これは、教科書文通、水族館へ出発!の続編になります。
あの品のよさそうなおばあさんは、僕らが降りる駅の5駅前の繁華街で下車された。
僕らと同じくらいの年のお孫さんとデパートで催される展示会に行かれるらしい。
おばあちゃんか。もう随分長いこと会ってないな、今度電話でもしてみよう。僕のこと忘れてないといいけど。
大きな町を抜けて、電車は海沿いを進む。海沿いと言っても住宅街を縫っていくので、あまり海は見えない。
目的地を過ぎれば海が綺麗に見えるのだけれど……。それは今すべきことではない。下車駅で僕達は、あまり来慣れない風景にぱちくりしながら電車を降りた。
駅から海面きらめく大海原が見え隠れしている。夏に、お誘いすればよかった。し、下心は無い。
「この駅からですと、目的地まで暫く歩くか、電車を乗り換えないといけないのですが、如何でしょう? ここらでまず休みませんか?」
開園時間まであとまだ少しありますし、と僕が首を傾げると、了解した、と言う明確な台詞が返ってくる。
あの日の告白の返事もここまでとは言わなくても、この半分でも明確なお返事がもらえたら……などとついつい思ってしまう。
僕達は駅を出てすぐの最近台湾にも支店をだしたアメリカからのチェーン展開ドーナツショップに入り、
それぞれ遅い朝食代わりのドーナツと飲み物を選び、清算を済ませ席に着いた。
僕はオールドファッションとカフェオレ、長門さんはこのチェーン店オリジナルのもちっとした食感が売りのシリーズ全種とオレンジジュース。
もっちもっちとおいしそうにドーナツを食べる長門さんは可愛い。ポン・デ・●ングになりたい。
「プレーンタイプのものとダブルショコラの美味しさは異常。」
「そうですね。僕としては抹茶も好きですが。」
「同意する。しかし、マンゴーヨーグルトも捨てがたい。」
「夏場には夏みかんもありますよね。今は、マロンですか?」
「これも美味。食べる?」
「いいんですか? では、僕のオールドファッションも半分どうぞ。さっくりしてて美味しいですよ。」
「この選択はあなたらしい。落ち着いていて、名の通り古風。」
「でも、オールドファッションは、フレンチクルーラーより歴史が浅いんですよ?」
「うそ。」
「本当です。」
「信じられない。」
信じられない、と繰り返す長門さんはまるで親の仇でも見るような目で僕の食べかけのオールドファッションを見つめていた。
しかし、暫くの後、既に半分になっているオールドファッションをその小さな口元に運ぶ。
あの小さな口に、あの小さな体に、どうして一体あれだけの量が吸い込まれていくのだろう。
そんなことを考えながら、僕はあることにか気が付いて。カッと目を見開く。あれは、僕の食べかけ!
気付いたときにはもう遅かった。褐色のさっくりした生地はもう既に長門さんの口の中だ。 しかも、長門さんがかじったのは先ほどまで僕がかじっていた方である。
間接キスという言葉が、僕の頭をすごい速さで駆け抜けた。 触れていないはずの僕の唇が、気になる。それ以上に、長門さんの薄紅色の唇に目が行ってしまう。
柔らかそうで、ほんの少し薄めで、綺麗な形をしている。 やはり、口付けという物は甘いものなのだろうか。好いた相手となら、尚更――
「……古泉一樹。どうしたの?」
「な、なんでもありません! た、食べ終わられましたか? では、行きましょう。
水族園まで少々ありますからね。ゆっくり歩いていきましょう。それとも、私電に乗って行きますか?」
このまま向かい合っていたら、長門さんの唇のことばかり考えてしまいそうだ。 それでなくても、今の僕は長門さんのことで頭がいっぱいになっているのに。
「機関」の構成員としては失格なんだろうなぁ。?彼?のことをどうこう言う資格はないかもしれない。
でも、考え様によってはなかなか素直にならない?彼?に僕を責める資格はない。お互い様だ。
結局僕らもただの高校生なのだ。神のような力を持つ涼宮さんも、鍵である?彼?も、超能力者である僕も。
稀に僕達にお姉さんぶったところを見せる朝比奈さんも、段々、普通の女の子に近づいている長門さんも。
みんな高校生なのだ。みんなで集まって、バカやって、その中に気になる相手がいたっておかしくない。
?
それに対して誰か文句を言うような人がいたとしたら、「じゃあ、お前はどうなんだ?」って聞き返してやる。
そんな思い出の一つもないなんてこと、あるわけないのだから。僕らは、いつも誰かを想って、大人になっていく。
――もちろん、その当たり前の世界を、涼宮さんを含めた全ての人々から失われないように、僕達は選ばれたわけだけれど。
結局、長門さんの『歩く』の一言で、暫く僕達は週末のにぎやかな国道沿いに伸びた歩道を時に肩を並べ、時に僕が彼女の後ろを歩き、時に彼女が僕を追い、目的地を目指した。時折手の甲にかする長門さんの小さな手に心奪われつつ、
いつかその手と自分のペンだこだらけの手を繋いで歩けたらなどと、妄想にも似たことを考えていた。
僕らが目指す市立水族園はこじんまりとしていて、すぐ隣に小さな遊園地を付随している。
その遊園地も含めて海浜水族園らしい。遊園地と言っても、ほんの小さなものだけれど。
ガラス張りのエントランスから館内へ入ると、水槽を明るく見せるために光源を落とした何とも言えず、ムーディーな空間へ続いた。
薄暗い広間に壁いっぱい大きく迫る巨大水槽。
その中には、鯛や鯵などの見慣れた魚から、あまり見たこともないような種類の魚が、普段、スーパーや魚屋では見ることの出来ない生きて泳いでいる姿を晒している。
すいすいと飛ぶように泳ぐ彼等は、大海原に比べれ随分と小さいであろう水槽を自由に広々と満喫していた。
そう、ここに似合う言葉はただ一つ。
「……おいしそう。」
「…………。そうですね、鯛や鯵、鰯も泳いでいますしね……。」
確かにそうなんですけれど、他にも、綺麗、とか、あるでしょう? でも、まぁ、そういうちょっとずれたところも素敵だとは思うのですが。
周りの他のお客さんの唖然とした表情がすべてこちらへ向いているということにまだ長門さんは気づいておられないようだ。
「スーパーや小売店に並べられた魚介類は、一度セリを通しているので やはり、今の今まで泳いでいたものに比べると鮮度が落ちてしまうのはいたし方のないこと。
しかし、ここではまだ食材は泳いでいる……。しかも、見たこともない種類ものが大半。」
「長門さん、ここのお魚は食用じゃないんですよ。毒があって食べられないものもありますし、観賞用なんです。
金魚鉢の中の金魚と一緒ですよ。見て楽しむんです。動物園で、ライオンを食べたりはしないでしょう?」
「なぜ? 味を考慮から外せばライオンも食べようと思えば食べることは可能。」
「お願いですから、食べようとしないで下さい。逆にライオンに食べられちゃった人も多いんですから……」
大きな水槽の中をのびのびと泳ぐ魚達を堪能した後、僕達は巨大水槽のブースから薄暗い通路に出て、魚を始めとする海洋生物、淡水生物を種類別に分けた小さな水槽のコーナーを楽しんだ。
突然、長門さんがハリセンボンとにらめっこを始めたり、海草に隠れて見えなかった魚が急に出てきて二人して驚いたり、
円柱型の水槽の両端から水槽を除いたら魚から目を離したとたん、互いの広がってしまった顔に噴出したり、
覗き込んでも知らん振りを決め込んでイソギンチャクに隠れてしまうクマノミに長門さんが口を尖らせてしまったり、 一秒一秒が楽しくて、新鮮で、懐かしくて。
まるで、ここにいるのが対有機生命体用ヒューマノイドインターフェイス、長門有希と、超能力者、古泉一樹ではなく、
ただの女子高生、長門有希とただの男子高校生、古泉一樹なのではないかという気さえしてくる。
まるで、魔法だ。12時の鐘がなっても、ガラスの靴とは程遠いこの革靴が脱げても、解けなければいいのに。
午後12時45分、館内の八割がたを見終わった僕達は館内イベントの予定表の前にいた。
「もうすぐ13時ですか。もうすぐイルカショーが始まりますね。会場へ急ぎましょう。今からならいい席が取れます。」
「イルカショー?」
僕の口から出た聞き慣れないであろう単語を鸚鵡返しする長門さんの見上げられた視線に自分のそれで返しながら、僕は、パンフレットの一番大きなスペースで説明されている部分を指さし、自分の視線もそちらに移動させ、彼女の視線をエスコートする。
「ええ、イルカは知能の高い動物で、芸を覚えることが出来るんです。その中でも優秀なイルカの芸の発表会ですよ。
ループの間とタイミングよくジャンプして通過したり、人を乗せて泳いだり……。」
「興味深い。それは13時から始まるの?」
「ええ。先ほどのブランチの時間が時間でしたので、昼食はイルカショーの後に……よろしいでしょうか。」
「問題ない。」
こくりと頷いた長門さんに、微笑み返し、僕らはイルカショー特設プールへと向った。
実は、僕が長門さんに一番見せたかったのがこのイルカショーである。
確かに水槽越しにイルカを見ていた長門さんも興味深そうに彼等を見ていたが、もっと、彼等の躍動的な様子を見てもらいたい。大海原を時に飛ぶように、時に跳ぶ様に泳ぐ彼等の姿を。
もちろん、それならこんな小さな水族館のイルカショーよりもドルフィンウォッチングにお連れしたほうが良いのだけれど、今の僕には時間的にも予算的にもそんな余裕はない。任務もあるし、いくら働いていると言っても僕はまだ高校生なのだから。
「ここらにしましょう。プールにも近いですし、水をかけられる心配は少々ありますが、それは大体どこに居ても同じですよ。僕は小学生時代、最後列にいたのに思いっきりかけられたことがあります。」
「びしょびしょに?」
「ええ。昔からなんです。どうやら僕は動物に好かれるというか、むしろ馬鹿にされていると言うかなんと言いますか、
彼等の悪戯の対象になりやすいタイプらしくて、犬に泥水をかけられたり、ネコにネコパンチ食らったり、
牧場に行けばあひるに突付かれ、牛に追われ、羊によだれまみれにされて……」
「ユニーク。」
「傍から見たらそうなんでしょうねぇ。本人としては複雑です。」
「おそらくそれは、彼等があなたを自分たちより弱い存在だと思っているため。 あなたはもう少し自信を持って行動するべき。
涼宮ハルヒがらみの企ても気付かれていないと思っているかもしれないけれど、 あなたがびくびくしながら行っていることはバレバレ。心拍数の上昇は隠せない。」
そんな会話をかわしながら、腰掛けたのはイルカショーが行われる特設プールに面した最前列。
しかも、真ん中の一番良い席だ。日頃の行いが良いのか、それともやはり周りの人々は水しぶきを恐れているのか。
ここのイルカは比較的大人しいと聞いているんだけれど………
隣に座した長門さんは未だ現れないイルカに想いを馳せているのか、真っ直ぐに特設プールを見つめていた。
やっぱり、イルカ、好きなんだなぁ。雪とどっちが好きなんだろう。もう少し寒くなったら、雪の結晶を見せて差し上げたい。
もちろん、それが僕に許されるとすれば、だけれど。
そして、13時ジャスト、イルカショーは始まった。
「はーい! ここできょんきょんじゃーんぷ!」
飼育員の掛け声に合わせて丸い特設プールに張られた海水の中から飛び出し、
ビニールボールをそのつややかな鼻先でトスをし、宙を舞い、再び水面に突き刺さるように沈む1匹のイルカ。
それを追う様にして「続いてハルハルもじゃーんぷ!」の掛け声にあわせたダイナミックな尾鰭でのアタックを見せるもう1匹。
彼等の名前はともかくとして、こういうのはいくつになっても心躍るものだ。
それは長門さんも同じらしく、瞬きを忘れたように日の光に照らされてきらめく彼等の姿を追っている。本当に来てよかった。
?
難を言うなら、先程から2匹のイルカ(きょんきょん【♂】、ハルハル【♀】)に突付かれているビニールボールの色が赤でなければもっと良かった。なんか、ものすごく複雑。
「ボールがいつもより3倍早くきょんきょんとハルハルの間を行き来しています!」
イルカの名前も、ものすごく複雑。いや、彼等に罪はないし、とても優秀でとても芸達者なのだけれど。
それでも、その名前がどうしても森さん曰くのツンデレ×ツンデレカップルの神と鍵を思い起こさせていけない。
そういえば今日は彼等も近畿圏内最大の映画がモチーフのテーマパークへ行くとかで市内探索が中止になったのだった。
朝比奈さんも久しぶりに鶴屋さんと映画を見に行くのだと言っていた。確か、鶴屋さん好みのコメディもの。
そう言えば、鶴屋さんが拗ねていらっしゃったなぁ。「みくる、最近はるにゃん達とばっかで淋しいにょろ。」と。
そんなことに一瞬思考が飛んでしまった瞬間だった。
ざっぱーん!! という間抜けな効果音がぴったりな今の僕の現状はと言うと、
きょんきょんか、ハルハルかは判別できなかったが、二匹のイルカのどちらかに思い切り水をかけられてぐっしょり、という感じである。
幸いにも濡れたのは僕1人で、長門さんには水滴一つ付いていない。奇跡だ。 僕自身も見かけは派手に濡れたが、ぐっしょりしているのは髪だけで服などには被害が少ない。
まぁ、ちっとも濡れていないといえば嘘になりますが、ハンカチでふき取れるくらいなので大丈夫、解いたくらい。
着ていた服の素材が余り水を吸い込みにくいものだたのが功を奏したようだ。不幸中の幸いとはこのことだ。
いや、しかし、僕は一体どこに行っても動物には何かしらをされる運命なのだろうか。 それとも先ほど長門さんがぽそりと言ったとおり、
「……デートの最中にほかのことを考えた罰。」
だったのか。
いや、しかし、長門さんがほんの少し頬を膨らまして拗ねている風に見えるのは僕の気のせいでしょうか。
そしてまさか、長門さんの口から「デート」と言う言葉が出てくるなどとは思いもよりませんでした。
これも、喜んでもいいのでしょうか……。いえ、もちろん反省しています。でも、緊張してしまうのですよ、どうしても。
「そこのお水被っちゃったカップルさん、大丈夫ですかぁ!?」
飼育員の女性の声が、耳に届く。カップルさんというのはもしかして、僕らのことであろうか。
周りを見渡すと水に濡れたのは僕1人で、周囲の視線も僕と長門さんに集まっているところを見ると間違いないらしい。
……やはり、はたから見たらそう見えるのだろうか。そのことに関して長門さんはどのように思っているのだろう。
「わたしは大丈夫。あなたは?」
「僕もちょっと濡れただけですので大丈夫ですよ。」
カップルという言葉を否定しないあたり、悪くは思っていないのだろうか、それとも、まず男して見られていない?
まさか。仮にも自分に告白してきた男を異性として認識していないはずはないだろう。……ないと信じたい。
「よかった! ほら、ハルハル、ごめんなさいは?」
どうやら僕に水をかけたのはハルハルの方らしい。彼女は水面から顔を出し、ちゃんと意味が解っているのか、少しくぐもった、文字にするときゅううううい、という風な悲しげな声を上げ、申し訳なさげに見える顔をした……様に見えた。
イルカに表情がつけられるのかは解らないが、僕には確かにそう見えたのだ。そんな顔をされて怒れるわけがない。
「僕は気にしていませんよ。」
そう言うと、彼女の表情が嬉しそうなそれに変わった様に見える。果たしてコレは目の錯覚なのか否か。
長門さんの方に視線を移すと、何故か長門さんは先ほどまでの好奇心を孕んだ表情を潜め、
何を考えているのか掴みにくい表情でハルハルを見ていた。……どうしたのだろう。
「このショーも、次の演技で最後になってしまいました。 次の演技では、会場の皆さんの中の代表の方にキョンキョンとハルハルから握手とキスの贈り物です。
そうですねぇ、一体どなたにお願いしましょうかぁ……」
ジャンプをしたり、ループをくぐったり、飼育員を乗せて泳いだり、赤いビニールボールを使って二匹でキャッチボールをしたりとかなり芸達者な様子を見せてくれたきょんきょんとハルハルのショーもあと一つの演技を残すのみである。ステージに上がり、直接イルカと触れ合えるこの演技はやはり人気があるらしく、小さな子供がはいはい! と挙手している様子が見える。
おそらく、こういうのはああいう子たちのためにあるのだろうと、のんびり構えていると、ありえない言葉が耳に飛び込んできた。
「……では、さきほどお水を被ってしまったカップルさん、ステージへどうぞ!」
今までの演目の中、水を被ったのは僕1人である。つまり、件のカップルとは僕のと長門さんの事を指す。
思わず長門さんの方を見ると彼女もぽかんとこちらの方を見上げていた。
「もしかして挙手されたりとかは……」
「していない。」
「ですよね……。」
先ほどのお詫びというわけだろうか。それとも、ステージは滑りやすいので子供を敢えて避けたのだろうか。ともかく僕達は、飼育員に言われるがまま、小さい子供達からのいいなー、という嫉妬と、大人たちからの若いなぁという溜息を浴びながらおずおずとステージに上がった。
「ええと、お2人のお名前をお聞きしてもいいですかぁ?」
「古泉一樹です。」
「長門有希。」
「いつきくんとゆきちゃんですね。お2人は付き合い始めてどれくらいになるんですかぁ?」
「いえ、まだ、その僕達はそういうのじゃ……」
「……わたしがまだ、返事をしていないから。」
「ああ! これからなんですねぇ。頑張ってくださいね、いつきくん! ゆきちゃんも、どうですかぁ? 今日一日でいつきくんの株は上がりましたかぁ?」
「……割と。」
……これは、尋問ですか? なぜ、イルカショーのアシスタントに選ばれただけで根掘り葉掘り聞かれなくちゃいけないんですか?
長門さんが僕の株の上がり具合を割りと、とお答えくださったのは幸いですが、割と、とはどれくらいなのでしょうか?
「では、きょんきょんとハルハルに握手とキスをしてもらいましょう! いつきくんはハルハルとキスを、ゆきちゃんはきょんきょんと握手になりますー!」
飼育員が言った台詞にぎょっとする。キス? ハルハルと? まじですか? あ、でも、長門さんがきょんきょんとキスするよりかはマシかもしれない。あの人ツンデレの癖にヤキモチ焼きだから。
しかし、ハルハル……どうしてだろう、ただ涼宮さんに名前が似ているというだけなのに〝彼〟に殺されるかも……などと少し悪寒が背中を撫でる。
「まずは、きょんきょんからです。ゆきちゃん、手を出してもらって良いで
「まずは、きょんきょんからです。ゆきちゃん、手を出してもらって良いですか? 少し傾けて水面に向けてくださいね。はい、1,2,3!」
飼育員の声に合わせて水面より上昇し、やんわりと差し出されていた長門さんの白い手になめらかな漆黒のひれを絶妙な感覚で沿わせるきょんきょん。
-一見簡単に見えるかもしれないが、相手を傷つけないタイミングや力加減が難しい技なのだろう。
彼と握手を交わした瞬間の長門さんは、いつぞやのクリームあんみつのときと同じ、何かしらの煌いたものを背負っていた。
彼女にとっての最上級の喜びを表している際の現象なのだろう。おそらく無意識のさせる業だ。
いやしかし、これは長門さんが無意識に行っている情報操作にも似た誰にでも見えるものなのか、 僕が惚れた弱みで見ている幻覚なのかは正直わからない。
もしも、これが僕だけに見えているものだったとしたら他人にまずまず教えるのはもったいないので確かめたくもないし、
独り占めできるものなら、例えそれが幻覚でも妄想でも、この思いが敗れたとしても、永久に僕だけのものにしたい。
だって、あのキラキラを背負っている瞬間の長門さんほど美しいものは、この星のどこを探してもきっと見つからないだろうから。少なくとも、僕にとっては。
「きょんきょん、よくできました! ゆきちゃん、きょんきょんと握手してどうでしたぁ?」
「……ユニーク。」
しかし、長門さん、一般の方にその受け答えは通じないと思いますよ……。
「…………。 では、お次はハルハルです! いつきくん、少し中腰の前かがみになって真っ直ぐ水面を見ててくださいね!」
案の定、長門さんの返答に暫くの沈黙の後にスルーと決め込んだ飼育員の「さぁ! 気を取り直していきましょう!」的なテンションで、イルカさんと観客の視線が僕のほうへ移る。
-そこで、僕は大きなことに気が付いた。
………え? 真っ直ぐ水面を見る? つまり、キスって唇と唇? マウストゥーマウス?
と、言うか、この場合相手がイルカなのでマウストゥーノーズ? 頬とかじゃないの?
そんなことをグズグズ考えているうちに、僕はいつの間にか特設プールのたゆたう水面に中腰の状態で真っ直ぐに顔を向けていた。
-頭の中ではエラーが鳴り響いている。さっきまで長門さんの背中に煌きが見えるとか言ってた自分抹消したい。
え、うそ、僕のファーストキスの相手イルカ? いくら鼻先つけるだけとは言え、相手イルカ?
- そして、名前が名前で、閉鎖空間……〝彼〟に睨まれ殺され……あれ? 心なしかきょんきょんの視線も痛くないですか?
「では、ハルハル、いくよ! 1!」
うそ、まだ心の準備が……!
「2!」
いや、落ち着け一樹。相手はイルカだ、ノーカンだ。数には入らない。ファーストキスじゃない。
-いや、でも、やっぱイルカ……。可愛くないといったら嘘になるけど、名前が……〝彼〟が……、きょんきょんが……
「3!」
よし、覚悟を決めて…………グギャ!!
「……………。」
会場全体が、沈黙を保っている。かく言う僕も今のこの状況を上手く説明できないということだ。
-ただ、確かに解るのはハルハルが水面から顔を出し、僕の唇と彼女のそれが重なる直前に
-僕の頭が誰かにむんずと両の手で挟まれ、そのままグギッと90度右へ方向転換されたということだ。 結果、僕の頬にはハルハルの鼻先? 唇? が刺さる。
-流石、彼女もプロなのだろう、刺さると言っても優しく、痛みは皆無だった。むしろ、首を捻られた方が痛かったような……
その僕の首を捻った犯人はと言えば、もちろん僕自身であるはずもなく、飼育員の女性がそんなことをやるリスクは皆無。
-水中に居る先ほど前面白くない顔をしていたきょんきょんにも流石にこのような芸当が出来るわけもなく、
-今現状で僕の頭に両の手を添えているのが他の誰でもない長門さんであることを考えればおのずと答えは出るだろう。
「……ゆきちゃん……?」
飼育員の驚きすぎて乾いてしまった声が申し訳程度のマイクに拾われ、特設プールに落っこちるように響く。
-それでも長門さんは平然として僕の頭からってを離し、その白く細い指が美しい小さな手を水面に平行に称え、
-自分の演技にイレギュラーが発生して呆然としている(様に見える)ハルハルを待った。
その姿はどこかしら厳かな空気も持っていて、少なくとも僕には、長門さんが神聖な存在であるように見えた。
そして、彼女がその指先に遠慮がちに鼻先を寄せると、長門さんはこう仰ったのだ。
「彼は、わたしの。」
その時間にすれば、5秒もかからないであろう短い台詞はとりわけ大きくもなかったのに、彼女の声の質のせいか、この会場を沈黙のカーテンが覆っていたからか、誰の耳にも届いた。
「彼は、わたしの。」
彼、とはもしかしなくとも、僕……なのだろうか。私というのは長門さんで、つまりは――
「ヒュー!!」
僕の思考は、そこで途切れた。観客席の一席から高らかに響いた口笛の音が何かを遠くへすっ飛ばしてしまったのだ。
そこから僕の耳に届いたのは、割れんばかりの拍手とそれに紛れての先ほどと同じような口笛、そして、おめでとう、という言葉。
-先ほど、僕らを質問攻めに合わせた飼育員もしきりにおめでとう、と繰り替えし、僕は何をどうすれば良いのか呆然としていた。長門さんといえば、まるで何事もなかったかのように静かにたたずんでおられる。
しかし、その姿が、とても美しく、聞いたその日から耳から離れなかったレコードの曲よりも、初めて見た閉鎖空間の消滅よりも、今まで見た何よりも綺麗に見えて、僕の、意識は、そちらへ、吸い寄せられて、行った。
ああ、周囲の音が、すぐ近くの、はずなのに、ああ、どうして、こんなに、遠くに、聞こえるのだろう――
――あれから、どうやってステージを後にして、今現在居る園内のフードコートまでたどり着いたのかは思い出せない。ただ、確かなのは今、僕の目の前には静かにテーブルにたたずみ、当たり前のようにサンドイッチを嚥下する長門さんが居ることである。
「あの、長門さん……先ほどの言葉は……」
僕は、恐る恐る聞いてみた。
「あれは、わたしの願望。」
僕の問いに返ってきた長門さんの答は短い。しかし、彼女ももしかしたら緊張しているのかもしれない。声が、すこし、いつもと違って聞こえる。どう違うと聞かれれば、困ってしまうけれど。
「願望、ですか……?」
「あなたが、わたしだけを思ってくれるという、わたしの隣にいてくれるという確証が欲しい。」
「それではまるで、付き合ってくれと行っているように聞こえます。」
「私が望むあなたとの関係に名を付けるなら、「付き合っている」、もしくは「恋人」が一番近い。
しかし、関係に名前など要るの? バラはどんな名でも甘く香るのに。わたしはただ、もっと「良好な関係」になりたいだけ。あなたは?」
今、この状況で、それを聞くのは卑怯だ。シェイクスピアの引用まで使って、僕を試しているのだろうか。僕は、あの雨の日と同じく、ゆっくり大きく息を吸い込む。僕にはロミオのような返答は出来ない。
「良好な関係」――この二ヶ月、僕の心を苛み続けた言葉だ。しかし、今ではそれすらも甘く感じる。
「僕も、そうに決まっているじゃないですか……。」
柔らかく、少し首をかしげて、長門さんが、笑ったように見えた。
<もう少し続く>