにやと思わせぶりにキョンが笑うので、あたしは不承不承に
キョンのメガネを手に取ったわ。するとキョンは、さらに
こうつけ加えた。
 
「そのメガネ、ちょっと掛けてみろよ」
「だ、だからなんであたしが指図されなきゃ…!」
「掛けてみれば、ちょっと違った世界が見えると思うぜ?」
 
まったく、何なのかしらね!? このあたしに一方的に
指示するなんて。キョンのくせに生意気だわ!
それとも、なに? メガネを掛けたあたしが見たいっていうの?
こいつってばメガネ属性もあったのかしら?
 
キョンのメガネ、か…。まあ、試しに掛けてやってもいいけど。
そうして、あたしは両手で持ったメガネを自分の顔に
差し込んでみた。あー、やっぱりあたしにはサイズがちょっと
大きいや。油断すると鼻からずり落ちそうになる。
 
「こ、これで…いいの?」
 
おずおずとキョンの反応をうかがう。レンズ越しに見た
キョンは、いつもの優しいあいつに見えた。
 
「ふうん。メガネっ娘のハルヒってのも、なかなか…」
 
と、キョンの奴はあご先に手を当てて、感心したように頷く。
その呟きに、あたしは急激に頬が火照るのを感じた。
 
「な、なにエロ親父みたいなこと言ってんのよ、このバカっ!」
 
照れ隠しに引っぱたいてやろうと、あたしはベッドに腰掛けてる
キョンに詰め寄ろうとしたわ。でも1歩、2歩、3歩目で
視界がぐらっと歪むのを覚えた。あ、あれ?
 
「おっと」
 
あやうく前に倒れこみそうになったあたしは、慌てて立ち上がった
キョンに、両肩を支えられていたの。
 
「うぷっ、なんか…気持ち悪い…。まるで船酔いしたみたいな…」
「だろ? 遠近感が狂っちまうもんだからな、慣れないと
最初はそうなるんだよ」
 
あたしに向かって、キョンはそう苦笑してみせた。
 
 
それから、キョンが語ってくれた事によると。
メガネが似合うか似合わないか、という点についてはキョンの奴は
割と無頓着だったらしい。キョン本人は何が良くて何が悪いのか
さっぱり見当がつかなかったそうで、実はあのデザインを選んだのは
妹ちゃんなのだそうだ。
だからあたしに似合わない!と言われても、それが
正直な評価なんだろうと思った、という。
 
…ちょっと、みくるちゃん。あなた、キョンがどれだけ鈍感なのか
まだ分かってないみたいね。まあ、それはあたしもだけど。
 
ともかく、キョンとしてはメガネがきちんと役に立てばそれで
良かったらしい。実際、黒板の文字は驚くほどハッキリと
見えるようになって、今日はいつになく授業に集中していたという。
 
ところが普段の反動が出たのか、気が付くとキョンの奴は
ひどい頭痛と肩こりに悩まされていたんだって。
あたしが声を掛けたのが、ちょうどその頃だったのね。さっきの
しかめっ面も、まだ痛みが抜けきってなかったせいだそうだ。
 
まったく、まぎらわしいんだから!
…でも良かった。キョンを傷つけてたわけじゃなくって。
キョンに嫌われてなくって――。
 
そこでハッと、あたしは気が付いた。
あたしはさっき、前によろけたわけで…キョンがそれを受け止めて
くれたわけで…その、か、顔がちょっと近いんですけど!
夕日に照らされて寄り添った二人の影が長く壁に伸びてて、なんだか
昨日見た映画みたいに雰囲気もバッチリなんですけどっ!?
 
「ねえ、キョン…ちょっと、目を閉じてくれない…?」
「はあ?」
 
反射的に訊ね返して、すぐにキョンは茹でダコみたいに
真っ赤になった。
そりゃこのシチュでこのセリフなら、いくらあんたがニブチンでも
分かるでしょーよ。
 
「お、落ち着けハルヒ、そういう事はだな…」
「いいから! 団長命令よ!」
 
あたしが全力で睨みつけると、キョンはしばし目を泳がせて、
それから勝手にしろよとばかりに目を瞑ったわ。
あたしはそんなキョンの頬に両手を当て、まっすぐに
こちらを向かせると、スッと――




 
――例のメガネを、キョンの顔に掛けてやったのだった。
 
「はい、メガネon♪」
「…………」
「なあに、キョンったらそんなに唇とがらせちゃって。何か
変な勘違いでもしてたのかしら?」
 
意地悪くそう訊ねかけると、キョンはいかにも恨めしそうな顔で
あたしを睨んできた。
 
「ハルヒ、お前なあ」
「ふーんだ、あたしの唇はそんなにお安くないの!
くやしかったら…無理矢理にでも、奪ってみなさいよ。だいたい、
そういうのって男の方からするものでしょ…」
 
小さく呟いて、ぷいっとそっぽを向く。そんなあたしに、
キョンの奴は
 
「やれやれ、どうにも自己中で意地っ張りなお姫様だな」
 
と呆れたように溜め息を吐いて、今度はあいつの方から、
あたしの頬に手を添えてきてくれた。
 
二人の距離がゆっくり縮まっていく。今度はあたしも
しっかりと目を閉じる。
あっ、キョンのメガネのフレームが頬に触れ――。


 
正直に言おう。あたしは自分の不明を恥じる。
この時点で、すでにキョンからヒントは出ていたのに。あたしは
それを全く見過ごしていたのよ。
 
そう…確かにキョン自身は、自分にメガネが似合ってるかという
問題について、全く無頓着だった。でもこの件に関して、
キョン以上に並々ならぬ関心を抱いている人物が、他に居たのだ。
 
それはもちろん、キョンメガネのデザインを決定した妹ちゃんに
他ならない。今なら、今日のあの娘がどうしてあんなに
ハイテンションだったのかがよく分かる。妹ちゃんの中では、
 
《自分がキョンくんのメガネを選んであげた》 →
 
《おかげでキョンくんは格好よくなった》 →
 
《だからハルにゃんはキョンくんのお見舞いに来たんだ!》
 
という3段論法が、既に確立されてたのよ!
そして妹ちゃんはその確認のために、自分が一番見たい場面を
見ようとする――。そんな事は、すぐに推理できて
然るべきだったのに、ああ!
 
「ハルにゃ~ん! キョンく~ん! おっ待たせー!
特別濃い目に作ったげたカルピスだよ~! …あややっ?」
 
ノックも無しに妹ちゃんがババーン!と扉を開けたのは、まさしく
キョンとあたしが触れ合おうとしていたその寸前で。
妹ちゃんは絵に描いたように、ニンマリとした笑みを浮かべてみせた。
 
「わ~っ! キョンくんとハルにゃん、ちゅーしてるっ!?」
「ち、ちちち違うのよこれはっ!」
「そそそ、そうだぞ妹よ! 俺たちはまだ何もしてないし!」
「えー? じゃあ、これからする所だったんだー?」
 
慌てて、ババッと左右に離れるあたしたち。それでも妹ちゃんの
ニヤニヤ笑いは収まらない。さらにさらに間の悪い事に、
階下からは玄関の扉が開く音が聞こえてきたの。
 
「ただいまー、お留守番ごくろうさま。すぐ夕飯にするからね」
「あっ、お母さん! あのねー、今キョンくんがねー!」
「「うわあああ!?」」
 
あたしとキョンは揃って妹ちゃんを引き止めようとしたけれど、
時すでに遅し。妹ちゃんはあっという間にお母さんの元へ
階段を駆け下っていってしまったのだった。
 
うわーん、どうしてこうなるのよ!? それもこれも、あんたが
メガネなんか掛けてきたせいよ! もう、キョンのバカぁ!
 
 
【 エピローグ 】
 
その後、あたしは日曜や祝日の空いてる日に、キョンの勉強を
見てやるようになっていた。
そもそもキョンがメガネを掛けるようになった原因は
総合的な学力の低下であり、それを
 
「SOS団の活動にかまけてるせいだなんて思われたら
迷惑ですから!」
 
とあの日、キョンの親御さんに宣言した結果、そういう事に
なってしまったのよ。まあ、物のはずみという奴ね。
 
キョンのご家族はこの提案に、諸手を上げて賛成。お母さんは
家の合鍵まであたしにくれたわ。うーむ、そこまで
あっさりあたしの事を信用しちゃうってのもどうなのかしら?
 
ああ、キョンの奴は一人だけ夕飯にろくに箸も付けずに、
ぐったりした顔を手で覆って
 
「もう好きにしてくれ…」
 
とか呻いてたっけ。
せっかくのご馳走だったのに、もったいないわね。
 
そのキョンは、数日メガネに慣れようとしてたんだけど、
どうも度を少し強めに作ってしまったようで、結局、
授業の時と勉強する時以外はメガネを外すようになっていた。
 
クラスの女子たちはしばらく残念がってたけど、すぐに
話題にも上らなくなったわ。あの子たちにとっては、
単に格好の暇つぶしネタだったみたいね。
 
詰まる所、現在キョンのメガネ顔をまともに拝めるのは、
教師連中とそれから、今こうしてキョンの部屋で
あいつの勉強を見てやってるあたしくらいのものって事よ。
 
「…ルヒ、ハルヒ!」
「えっ? あっ、なに?」
「解き終わったから答え合わせしてくれって言ってるだろ?
どうしたんだ、ぽけーっとしちまって」
 
「ん、ちょっと見とれてたのよ」
 
そう答えて、あたしは伸ばした人差し指の先で、ちょんと
キョンのメガネのフレームを突っついた。
 
「あんたの間抜け面にね♪」
 
思わせぶりに、くすっと笑う。するとその手に、キョンの奴は
自分の手を重ねてきた。
引き込まれるように、あたしとあいつの距離が縮まる。そうして、
夕暮れの赤い光の中。
 
あたしはあいつに、あたしだけのメガネ顔に、
そっと唇を重ねたのだった。


 
はい、メガネon   おわり

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最終更新:2020年03月12日 15:01