異変が起きたのはいつだろう。それは解らない。
ただ一つ言えるのは確かに異変が起きているという事。
「キョンくん・・・」
場所は呼ばれて言った大きな家の大きな部屋。
綺麗なカーペットに滲む斑模様が異質で、グロテスクで、綺麗だった。
芳醇な生臭い鉄の匂い。
「あ・・・あぁ・・・・・」
俺は部屋の扉を開けた体勢のまま、ただただそれを見ていた。

一人の少女の右手首から流れる、血が玉となってい落ちる雫を。

俺が叫ぶまで数秒。人が来て、その家の中は大騒ぎとなった。
それはある夏の日の事。
日常という名の一部が変化した日だった。


 『 リストカッターが吐いた幸福の溜息 』 


ある病院のある一室。
俺はそこへ一人で向かっていた。
がらりと開けると長い緑髪が目に映った。窓から入る光で美しく映える。
だが、その持ち主の顔は暗い、というより暗黒に包まれていた。
「やぁ、キョンくん・・・」
弱々しい笑顔。弱々しい声。いつものあの人から想像できない姿が、もう何日もそこにはあった。
鶴屋さんの。
「ありがとう・・・お見舞い来てくれたんだね・・・めがっさ嬉しいっさ・・・・・」
何が彼女をこうしたのだろう。
僅か数日でやせ細った姿は本当に鶴屋さんかと思ってしまうぐらいだった。
顔色の悪さが際立ち、右手には包帯が巻かれている。
「鶴屋さん、お体はどうで―――」
「キョンくん・・・キョンくん・・・・・」
いつもこうだった。
俺が来る度に、鶴屋さんは俺をきつく抱き締めてくる。
泣きながら、ずっと抱き締めてくる。
年頃の男ならたまらないシチュエーションなんだろうが、俺には辛すぎた。
喜べないし、笑えない。ただ痛々しくて仕方なかった。
俺は何も出来なくて、ただその華奢な体を抱きしめて頭を撫でるしか出来ない。
「・・・いつも、ありがとう・・・」
「良いんですよ。気にしないで下さい。大好きな人ですから、貴女は」

あの日、鶴屋さんがリストカットしたあの日。
鶴屋さんの部屋には手記が残されていた。死ぬ気だった訳ではないらしく遺書ではない。
つまりは自傷行為だったらしい。だが、ただの自傷行為じゃない。
手記にはこう記されていた。

「私は、解らない。何も解らない。
 キョンくんがめがっさ好き。それは解る。
 私は鶴屋。それは解る。
 でも、解らない。何も解らない。何が解らないかも解らない。
 痛い。全てが痛い。
 何で痛いのか解らない。何が痛いのか解らない。
 全てが解らない。
 痛みが欲しい。痛みを消す為の痛みが欲しい」

狂っていた。完全にそれは上記を逸した文章だった。
ところどころに意味も無い線が散らばり、ぐちゃぐちゃに塗りつぶされた場所もある。
自傷行為も狂気。ただの自傷行為を超えた狂気だった。
鶴屋さんは狂っていた。どうしてそうなったかは解らない。
だからと言って俺はどうもしなかった。
その文章の読んだ翌日、何を思ったか俺は鶴屋さんに告白した。
この時点で俺も狂っているように思えるがそんな事はどうでも良かった。
大好きならば関係無い。
彼女は笑顔で凄く喜んで受け入れてくれた。夢が叶ったと泣きながら喜んでくれた。
だけどその夜、包帯を外して彼女は自分の腕を爪で切り裂いた。
爪でリストカットを行った為、すぐに鶴屋さんの爪は爪きりで整えられた。
それでは済まなかった。
昼間会いに行けば彼女は、弱体化しながらも、痛々しいけども、笑っていた。
だけど夜にはどんな方法を使ってでもひたすら腕の血管を裂いた。
己の歯で噛み千切ったりして。
おととい見た時には耐えられないぐらいもう腕がぐちゃぐちゃになっていた。

何がどうしたか。俺は解らない。
「キョンくん・・・」
だから俺は少しでも支えたくて鶴屋さんの傍に少しでも長く居てあげたかった。
彼女がそれを望めば叶えてあげたかった。
それでも彼女の自傷癖は治まらない。
「鶴屋さん。大丈夫ですか?」
「大丈夫にょろ・・・大丈夫にょろ・・・・・」
もちろん鶴屋さんの事はハルヒ達には内緒だ。
とは言っても古泉達は既に知っているんだろうけどな。
「キョンくん・・・私、解らないよ・・・・・」
「・・・」
「私は解らない。解らないよ・・・痛みが解らないように痛みが欲しい・・・」
「鶴屋さん! これ以上自分を傷付けてどうするんですか!?」
「解ってるよ・・・解ってるよ・・・・・」
鶴屋さんは虚ろな瞳で俺を見つめる。
「でも、解らないよ・・・・・」
そう言って苦々しく、まるで自嘲するかのように微笑んだ。
駄目だ。俺には訳が解らない。
どうしたら良いんだ俺は。こんなに鶴屋さんが苦しんでるのに。

結局、俺が帰ったその夜も、鶴屋さんは自らを破壊せんと手首を切った。



・・・やらなくちゃいけない。俺はそう思って決断した。
そう。調査する事にしたのだ。
このままでは鶴屋さんは完全なる廃人となってしまう。それだけは嫌だった。
大好きだからだ。
夏休み中とは言えどもSOS団で一緒になる時があるからまずこの人から。
というわけで朝比奈さんに聞く事にしよう。
「朝比奈さん」
「はい」
「鶴屋さんって、学校で何かトラブルか何か起こしたりしてないですか?」
SOS団で活動が一緒になった時に聞いてみた。
「小さな事なら・・・」
「教えて下さい」
「えっと・・・鶴屋さん、ある男の子の告白断っちゃって。それでほんの一部が鶴屋さんにちょっかい出してるみたいなんですよね・・・」
「んー・・・・・」
あんまり関係性無さそうだけどなぁ・・・。
「あの・・・鶴屋さんがどうかしたんですか?」
「いや、別に。ただ、ちょっとこの前家に呼ばれた時に溜息を吐いていたので何かあったのではないかなぁ~と」
「そうですか。ふふっ、キョンくんって優しいですね」
「ありがとうございます」
おっと、いかんいかん。朝比奈さんにキュンと来てどうする。

一人で歩く不思議探索からの帰路。結局、何の情報も仕入れられなかった。
何も出来ない訳で、仕方なく一人で高校生探偵の如く推理することにした。
「・・・そういや、痛いって言ってたよな・・・」
何の痛みか。
心? 体? 何だかそれが重要な気がしてきた。
「・・・しかし、本人に聞いて調べるのもなぁ・・・」
俺は途方にくれながら、鶴屋さんの近辺を調べる事にした。
だが鶴屋さんとは学校内での面識は数あれど学校外となると少ない。
っつか鶴屋さんの近辺何て、プライベートなんて全然解らないのに、何処を調べろと?
悩みながら公園に辿りつき、ベンチに座って一言。
「くそったれがぁぁああああ!!」
叫ばずにはいられない。
―――・・・・・・。
ふとそんな時だった。俺は視界に不気味な物体が映ったのを捉えた。
それはこっちにゆっくりと近付いてくる。手入れされてないながらも綺麗な髪を物凄くもさもさと纏った少女。
「・・・九曜周防」
「―――それ逆」

・・・・・・・・・・・。

「・・・それ、本当か?」
「―――間違いない・・・筈。メイビー・・・―――」
やや自信の無い英語交じりの言葉のあとVサインをする。
九曜よ、しばらく見ない間に何があったんだお前に。
さて、あの天蓋領域の使者と俺は何やら女の子趣味な店に立ち寄っていた。
俺の学校からはアウェーで光陽園女子に限りなく近い店という立地条件。
さて、そこに男一人、女一人・・・から二人増えて三人になっているわけだが・・・。
どういう状況に見えるだろうか。
俺はやや緊張の面持ちで、前の三人は真剣な面持ち。
何だか三股かけた男が問い詰められてるような状態に見えなくも無い。
ちなみに増えた二人というのは何を隠そう、佐々木と橘だ。
「未遂とは言え、凄まじい物だったらしい。橘さん曰くね」
「なんで橘に説明させないんだ?」
「えっと・・・そ、それは・・・・・・」
「橘さんに説明させようと思ったんだけど、生憎僕らには過激すぎて説明出来なくてね。そこで九曜さんに任せたのさ」
佐々木はそう言って彼女にしては珍しく顔を顰めた。確かに過激は話だった。
と、ここで一つの疑問が浮かんだ。
「まさかこの夏休み中に鶴屋さんがそんな目にあってたとはね・・・。しかし、どうして俺にそれを?」
「鶴屋グループはあっちもそうですがこっちも、つまり両方の『機関』に出資をして下さっているので。利害の一致でしょう?」
「古泉も喜ぶ破目になるぞ?」
「この際、それは仕方がありません」
そう言って苦々しく橘は笑った。
「これだけの情報を与えたんですから、ちゃんと鶴屋さんを守ってあげて下さいよ?」
「解ってるよ」

・・・聞いた話を整理するとこうなる。

日が遡ること、俺が鶴屋さんの家に行く二日前の事だ。
鶴屋さんはある路地を歩いていたところ数人の男に捕まった。
必死に抵抗する鶴屋さんを男達は薬で眠らせ、そのまま拉致。
人気の無い山奥の小屋で鶴屋さんを束縛して起きるのを待った。
そして意識が戻った鶴屋さんに、男達は襲い掛かった。
いわゆる性的暴行目当ての拉致だったという訳だ。
それで遅くなる時には必ず連絡入れるのに入れて来ないのを心配した鶴屋さんの祖父がGPSで居場所を特定。
侍女を派遣したところ、挿入ギリギリ手前のところだったらしい。
もちろん侍女のおかげで男達は一網打尽。
だが鶴屋さんは初を守りきったとは言え、その体は粘液質の白濁した液体で覆われ酷く目が虚ろ。
体中には殴られた痕がいくつも並んでいた。
家に帰って正気に戻った鶴屋さんは当然のように発狂し、嘔吐し続けたという。
そのまま意識を失って翌日の昼頃に目を覚ましたそうだ。
そして近くのメイドに明日俺を呼ぶようにと命令していつも通りに生活をしていたのだという。
笑顔で何事も無かったかのように。
心が壊れた人形のように。

そしてその翌日に俺が鶴屋さん家に行って、今に至る。

「・・・重いな・・・」
貞操を守ったところで彼女はそんなこと関係ないのだろう。
欲望をぶちまけられ、口から注がれ、外側も内側も汚されたという認識なのだろう。
彼女が自傷行為をするのは穢れた自分を剥ぐ為だ。
穢れた肉体を削ぎ、新しい肉体に再生させる。
だがどこまで行っても汚い物は汚いという発想が生じる。
もし、そうだとしたら恐らくそのうち自分の体全体を傷つけようとする筈だ。
ほぼ全身を覆った穢れの幻影に、いや、幻影なんかではなくそういう事実として囚われているのなら。
「・・・・・」
どうすれば良いのか解らない。
解らないまま俺は鶴屋さんの居る病院へと入った。
「やぁ、キョンくん・・・」
病室の扉を開けると弱々しい笑顔の鶴屋さんがベッドからこちらを向いていた。
胸がチクリと痛む。俺は何をした良いんだろう。何も考えずにここに来てしまった。
何も思い浮かばなくて俺はただ目の前の華奢な女の子をそっと抱き締めた。
鶴屋さんもぎゅっと俺を抱きしめる。
「・・・ごめんなさい、これしか出来なくて」
仕方が無い。鶴屋さんが何も望まないんだから。
でも、そのせいで俺は何も出来ていない。歯がゆい。
何も出来ない自分と何もさせない鶴屋さんにイライラが募る。
だからだろう、
「ううん。これだけでも良いんだよ、キョンくん・・・」
鶴屋さんのその言葉に、ワケも無く感情が蠢いて、一気に轟いた。
「・・・どうしてですか・・・?」
「え?」
貴女はそんなにも強くあろうとしなくて良いのに。
弱いなら弱いって言えば良いのに・・・。
「どうして貴女は・・・それほどにまで強がるんですか!?」
「キョンくん・・・?」
「俺はそんなに頼りになりませんか!? 貴女が望むことなら何でもします! だから、だから・・・」
「・・・・・何でも?」
「えぇ、何でもしてやりますよ。大好きですか―――」

「じゃあ、私を殺して?」

「・・・は?」
俺はその時、物凄く嫌な予感がした。
もしかしたら言ってはいけない事を言ったのではないかと。
「何でも出来るなら、私を殺して欲しい・・・」
「な、何を言って・・・」
「私は、みんなに迷惑かけてる・・・今もキョンくんをこんなにも困らせてる・・・・・」
「そんな事は・・・」
「あるよね? 私って要らない子だよね? こんなに・・・迷惑掛けて・・・・・」
「鶴屋さん!」
駄目だった。目が完全に死んでいた。何を見ているかも解らない虚無の瞳で俺を見ていた。
恐怖だった。こんなにも怖いと思った事は無い。
俺は大好きな鶴屋さんではなく、かつてないほどの狂気と対面しているんだと認識させられた。
「ねぇ・・・殺して? 私は弱虫だから自分も殺せないの。弱虫だからいつも笑顔を作るしかないの。もう疲れちゃった・・・」
鶴屋さんはベッドのしたから包丁を取り出す。
「これね・・・みんな取り上げられちゃうから隠してたの・・・・・」
じゃっかん茶けた赤色がこびり付いた包丁が怪しく光る。
俺はそれを押し付けられるように持たされた。
「さぁ・・・殺して、キョンくん。私を救い出して?」
それでこの人は救われるんだろうか。でもこの人はそれを望んでいる。
鶴屋さんが俺は大好きだからお願いは聞かないといけない。じゃあ、お願い事をしないといけない。
俺は包丁を振り上げて、

バシンッ

思いっきり持ってないほうの手で鶴屋さんの頬を叩いた。
「・・・・・いい加減に目を覚まして下さい」
「・・・・・」
「俺は聞きました・・・強姦されかけた、いや、ある意味もう強姦されたって事を」
鶴屋さんは少しだけ目を見開いて驚いた顔をしたけどすぐにフッと自嘲の笑みを浮かべた。
「・・・そっか、だからか・・・私を嫌いになっちゃったんだね? だから殺してくれないんだよね? こんな汚れた私を―――」
「いつまでも寝言言ってんじゃねぇ!!」
自分でも驚くぐらいの大声を、俺は上げていた。
「だからどうしましたか! だからなんですか! 何が怖いんですか! 俺はどんなんであろうと、鶴屋さんが好きなんですよ!!」
「・・・嘘だ。嘘だよ・・・本当に好きなら殺せるはずだもん・・・」
鶴屋さんは明らかに動揺していた。
「・・・そんなに死にたきゃ殺してやる。ただし、俺も死にます」
「そんなの駄目だよ。キョンくんは私なんかの為に死んだら駄目だよ・・・」
「鶴屋さんの居なかったら、俺の世界に花は咲かないんですよ。だから、生きるだけ無駄なんです」
「やだ、そんなのやだ・・・」
まるで駄々をこねる幼い女の子だと思いながら俺はその頭を撫でた。
「・・・俺は鶴屋さんを愛してます。貴女が地獄に落ちるなら一緒に落ちれるぐらい好きなんです」
鶴屋さんは俺の顔を見上げていた。やがて、目が段々と潤んでいく。
そして俺に抱きついて号泣した。
「ごめんね・・・ごめんね、キョンくん・・・!!」
「・・・良いんです」
何度も何度も謝る鶴屋さんを俺はただ宥めることしか出来なかった。
しばらくして鶴屋さんは泣き止んだ。
「えへへ・・・何だか照れちゃうっさ」
そう言って照れ笑いを浮かべる鶴屋さん。それは俺の知っている鶴屋さんだった。
「こんなにキョンくんに愛されてる私って幸せもの、かな?」
そんな言葉に俺も恥ずかしくなって、
「鶴屋さん、顔上げてください」
耳を塞がず、その口を口で塞いで見た。
もっと恥ずかしくなった。


数週間後。鶴屋さんは無事に退院した。
「歩いてるだけじゃつまらないねー」
「外に出られるようになったらCoCo壱番屋にでも連れていってあげますよ」
今は鶴屋家で療養生活をしている。
残った何層もの自害の傷跡はまだ残っているし、これからもずっと残るだろう。
俺はそんな手に敢えて自分手を絡ませる。
広い広い鶴屋家の庭を歩いて周るだけしか今出来るデートはないけどそれで良い。
今、横に大好きな人が居るだけで幸せになれるなら、それで良いじゃないか。
どこぞのふんどしまいた風の精霊が聞いたら「クッサー!」と叫びそうな言葉を心中でそっと呟いて、今を確かめる。
「・・・はぁ」
鶴屋さんがふと溜息を吐く。
「疲れましたか?」
「ううん、違うんだよ、キョンくん」
「では、どうして?」
俺の質問に対して、一つ年上の少女は太陽より眩しい笑顔を浮かべていった。
「めがっさ幸せすぎて溢れ出ちゃったのさー!」
なるほど。納得した。俺も自然と口から溜息が漏れる。
うん、確かに憂鬱な気分はしない。
まぁ、幸福の溜息だから当然だな?

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最終更新:2020年08月20日 03:53