第一章


その日、わたしはSOS団メンバー御用達の喫茶店で待ち合わせをしていた。
いま、わたしの周りには、涼宮さんも長門さんも古泉くんもいない。わたしひとりだけがこの席に座っている。
わたしは注文したアメリカンコーヒーをじっと見つめながら、待ち人が来るのを静かに待っていた。
「いらっしゃいませ」
喫茶店の自動ドアが開き、わたしの待ち人がようやくやって来た。彼は店内をキョロキョロと見回し、わたしが座っている席を見つけると、わたしの正面の席に座った。
「すみません、お待たせしまして」
「ううん……わたしもさっき来たところ……」
一瞬、既視感のような感覚に襲われた。ずっと前にもこんなことがあったような気がする。
「ご注文は何になさいますか?」
すまなさそうにわたしに謝罪する彼に、店員が横から声をかけた。
「ええと…俺はアイスコーヒーで」
「かしこまりました」
注文を伝票に書き写して、店員はわたし達の傍から離れていく。
「一応、最後に来た人がおごるのがSOS団の規則なので、ここは俺がおごりますよ」
「うふふ、じゃあお願いするわね」
申し訳なさそうな表情でそう提案してきた彼に、わたしは無邪気に微笑んだ。
しばらくして彼が注文したアイスコーヒーが運ばれてきた。彼は、アイスコーヒーをストローでかき混ぜて一口啜った後、柔らかな表情でわたしに笑いかけてくれた。
「今日はこの後どうしましょうか」
彼の声は、いつもと同じように、わたしの心に溶け込んでくるようだった。それはわたしが彼のことを好きだったからだ。
でも、彼の仕草や態度は常にわたしと一定の距離をとっているようで、わたしがどんなに望んでも彼に近づくことができないように思えた。それもいつものことだった。
わたしは彼との間のこの距離感が嫌だった。いや、歯がゆかった。
彼はわたしのことを大切にしてくれたが、わたしには彼の仕草や態度がまるでお客様のように扱われている感じがするのだ。わたしは彼にもっと身近な存在として扱ってもらいたいのに。
「以前、デパートにいっしょにお茶を買いに行ったことを覚えてますか。今日もあの日と同じようにお茶を買いに行きたいのですが」
「わかりました」 

わたしの提案を彼はすんなりと受け入れ、優しくわたしに微笑んだ。その表情を見て、わたしの胸の奥に熱いものが込み上げてくる。
咄嗟に彼の顔から目を逸らし、わたしは立ち上がると、無言のまま、いままで座っていた席を後にした。彼は伝票を手にとり、レジの方に歩いて行った。
先に喫茶店の出入り口付近で待っていると、彼が支払いを済ませて喫茶店から出て来た。
「じゃあ、行きましょうか」
そう言うと、彼はわたしをエスコートするように、わたしの前を歩き出した。それは、わたしとふたりきりでいる時に見せる、彼の普段の行動だった。
普段なら、愛しい彼にこうやってエスコートしてもらうことを嬉しく思い、わたしはうつむいて彼の後をついていくのだが、今日のわたしは彼のこの行動を不満に思った。
わたしは彼のもとに駆け寄ると、勇気を振り絞って自分の願いを彼に伝える。
「あ、あのう、手を……手をつないで歩いてもらえませんか」
うつむきながらそう訴えるわたしを前にして、彼は少しだけ困った表情を浮かべた後、やんわりと微笑み、
「わかりました」
そう言って、彼はわたしに手を差し出した。彼の手を握り暖かい手に触れることで、わたしはほんの少しだけ彼に近づけたような感じがした。
「すみません、無理を言って……」
「なにを言ってるんですか。朝比奈さんほどの美少女と手をつないで歩けるなんて光栄ですよ」
彼はいつものようにわたしを気遣う言葉をかけてくれた。例えそれが彼にとってほんの社交辞令に過ぎなかったとしても、わたしには救いの言葉のように思えた。
思えば、わたしは彼の優しさにどれほど救われてきただろうか。もし彼がいなければ、頼る人もいないこの時間平面で、わたしが任務を達成できたかどうかすら疑わしい。
彼のおかげで、いまのわたしがあるといっても過言ではない。どれほど彼に感謝しても足りないくらいだ。そしていつの間にか、わたしの彼への感謝は好意へ変わっていた。
いつの頃だったのだろうか、わたしが彼を好きだと気づいたのは。彼への想いに気づいたのは。
そんなことを考えながら、わたしが彼と手をつないでデパートに向かっていると、前から涼宮さん達が歩いてくるのがわかった。彼もそれを認識したようで、少しだけ表情が引きつった。
涼宮さん達もわたし達に気づいたようだったが、特に何を言うでもなく、ただわたし達を一瞥してそのまま通り過ぎて行った。
しかし、わたしが三人とすれ違うとき、涼宮さんは不満気な表情で、長門さんは複雑な表情でわたしを見ているのがわかった。古泉くんは引きつった表情でわたしではなく涼宮さんを見ていた。
デパートにたどり着くと、わたし達はあの日と同じように地下の食料品売り場に向かい、どのお茶を買おうか散々迷った挙句、あの日と同じ銘柄のお茶を買った。
「覚えてますか、あの日ここでふたりでお茶を飲んだことを」
「もちろんですよ、朝比奈さんとお茶を飲んだ思い出は記憶喪失になっても忘れることはありませんよ」
きっとこの言葉は彼の本心なのだろう。彼のこの優しさにわたしは惹かれたんだわ。でもその優しさがいまでは……
「あのときと同じようにお茶を飲んでいきますか? あ、でもさっき喫茶店でコーヒーを飲んだばかり……」
「いえ、大丈夫です。朝比奈さんと飲むお茶なら何杯でも飲み干すことができますよ」
わたし達は店の奥にあるテーブルに陣取り、お茶と団子を注文した。 

「あの時はこうやって落ち着いてお茶を飲むことはできませんでしたね」
「それは仕方が無いですよ。あの時は未来からの指令を受けていたのでしょう」
「でも、わたしがもっとしっかりしていればお茶を楽しむことぐらいはできたはずです。あの時ほど自分の力不足を痛感したことは無いわ」
わたしはそう言ってうつむいた。ふたりの間に奇妙な沈黙が訪れる。
「お待たせしました」
店員さんが威勢のいい声でお茶と団子を運んできた。わたし達は無言のままそれに口をつけた。
彼は、少しだけ憂いを帯びた表情で、わたしのしぐさのひとつひとつを眺めていた。わたしには彼が何を考えているのかがなんとなくわかった。
きっと彼はわたしへの最後の言葉を探していたのだと思う。あの喫茶店でわたしと会ったそのときから……
彼がわたしの方を見て、意を決したように何かを告げようとしたとき、わたしは席を立ち、伝票を手に取った。
「そろそろ行きましょうか」
「え、あ、は、はい」
彼は出鼻を挫かれたような少し戸惑った表情でわたしの顔を見てから、わたしと同じように席を立った。
わたしは彼といっしょに買ったお茶の葉を傍らに携えて、彼を先導するかのようにデパートを後にした。しばらく歩いてから後ろを振り向くと、彼が少し暗い表情でうつむきながら、わたしの後について来ていた。
「あの~」
「え、な、なんでしょうか」
わたしが声をかけると、彼はちょっとびっくりしたような表情でわたしの顔を見た。
「これから公園の方に散歩に行きたいんですけどかまいませんか」
「はい、朝比奈さんがお望みならどこにでもお供しますよ」
そう言って、彼はわたしに微笑んだ。わたしも彼を見て微笑み、片手を差し出す。
「じゃあ、さっきみたいに手をつないでも歩いてくれますか」
「喜んで」
彼はわたしの差し出した手を握り、わたしを導くように歩き始めた。
公園へと行く途中、わたしはSOS団に入団してから彼と過ごした様々な思い出を彼に語りかけていた。彼はわたしの語りかけに相槌を打ってくれたが、何か別のことを考えているようでもあった。
わたし達が公園にたどり着くと、辺りの景色は夕日で真っ赤に染まり、幻想的な風景が目の前に広がっていた。
人通りはまばらで、わたし達とすれ違った若い母親と思われる女性の周りを、幼い子供がキャイキャイとはしゃぎながら駆け回る姿がとても微笑ましく思われた。
「歩き疲れたでしょう。少し休みましょうか」
そう言って、彼がわたしをベンチの方へとエスコートしてくれた。 

わたしがベンチに腰を下ろすと、彼は立ったまま真剣な表情でさっきからわたしに言おうとしていた言葉を告げた。
「朝比奈さん、今日でお別れなんですね」
じっとわたしの目を見つめる彼の瞳から目をそらし、わたしは立ち上がると、遠くの方を見ながら答える。
「覚えてますか、わたしがキョンくんに未来人だと告げたのはこの公園でした。時間平面の移動を行って、最初にキョンくんと過去に遡ったのもこの公園でした。
不思議探索のときも、未来からの指令を受けたときも……この公園にはキョンくんとの色々な思い出がある。だから……」
「だから、最後の別れもこの公園でと思ったわけですか」
わたしが言葉に詰まって言えなかったセリフを、彼が代わりに答えてくれた。
「いつかこの日が来ることは覚悟してました。しかし俺は心のどこかでまだ大丈夫だと安心していた部分があったんだと思います。
だから、現実にこの日が訪れたにもかかわらず、俺はあなたにかける言葉が見つからない。今日朝比奈さんと会ったときからずっと、俺は最後の言葉を探していました。
でも、俺の知っているどんな言葉も朝比奈さんへの気持ちを言い表せないでいる。そして俺はそんな不甲斐ない自分に憤りを覚えるのです」
そう言った彼の表情や仕草から、彼が本当にわたしのことを想ってくれていることがよくわかった。でも、その想いはわたしの望む想いとはかけ離れたものだった。
わたしは彼に愛してもらいたかったのだ。でも、彼が本当に好きなのは……
ふたりの間に沈黙が訪れ、周囲の雑踏が遥か遠くに聞こえるような錯覚に陥る。
ほんの刹那の短い時間だっただろうが、わたしには永遠と思われるほどの長い時間が過ぎた後、わたしは意を決して顔を上げ、一縷の望みを託して彼に自分の決意を告げた。
「キョンくん、真剣に聞いていただきたいことがあります」
彼はわたしの真剣な表情に一瞬たじろいだものの、わたしの決意の大きさを瞬時に知って大きくうなずいた。
「わたし達時間駐在員が過去に遡った場合、その時間平面での行動は大きく制約されます。そしてそこでのトラブルはすべて自己責任で解決し、そのうえで任務も全うしなければなりません。
しかしその対価として、任務を全うした時間駐在員には、元の世界に返るか、それともこの時間平面に留まってこの時代の人間として暮らしていくかの選択権が与えられます。
過去に派遣された時間駐在員の中には、その時間平面の世界に愛着を抱いてしまう者もいたからです。でも、この世界に残るということは元の世界の家族や友人を失うということを意味します。
だから、たいていの時間駐在員はその時間平面に未練を残さないように己を律して任務にあたるのです」
ここまで言って、わたしは間を空けて唇を舌で湿らせる。次の言葉を言うか否かの迷いとともに涼宮さんの悲しげな表情が脳裏に浮かんだが、心に生じた迷いを振り切ってわたしは次の言葉を彼に告げた。
「わたしも当初はこの世界に未練を残さないように慎重に行動してきたつもりでした。でも、わたしはキョンくんのことが好きになってしまった。そしてその気持ちは日増しに強くなっていく」
「朝比奈さん……」
「わたしは別れの言葉を聞くためにこの公園にキョンくんといっしょに来たわけじゃないわ。キョンくんにわたしの本当の気持ちを知ってもらいたかったの。
わたしはキョンくんのことが好きです。だから……もしキョンくんが望むのでしたら、わたしはこの時間平面に留まり、この時代の人間として生きていくつもりです」
わたしは、いままでずっと胸に秘めていた想いを、ようやく彼に告白することができた。
告白し終わった後、彼は怖いくらいの真剣な表情で悩んでいるのがわかった。彼が、わたしの告白を聞いて、これほど真剣に悩んでくれていることが、わたしにはとても嬉しかった。 

だから、この後どのような結果が訪れようとも、わたしはそのすべてを受け入れるつもりだった。
周囲の雑踏は消え、時間さえも止まり、わたしと彼だけが静止したこの世界の中に存在しているかのようであった。
彼はゆっくりと顔を上げ、わたしの目をじっと見ておもむろに口を開いた。
「朝比奈さん、やっぱり俺は、朝比奈さんは未来の世界に帰るべきだと……」
「キョン!!」
彼の言葉を遮るかのように、彼を呼ぶ声が聞こえた。わたし達は声のした方向を振り返る。涼宮さんが、息を切らして、彼とわたしのもとに駆け寄って来た。
「ど、どうしたんだ、ハルヒ」
びっくりした表情で声をかけた彼に、涼宮さんは息を切らしながら答える。
「あ、あんたが、あんたがこの世界からいなくなっちゃうような気がして、それで……」
すがりつくように彼にそう訴える涼宮さんの様子から、勘のいい彼女が真剣に彼のことを心配していたことがわかった。その様子を見てわたしの中の緊張の糸が切れたような気がした。
涼宮さんはわたしの顔と公園の時計を交互に見て、
「ご、ごめんなさい」
と謝り、すまなさそうな表情でこの場から立ち去ろうとした。
「待って」
わたしは涼宮さんに声をかけて、この場から立ち去ろうとする彼女を引き止めた。
「もう、キョンくんは涼宮さんにお返しします。キョンくんに聞きたかったことは、全部聞くことができたから」
「みくるちゃん」
「キョンくんとお幸せに」
涼宮さんはどうしていいかわからない様子でしばらくその場に留まっていたが、やがてわたしの心情を察してくれたようで、彼の方を向いて声をかける。
「キョン! 行くわよ!」
立ち去り際、涼宮さんはわたしの方を見ずに、わたしに声をかけてくれた。
「みくるちゃん、あたし達は例え卒業して離れ離れになってもずっとSOS団の仲間なんだから、困ったことがあったらいつでも言って来てよね。あたしにできることなら何でもするわ」
そう言った後、涼宮さんは彼の手を取り、ゆっくりとわたしから遠ざかっていった。
涼宮さんは知っているのだ。細かい状況や理由は知らなくても、もう二度とわたしと涼宮さんが出会うことはないということを。
公園を出て行く最中に、彼と涼宮さんがいつもの痴話げんかしだしたようで、出入り口付近で、涼宮さんが彼の腕を叩いている様子が見えた。
さっきまで公園を赤く染めていた夕日はいつのまにか完全に沈み、街灯に照らし出されたふたりの姿がセピア色に染まっていくような感じがした。まるで映画のワンシーンのように。
ふたりは、いつも部室で見るように、微笑ましいけんかをしながらわたしの視界から姿を消したが、その二人の様子を見てわたしの脳裏にある疑問が思い浮かんだ。 

今日、わたしといっしょにデートをしてくれた彼は、果たしてわたしの好きだった彼なのだろうかと。
さっき、涼宮さんの横にいた彼は、確かにわたしの好きな彼だった。でも、涼宮さんと別れてわたしと付き合うことになっても、彼はわたしの好きな彼のままでいてくれただろうか。
その疑問に対する解答をわたしは持っていない。わたしは彼にふられたのだから。でも、きっと彼は……
負け惜しみだとは思わない。わたしは涼宮さんのことが好きな彼が好きだったんだ。だからこれでよかったのだ。
公園の時計に目を移すと、長針が12を指す直前だった。秒針が刻々と時を刻み、12へと近づいていく。
ポケットに手を入れると、何度も何度も消した跡のある白紙の便箋が出てきた。この便繊に彼への想いを綴ろうと試みたのだが、どのような言葉もこの想いを表現することはできなかった。
わたしはその便箋を封筒に入れて、彼との思い出の残るベンチの上へ置いた。彼がこれを見つけてくれることを願って。
秒針が12を差し、そのときがやって来た。
もう何度も経験したことのある強烈な立ちくらみと共に周囲の風景が暗転し、わたしは、彼への想いをこの時代に残して、彼の住む時間平面を後にした。 

続く

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最終更新:2007年12月23日 22:52