第二章
 
 
 
早朝、いつもと同じように目覚ましを止めて二度寝を始めた俺の部屋に、お袋の命を受けた妹が面白半分に俺の布団を剥ぎ取りに来た。必死の抵抗も空しく、俺は妹の必殺布団はぎにより布団から引きずり出される。
「キョンくん、おはよう、早く起きないと遅刻しちゃうよ」
無邪気にそう微笑んで、妹は俺の部屋から出て行った。夢と現を行ったり来たりしている頭を覚醒させるために、洗面台に顔を洗いに行こうと起き上がったとき、ふと枕元に見知らぬ封筒があることに気づく。
「なんだこれは」
昨夜の記憶を呼び起こしてみるものの、なぜ枕元にこんな奇妙なものがあるのかといった答えは出てこなかった。だが、俺はあまり深く考えることなく封を開け、中に入っていた便箋を見る。
『涼宮ハルヒ、朝比奈みくるについての重要な懸案についてお話したい。今日の放課後、例の喫茶店で待つ』
便箋にはそう綴られていた。それを見て、ようやく俺はこの手紙がハルヒがらみのものであることを認識した。俺は大きく溜息をつくと、便箋を布団の上に投げ出して、洗面台へと向かった。
今度はいったいなんだろうか。まあ、またハルヒが何かとんでもないことをしでかそうとしているに違いない。手紙の差出人は古泉か。しかし古泉はこんな回りくどい連絡方法をとらないはずだが……
ならば朝比奈さんか。それとも別の未来人か。長門ということも考えられる。一度栞にメッセージをもらったこともあるからな。
そんな風に考えながら、ハルヒがこれから起こすであろう騒動に心なしか期待している自分に気づく。いかんいかん、俺はハルヒの暴走を止めるSOS団の良心でなければならないはずだ。
俺はこれから起きるであろう非日常の出来事に不安と期待の入り混じった感情を抱きながら、身支度を整え、朝食を食べて自宅を後にした。
春も近いというのに未だに肌寒く感じられる気候を恨めしく思いながら、俺が北高へと続く坂道を登っていると、一年中夏真っ盛りと表現するにふさわしい人物が元気よく俺の背中を叩いて声をかけてきた。
「キョン、おはよう! どうしたのよ、しゃきっとしなさい! いい若者がみっともない!」
「お前はいつも朝っぱらから元気がいいな。俺は寝不足だよ」
感心を通り越して飽きれてしまうくらいのハルヒの元気に気圧されながら、俺はなんとかハルヒに悪態を吐いた。俺の言葉を聞いて、ハルヒは眉毛をキュルっと吊り上げて反論する。
「あんたがみっともないと、あたしまで恥ずかしい思いをするんだからね! しっかりしなさい!」
ちなみに俺とハルヒは世間一般でいうところの彼氏彼女の関係だ。俺が人生で五指に入るほどの覚悟で勇気を振り絞って告白し、ハルヒが俺の想いを受け入れてくれたのだ。
だが、せっかく恋人同士になったにもかかわらず、俺達の関係は以前とほとんど変わることはなかった。
どうなんだろう、世間一般の恋人というのはこういうものなのだろうか。なにぶん相手がハルヒなので一般的であるかどうかすら疑わしい。
谷口や国木田、古泉に言わせれば、俺とハルヒの関係はずっと以前から恋人同士であり、俺の告白はハルヒとの関係を言葉に出して表明したに過ぎないとのことだが、俺はこいつらの説を信じる気はない。
まあ、ハルヒがおしとやかになったところなど想像できないし、もしそんなことが現実に目の前で起これば、それはそれで俺の精神によくない影響を及ぼしかねないので、これでよしとしよう。
俺がハルヒといつものやりとりを交わしていると、谷口が恨めしそうに俺達を横目で見ながら通り過ぎていく姿が見えた。
「朝っぱらから目の前でイチャイチャすんな」
おお、超能力者でもないのに心の声が聞こえてきたようだ。古泉の属する機関にスカウトされないように気をつけなければ。そうこうしている内に、俺達は校門へとたどり着いた。いつものように下駄箱で靴を履き替えて教室へと向かう。
普段と何も変わることのない何気ない日常、俺はこのとき朝の封筒のことなど頭の片隅にもなく綺麗さっぱり忘れてしまっていた。
滞りなく授業は終わり、放課後となった。
「あ、キョン、今日はSOS団の活動は中止だから」
「え、なんでだ」
「あたしもいろいろと忙しいのよ。普段はあんたの面倒も見てるしね。じゃあね」
ハルヒは掃除当番の俺にそう言ってから、教室を出て行った。ハルヒが出て行く姿を見て、ふと、今朝の奇妙な封筒の件について思い出した。何もわざわざ喫茶店まで呼び出さなくても、学校で言えばいいのに……
そう考えて、呼び出しに応じるかどうか迷ったが、ハルヒがらみということもあり、念のために喫茶店まで足を運ぶことにした。いちはやく掃除当番を終わらした後、俺は鞄を提げて件の喫茶店へと向かう。
ハルヒが今日の活動を中止にしたのはなぜだろうか、などと考えながら通学路の坂を足早に下り、ものの数十分で喫茶店の前に到着した。
自動ドアをくぐり周囲を見回すと、そこには俺の予想を裏切る三人の姿があった。
俺と視線の合った橘京子が軽く会釈をして、俺に自分の前の席に座るように無言で促した。俺はブスっとした不機嫌な顔を作って彼らの正面の席に陣取る。
「このようなかたちで突然お呼びして申し訳ありません、ですが今回のことはあなたにとっても重要な事態と考えたので……」
「前置きはいい、用件を言え」
杓子定規に挨拶する橘京子に、俺はぶっきらぼうに言い放った。
「もうすぐあなたの可愛い未来人、朝比奈さんの卒業式の日だと思うのですが……」
「それがどうした」
「おそらくその日、あなたは彼女にデートに誘われ、最後に彼女はこの時間平面に残るか否かの選択をあなたに委ねてくると思います」
「……」
橘京子は平然とした表情で数日後の未来を語りだした。さも当然の事のように俺と朝比奈さんの数日後の未来を語る橘京子を見て、俺はイラつきにも似た不快感を覚えた。
しかし、この後に橘京子から語られた話は、そんな俺の個人的な感情がどうでもいいと思えてくるほどの、とんでもない内容だった。
橘京子は少しだけ間を空けて、俺が不機嫌そうな表情で自分を睨んでいるのをチラッと一瞥して大きく深呼吸した後、話の本題を告げた。
「そのときに彼女を、朝比奈さんを引き止めないで欲しいのです。もしあなたが朝比奈さんをこの時間平面に引き止めれば、彼女はその日から一週間以内に死ぬことになります」
「なんだと!」
俺は橘京子の言葉を聞くや否や、喫茶店のテーブルを力いっぱい叩いて立ち上がった。喫茶店内の視線が俺に集中する。俺達のやりとりを傍で見ていた藤原が横から口を挟んだ。
「落ち着け! 僕等はなにも朝比奈みくるが死ぬと言っているわけじゃない。彼女が死なない方法をあんたに教えてやってるんだ。むしろあんたは僕達に感謝するべきじゃないのか」
俺は藤原を睨みつけたが、藤原も表情を崩さないままじっと俺の目を見据え、その状態がしばらく続いた後、俺はそのまま無言で腰を下ろした。
確かに藤原の意見は正論のように思えるが、目の前の三人がいままで俺達にしてきたことを考えると、何か思惑があってのことに違いない。
「それで、その情報を俺に教えて、お前達にはどんなメリットがあるんだ」
俺が藤原のほうを向いてそう詰問すると、橘京子がさっきと同じように淡々とした口調で俺の質問に答えた。
「あたし達にとっても、朝比奈さんがこの時間平面で死ぬことは都合が悪いのです。だから、同じ利害関係にあるあなたにこの情報を提供したのです。このような回答でよろしいでしょうか」
橘京子はポーカーフェイスのまま、まるで俺の質問を予想していたように、じっと俺の目を見据えて言った。
「どういった理由で都合が悪いんだ」
「それは……禁則事項です。でも、あたしたちの理由がどうであれ、あなたが朝比奈さんを見殺しにする理由にはならないと思いますが」
橘京子は何かを隠しているようであったが、彼女の言うように、それが何であれ、朝比奈さんが死んでしまうといった状況を放置する理由になるとは思えない。
「わかっていただけたようで、あたしもほっとしてます。これを機にあなたとよい関係を築ければいいのですが……」
「残念だが俺にはその気はない。朝比奈さんのことに関してだけは感謝しといてやる」
そういい残して俺が席を立とうとした時、いままで置き人形のように無言で座っていた人物が、突然、この場にいた全員が予想だにしなかった一言を告げた。
「――――あなた達は―――――卑怯――――」
九曜周防が藤原と橘京子に言ったその一言を聞いて、俺は橘京子を睨みつけて問い質す。
「どういう意味だ」
橘京子は、初めてその平然とした表情を変え、助けを求めるように藤原のほうを向いたが、藤原が肩をすくめて諦めたポーズをとったため、観念したように俺の方を向いた。
「すみません、確かにあたし達はあなたを欺くような真似をしていました」
「どういう意味だ! 俺に協力を仰ぎたいのならすべて話してもらおうか。さっきの禁則事項のことか」
「はい、しかし……それを聞くと、きっと後悔しますよ」
「いいから言え」
俺が少しだけ声を荒げて隠し事を話すように促すと、橘京子は大きく溜息をついた後、俺の想像の範疇を超えたとんでもないことを言い出した。それは俺にとって死刑宣告にも等しい内容だった。
「……もし、あなたが朝比奈さんを助けるために、彼女を未来の世界に帰したら……、彼女の代わりに涼宮さんが死ぬことになります」
一瞬、俺は橘京子の言っていることの意味が理解できなかった。
ハルヒが死ぬ? 朝比奈さんを助ければハルヒが死ぬ……ハルヒを助けるためには朝比奈さんの見殺しにするしかない……それはつまり……
「ふざけるな!!」
少し間を置いてすべてを理解した直後、俺は怒りのあまり頭に血が上り、橘京子の胸倉を掴み上げて立ち上がる。
「ハルヒが死ぬだと! 冗談もいいかげんにしろ! 言っていいことと悪いことがあるぞ!!」
「く、苦……しい……」
突然の出来事に、橘京子はなすすべもなく、彼女の服を絞り上げている俺の手首を握り締めている。怒りに我を忘れて橘京子を掴み上げている俺の手を、横にいた藤原が掴んだ。
「おい、いい加減にしろ! この時代の人間は女性に暴力を振るうほど野蛮なのか!」
藤原の静止でようやく我に返った俺は、橘京子の胸倉から手を放して席に座った。橘京子が喉元を押さえてゴホゴホと咳き込んでいる姿を見て、冷静さを欠いた自分の行動に少しだけ罪悪感を覚えた。
「スマン」
俺がそう言って謝罪する姿を涙目で見ながら、橘京子は怒りと恐怖が混在したような表情で俺を見て、少し怒ったように状況の説明をする。
「とにかく、あたし達が現時点であなたに言えることはそれだけです。涼宮ハルヒを選ぶか、それとも朝比奈みくるを選ぶかは、あなた次第だわ。
あたし達としては、あなたが朝比奈みくるを助けてくれた方が佐々木さんのためになると思って隠していたの。そのことは謝るわ。でもそれは決してあたし達だけのためではない。
すべてを知ってしまった以上、あなたは選択しなければならなくなったのよ。涼宮ハルヒか、朝比奈みくるかを。それはあなたにとっても辛いことではないのですか?
それならばいっそ、最初から何も知らなかったほうが幸せだと思って、あたし達はあなたに配慮したのに……」
続いて藤原が、俺を孤独の淵へと突き落とすような忠告を行う。
「一応言っておくが、答えが出ないうちにあんたの周りにいる宇宙人や超能力者には相談しない方がいい。彼らに聞けば涼宮ハルヒを選ぶに決まっているからな。
つまりあんたはこの難しい選択を自分ひとりで決断しなければならなくなったわけだ。ふたりに聞くということは、その時点で涼宮ハルヒを選んだことになるということを忘れるな」
ふたりは言うだけ言った後、自分達の役割は果たしたといわんばかりに席を立ち、俺の前から立ち去ろうとした。俺は喫茶店から出て行こうとする橘京子に尋ねる。
「おい、佐々木はこのことを知っているのか?」
「佐々木さんはこの件には無関係よ。あたしは彼女に余計なことで心配をかけたくないの。だからもし、あなたが彼女を巻き込むようなことをするのなら、あたしは全力でそれを阻止するわ」
橘京子は俺の方に顔を向けてそれだけ告げると、プイっと顔を背けて俺の方を見ずに喫茶店から出て行った。とりあえず佐々木が関わっていないことだけは不幸中の幸いといえるだろう。
しかしどうするべきだろうか。ハルヒと朝比奈さんのどちらかを選べと言われて、俺はどちらか一方を選択できるだろうか。そんなことは考えるまでもなくできるわけがない。
奴らが嘘をついて俺を混乱させている可能性もある。やはりここは長門や古泉に相談するべきか。しかしもし本当なら……
堂々巡りの思考を何度も何度も繰り返した後、俺は結論の出ないまま喫茶店を後にした。答えの出ない議論が頭の中をぐるぐる回っているいる状態で、俺は家へとたどり着いた。
 
翌日
俺は目覚まし時計が鳴ると同時に目を覚まし、妹が俺の部屋を訪ねてくる頃にはすっかり着替えを終えていた。そんな俺の様子を見て妹は、
「え、キョンくん、今日はどうしたの? 何かあるの? ハルにゃんとデート?」
などと言いながらじゃれついてくる。俺は妹を適当にあしらい身支度を整えると、少し早めに自宅を後にした。
坂を登りながら昨日の喫茶店での橘京子の話について思考を巡らす。ハルヒをとるか、それとも朝比奈さんをとるか、そんなことが選択できるわけがない。
そう思いながらふと、緊迫した状況であるにもかかわらず、自分自身が落ち着いていることに気づいた。なぜ、俺はこんなに冷静でいられるのだろうか。
騒動に慣れたからか。それともどちらを選ぶかの結論が既に出ているからか。いや、そうではない。
それは藤原と橘京子の言葉が真実であるという保証がないからだ。だから俺は心のどこかで彼らの言葉を信じていないのだ。いや偽りであって欲しいと願っているのだ。
しかし、確かに彼らが何らかの思惑があって俺に嘘をついている可能性は高い。だから結論を出すのは、彼らの言葉が真実であることを確かめてからでもいいだろう。
そう結論を下し、少し胸にモヤモヤするものを抱えながらも、俺はこのことについて考えるのを止めた。
俺がこの問題にとりあえずの結論を出すのと同時に、背後からいつもの元気のいい挨拶とともに背中を叩かれた。
「おはよう、キョン! どうしたの、今日はいつもよりも早いじゃない」
「俺にもいろいろ考えることがあるんだよ」
「ふーん」
俺の言葉を聞いて、首をかしげながら流し目で俺を見るハルヒの姿を見て、ほんの少しだけドキッとした。
「まあいいけどね」
ハルヒはいつもの100ワットの笑顔に戻り、俺と並んで坂道を歩き出す。
「ふたりとも仲がいいのね」
俺達のやりとりを横で見ていた阪中が、そう言ってハルヒをからかうと、ハルヒは顔を真っ赤にしながら、
「ち、違う、あたしはキョンがどうしてもと頼むから、仕方なくつきあってあげてるだけなのよ。あたしにとってこいつは雑用係なんだから」
などと子供じみた言い訳をする。つきあいだした後もハルヒは相変わらずだ。まあ、そんなハルヒに惚れたんだから仕方ないけどな。
俺にとって、微笑ましく思えるその様子を横目で見ながら『ハルヒが死ぬわけがないじゃないか』と自分に言い聞かせた。
しかし数日後、この逃避ともいえる性急な決断を下したことを心の底から悔いることになった。
それから数日が経ち、朝比奈さんの卒業式の日がやって来た。式は滞りなく終わり、俺達SOS団のメンバーはいつものように本拠地である文芸部室に集合した。
このときの俺の頭の中には、橘京子の忠告など片隅にもなく、朝比奈さんが未来の世界に帰ってしまうのではないかといった心配でいっぱいだった。
古泉から花束を手渡され嬉し涙を流す朝比奈さんに、ハルヒが提案をする。
「みくるちゃん、最後だからひとつだけ何でも願いを叶えてあげるわ。みくるちゃんはあたし達に何かして欲しいことはない」
ハルヒの言葉に一瞬だけ古泉が反応した。何でも願いを叶えるとは大きく出たものだ。勘がいいのか、それとも自分の能力を把握しているのか……
朝比奈さんは少しだけ迷ったようなしぐさを見せた後、おそらくハルヒが予想していなかったであろう願い事を言った。そしてその願い事は、このとき俺の頭の片隅にもなかった橘京子の言葉を鮮明に思い出させるものだった。
「あのう、じゃあ、一回で構いません。明日キョンくんとデートさせてください」
「え!?」
ハルヒはキョトンとした表情で朝比奈さんが何を言ったのか理解できていないようであったが、徐々にその表情に焦りの色が見え始める。
即答はできなかったものの、ハルヒも一度口にしてしまった言葉を引っ込めるわけには行かなかったようで『デートだけだからね!』と、なぜか俺が念を押されて了承された。
本来であれば、ハルヒが俺の彼女であることが再確認でき、おまけに朝比奈さんとデートできるという好ましいことこのうえない状況であるはずが、俺の心の中に不安が込み上げてくるのがわかった。
橘京子が言ったように、朝比奈さんが卒業式の日に俺をデートに誘うという状況が、俺の目の前で繰り広げられているのだから無理もない。
長門は指すような視線で、古泉は心配そうな表情で俺の顔を見ていた。長門はともかく古泉が何を心配しているのかはよくわかったが、このときの俺は、とてもそんなことを心配するような状況ではなかった。
長門か古泉にいま俺が抱えている不安を相談したい。もしここでふたりのどちらかが俺の心を読み取ってくれれば、どれだけ救われるだろうか。そんな考えが頭をよぎる。
だが俺は、この不安をみんなに悟られないように平静を装い、終業のチャイムが鳴るのを待って、その日は帰路についた。
 
翌日
俺がいつもの喫茶店に到着すると、朝比奈さんは緊張しているようにうつむいて席に座っていた。周りにはハルヒや長門や古泉の姿はなく朝比奈さんひとりだった。
「すみません、お待たせして」
「ううん……わたしもさっき来たところ……」
以前、俺が高校一年の秋にもこんなことがあった気がする。あの時は翌日、ハルヒに詰問されていいわけに苦慮したものだが、それもいまではいい思い出だ。
俺は平静を装いながらアイスコーヒーを注文する。だが、頭の中では橘京子の言葉が何度も何度もこだましていた。なるべく平静を装いながら、
「今日はこの後どうしましょうか」
と朝比奈さんに尋ねると、彼女は前回のデートと同じようにデパートにお茶を買いに行きたいと提案してきた。断る理由もなかったため、俺は彼女の提案を受け入れた。
朝比奈さんが席を立ったので、俺は伝票を手にとってレジに向かう。支払いを済ませて喫茶店を出ると、朝比奈さんは出入り口付近で俺を待っていてくれた。
俺がいつものように朝比奈さんを先導するかたちで彼女の前を歩いていると、朝比奈さんが突然俺の傍に歩み寄り、俺に懇願する。
「あ、あのう、手を……手をつないで歩いてもらえませんか」
普段と違って積極的な朝比奈さんの行動に少しびっくりしたものの、俺は朝比奈さんの提案を素直に受け入れることにした。そんな朝比奈さんの意外な一面を見て、あらためて朝比奈さんの持つ少女特有の可愛らしさのようなものを感じた。
SOS団での思い出を振り返ってみれば、一年生のときの俺は朝比奈さんの姿ばかりを目で追っていた記憶がある。当時の俺にはそれほど朝比奈さんが可憐に思えた。
朝比奈さんの可愛らしさはいまでも変わらないが、何の運命のいたずらか俺は朝比奈さんではなくハルヒと交際することになった。
俺にとって朝比奈さんは高嶺の花であったし、なによりこの時間平面で恋愛をすることを禁じられていることを知っていたため、こうなったことは仕方のないことだろう。
朝比奈さんが俺に好意を持ってくれていることは薄々気がついていた。もし朝比奈さんが未来人でなければ、俺はハルヒと朝比奈さんのどちらを選んだだろうか。
もちろんハルヒに不満があるわけではない。ハルヒも容姿だけなら朝比奈さんに負けず劣らずの美少女であるし、なにより俺とハルヒは相性が良かった。
まるでハルヒと出会うずっと以前から、俺とハルヒは結ばれる運命であったかのようだった。だから、俺はいまの状況に何らの不満もない。
だが、いま俺の望んだ日常が音を立てて崩れようとしているのだ。ハルヒかそれとも朝比奈さんか。妄想ではなく現実に、俺はどちらかを選ばなくてはならないのだ。
昨日の夜も、俺は布団の中で何時間も悩みに悩んだ。いままでの人生でこれほど悩んだことはないし、おそらくこれからもないであろう。しかし、結局結論は出ないまま今日を迎えてしまった。
デパートへ向かう最中、俺達はハルヒ一行に出くわした。ハルヒは不満気な表情で俺を見ていた。まるで俺が自分と朝比奈さんのどちらを選ぼうかと悩んでいるのを知っているかのようであった。
確かにハルヒからすれば、恋人であるはずの自分と朝比奈さんが同列に比べられていることに不満を持つかもしれない。自分は恋人なのだから、第一に自分を選んで欲しいと思うのはハルヒでなくても当然だと思う。
だが、生きるか死ぬかという問題なのだからそう簡単に結論を下すことができるわけがない。
俺はハルヒと目を合わさないように、悩み事を悟られないようにすれ違い、ハルヒも何も言わないまま無言で俺達ふたりとすれ違った。
デパートに着くと、朝比奈さんは地下の食料品売り場に行き、あの時と同じように真剣な目でお茶の銘柄を眺め、その中の銘柄のひとつを選んで買った。聞くと、あの時と同じ銘柄だそうだ。
「あのときと同じようにお茶を飲んでいきませんか?」
朝比奈さんがこう提案してきたので、俺は快く受け入れ、奥のテーブル席に座った。
「あの時はこうやって落ち着いてお茶を飲むことはできませんでしたね」
どうやら朝比奈さんもあのときのことを思い出しているようだった。今回は朝比奈さんではなく、俺が落ち着いてお茶を飲めない状況に陥っているのだが、そのことを朝比奈さんに隠していることに後ろめたさを覚えた。
俺は、朝比奈さんのしぐさを眺めながら、今回の事態を打開するために俺がたどり着いた結論を実行に移すかどうか悩んでいた。
それは、いまここで朝比奈さんにすべてを打ち明けて、朝比奈さんにどうするかを選んでもらうというものだった。それは俺にとって合理的な方法に思えた。
なぜなら、不利益をこうむる当事者は朝比奈さんとハルヒだ。ハルヒにすべてを打ち明けることはできないが、朝比奈さんにならいまの状況を打ち明けても問題はないはずだ。
つまり不利益をこうむる当事者でない俺が選択するよりも、当事者である朝比奈さんこそが選択をするべきではないかと考えたのだ。
俺が意を決して朝比奈さんにすべてを打ち明けようとしたとき、朝比奈さんはすっと席を立った。
「そろそろ行きましょうか」
「え、あ、は、はい」
まるで俺の出鼻を挫くように朝比奈さんは席を立ったので、俺は咄嗟に対応できず、言い出す機会を失ってしまった。このときの朝比奈さんの行動は、まるで俺の心の中を見透かしているようにさえ思えた。
デパートを出た俺がどうしようかと思案に暮れながら朝比奈さんの後について歩いていると、朝比奈さんが俺の方に歩み寄り、次の行き先を提案する。
「これから公園の方に散歩に行きたいんですけどかまいませんか」
俺はそれを受け入れ、朝比奈さんと手をつないで、彼女をエスコートするように歩き出した。
公園へといたる道中で、朝比奈さんはSOS団であったいろいろな思い出を俺に聞かせてくれた。そんな朝比奈さんの無邪気な顔を見ると、とてもこの世界に留まってくれとは言えなかった。
俺達が公園へたどり着く頃には、日は山際に差し掛かり、黄昏が当たり一面を真っ赤に染め、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
「歩き疲れたでしょう。少し休みましょうか」
俺は朝比奈さんを思い出のあるベンチに誘導する。朝比奈さんがベンチに腰掛けるのを見て、俺は意を決して話を切り出すことにした。
「朝比奈さん、今日でお別れなんですね」
朝比奈さんは、俺の言葉を聞いて立ち上がると、遠くの方に視線を移してこの公園での俺との思い出を語りだした。その話を聞いて、俺の心にあるひとつの疑問が浮かび上がる。
『過去の俺がいまの俺を見たら、果たしてどう思うだろうか』
そう、俺の北高に入学していままでの高校生活は、ハルヒの巻き起こす騒動に巻き込まれ、朝比奈さんだけでなく長門や古泉とも協力して様々な困難に立ち向かっていった二年間だった。
しかし、俺達はどんな状況に陥ったときでも、仲間を犠牲にして自分だけが助かろうと思ったことは一度もなかったはずだ。なのにいま、朝比奈さんを犠牲にしてハルヒを助けようとしている。
朝比奈さんに選択肢を託すと言えば聞こえはいいが、俺は知っているのだ。朝比奈さんにすべてを話せば、彼女はこの世界に留まると言い出すことを。
いつの間に俺はこんな卑怯者に成り下がってしまったのだろうか。自責の念が心の底から込み上げてくるのがわかった。
だが、俺が心の準備をする間もないまま、朝比奈さんは俺と何度か言葉を交わした後で、真剣な表情になって俺への想いを語り、俺にいままで答えの出せなかった選択の決断を迫ってきた。
「わたしはキョンくんのことが好きです。だから……もしキョンくんが望むのでしたら、わたしはこの時間平面に留まり、この時代の人間として生きていくつもりです」
決断の時がきたのがわかった。もう逃げることは許されない。ハルヒか朝比奈さんか、どちらかを俺は選ばなくてはならない。
ほんの数十秒に満たない時間が永遠のように長く感じられた後で、俺は決断を下した。最後に俺に選択を下させたものそれは、
『朝比奈さんを犠牲にして、それで俺はハルヒと幸せを築くことができるのか』
といった当たり前の考えであった。
俺がその決意を言葉にして朝比奈さんに告げようとした時、
「キョン!!」
俺の言葉を遮るかのように、ハルヒの声が聞こえてきた。俺達が声のした方向に視線をやると、ハルヒが息を切らして駆け寄ってくるのが見えた。
「ど、どうしたんだ、ハルヒ」
そう俺が尋ねると、ハルヒは俺がこの世界から消えてしまう予感がしたと言い出した。その後、ハルヒは自分の行動が浅はかだったことに気づき、俺達ふたりの前から立ち去ろうとしたが、朝比奈さんがハルヒを呼び止めた。
「もう、キョンくんは涼宮さんにお返しします」
そう言って、朝比奈さんはハルヒに俺といっしょに帰るように促した。ハルヒは一瞬戸惑った様子を見せたものの、瞬時に朝比奈さんの心情を察したようだった。
「キョン! 行くわよ!」
ハルヒは俺にそう告げて、スタスタと公園の出入り口の方に向かって歩き始める。
朝比奈さんに何か最後に別れの言葉をと思ったが、かける言葉が見つからなかった。俺の知るどんな言葉も、朝比奈さんを慰めることができないと知っていたからだ。
朝比奈さんは、俺に好意を持っていてくれて、最後の最後に思い出作りにと俺とのデートを望んだのに、俺は、そのことを知りながら、心ここにあらずの状態でつきあってしまった。
そのことに深い罪悪感を感じざるを得なかった。
公園の出入り口付近まで来ると、突然ハルヒは立ち止まり、くるっと俺の方を振り返る。その表情から少し不機嫌であることが窺えた。
「あんた! みくるちゃんに変なことしてないでしょうね。後ろめたいことがあるなら先に言っときなさい。いまなら許してあげるわ」
「な、何を言ってるんだ。俺は別に何もしてないぞ」
少し戸惑いながら答える俺の姿を見て、ハルヒは目を吊り上げながら俺の片腕を掴んで尋問モードに入る。
「あんたがそんな風に目をそらすのは、たいてい隠し事をしているときよ! 正直に言いなさい! あたしを相手に隠しとおせると思ってるの!」
「お、お前が怒るようなことは何もしてないって言ってるだろ」
「じゃあ、あたしが怒らないようなことはしたのね。それは何? あたしにわかるように説明しなさい!」
むきになって詰問してくるハルヒを見て、俺は、悲しませてしまった朝比奈さんのためにも、必ずハルヒを守ると心に誓った。例え、ハルヒが死ぬことが運命であったとしても、俺は運命に抗ってハルヒを守ってみせると。
静かなる決意を胸に秘めて、不機嫌そうに今日のことを根掘り葉掘り詮索してくるハルヒとともに、俺は家路に着いた。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2008年01月05日 22:54