「あの……んぐ、ほじんほくほ……はぐはぐ……はまわり……」
「…………」
「ぱくっ、はいへんありは……もぐもぐ……たい……んんっ、おいしー!」
「…………」
「……のですが、できれば他の方からの、あーん……あろはいすが……むぐむぐ……良ひと思いますぅ……こっくん、あ゛ぁっ、染みるぅ~」

「……食うか喋るかどっちかにしろ」
「はひっ!はかりはひんぐっ!!ゴホゴホッ!!ゲヘッ!!」
「………………」



 人に助けを請い、また苦労をさせながら、全くそれを自覚をしていないイカれ白玉女は、抹茶チョコのエクレアとカスタードプティングとラ・フランス果汁たっぷりのグラニテを交互に頬張りながら、申し訳程度の謝罪の言葉を発し、そして喉を詰まらせた。
 朝比奈さんと(ケンカ)別れした後の事である。俺は橘お勧めのお菓子屋さんに来て、マカロン・ダミアンとザッハ・トルテを自棄食いしていた。
 先ほど叩かれた痕がまだ痛む。見た目に依らず、朝比奈さんは攻撃力がある。一体あのちっこい体のどこにそんなパワーを秘めているのだろうか?
「さっき叩かれた場所がまだ熱を帯びてやがる。全く、これは誰のせいだろうな」
「ううっ……ごめんなさい」
 橘はそれでも自分の失態に責任を感じたらしく、この店で好きなだけ奢ってくれる事になった。
 食い物に釣られて罪を精算する気は更々ないが、奢りと言う事、小腹が空いていた事、そして何より少しでも橘を懲らしめようとこの提案にのったのだ。
 こうなったら食って食って食いまくってやる。
 ……まあ、どうせ橘の組織の経費になるんだろうが。

「でも、あの人の胸は異常です。ビスフェノール誘導体の過剰接種による、エストロゲン類似物質の過分泌状態なのです。あんな胸は、人を不幸にしてしまいます。キョン君も気をつけた方がいいですよ」
「気をつけないといけないのはむしろお前の方だな」
「ええっ!なんでですか!?」
「俺はお前のせいでさっきから不幸のどん底、いや底なし沼にハマってるんだがな……」
「……ごめんなさいです」
 橘が何度目かの謝罪を行った。
 さっきからずっとこんなやり取りが続いている。即ち、橘が何か言うと、俺がツッコミ、それに橘が謝罪する。
 橘の中にも不満があるようなのだが、俺に対してはその気を見せないでいる。
 俺の協力要請がなければ、橘は組織の人間を見返す事ができなくなるし、それは橘にとって都合が悪いのだろう。

 橘に対する恨みは消えてはいないが、正直このやり取りも飽きた。それにあまりに根暗だと、いろんな人に嫌われかねん。
「謝罪の言葉はもういい。それより、次は誰に頼むかだ。さっきみたいな事にならない様に、今回はお前の希望を聞いてやろう。どんな人に相談したらいいんだ?」
「はい、お願いします。そうですね。やっぱり、色んな知識に精通した、博識な方がいいです。……胸は人並み以下くらいの方で」
 博識且胸の大きさが人並みと言えば、やっぱり……
「あいつに頼めって事か」
「あいつって、誰ですか?」
 懸命な方なら、俺が誰に頼もうとしているかは分かるだろう。
 だが、橘には分からないらしい。ま、余り面識もないだろうし、当然と言えば当然なんだが。

「取り敢えず店を出るか。話はそれからだ」
 俺は店員さんから手渡された、紅茶が染み込んだブリオッシュ・サバランを一気に詰め込んで、席を立った。
「早速向かいましょう!!」
 俺が再び協力してくれる事がそんなに嬉しいのか、先ほどまでのネガティブ思考から一転、やたらとハイテンションで話しかける橘。
「お姉さん、ごちそうさまでしたぁ~。それじゃ、お先に」
「待て、橘」
「ふぇ!?ど、どうかしましたか?」
「やたらと急いでいるが、お前は俺がどこに行くのか知っているのか?」
「え?いや……善は急げって言いますし……あ、ほら。外で待ってようかと」
「そうか、だがお前は忘れ物をしている。ほら、これ」
「あ」
「請求書だ。お前の奢りだろ?」
「ちっ、覚えてましたか……やりますね」
「もともとお前が奢るっていう話だったんじゃねーか」
「過去の過ちをネチネチつつくのは男らしくないのです。『そんな昔の事はとっくに忘れちまったぜ、ベイビー』って言う方が、ハードボイルドでかっこいいのです」
「昔の事って、たかだか数時間前だろ。それにお前から申し出て来た条件だ。嫌なら俺は帰るぜ」
「ああっ!ごめんなさいごめんなさい!!これから良い子になります!言う事聞きます!ポチって呼んでください!独りぼっちだけは嫌ですぅ~!!」
「…………」

 はあ、アイツのところに行って、橘の胸以外に、脳の中身も情報操作してもらわないといけないな……


 





 ピンポーン

 とある高層マンションの前。俺はそのマンションの玄関前でチャイムを鳴らした。
『…………』
 帰って来たのは予想通りの三点リーダ。
「よっ、俺だ。ちょっと相談したいことがある。上がらせてもらえないか?」
『……入って』
 言うや否や、それまで頑なに俺たちの侵入を拒んだガラス製の自動ドアが、掌を返したように招き入れた。
「橘、行くぞ」
「あ、はい」
 俺と橘はマンションの中に入り、迎えにきたかのようにタイミング良く到着したエレベーターに乗り込み、七階を目指した。

「あの……ここには、誰がいるんですか?」
 エレベーターの中、不安げな表情で俺に質問をする橘。未だ明かされない面会者の正体にやきもきしているようだ。
「会えばわかるさ」
 俺がそういうと、橘は不承不承ながらも頷き、視線を操作ボタンへと移した。
 橘は少しくらい怯えさせた方が暴走しなくて都合がよい。俺は最後まで隠すことにした。と言っても、もうすぐ面会する事になるんだがな。

『…………』
 708号室のドアをノックし、待つこと数秒。ドアが開き、目線が三人を頂点とする三角形の重心部分で燻りながら沈黙を続けていた。
 俺は敢えて喋らないようにしていたが、この二人はどうだろう。話を切り出すタイミングを 見計らっているのか、それともだんまりを決め込んだのか、どっちだろうか。
「あ、あの……」
 場の空気に澱んだ沈黙が飽和状態で溶け込んでいる独特のアトモスフィアに絶え切れなくなったのか、橘が喋り始めた。

 橘はその後、淡々と事情を説明し、どのようにしたら自分の望みを適えられるか、長門に懇願していた。
 当初ギャグを混ぜた説明を試みていた橘だったが、勿論長門が反応するわけもなく、凍てつく目線が橘に集中放火を浴びせる事となり、さすがに絶えきれなくなった橘は淡々と説明することと相成った。
 長門はと言えば、聞いているのか聞いていないのかわからない態度で、炬燵に潜り込みながら(まだ夏だぞ?)、氷のように冷たく固まっていた。
「……と言うわけなんですが、あたしの胸を大きくすることは可能でしょうか?」
 長門はこの言葉を聞いた後、三秒くらい俺を見て、そして小さな口を、これまた小さくミリメートル単位で動かした。
「できなくはない。ただし推奨はしかねる」
「え?何故ですか?」
「人間という有機生命体が、アイデンティティやキャラクターと言った、個体別有機的無機的諸特性――所謂個性を自ら拒否するのは、即ち人間たる存在を拒否するのと同じ。生まれ持った、既得の情報を維持し、新たな情報を繁栄させる。これこそ人間が人間たる理由」
 長門は得意の小難しい演説を以て橘を説いていた。でも、橘相手にどこまで通じるかは、甚だ疑問だ。
「つまり、おっぱいの大きさは生まれ持ってきたもので満足しろってことですよね?でも、あたしは満足できません!」
 橘が反論する。ってか、長門の意志をちゃんと理解したのだろうか?長門は胸の大きさの事など一言も喋ってないと思うが。
 なおも橘は続ける。
「だって、そうじゃないですか。あたしは胸が小さいせいで大きな損害を被っているのです。逆に胸が大きくても困ることはありません!」
「一つ言っておこう。橘、大きな損害ってのはお前ではなく、殆ど俺が被ってんだ。わかってるな?」
「わ、わかってます!でもあたしだって、組織の役を更迭されたり、涼宮さんにいじめられたり、佐々木さんにからかわれたり、そしてキョン君に華麗にスルーされたり、ろくなことがありませんでした!」
 断っておくが、最初の一つ以外は胸の大きさと関係ない。
「さっきだってそうです!キョン君は、朝比奈さんに対しては過剰なくらいじぇんとめぇんだったのに、あたしの対してはせんべい布団のごとき扱いでした!」
そりゃあお前と朝比奈さんとでは、庇護欲に雲泥の差があるから仕方ないだろ。朝比奈さんから感じられるオーラは、全身ずぶ濡れでプルプル震えている子猫のそれと同じだからな。
 それに対してお前は、餌がガラス製のドアによって遮られているのに何も考えず突っ込むハイエナだ。頭をぶつけても何度も突進するちょっとオツムが足りない小動物だ。
 因みにハルヒは突進するのは同じだが、ガラスごと破るバッファロー、佐々木はドアが開いた隙にこそこそ通り抜けるカラスだ。うん、我ながら良い喩えだ。
 まあそんなことはどうでもいいか。俺は橘の電波論に耳を傾ける。
「だからこそっ!あたしはおっぱいを大きくして、その存在感を知らしめんとしているのです!わかりましたか!!」
 ――橘。
「はいそこっ!質問ですか!?手短に願います。あたしは今忙しいのです!」
 わかったから落ち着け。人様の家の炬燵の上で演説するな。
「あ……ごめんなさい。熱くなっちゃって」
 そそくさと炬燵を下りる橘。しかし、こいつの考えはやっぱり良く分からん。長門がこんな意味不明の説得を聞き入れるとは思わんが……

「わかった。協力する」

 は?長門さん??今何と???
「協力する、と言った」
 ――誰を?
「橘京子」
 ――何で??
「彼女の願いをかなえさせる事」
 ――どうしてまた???
「共感した」
 ――何が????
「彼女の乳房に対する願望は、一般的哺乳類の雌が持つそれを逸脱している。これは涼宮ハルヒとは種の異なる、異端性情報爆発が見られると情報統合思念体は判断した。我々は彼女のの願いに一縷の希望をかけることにした」
 オウ、クレイジー……って、拙い英語を披露するのは止めよう。文法間違いを指摘されそうだ。
 ってか長門さんアンドお父上。あなたたちは大きな間違いを犯してませんか?
「ありがとうございます長門さん!あなたにはきっとあたしの思いが通じると思いました!」
 俺が一人で宇宙人達に対するツッコミをしている最中、橘が両手をあげて喜ぶ姿が視界の片隅に見受けられた。

 なんだか、もうどうでもいいや……


 





 ううむ、これは一体どうしたものか……

 長門は橘の願いを聞き入れると言ってしまったため、俺が企画・考案した橘矯正プロジェクトは出発進行と同時に座礁に乗り上げてしまった。
 とどのつまり、長門に橘を任せて俺が楽しようという計画は頓挫したということだ。
 やる気を失ってた俺はやれやれと溜息をつき、既に投げやりな態度を取る事にしていた。
 しかし、二人の、いや、正確には長門の対応に、一つの不可解な点を見出していた。
 そしてその疑問点は、俺の頭の中がクエスチョンマークで埋め尽くし、対照的に橘の頭の中はエクスクラメーションマークが溢れ返っている。
 この沸き上がる疑問について、俺の脳内は見て見ぬフリをする理性より、真相を問い正そうとする本能が大きく上回り、ついに橘に聞いて見る事にした。

「なあ橘。なぜ長門と共感できるって思ったんだ?お前達はそれほど顔見知りって訳でもないし、阿吽の呼吸のごとく二つ返事で頼みごとをやってくれる仲だとは思わないんだが」
 そう。正しくこの件である。朝比奈さんに対して橘は(本人は抑えているつもりなのだろうが)、敵意や憎しみといった感情を、自身の身体の周辺に飛散させていた。
 その結果、形となってあのような暴挙となってしまったのだ。
 しかし、長門に関しては敵対する素振りを見せず、むしろ仲のよい親友同士……は、言い過ぎか。必要以上ににコンタクトをとり仲良くしようとしている。うまく言えないが、そんな感じだ。
――ああ、そうだ。佐々木に対する対応と同じ感触だ。そう言った方が伝わり易いかもしれない。

 俺の疑問点に、橘は待ってましたと言わんばかりの得意顔を携え、意気揚々と言い放った。
「簡単なことです、長門さんもあたし同様、おっ「それ以上言葉を紡いだらあなたへの協力は御破算にさせてもらう」」
 刹那。本当に一瞬の出来事であった。炬燵を挟んで橘と向かい合わせに座っていた長門が、人間の目の時間分解能を超えた早さで回り込み、橘の右後ろに立っていた。
 固体酸素並みに碧く凍付いた長門の目は、まるで『余計な事言ったら手刀で首を刎ねるわよ。大丈夫。痛みなんて感じないわ。神経繊維の劈開方向に沿って切るから』と語っているようだった。

「ひいっ!いつの間に!!……じょ、冗談に決まってるじゃないですか。長門さんはとっても立派なものを……」
「お世辞、媚び諂いの類いは好きではない」
そう言って長門は腕を振り上げた。
「ふぇぇぇ!ごめんなさいっ!!その……あの、長門さんだけが頼りなんです!許してください!肩をお揉みます!荷物運びもします!タマって呼んでください!!」
 いつも以上に寒々とした目線を橘に向け、空気すら凍付くオーラを放出する長門。表情はいつもの無愛想仏頂面だが、いつもとちょっと、いや、とんでもなく様子が違う。
 それに、おちゃらけた感のある橘も真剣そのものである。それでも電波な回答をするあたり、もはや称賛に値する。

「わかれば、いい」
「ありがとうございます、長門さん!あたし達、友達ですもんね!」
「……微妙」
「ええっ!そんなひどい!」
「嘘」
「ほ、本当ですよね!!また嘘吐いたら泣きますよ!!」
「わかった」
「やったー!!あたしの三人目のともだ……ゲフンゲフン、沢山いる友達が、また増えたー!わーいわーい」
 先ほどの恐怖の空気から一転、通常の冷たさを誇る長門と、いつもどおりネジが緩んだ橘がショートコントを開催していた。



 いつもとは違和感があり過ぎのこの流れに、俺は何も答えられなかった。ああ、絶句というのは今の状況の事を指すんだな。
 ふと、こんな考えが頭によぎる。
 ――もしかしたら、長門に相談したのは間違いだったのかもしれない――


 





「あなたの願いを成就させるには、大きく分けて二通りの方法がある」
 俺の内心の動揺を余所に、交渉が成立した二人はいつの間にか次のステップである、『どうやって胸を大きく見せるか』の議論へと移っていた。
「二通り……ですか?」
「そう。一つは視覚の錯覚を利用して疑似的に巨視化する方法。もう一つは対象を実際に肥大化させてしまう方法である」
 いつもより流暢に語り出す長門。先ほどから打って変わって、橘に対して非常に友好的な対応をとっている。何故だかは知らないし、知りたくもない。
「前者は胸の回りに高屈折率の粒子を滞在させる方法。これにより、人間の目の錯覚を利用して通常より大きく見せる事ができる」
「ははあ……便利な世の中ですね……」
「ただし欠点もある。実際に大きくなったわけではないため、例えば身体測定などの数値には変化はなく、それに悟られると事実関係の調査がなされるなど、厄介な事になり得る」
「なるほど」
 橘は先ほどから熱心に長門の説法を聴講している。長門と仲良くなりたいためか、それともヘタこいて首チョンパされるのを恐れてか。
「また、より高屈折率雰囲気下に滞在する場合、張り巡らされている粒子の屈折率は相対的に小さくなってしまうため、逆に小さく見えてしまう恐れもある。あまりお勧めはできない」
「うんうん、そうでしたか……」
「わたしとしては後者を推薦する。見せかけで大きくすることは推奨しない。所詮まやかし。それよりは実際にあなたの乳房を大きくした方が、あなたにとっても、そして、彼らにとっても好都合」
 言う長門の目には、いつになく熱い炎が宿っているようにも見えた。ところで、彼らって、誰だろう?
「それは願ったり叶ったりで嬉しいです!でも、情報改変とかで大きくするっていうのは、些か抵抗が――」
「大丈夫。この惑星内の、有機生命体が用いる古典的手法を用いて、且つ効率的なものを選ぶ」
「本当ですか!?それでは、よろしくお願い致します!!」
 橘は最敬礼を遥かに超える角度で頭を垂れた。
 その態度、少しでもいいから俺にも分けて欲しい。

「では後者で実行する事にする。ところで、胸を巨大化する方法はいくつかあるが、どのように大きくしたら良いか、要望を言って欲しい。それに併せて方法を検討する」
「そんなにいくつも方法があるんですか?さすがですね、長門さん!うーん、できれば短期間ですぐに効果が現れるものでお願いします!」
「そう……∽⊥¶∬∩∀‰√……」
 長門はうなずいた後、呪文のような早口言葉を詠唱していた。


 ややあって、長門は左腕を正面に構え、開いた掌の上、そこから眩く光るものが下りて来た。それは徐々に光を失い、本来の形を示した。
 これは…………??
 俺は眉を潜めた。そこに見えるのはどうみても……
「なあ長門。これは一体何だ?」
「小径のホールがあるシリンダとピストン。これらを組み合わせると注射器となる」
 いや部品の名前を聞いている訳じゃなくてな……
「思うに、随分とでかい気がするんだが」
「有効成分を必要十分以上注入するため」
 長門が生み出した注射器は長門の掌に余裕で収まりきらず、また太さは長門の手首ほどあろうかというものだ。これはさすがに男の俺でも引く。
「あ、あの……」
 やっぱりビビったのか、おずおずと出てきた橘が長門に質問をした。
「これ、もしかして……」
「あなたに、注射する」
「やっぱり……」
「止めるなら、今のうち」
「うー……、ち、注射は嫌いなんですが、拒否して他の方法を模索する余裕があたしにはありません。我慢して受け入れます」
 意外や意外、注射が現れた瞬間、俺の影でプルプルしていた橘は思ってたよりあっさりと長門の案を受け入れた。
「で、ですが、どこに注射するんですか?そこだけは事前に教えて欲しいのです」
「…………」
 長門が沈黙して、俺の方に視線をシフトさせた。これには一体どんな意味があるのだろうか。一瞬、長門の唇の端が吊り上がった様に見えたのは気のせいだろう。
 そして、長門は言い放った。



 ――直腸注入が効果的――



 






「ひ、ひいいいぃぃぃぃー!!!」

 橘は突然叫び声を上げて、炬燵の中に潜り込んだ。その形相から、かなりの恐怖心に苛まれているのが伺える。
 だかしかし、全身を隠すには至らなかったようで、橘の下半身は炬燵の外で奇妙なダンスをしている。
 俺はそんな橘を見て、ああ、諺で言うところの『頭隠して尻隠さず』とはまさにこの事だなぁと一人物思いに耽っていた。
「い、痛いのはいやですぅー!」
 お尻をプルプル震えさせながら、くぐもった声で無き叫ぶ橘。直腸注入に関してトラウマでもあったのだろう。この怯え様は尋常では無い。
 まあ、直腸注入にいい思い出のある人なんて滅多にいないだろうし、俺もそんな人とよろしく付き合っていこうとは微塵も思わない。
「…………」
 長門はと言えば、注射器を片手に持ったまま微動だにしない。何を考えているのかも読み取れない。
だが、先ほどの冷笑。もしかしてよからぬことを……
 いや、よそう。長門に限ってそんなことを考えるとは思えない。思いたくもない。思ったら負けである。
 とは言え、このままではどうしようも無いな……
 俺が何かしらアクションを起こさなければ、徒に時間が過ぎていくような気がしたので、しょうがなく行動に出る事にした。
「長門。すまんがその注射器を隠してくれ」
 長門は注射器をじっと見つめ、そして腕を背中に回した。二秒くらいその姿勢で立ち尽くしていた長門は、また腕を元の位置に戻した。
 手にあったはずの注射器はそこには見当たらなかった。

 次はこっちの番か。橘の高ぶった精神を落ち着かせ、違う事に目を向かせて恐怖心を取り除いた方が良さそうだ。
 俺はポンポンと、優しく橘の腰を叩き、こう言ってやった。

「落ち着け橘。パンツが丸見えだ」

「へあ?……あああっ!!!」
 俺に指摘され、慌てて炬燵の中からはい出る。顔中真っ赤だ。完熟トマトも真っ青なくらいに。
「みみみみみみまましたねぇぇぇ……」
 さっきまで泣いていたせいか、それとも下着を見られた羞恥心からか、瞳に涙を貯めながら喋り出す橘。
「不可抗力だ。ってか、短いスカートを穿いて、無防備な体勢を取っていたお前が悪い」
「ううう、それは確かにそうですけど……でも!乙女の下着を盗み見るなんて、紳士じゃありません!!」
「ほう。よく言った。あんな下着を穿いてる奴のどこが乙女なんだ?」
「へ?」
「まさか、その年にもなってキャラクターパンツを穿いていると思わなかったぜ。しかもア○パ○マ○か」
「ああっ!!これは違います!!」
「違うって言われても、バッチリ見てしまったしな。橘京子はア○パ○マ○萌えだったのか。こりゃ傑作だ」
「ち、違うと言ったら違うのです!よく見てください!!ほらっ!!」
 言って橘はスカートを捲し上げ、ア○パ○マ○がイラストされていた部分の反対側――俺の口からは説明しづらいのだが、つまり前の部分だ――を指差した。
「ほらこの部分!食パ○マ○様がいるじゃないですか!あたし憧れなんです。優しくて、紳士で、そしてかっこいいのです。あたしはどちらかと言えば食パ○マ○様萌えなのです!」
 お前はドキ○ちゃ○か。それより……
「……橘」
「何ですか?」
「お前、頭、大丈夫か?」
「な、なんでなのですか!好きなんだからいいじゃないですか!!そりゃ確かに同世代の女の子は……」
「いや、趣向の話では無くてだな、お前、今何をしてるか分かってるのか?」
「へぅ?何って、食パ……」
「そうじゃなくて……一から十まで話さないと分からんかお前は……」
「ひ、人を脳みそ3グラムしかない年中盛り真っ最中のメスハムスターみたいな目で見ないでください!!あたし今回は何も変な事してません!誓ってもいいのです!!」
「今回は、ってことは今までには……それはいいや。話が長くなりそうだし。じゃあ聞くが、お前はいつもそうやって人に下着を見せびらかしているのか?」


「へ!?……い、いやぁーぁぁぁぁぁーぁぁぁぁぁーぁぁー!!!!!」


 自分から捲り上げておいて、今更何を叫ぶ必要があるのだろうか。こいつ、真性のバ……いや、よそう。もう何も突っ込みたくない。突っ込む気力も失せた。
「うぁぁぁぁあん!!ひどいですぅ~!!あたしの勝負パンツだったのにぃー!!」
 勝負パンツって、お前……
「責任、取ってくださぁい!!」
 責任とは一体なんぞや?俺が何をした?何をどうして欲しいか、400字詰めの原稿用紙100枚以内で起承転結をはっきりさせながら述べてくれ。
 ……いかんいかん、もう突っ込まないと決めたのに、結局突っ込んでいるじゃないか。

 橘イリュージョン、恐るべし。


 





「そこまで」
 俺が橘に対するツッコミを幾重に上げながらも発言するのを自重して堪えていると、やはりその場に根を生やしたように動かなかった長門が喋り出した。
「夫婦漫才はやめて」
 長門。何故俺がこいつと夫婦漫才などしなければならんのだ。
「夫婦だなんて……キャ~、恥ずかしぃ~」
 両手で手を隠して何やら呻いている橘。こいつは無視。
「あなたたちには素質がある。上京して専門学校に入学する事を勧める」
 何の専門学校だ?いや、聞くまでもない。聞く必要はない。嫌だ。断固拒否する。
「ならばM-1に申し込みを。今ならまだ間に合……」
「断る」
「そう……」
 皆を言う前に拒絶する俺。
 俺はこれでも大学志望だ。長門の考えている進路を否定する気はないが、その道に興味がある訳でもない。
 第一相方が橘ではこっちが疲れる。橘はピン芸人を目指すか、もっと息のあった奴と組ませた方がいい。
 例えば、そうだな……パンジー藤原だっけ?あいつなら橘の伴侶としてうまくやっていけるさ。
 だから残念そうな顔をしないでくれ長門よ。

 話を元に戻そう。
 このままではいつまで経っても元の道に戻ることがない。この辺で起動修正しておかないとな。
 俺は『夫婦っていえば、あんなことやこんなことや……キャ~!新しいスキャンティ買ってこなくちゃ!』等と浮かれている橘を力の限り無視し、長門に話を振ることにした。
「長門、橘はあのサイズの注射にトラウマがあるみたいだ。せめてその注射器をダウンサイジングできないのか?」
「彼女は胸を大きくさせる事を優先した。だからその望み通りの対処をしたまで。ある一つの事象を優先すれば、その他の事象が犠牲になり得る事は、熟考すれば自ずと理解できたはず」
「なるほど、そりゃ道理だ」
 橘は自分の願望を実現化するために、即効性を希望した。長門はその願いを反映させたに過ぎなかった。効果や結果を求めるのであれば、それ相応の努力や犠牲などが必要になってくるのは当然である。
 さしもの万能宇宙人端末であっても、全ての条件を満たす方法を見出だすのは不可能なのだろう。だから今回の件は長門に非があるとは言えない。
 なるほど、そういう事なら仕方あるまい。ここは橘に猛省を促すべきだ。

 俺は視線を長門から橘へと切り替えた。
 橘は唾を飲み込みつつ、朧気で虚ろな目線を右往左往に浮かべながらもまだ何やらイヒヒヒと妄想している(やや誇大表現)。
 ちょっと身動ぎしたが、声を掛けない事には始まらない。俺は勇気を持って声を掛ける事にした。

「橘」
「――そ、それで!夕食を買いに八百屋に行くと、八百屋の主人が『奥さん、今日も綺麗だねぇ!』なんて言われたりして!」

「おい、橘」
「そして、『山芋とにんにく安くしといたから買ってってよ!旦那さんも奥さんも、毎日深夜残業でお疲だろうしね。日本の将来のために頑張ってくれよ!』って言われるの!」

「聞いてるのか?橘」
「『やだぁー、おじさんったら!じゃあいただくわね』『毎度っ!おまけにで家で採れた烏骨鶏の卵と、サンプル品だけどエ○オス錠も入れといたから!』『本当!?おじさんありがとう!最近旦那ったら量が少なくって……エ○オス助かるわ!』」

「……橘」
「それで!買い物から帰って来たら、玄関でクリーニング屋の倅とバッタリ合って、『お届に上がりました』って言って、家の中に入ってくるの!」

「おーぃ、橘ー」
「でもそれは単なる口実で、本当はあたしが目当てだったの!『奥さん!僕はもう我慢できません!』……だ、ダメ!あたしには主人が――」

「橘さーん」
「何とかクリーニング屋の倅を撒いて、夜に備えて夕食やお風呂や、そしてベットメイキングに全力を注いで!!」

「京子さーん」
「いよいよ旦那様が帰って来る時間になって、あたしはエプロン姿に着替えるの!もちろんエプロン以外は……キャー、恥ずかしくて言えない!!」

「…………」
「それで、それで!旦那様が玄関のドアを開けたらこう言うの!『ご飯にする?お風呂にする?それとも、あ……』」


 ――プチッ――


「おおっ!久し振りだなささ「うっひゃぁぁぁぁぁ!!!!」」

 俺が何を言っても反応しない苛立ちと、余りにも次元の違い過ぎる妄想のせいで、何かが切れてしまった俺は対橘最終兵器『ささ』を投入したのだ。
 なお、『ささ』というのは実在するものでは無く、普通の人間には力のある言葉ではない。
 しかし――
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいぃぃぃ!!!」
 橘にとってはドラキュラに十字架、狼男に銀の銃弾、お菊さんに足りない皿をあげるくらいの効果があるのだ。
「ちょっとした乙女の夢を語ってただけなんですぅ!!学校が離れ離れになったことをいい事に、あの手この手の奸計や罠を張り巡らせて、キョン君を略奪しようとなんて思ってから許してください佐々木さぁ~ん!!!――って、あれ?」
「どうした、橘」
「あれ……?佐々木さんは?」
「なんでここに佐々木がいるんだよ?」
「でも今、『ささ』って……」
「ああ、それならあれだ」
 言って俺は窓の方を指差す。
「前にここで七夕パーティーをやった時の笹の葉があったんでな。ちょっと懐かしんでたんだ。しかしまだ片付けて無かったとはな。長門、もう捨ててもいいんだぞ?」
『…………』
 俺の言葉に、二人の沈黙が重なる。
 長門は俺の言葉に対する暗黙の了承、橘は単なる絶句という違いはあるが。

「……キョン君のいじわる」
 拗ねて顔を膨らませる橘はやっぱり……なんでもない。


 






 俺は自分の世界に入り込んでいた橘を現実世界に引き戻し、現状を報告することにした。

「うう……わかりました、少しくらい時間が掛かってもいいのです。だからあまり痛くない方法をお願いしますぅ」
「わかった……〆《♀¢∬★◯⇔●Å~》
 橘の懇願に長門は頭を縦に振り、再び呪を紡ぎ――

 ――そして現れたのは、先ほどよりも小降りの注射器。ちょっと他のアイテムが降臨するのを期待したのだが、長門は注射器が好きなのだろうか。
 なお、橘が俺の影で再度プルプルしているのは――失敬、言わなくても分かってるか。
「あ、あの、しょれ……ましゃか……あなあなあなあなあな……アッー!」
 橘はすっかり怯えて口が回らなくなっている上に、電波を受信して自身の機能を異常終了した。仕方ないので、俺は長門に橘が聞きたかったであろう質問事項を述べる事にした。
「長門。もしかして、また直腸注入する必要があるのか?」
「その必要は無い。先ほどより薬剤は少ないため、直腸注入をする必要はない」
「だとさ。よかったな、橘」
「な、なんだぁー。ふぅ、びっくりしましたぁ」
「だが少しは妥協すべきだぜ。長門がお前の願いを叶えてやろうと、あれほど骨を折ってんだからな」
「は、はい。わかりました。腕だろうが足だろうが、お注射されるのは嫌いなのですが、文句を言える立場じゃないですよね」
 よく分かってるじゃないか。少しは進歩したな。
「あれくらいの大きさなら30秒ほどの濁音混じりの絶叫と、八つ当たり気味の水平チョップ乱打だけで済みそうです」
 なんだそれは。やっぱり相変わらず突っ込みどころ満載、謝恩セール中だなお前の脳みそは。
「ちょっとそれはひどすぎるのです。せめて『本日限定大幅値引実施中』って書いてあるノボリを毎日立ててある、やる気のない三流スーパーくらいの暗喩をしてくださいっ!」
 暗喩なのかそれは?既に比喩のレベルを超えてないのか?
 ああダメだ、どうしても突っ込んでしまう。
 こいつは人をボケ専用にさせてしまう特殊フェロモンでも辺りにばらまいているのだろうか?
 或いは哺乳類等が持つ反射神経なのだろうか?沸騰したヤカンを不意に触って、熱かった指をなぜかミミタブに持っていくように。
 分かる人がいたら教えて欲しい。ついでに対策方法もだ。

 橘と話し始めると、どれほどの時間を掛けても正常な道に復帰できる可能性は俺の経験上、ほぼゼロである。そしてよりドツボに嵌まってしまう可能性は、梅雨の日の降水確率よりも高いのである。
 埒が明かないので、俺はここで再三に渡って脱線し続けた話を元に戻すため、議長に手を上げて発言する。
「長門。さっきの注射器と一体何が違うんだ?」
「先ほどの有効成分は主として女性ホルモン。だがこちらは主にヒスタミンである」
 ヒスタミン?聞いたことがある様なないような……
「ヒスタミンは人間が合成する体内物質のうちの一つ。人間が生命活動を維持するにあたって重要な物質である。その効果を身近に確認できるのは、アレルゲン等の外部刺激により痒痛状症状や浮腫を生じ……」
 まだ何やら喋っているが割愛する。長門の説明は分かり兼ねる語句が多過ぎる。もう少し凡人の俺でも分かる語句を多用して説明して欲しいものだ。

 その後、長門の説明を何度か聞き返し、質問してようやく理解できた。今回は特別、俺が先ほどの長門の言葉を意訳しようではないか。
 まあ簡単に言えば、痒みの元ってことだ。
 ……悪かったな、どうせボキャブラリーは少ないさ。だが単純明瞭で分かりやすいだろ?
「で、胸の大きさとヒスタミンがなぜ関係あるんだ?」
「先にも言ったとおり。ヒスタミンは皮膚や血管にアレルギー緒症状を生じさせる」
 わからん。何をするのか簡潔に言ってくれ。
「橘京子に、このヒスタミンを注入する」
 なるほど、それは簡潔だ。さすがに俺でも分かる。
 だが俺が聞きたいのはそんな事では無くてだな。
 ……ああめんどくさい。いちいち指定せんと分からんのか?もしかして橘の暴走菌が移ったか?
「どうやって注入するんだ?」
「注射器を用いる」
「じゃなくて……どこに注射するんだ?」
「ここ」
 言って長門は、橘のある部分を両手を使って指差したのだ。
 ――すなわち、橘の上半身にある、双丘を。

「へ?」
 橘、絶句。
「両乳房にヒスタミンをドープし、部分的に浮腫を生じさせる。これにより乳房が盛り上がる」
「あの、それって……」
「ただ、腫れ上がってるだけじゃ……」
「問題ない」
「いや、問題ありまくりだろ……第一、痒くて仕方ないんじゃないのか?」
「そう」
「あ、あたし、痒いのは嫌なのです」
「大丈夫。掻けば掻くほど膨れ上がる。そして痒みが増す。痒くなれば更に掻いてしまう。繰り返す事によって胸は肥大の一途を辿る。わたしのシミュレーションでは、橘京子の胸の大きさは、投薬前のおよそ3.6倍に膨れ上がる」
「うわあ、そうなんですかー。痒いだけでしたら何とか我慢できそうですし、やってみようかなー」
 こいつ、見事にだまされている。
「橘。やめとけ」
「ええっ、なんでですか?」
「蚊に刺された時のこと思い出せ。確かに掻けば掻くほど腫れ上がるが、ずっと腫れ上がっているわけじゃないだろ?いつかは痒みは治まるはずだ。勿論、腫れもな」
「あ……」と 橘。気付くの遅すぎ。そして長門さん、今舌打ちしませんでしたか?
「気のせい。それに、あなたの言った短所の対処法も確立している」
 なんだ、それを早く言ってくれよ。どうするんだ?
「一日三回注射する」
 はい……?
「確かにあなたの言ったとおり、ヒスタミンは人間の抗体やホルモンバランスによって、そのアレルギー症状を徐々に低下させる。効果を持続させるならば、定期的に注入すればよい」
 おいおい……それはちょっとダメなんじゃ……
「大丈夫。個人でも注入は簡単。食後が望ましい」
 そうじゃなくて……


 





「あの、長門さん……」
 黙ってた橘が声を発した。
「その、色々考えてくださって有り難いんですが、一日三回、毎日注入するのは大変ですし、毎回毎回痒みに耐えて、そして掻き続けるのはさすがに勘弁したいのですが……」
 俺も同感だ。ようやく橘もまともな精神を手に入れたか。でも、代わりに長門のネジが緩んできたような気がする。
「そう……」
 無表情の中に、微かながらも悲しみの表情を織り交ぜる長門。ちょっと可哀想なことをしたかもしれないが、橘ですら拒否したんだ。ここは一つ納得してもらうしかない。
「それでは、他の方法を試す事にする。……∵‡♭∠▼→☆⇒★∩∇∩……」
 長門は三度呪文を唱えた。そして出て来たのは……

「おい、長門」
「なに」
「これはなんだ?」
「小径のホールがあるシリンダとピストン。これらを……」
「早い話が注射器だろ。それはわかってる。ってか二度目、いや、大小合わせれば三度目だ。で、さっきと何が違うんだ?」
 呆れ混じりに俺が呟くと長門は、
「これはスズメバチの疑似毒」と答えた。「疑似毒だと?」
「そう。スズメバチが持つ毒を元に、数種類の有機化合物を配合した。より強力なアレルギー症状を発生させる。その上こちらは痒みがない」
 アレルギー症状ってことは、基本的な考えは先ほどと変わらないらしい。もう少し別方向からのアプローチをお願いしたいもんだ……ん?
「ちょっと待て。スズメバチの毒って事は、かなりやばいんじゃないのか?」
「心配ない。一回しか刺さないから」
「い、痛いのはちょっと……」
「その点も考慮した。この薬剤には鎮痛剤も含まれている。針が刺った時に感じる痛み以外には特に何も感じない」
「そうなんですか。じゃあ大丈夫かな……」
 やっぱりあっさりと騙される橘。しょうがないな。橘の身のためを思って、意見を申し出る事にするか。
「長門。スズメバチの毒については俺も多少の知識がある。確か、一度刺された者が再び刺されると、ショック死してしまうはずだ」
「ひいっ!ほ、本当なのですか!?」
「ああ、本当だ。たしか、アナ、アナ……」
「アッー!!」
「どうした橘?」
「いえ、天からの思し召しが……」
 またしても電波を受信したのか、意味不明な事を仰る橘。静かにできないんなら、そのまま天に召されてくれ。
「…………」
 よし、黙ったか。気を取り直して再び考える。えーと、アナ……なんとだった気がするが……
「アナフィラキシーショック」
「そう、それだ。つまり、その注射をした場合、橘は、スズメバチや、類似の毒を持った者に噛まれたら死んでしまうのではないか?」
「えええっ!そんなぁ!!?」
 その事実を知らなかったのだろうか、驚愕の声を上げる橘。知ってたら注射する気にはならないだろうが。

「本当に、そう思う?」
 珍しく長門が問い返して来た。
「ああ、小さい頃は昆虫博士って言われてたしな」
「へええ、人は見掛けによらないって、本当ですね」
 うるせー、黙れ橘。
「――ファイナル、アンサー?」
 突然、長門がそう切り出した。一瞬、何をしようとしたのか分からなかった。
 長門は、どこかの誰かさんみたく、俺の解答の確認作業を行っていたのだ。
 長門の冷たい目線が、俺を貫くように集中していた。
 色白の肌が、ヤケに黒く見えるのはなぜだろう。
「――ファイナル、アンサー」
 長門の視線に、俺も負けじと睨み返す。
 昆虫博士の名にかけて、ここは意地でも正解してやる。

「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「……くっ」

 うう、間違ってはないはずなのに、何故こんなに緊張するんだ?
 まるで俺が諸悪の根源のような思いに駆られる。そしてその懐疑心は、俺の答えが間違っていたかのような錯覚に陥れる。
 長門!そんなに引き伸ばさなくてもいいだろ!頼む、早く答えを言ってくれぇ!!

「……・・・……」

 い、今笑った!絶対笑った!!
 何がおかしいんだ!!間違ってるなら間違ってるとはっきり言ってくれ!!頼むから!!
 中途半端に笑われると一番気まずいんだよ!!

「…………正解」
「へぁぁぁぁぁ……」

 俺は体中に張り詰めていた緊張の糸が切れ、操り人形のように硬直していた体が、ふっと自我を取り戻した。
 まさか、あんなツッコミ一つで、これだけ緊張するとは思わなかったぜ。さすがは長門だ。
 なお、正解を告げる長門の声は、何故か面白くなさそうな声であったことも併せて報告する。
「何とか正解ですね。よかったですぅ。まだライフラインも残ってます。このまま一気に行っちゃいましょう!」
 何を勘違いしているのか知らんが、一人でどこにでも行ってくれ。俺は止めないから。
「でも、ドロップアウトするにしても、次の問題を聞いた方が……」
 お前、本来の目的を忘れてるだろ。その年で既に痴呆か?だとしたらやっぱり注射した方がいい。長門に頼んで脳にアセチルコリンを注入してもらえ。ついでに脳内のβアミロイドやトランスフェリンに結合したアルミイオンも除去して貰うことを推奨する。



 





 さて、いい加減ダラダラとし過ぎた。昼も回って腹も減ってきた。本当は午前中くらいにはことを終わらせるつもりだったが、橘の電波っぷりで余計な時間を喰ってしまった。
 ま、それを止められず、調子にのった俺にも反省すべき点はあるけどな。
 ともかく、情報操作でもなんでもいいから、橘が納得いく方法で納得させて貰って、家に帰ってゴロゴロしたい。そのためには橘自身の意見が必要だ。
 俺は橘に勧告することにした。

「橘。話の本筋に戻るぞ」
「え?本筋って何ですか?」
「クイズに答えるのが目的じゃないだろ。それとも、お前はあのまま何も説明を聞かず長門に注射されて、そしてたまたま飛んで来たハチにさされてショック死したかったのか?」
「いえ、さすがにこの年で非業の死を遂げるのは……」
「なら、まともな意見を自分自身で考えて、長門に頼め。お前が変な要望しかしないから、長門も電波な回答しかしないんだ」
「…………」
 長門が少し怒ってる気がするが、敢えてスルー。
「そうですか、わかりました。では……」
 コホンと咳払いを一つして、橘は改めて語り出した。

「長門さん、決して長門さんの方法が悪いというわけではありませんが、あたし達人間には、長門さんの崇高な考えが理解できないみたいです。本当にごめんなさい」
 橘はまず長門への謝罪を行った。これは何となく怒っている、長門の気持ちを汲み取ったからであろう。
 そう言えば橘は長門に対して仲良くなろうとはしているものの、その態度から苦手意識を持っていることが伺える。朝比奈さんといい橘といい、何故そんなにも長門にびくつく必要があるのだろうか?
 もしかしたら、長門には、女性限定で察知できる大きな隔たり、確執があるのかも知れない。それを女性陣が察知し、距離を置こうとする。うむ、何となくそんな気がしてきた。
だがそうだとしても、ハルヒや鶴屋さんなんかは長門と普通に接しているな。まあ、あの二人は場の空気に関係なく自分のフィールドを展開するから、長門のプレッシャーなど、微塵も感じないのかもしれない。
 ん?そうすると橘は空気を読むと言う、普通の人間に備わった能力があると言う事になる。そんな馬鹿な。いくらなんでもありえないだろ。第一……

「……ですので。申し訳ないですが、あたしの愚考に付き合っていただければと思います」
 俺が思い詰めていると、橘が更に話を続けていた。
 こんなまともな会話ができる奴だったんだな。最近のアレっぷりでスッカリ忘れていた。
「わかった。あなたの意志を尊重する」
「ありがとうございます!長門さん!」
 そして、更に意外な事に、長門は橘の意見をあっさり了承した。
「それでは……ゴニョゴニョ……」
 橘は何故か俺の方をチラ見し、そして長門の耳元で囁いていた。俺に聞かれるとまずいのだろうか?
「……それは可能」
「本当ですか!なら……の……を……に……」
「……それは、推奨しかねる」
 話の内容よく分からんが、長門に承認されたり拒絶されたりしている。そのためどんな事を申し出ているのか想像もつかない。
 組織の連中を貧乳萌えにするとか、自分より胸の大きい女性の胸を切断するとか。
 まさか朝比奈さんとフュージョンするって訳じゃないだろうな。うーむ……
 いろんな想像をしていたが、巨乳ロリ顔ツインテールがメイド服で「んん!……もうっ!」と拗ねている姿が浮かび上がった瞬間、自己嫌悪に陥った。
「……ば……の……にも……ますから」
「……少し、考察する時間を」
 悩んでる!?あの長門が悩んでるだと!?一体どんな条件を出したんだ橘!
「……け……アップ!……どうでしょう?お願いできますか?」
「快諾する」
 な、長門が快諾しただと!?長門を懐柔させるとは、一体どんな手を!?
 図書館の本全て強奪して長門に渡す気か!?橘よ、それは犯罪だ止めとけ!!
「ありがとうございます!よろしくお願いします!」
 不安そうに長門を見つめていた橘は、長門の了解の言葉を聞いて、花を咲かせたように笑顔を振る舞った。
 しかし、ああして見ると、橘も普通の女の子だよな。ここ最近の電波っぷりで、痛い女の子のイメージが強かった俺だが、ちょっと見直しつつあった。
 よくよく考えたら、最初の出会いこそ最悪だったものの、特に奇異な行動をするでもない、普通の女の子だった気がする。
 こいつの性格が破綻し始めたのは、佐々木の閉鎖空間に神人が生み出されてからのような気がする。
 それから徐々に壊れ始め、メイドさんの胸を揉みしだいたり、よく分からん主張のためにスカートを捲し上げたり、かなりイッちゃってる電波少女へと成り下がっていた。
 今そこに見える橘はそんな変人っぷりは微塵もない。それこそ演技であったかのように。

「キョン君、どうしました?」
「うおっ!!た、橘か!いきなり声をかけるからびっくりしたじゃないか!!」
「いきなりじゃないですよ?ずっと呼んでるのに、ぼーっとしてたから」
「ああ、そうなのか?」
「ふふふっ、おもしろいですね、キョン君」
 俺はここで「ふんっ」と顔を背けた。何故だかはわからない。
「キョン君、ちょっと変身してきますね」
「変身だと?何をする気だ?」
「それは?見てからの、お・た・の・し・み。うふっ」
 橘はご機嫌な口調で口を動かす。
「奥の部屋で変身してきますね。良いって言うまで除いちゃだめよ?長門さん、それじゃあ行きましょ」
「…………」
 そして二人は奥の部屋に入って、扉が閉められた。


 





「…………」
 この三点リーダは俺のものである。二人が奥の部屋に閉じこもってかれこれ数十分が経過していた。女の子が身嗜みを整えるのに時間が掛かることは俺でも承知している。
 うちの妹だって、色気もへったくれもないのに、衣装合わせにはやたらと時間を掛けているしな。あれが大きくなって、化粧やらを覚え始めたら、今以上に身支度の時間が余分に掛かってしまうだろう。タダでさえ身支度の要領が悪いんだから、メイクするにしても効率よくやって欲しいものである。

「キョン君ー、準備できましたー。入って来て良いですよー」

 妹の彼氏が俺の家に上がって、シチューを美味しそうに平らげているところで、俺の妄想はようやく終焉を迎えた。
 やれやれ、長い時間待たせやがって。これでまた変態丸出しな格好をしてたらすぐに帰るからな。そんな思いを馳せつつ、俺は奥の部屋の襖を開けた。そこには――

「あ、どうですか?みてください、バッチリでしょ!?」

「…………」

「自分でもびっくりしたのです!」

「…………」

「何の苦労もなく寄せれるんですよ!」

「…………」

「寄せてあげる必要も無いし、パッドもいらなくなったのです!」

「…………」

「この大きさに驚きです!朝比奈さんにだって負けません!!」

「…………」

「キョン君?どうかしましたか?」

「…………」

「おーい、いきてますかー?」

「…………」

「…………」

「…………」

「……すぅー」

「…………」

「……キョン君……」




『起きろー!!!』




「ぶべらっ!!!――はっ!!ここはどこだっ!?」
「キョン君、起きましたか?」
「あ、ああ。俺は寝てた――のか?」
「さあ。目は開いてましたけど、ずぅーと声を掛けてたのに、無反応だったんで、寝てるのかと思いました」
 どうやら目を開いたまま寝ていたらしい。そうだよな、あれは夢だ。
「いや、スマン、ちょっと夢を……」



 …………。
 夢じゃねえ……。




「橘、一つ聞いていいか?」
「はい、なんでしょう?」
「お前、その胸、どうした?」
「どうしたって……最初から言ってるじゃないですか。長門さんに大きくしてもらったんですよ。どうですか?キョン君に気に入ってもらえたかなぁ?」
 俺が放心していたのは、橘がそれは見事な完熟マスクメロンを、自分の上半身に実らせていたからだ。巨大だ。巨大過ぎる。そしてその形の良さと、適度な揺れ具合に思わず見とれてしまっていた。
 ――悪かったな、スケベーな目線で。だがあれを目の前にしたら大概の男は俺みたいに固まってしまうさ。そうならない奴はEDかガチホモくらいのもんだ。
 正直、朝比奈さんでもあんなに大きくは無い。あの大きさに対抗できるのは、グラマーに磨きがかかったセクシーダイナマイツな未来人――つまり朝比奈さん(大)くらいのもんだ。
 胸の大きさに驚きを隠せないのは当然だが、実は他にも見た目で変化しているのが確認できるところがある。それは腰回り、つまりウエストだ。
 橘は決して太っていたとまでは言わないが、だからと言ってウエストが綺麗に括れがあったかというと、俺はどれだけ頭を働かせても『記憶にございません』としか言わざるを得なかった。
 だが今目の前にいる橘は、胸が大きくなった事を差し引いてもウエストラインが綺麗に、そしてなまめかしく現れていた。
 バスト、ウエストとくれば、残りのヒップについても言及しなければなるまい。
勿論ヒップについては今回橘が要求していたものでは無く、特に報告義務があるわけでは無い。
 しかし、スリーサイズ全てを確認したいと思うのは当然の事だと、男として生まれたからには思うわけで、そこんところ分かって欲しい。特に女性には。
 ヒップに関してはややひき締まった感はあるものの、他の二つよりは大きく変わってないようだ。とは言え、筋肉質のヒップというわけではなく、適度に脂肪が付いた、所謂安産型のヒップって奴だ。
 ここも情報改変したのであろう。さっき炬燵の中でプルプル震えてた時に確認したときはもうちょっとプヨプヨしていた、間違ない。
 そこ、エロキョンとか言うな。
 つまり、出るべきところは出ていて、引っ込むべきところは引っ込んでいる。女性として、いやもう少し付け足すなら俺の好みに直球ど真ん中ストライクなプロポーションであった。
 加えて橘は決して不細工と言う類いでは無く、容貌が良いか悪いか、二つに分けると言われれば即ち前者に分類されると個人的には思っている。あの痛い言動を考慮してもだ。

 長々ととりとめの無い話をして来たが、つまりは容姿端麗で完璧とも言えるプロポーションを持った一美少女が、俺にアプローチを仕掛けているのだ。これで落ち着いていろって方がどうにかしている。
「何か様子がおかしいですよ、キョン君」
「うぁ、いや、別に俺は普通だ」
 勿論嘘だ。せいいっぱいの虚栄を張り巡らせてその場を凌ぐ。
「ふふーん、そうでしたかぁ。そうですよねぇ」
 そんな俺の態度に呼応して、嫌味ったらしいしたり顔を浮かび上がらせる橘。全く持って遺憾である。

「橘京子の生命維持用貯蓄栄養兼熱源性固形有機化合物の移植補強作業が終了した」
 部屋の奥から長門が現れて、何やら俺に説明っぽいものをしてくれた。だがやっぱり分かり辛い語句ばかりで理解に苦しむ。
 因みにもう一つ理解に苦しむことがあるが――それは後ほど説明しよう。その前に、橘に、どのような情報改変をしたのかを問い質すのが先だ。
 俺は長門に簡単な語句で説明してくれるよう懇願し、長門は俺の希望を受け入れてくれた。
「橘京子の体内に蓄えられていた脂肪を人間の身体を構成する一点――乳房に集中させた。それ故橘京子の乳房を大きくさせることに成功した」
 なるほど、つまりは脂肪移植ってわけか。要らない脂肪を胸に回して巨大化させたってわけか。ん?てことは……
「なあ、どこの脂肪を移植させたんだ?」
「腰部及び腹部から80パーセント、残り20パーセントは臀部から採取した」
 ああ、なるほどな。橘のプロポーションが良くなったと思ったのは俺の幻覚じゃなかったんだ。
「はははは、ばれましたかぁ。最近、甘い物の食べ過ぎで、ちょっとお腹回りがでできゃいまして……」
 お前、以前に10kgほどやせたって言わなかったか?
「実は、恥ずかしい話なんですが、痩せてから、ちょっと油断してお菓子をいっつもの70%増しで食べてたんです。組織の立場も偉くなって、現場で動くことがなくなったから余計……」
 顔を赤らめながらも告白をする橘。
「でもこうして、脂肪を有効活用できましたし、結果オーライって奴ですよ」
「そうとも言えない」
「うっ!」
 長門が突然話に割り込んだ。
「あなたの腹部の贅肉は過多だった。あの状態が長く続けば、高血圧、高脂血症、糖尿病と言った諸症状――所謂生活習慣病が発生する確率が桁違いに大きくなった」
「ごめんなさい、長門さん。メタボリック症候群には気をつけたいと思います」
「いい。わたしは謝礼をもらったから」
「ありがとうございます!」
 なあ、謝礼って……
「あれ?キョン君、わからないんですか?ダメですよ。女の子の微妙な変化に気付かないと」
 いや、何となく、というより確実に長門が変わっているのは分かってるんだ。
 だがそれがもしかしてお前のせいか、って事を聞きたかったんだ。
「あたしのせいって言えば否定はできませんが、長門さんは自分で結論を出したんですから、自分自身の意思ですよね」
「そう、わたし自身が決めた。橘京子が、剰余分はわたしに譲渡すると宣言したから、わたしはその希望を受け入れた」
 なるほど、そういう事か……
 俺は妙に納得していた。だがまだ分からない人もいると思うので、ここでひとつおさらいをしよう。

 1.橘は腰や腹に脂肪が溜まっていた。
 2.それを抽出して橘の胸に移植した。
 3.とは言え、二つの胸を満す脂肪は、いくら巨乳と言ってもそれほど多く必要ではない。
 4.このままでは脂肪が余ってしまう。
 5.どこかで処分せざるを得ない。

 つまり、余った贅肉は何かに使われたってわけだ。使われた先は……

「ゆっさゆっさゆっさゆっさぷるぷるぷるぽよんぽよんぽよん」

 大きくなった胸で揺れ具合を楽しんでいる長門。なるほど。もう一つの疑問点――長門の胸が大きくなったように見えたのは、このためだったか。
 長門の胸は、当然ながら以前よりも大きく、制服を着ている姿からも、その存在を確認できた。
「ふるふるふるー」
 長門、揺らさないでくれ。正直、目のやり場に困る。そんなに揺らすと思わず注視してしまうじゃないか。
「なに」
 俺が長門の胸を注視していたせいか、突然長門が声を掛けた。
「いや、なんでもない!」
 慌てて目を逸らす俺。逸らした先にもまた橘の所有する巨峰が二つ。本気で目のやり場に困る。勘弁してくれ。
「ね!長門さん、言った通りでしょ!?」
「言った通り」
 こら橘。お前は長門に何を吹き込んだんだ?
「え?別に吹き込んではいませんよ。事実を伝えたのに過ぎないのです。長門さんだって、納得してますし」
 なんだ、その事実ってのは?
『ひ・み・つ』
 人差し指を口に当てて言う長門と橘。
 ――チッ、ふざけやがって。
「やだぁ、そんなに照れなくてもいいのに、キョン君ってばかわいいんだから」
 橘がまたしても電波を受信したようなので無視する。断じて俺は照れてなどいない。ちょっとドキッとはしたが、その程度だ。
 俺は必死に否定したが、橘の『わかりましたわかりました。ふふふっ、無理しちゃって』という、人を小馬鹿にしたような態度に、少々腹を立てていた。
 なぜ橘に対してこんな態度を取らなければいけないのだ。あー忌々しい。
 ……もうこいつの事について考えるのは止めだ。
 帰るぞ!橘!

「あ、はーい」
 ――橘の声は、やたらと甘く感じた。



 






 そして玄関の前。
「長門さん、重ね重ねありがとうございます。今日は一旦帰りますね。日を改めてお礼をします」
「ゆっさゆっさゆっさ」
 橘が頭を垂れてお礼を言う間、長門は相変わらず揺らし続けていた。
 目線がどうしてもそちらにいってしまう。頼むから俺のフィールド内で胸を揺らさないでくれ。
 あれ、そう言えば――
 ふと、ある事に関して疑問が浮かび上がった。ちょうどいい機会だ。聞いてみるとするか。
「長門。お前なら情報操作で自分の胸の大きさなんて変幻自在じゃないのか?橘の脂肪なんてもらわなくても」
「わたし自身の体に情報操作をすることは、情報統合思念体に許可されていない」
 なるほどな。ん?だが待て。情報操作だろうと他の方法だろうと、お前の体のステータス、つまり胸の大きさは変化したんだ。それについてお前のボスは何も言わなかったのか?
「そう。橘京子の脂肪を埋め込む事に関しては特に規制されることはなかった。情報統合思念体の真意はわたしに知らされてないが、そうする事で、新たな進化の可能性を見出だそうとしているのかもしれない」
 脂肪が進化の可能性って……本当にそうなのかはわからんが、それはそれでよしとしよう。
 だがなぜお前は自分の胸を大きくしようと思ったんだ?お前の目的はハルヒの観察だろ?胸を大きくするのはハルヒの観察に必要はないんじゃないのか?
「現状のサイズが、涼宮ハルヒの観察に適正な大きさであるかは分かり兼ねる。それ故、わたしは自身の胸の大きさを変化させる事にした」
 変化させるのは構わんが、いきなり大きくなり過ぎてはいないか?そんな大きい胸を見て、ハルヒがどう思う?
 驚いてこの不思議現象を解明しましょうと言って、やっぱり奇異な事を考え付くとしか思えないんだが、その対処はどうするんだ?

「キョン君、ダメです」
 俺のツッコミに異を唱えたのは長門ではなく、橘だった。
「長門さんだって女の子なのです。体に興味があってもいいじゃないですか」
 長門の場合、女の子云々より、地球人の体の構造自体に興味があると思うんだが、そんな事で反論してもしょうがないのでここは黙って頷いておく。
「だから、そんなことを一々聞かない方がいいですよ。デリカシーには気をつけた方がいいのです」
 デリカシーのかけらもないこいつに言われるのは業腹だが、やはり反論するだけの理由を持ち合わせておらず、そのまま受け入れる事にした。
「じゃあこれで。また遊びにきますね」
「ご自由に――ふるふるふるゆさゆさゆさ――」
 別れの場に立ち会い、さよならの挨拶を送った長門を見つつ、俺はこう思った。

 ――長門、頼むから人前で胸を揺らさないでくれよ。



 






「ふふふっ、なんだかすべての物が明るく見えてきますぅ」
「こらっ、くっつくな!」
「まあまあ、いいじゃないですか。減るもんじゃないですし」
「俺の神経は磨り減ってんだよ!勘弁してくれ!」

 アパートを出て、二人で寄り添って公園を歩く。
 こんなシーンをみたら、普通の人は間違いなく勘違いするわけで、恋人同士と受け取られるのも無理はないと思う。
 事実、公園の周りにいた人達から、微笑みやら羨望やら嫉妬の目線を受けているのであるが、忘れちゃいけないのが、先ほどまで痛い行動をしまくっていた自称佐々木親衛隊長橘京子である。
 また何を企んでいるのか、変なニヤケ顔を体の右半身にため込みつつ、俺に密接しているのだ。
 普段のこいつなら余り気にすることはないのだが、いかんせんこいつの体は長門によって情報操作されており、特に胸の大きさと形と弾力は、もし全世界美乳コンテストでも開かれたら、五指に入るんじゃないかと言うほど見事なものだ。
 そんな胸が俺の肘に感触として残っている。これを気にするなって言う方が無理な相談だ。
「こ、こんなところを佐々木に見られたらどうするんだ!」
「大丈夫ですよ。今日は佐々木さん、一日塾で暫くはこの辺りに現れませんから」
「いや、そうは言っても他の人の目線が気になる!もう少し離れてくれ!」
「いいじゃないですか。あたしたちの仲の良さを見せつけてやるのです」
「それは勘弁してくれ」
 プロポーション抜群の美少女にしがみつかれるのは嫌なことではないし、普通ならお願いしたいくらいなのだが、いかんせん目立ち過ぎだ。それに橘はこの辺りで既に問題行動を起こしている。
 いきなり泣き出して、善良な市民にフランケンシュタイナーをかましたり、喫茶店で電波発言を絶叫したり。
 もう手遅れかもしれないが、俺は橘一派その1として見られるのはごめん被りたい。
 これならハルヒのもとで、汗水たらしながらカエルの着ぐるみをきてた方がまだマシだ。

 ――マシなのだが、右手に伝わる、カシミヤやベロア、そして最上級の羽毛布団にも劣らないその感触を一心に受けている俺は、それ以上の抵抗の言葉を口に出せずにいた。

「ふっふふーん、ふふっふん」
 橘はご機嫌はすこぶる快調で、何かの曲のアカペラを口ずさみながら俺の腕にに抱き付いている。
「ふぅ……」と俺。実はこの時、口では悪態を吐きながらも、橘の今までの挙動に関して寛容に思い始めていた。
 長門の家を出た辺りから奇行は全くしなくなったし、おとなしく抱き付いているだけなら危害もない。
 この状態でしばらくいてくれたら非常に助かる。橘も嬉しそうだし、まともであれば、俺も橘の行動を止めようとは思わない。
 それに、もう少しこの状態を続けた方がいいと思っている。
 ――変な想像はよしてもらおう。橘と二人仲良くこの辺をブラブラしたいってわけじゃないぞ。
 まともになりつつある橘を、この機会に正常な方向へと矯正したいだけだ。だが、ここで気をつけないといけないことがある。
 それはお約束というやつで、こんな展開にはつきものの、誰かさん達――ハルヒや佐々木だ――に見つかって、修羅場と化すのが容易に想像される。実際前に一度、修羅場になりかけた時があったからな。
 だが俺だって馬鹿じゃない。その点は既に考慮済みだ。佐々木は塾でしばらく姿を現さないって言うし、ハルヒも家の都合で忙しいらしい。
 即ち、二人がここ周辺に来る事などありえない。だから、二人っきりの姿を見て憤慨する奴は他にいるはずもなく、堂々と歩けるってもんだ。


 だが甘かった。橘は、俺の予想を常に斜め右方向に突き進んでいるのをすっかり忘れていた。
 この後、俺は真の恐怖と合間見える事となった。


 






「キョン君、あそこ行きましょ、あそこ!」
 言われて橘の指差した方向を見る。そこには、真新しい和菓子屋があった。
「あそこ、昨日オープンしたばかりなのです。オープン三日間はたしか全品半額セールをやってましたし、キョン君にお礼もしなければ行けないので、是非行きましょう!」
 はいはい、そうですね。行きましょう。抗うのも面倒だった俺は、おとなしく橘に付いて行くことにした。ハルヒと違って、俺の奢りにならないのだけが救いだ。

 人気の洋菓子屋やパン屋ってのは結構混んでいるものなのだが、和菓子屋というのはあまり客の興味を引かないのだろうか、思ったより混雑はしていなかった。
 とは言え、店の前には数人は並んでいたし、店に入るまでに数分時間を取られたのは、まあ規定事項って奴だろう。
 ようやく俺たちが店に入り、カウンターの前で注文する番になった。
「この薩摩金つばと、梨果肉入り淡雪と、栗餡を使った最中と……」
 橘は既に目をつけたらしく、恐ろしい勢いで季節限定の和菓子を注文する。俺は良く分からんので、橘にオーダーを一任する事にした。

 オーダー後、俺たちは個室へと案内された。
 この店は、和菓子やお茶、そしてこの店自慢の日本庭園を、喧騒に邪魔されず楽しんでもらうために多数の個室を用意しているらしい。
 なかなかお金がかかっている店である。経営、大丈夫か?
「ああん!おいひー!!」
 いつもより笑顔を200%増しにした橘が、いつもより300%増しにした胸を揺らしながら和菓子に称賛の声をあげた。
「この栗餡の処理、絶妙ですぅ!」
 相変わらず口にものを含んだまま喋る橘。
 俺は何度か注意したものの、改善の余地はなかったのでもう何も言わない事にした。
「橘、よかったな。お前の望み通りに事が運んで」
「これもキョン君のおかげです!ありがとうございます!」
 言って橘は俺の手を取る。
「こ、こらっ!やめろ!」
「まあまたぁ、照れちゃって」
「っ、照れてなどいない!!」
「顔中真っ赤にしてそんなことを言っても説得力ないですよ?」
 橘は更に俺の手を橘の方に――胸の方に近付ける。
「な、何をする!やめろっ!」
「ああん!もうっ!キョン君ったら、なんてかわいい反応するの?」
「なななな何が、かかかかわいい、はははは反応だ!?」
「それですよ、それ。手をあたしの胸の近くにやると、その距離に反比例してキョン君の顔が赤くなるんです」
 そりゃあ、自分の手の届く範囲にそんなものがあったら、動揺するしか他にあるまい。
 俺だって健全な思春期の青少年だ。反応しやすいのは当然だ。俺をからかうつもりなのかもしれないが、あまり度が過ぎると取り返しのつかない事になるぞ。それでもいいのか?
 しかしさすがは橘。俺の予想を遥かに超えた爆弾発言をカマしてくれた。


「良かったら触ってみます?」


 ――はい?
「目の錯覚とかじゃなくて、本当に存在してますから。それに脂肪を注入しましたから、あながち偽者ってわけじゃないですよ。触り心地も本物そっくりなのです。確認したくないですか?」
「おおお俺はそんな邪な考えは微塵足りとして持っていない!」
「えー、そうなんですか?今までのお礼もありますし、今回なら触っても不問にしようと思ったんですが……ちょっと残念です」
「ざ、残念って、お前は触って欲しかったとでも言うのか?」
「……キョン君なら、触ってもいいですよ」
 え……?
「あ、でも、あまり激しくしないでくださいね。あたし、我慢できなくなっちゃう」
 言って橘は両方の二の腕を使って自分の胸をよせあげた。

 ――ゴクリ。
 正直、たまりません。


 もうお分かりであろう。俺はこの時、少し、いや、かなり壊れかけ、様々な妄想が頭の中に駆け巡っていた。


 あれだけの大きさになると、一体どんな感触、感動を俺に味あわせてくれるのだろうか?
 白状するが、俺は過去にも同様の妄想を何度かした。勿論その原因は朝比奈さんだ。
 朝比奈さんの胸は爆裂級であり、ああいった気持ちになるのは、男子高校生としては当然の心情であると思う。
 仲良くなった事をいい事に、トラブル(朝比奈さんと向かい合っている時に躓いて転ぶとか)を装って触ろうと画策したことがある。
 しかし、朝比奈さんは可愛過ぎた。あまりにも庇護欲をそそる表情が逆に俺の中に眠る嫌悪感を呼び覚まし、全て未遂となっていた。

 だが、目の前にいるのは橘京子だ。
 朝比奈さんを誘拐し、そして俺に面倒ごとを押し付けた橘京子だ。
 こいつには多大なる貸しと恨みがある。
 その恨みを解消するため、俺がこいつの胸を触ったところで誰も文句を言わないだろうし、言われる筋合いはない。
 それにその本人の許可が出ているのだ。『触ってもいい』ならばこの機会に女体の神秘に触れると言うのも、人間として成長するためには必要な行為だ。
 おまけに個室だ。他に誰が見ているというわけではない。
 こんな美味しいチャンス、二度とこないかもしれない。

 結論:今やらなければいつやる?やっちまえ、俺。

 ここはひとつ、橘の協力に感謝しつつ、完熟フルーツをいただく事に……

 ――カササササ――

 その時、何かが擦れるような音がした。
 俺は反射的に目線を上げ――


「……!」
 そして、固まった。


 






「どうしたんですか、キョン君。いきなり固まっちゃって?」
「…………」
 橘の言葉に、俺は返答できなかった。
 いや、正確には声を出そうにも出せなかったのだ。
 それもそのはず、俺の目線の先に純粋な負のオーラが垣間見えたからだ。

「もしかして、恥ずかしいんですか?大丈夫なのです!誰も見てませんから、パーッとやっちゃってください!」
「ちが……しろ……」
「ん?何ですか?はっきり言ってください、キョン君」
 自分でははっきりとプロナウンスしたつもりだったが、橘の後ろ――俺の目線の先にあるそれに威圧され、言葉が封じられているらしい。
 そうだな、諺で例えるなら、蛇に睨まれたカエルとか、怖い物見たさっていうのがピッタリだ。
 ――なお、俺がこんなに悠長に解説しているのは、冷静に物ごとを判断しているからではなく、単なる現実逃避をしたいがためである。それだけのテラーを俺一人で受け止めているんだ。察して欲しい。
 しかし、何故橘はこのプレッシャーに飄々としていられるのだろうか。不思議である。
 俺が固まって動かないと見ると、橘は俺の両手を取って自分の方向に持って近付いてきた。
「か……や……め……」
「いまさら、後には引けないのです。むしろガバッと掴んでください!」
「い……や……」
「女の子から誘っているのに、そんな事言わないでください!!あたしに恥をかかせるんですか!」
「うし……」
「牛みたいな乳って言いたいんですか?そりゃちょっとでかすぎるかなーって思いますが、均整の取れた抜群のプロポーションなのです!」
「ちが……うし……ろ……」
「後ろがどうかしたんですか?」
「ささ……」
「ふふふっ、『後ろに佐々木さんがいる』とでも言いたいのですか?残念ですが、その手には引っ掛からないのです。三度も引っ掛かっては橘家の名折れなのです!」
「いい……か……を……ろ……」
「触ってもいいかっていう許可ですか?あったり前じゃないですか。バンバン触ってください!!言っときますけど、あたしは誰にでも触らせる安い女じゃないのです。許されるのはキョン君だけですからね♪」
「いやだ……ら……」
「ええっ!もしかして、嫌だって言うんですか?せっかくキョン君のために大きくしてあげたのに……」
「ささ……き……」
「……そんなに、佐々木さんの方がいいんですか?正直、佐々木さんってちっちゃいですよ?」

 ――おいっ!なんて事を!!――

「大きくなる前のあたしとどっこいどっこいです。佐々木さんったら、あたしより大きいブラとパッドを入れて誤魔化してましたから」

 ――馬鹿!黙れ!!――

「あんなに頑張っても涼宮さんには勝てないんだから、正直無駄な努力ですね。あれじゃキョン君にも飽きられちゃいますね」

 ――やめろぉぉ!それ以上言うと……!!――



 ――ガラガラガラ――



「やあ、キョン、橘さん。奇遇だね」



 ――その声を聞いた瞬間、橘は石像よりも堅く硬直した。




橘京子の憤慨 その3に続く

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最終更新:2020年03月12日 01:10